2017-05

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狼魔人らの屁理屈

狼魔人がブログで、照屋昇雄証言に関連して作家・目取真俊氏を罵倒している。

>ネット上では、何も調べずに罵倒するだけのあきれ果てた芥川賞作家目取真俊氏 として夙(つと)にその名を知られる目取真氏だが、今回も調べてないのか、あるいは調べても理解できなのか、相も変わらず罵倒だけはご健在のようだ。
と、末端の御用物書きが、反権力を貫く芥川賞作家目取真俊氏を貶している。

照屋昇雄の証言は、渡嘉敷村長と琉球政府の援護課から、自決命令承諾を懇願され、赤松元隊長はこれを受け入れて、自分が自決命令を出した事にした偽の「自決命令文書」を作成したという事である。以後、赤松隊長は何の弁明もせず沈黙を守った。そのおかげで渡嘉敷の村民は多額の援護金を貰っている、と上原正稔、櫻井よしこ、小林よしのりらは赤松氏を大いに称える発言をしている。  だが、赤松氏はずっと沈黙していたのではなく、1968年以降自決命令を否定する発言を繰り返してきた。そして、曽野綾子「ある神話の背景」(集団自決の真実)では、「本当のことを言ったらたいへんなことになんですヨ」(P38)と、1970・3・27の赤松来島時の記者会見で連下元少尉に言わせ、P195では「もう一つの意見は、もっと現実的なものであった。それは軍命令であったことにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が下りなかったのだ、という説である」と、さりげない調子で曽野綾子は書いている。赤松氏は1972年くらいの時点で、援護金のために自決命令があった事にしたことを、曽野綾子に書かせているのだ。

目取真氏は自身のブログ、「赤松隊長らが沈黙していた」と上原・櫻井・よしのりらが言うのは全くの嘘であり、「それをチェックもしないで載せる編集者や雑誌にも呆れる」と3人の物書きと雑誌社を批判したのである。私もこれは当然の批判であると思ったから、コメント欄に賛同する書き込みをした。

それに対して、狼魔人は、赤松隊長が沈黙しているとする事柄は、「自決命令」を否定しなかった事についてではなく、「自決命令文書」を捏造した事についてである。目取真氏は想像力が欠如しているとして大いに貶している。
しかし、既に曽野綾子「ある神話の背景」では、援護金を遺族が貰えるようにするには、軍命令である事にしないといけないから黙っていたという意味のことを曽野を通じて語ってる。捏造そのものは照屋証言で初めて言われたものであるが、赤松氏は「ある神話の背景」が出た時点で、「援護金を遺族に支給させる為に自決命令があった事にした」ということを語っているのだ。援護金に関しても沈黙していたと言えない。

「うらそえ文藝」14号では、上原正稔は「だからね、渡嘉敷村でも座間味村の人たちでも、実は赤松さんと梅澤さんには感謝しているわけですよ、というのは、彼らが黙っているお陰で、彼らを悪者にしたてあげているお陰で遺族年金がもらえているわけですから」と言っているが、その前後には「照屋証言」についての言及は見当たらない。赤松氏らが「沈黙」していた言われれば、「自決命令」について何の抗弁もしなかったと受け取るのが自然ではないか?狼魔人は鬼の首でもとったように、目取真氏をあざ笑っているが、これは揚げ足取りというものである。

ところで、今私は「照屋証言」が事実であると仮定して書いているのだが、産経新聞2006・8.27の記事で、照屋氏は、一問一答で次のように語っている。

 --集団自決を軍命令とした経緯は
 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に(琉球政府の)社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」 
 
--赤松元大尉の反応は
 厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

太字で記した「厚生省の課長から」という部分に注目すべきである。厚生省援護課の口利きで赤松氏は自決命令を承諾したのである。つまり、(事実と仮定の上だが)この捏造作業は、厚生省・南方連絡事務所(政府の出先機関)・琉球政府・渡嘉敷村長(玉井)・赤松氏本人と4者・5者の共同作業だったのである。赤松氏と沖縄側だけの密約ではなかったのである。

何故厚生省は、自決命令を捏造する作業に加担したのか?政府は慶良間の「集団自決」については援護法で救済する事を方針としていたが、支給条件としての、満州やサイパンなどとの区別化を図る必要性があった。そこで座間味と渡嘉敷の「集団自決」は既に隊長命令であるという説が広まっていたので、それの証拠を要求したと思える。座間味では長老(山城安次郎とか田中登)が宮城初枝に嘘の証言を強要したと私は推測する。

この「自決命令」捏造作業が行われた事実が在ったにしても、別にこれが赤松氏の「集団自決」への責任が濡れ衣だったとする理由にならない。赤松氏は進んで自決命令を申し出たのでなく、政府厚生省というお国の機関から言われて、この捏造作業に加わった「共犯」なのである。これは全然名誉な事とは言えまい。裁判で赤松氏の遺族はこの話を嫌がり、「命令書」は赤松氏に無断で沖縄側が勝手にやったものだと言っている。

照屋証言は事実かもしれない、という考えを私は半分くらいの確率で持っているのだが、これでもって「集団自決」への赤松氏の責任が免れるものではないという前提があるからである。照屋証言によれば、赤松氏は晩年にいたって、この捏造事件の公表を玉井村長に迫ったそうだが、玉井氏が受け入れるはずはなかった。では何故赤松氏は自分で暴露しなかったか?誰も信じるはずないと思うだろうし、たとえ事実だと判っても、世の識者はこれを赤松氏の美談だとは受け止めなかったと思う。命令書の在る無しで、集団自決について指揮官の責任が左右される事はない。また、慶良間の自決者や民間人戦死者は何らかの形で補償を受けるべきだと思われていたからである。
隊長命令をその理由付けに使った厚生省の安易さも責められるべきであったが、裁判で厚労相は捏造文書は存在しないのでこれを提示しえず、と捏造を否定している。

沖縄に住む低劣言論人とコメント欄のお仲間達は、仕様もない瑣末な言葉の揚げ足取りでもって、目取真俊氏という芥川賞作家をあざ笑っているが、とんでもなくお目出度い言論である。

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コメント

RE:震洋の鉄レール

>阪神さん

キー坊さんのご指示により移動しました。

震洋の鉄レール

「震洋 レール」の画像検索をしていたら見つけました。
ただし、鉄レールですから参考にすぎません。
http://img.travel.rakuten.co.jp/share/img_community/spot/2007/05/22/15674.jpg
http://www.digi-mori.com/morilog/ume05201/image/mimase-slip-rail.jpg

爆雷の置き場所は不明

ni0615さん、こんにちは。
>そうすると、その壕は連絡艇の2艇分でしょうか?
その通りだと思います。

>渡嘉敷島の渡嘉志久ではどうだったのでしょうか?
爆雷をどこに置いていたかは不明ですが、マルレと一緒の壕だと考えるのが合理的と思います。

橇船の表現

和田さんが「橇船」は「刳船」に間違いないと仰る根拠が、私の掲示板への私の書き込みにあることを知って驚くとともに、眼前でそのことを問いもせず増幅して強談判をなすために用いる方も世間に居られることを知って、自戒の念を深くしました。

>http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?n=556
>上記に「船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇(刳)船ニテ阿波連ニ上陸渡嘉敷島本部ニ来ル 」

提示版のそのスレッドの主旨は、辻版「陣中日誌」の解読のためのご意見を求める為だったのですが、その後の事情をそこでは説明せず、書き込みを訂正していなかった責任は私にあります。お詫び申上げます。

その後の経過は、こちらの掲示板に新知見として暫時書き込みしたとおりです。

1)此の書き込みをした時点で私は「橇船」の意味はもとより分からず、その文字自体が「判読不能文字」でした。漁民の船の一種かもしれないと、通説の「くり船」の可能性も考えて「橇(刳)船」と表記しました。

2)しかしその後、「殉国日記」における皆本書簡の表記や、「海上挺進第三基地大隊戦闘の概要」を知るにいたり、「橇船」は「連絡艇(マルレ)」を指している可能性があることを知りました。

3)そう考えると石田四郎回想記の説明とも一致します。

4)改めて「殉国日記」所収の赤松大尉自身の記録を見ましても、辻版「陣中日誌」同様に「橇船」という表記をしていることが分かりました。

したがって、渡嘉敷島では当時「連絡艇(マルレ)」のことを「橇船」と呼んでいたのではないか、と考えて矛盾がないという要素が増えてきた訳です。そう確定できるかどうかは、今後の研究によると思います。

いずれにしても、私のように「橇船」の意味を読み取れない人々が、いつのまにか勝手にそれを「くり船」としまった、ということが充分に考えられます。

a,、私の掲示板での表現は早速訂正します。
b、私の「資料庫」ではすでに「橇(刳)船」あるいは「橇(繰)船」という表現は撤去して、辻中尉は「橇」と書いたと認定しています。
c、.「橇船」についての考察は、もう少し材料が集まってから一文となすつもりです。

ご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申上げます。新知見を得たものの未だ消化中ということとして、断罪ご猶予くだされば幸甚です。

~~~~~
和田さん

>赤松大尉にカッコを別物として表記する癖があるなら別ですが

原文は既に探せたはずです。お確かめください。
「沖縄戦 殉国日記」内
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331

>これだけの材料では橇船がマルレとは考えにくい。

すでに私が基地隊陣中日誌を考える根拠としていることはご存知なはずです。
私がなにをゆってもご自分に不都合なものを無視されるならば、ご自分で御考究の上、ご確認ください、マルレの泛水に「橇」という文字がキーワードになっていることを。

海上挺進基地第3大隊戦闘概要
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2260.html




橇船

物事には大抵原因があります。私はワープロとして「一太郎」は使用しないが、以前から累積した私的熟語が使用出来るので古いバージョンのカナ漢字変換用ソフト「ATOK」を使用しています。 そしてローマ字転換だと遅くなるのでカナ転換を使っています。 その前提で私の使用するワードのバージョンだと何故かカナ転換からローマ字小文字転換した際の最初のローマ字が瞬間的に早い場合と、遅く変化する場合とどちらの場合もあるのですが大文字に変わっていることが良くあるのです。
  
たびたび間違えるのは、最後に見返しをしていない私の罪だと云われてもしようがありませんが、これ以上の意味は何もありません。

さて、今回日本語というものが曖昧なために多様な解釈が可能になってしまうということを思い知らされました。このことはおいおい説明します。

    次に、私はこのサイトを見に来る読者に対してある程度の知識はあるであろうとの前提で論を組み立てております。たとえば、渡嘉敷・座間味・阿嘉島と沖縄本島との距離感覚や「ある神話の背景」のあらすじはある程度知っているとの前提で話を進めております。

次に、文字で書かれた資料は、通常の日本語文法による解釈を前提とし、どうしてもそのような解釈では辻褄があわない場合のみ、通常ではない用法や文法を採用することにしています。

   また、陣中日誌(後に書かれたものであっても)のように軍人が書く文書は曖昧であっては、誤解され、ひいては勝敗にかかわることなので主語が先に熟語が後に書かれるように訓練を受けているはずだと考え、そのような解釈を基本としております。

以上を前提にしても、谷本版陣中日誌で8月16日結城伍長連行の件は見誤りでした。武闘派の結城伍長が降伏に反対するとの先入観で国頭から来た海軍兵などの主語の内容を見落とし、第三戦隊の一部が結城伍長を連行したと早とちりしていたものです。

次に
>石田四郎少尉の回想でも、特攻艇二隻に分乗と書かれていて、大町大佐は那覇まで帰還するつもりだったと、書かれています。
これは、阿嘉島出発にかんすることです。もっともであろうか無かろうかは、なんら関係ありません。石田四郎さんが書いていることを紹介しているだけです。

こちらの方は
>ていうか、手漕ぎのクリ舟かマルレかの2案なら、那覇司令部に早く帰るという目的では、マルレを選ぶでしょう。
渡嘉敷島出発に際して大町大佐が示した2案に関する、私の解釈です。

というnio615さんの主張ですが、それは当然のことであり、私はあなたの主張としてそれ以外に考えているとは思いません。私が云っていることを曲解しているとしか思えません。 

 当然、以下のことは省略しても理解していただけると考えたわけです。
「ある神話の背景」は読者に大町大佐が阿嘉島から渡航した目的地は渡嘉敷島だと誤解するように書かれています。事実は沖縄本島を目指していたのです。  そして、座間味島から阿嘉島への渡航(クリ船)は距離的に阿嘉島から渡嘉敷島に似通っている。阿嘉島叉は渡嘉敷から沖縄本島までの道のりとは違う。 そこで座間味から阿嘉島という短い距離ではクリ船が使われることがあっても、阿嘉島から沖縄本島までクリ船が採用されなかったとすれば、渡嘉敷から沖縄本島までクリ船で渡海することは考慮の外にあるということを省略しているのですが、これを省略することがいかんということであれば、もっと長い文章を書くより他はないことになります。

さて、マルレの叉の名を橇船とのアイデアはおもしろいと思いました。
しかし、そうではないと思われる材料もいくつかあります。
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?n=556
上記に「船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇(刳)船ニテ阿波連ニ上陸渡嘉敷島本部ニ来ル 」との記載があります。 石田四郎氏・儀同氏によればね座間味島からクリ船で阿嘉島に渡ったのでこの記述はその点でも間違いなのですが、橇(刳)船との表現にご注目。 

普通の用法ではカッコはその前の何かと同一別名か、説明として表記されるのですが、赤松大尉にカッコを別物として表記する癖があるなら別ですがこれだけの材料では橇船がマルレとは考えにくい。
次にhttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00460105&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
上記に「されば太古時代の船舶は、構造甚だ簡単で其の始めは全く橇船或は舟筏の一種に過ぎぬのである。之に次ぎて鑒及若くは火力を用い大木を刳り凹めて製造したる猿木船流行し、久しく海上を跋渉しつつあった。」との記載がある。現在は死語に近いのかもしれないが、筏船を橇船と云っていた時代があるらしい。
http://arashima.yasugi.info/ara/nakaumi/nimaigai/akagai/akagai.html
上記によれば、今でも鳥取県に「そりこ船」という船が使われているらしい。 アボリジニの岩壁画に描かれているような古い船も両端を反らして安定させています。
 http://www.inoues.net/museum/chikatu_asuka.html
上記の下段近くにある古墳の石室を動かす為に使用した修羅も橇の意味であり、泛水施設の一部であるコロとその上の板などは橇と表現されておかしくありません。 しかし、軍の史料には船艇という正式 ?名称か暗号名マルレが使われるべきであり、基地隊が編み出したのかもしれないマルレのあだ名(橇船仮説)を記載することは私には考えにくく思えます。

そうすると

阪神さん
有難うございます。

>天井の高さが2.5メートルもないほどでした。この天井が5メートルあればバス1台分は入ると思いましたから、幅3メートル、奥息12メートル程度でしょう。

そうすると、その壕は連絡艇の2艇分でしょうか?

再び渡嘉志久に行かれるなら、秘匿壕の数を是非聞いてきていただきたいですね。もし一壕あたり2艇なら、戦隊2個中隊分と本部分を併せ70艇ですから、渡嘉志久には35もの秘匿壕が並んでいたことになり、壮観だったでしょう。

しかし、壕の掘削から5ヶ月間絶えずゴソゴソやっていたのですから、米軍はとっくのとうに何か大事なシカケがそこにあることは、充分承知していたでしょうね。

儀同さんの著書の前半(体験の部)を読むと、例の阿嘉島ニシ浜の第三中隊ですが、3月23日は日陰干し中の連絡艇が米軍機の機銃掃射を受けて、あっという間に20隻(2/3)一挙に失った描写がありましたね。

ところでその阿嘉島のニシ浜では、爆雷はそれぞれの秘匿壕の奥に格納していたことが、先にご紹介した「中隊陣中日誌」の図面に書かれていました。渡嘉敷島の渡嘉志久ではどうだったのでしょうか? 島民では知らないでしょうね。 それから、泛水方法ですが渡嘉敷では「橇式」とありますが、 これも知ってる人はもういないでしょうね。

阿嘉島のニシ浜での第二基地大隊第三中隊の話に戻りますが、
「木馬」ですが、これは「きうま」と読むとヒントが得られました。
http://k-kirari.jugem.jp/?eid=49

それから、「木のレール」ですが、ヒントになる写真が「回天」の本の中にありました。
・大津島基地のページ
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2265&file=%E5%9B%9E%E5%A4%A9%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E5%9F%BA%E5%9C%B0S.jpg
・鉄のレール
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2265&file=%E9%89%84%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB.jpg
・木のレール?
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2265&file=%E6%9C%A8%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB.jpg

こういう「え」があると、想像もつかれません。

天井が高ければバス1台分

ni0615さん、こんにちは。
>間口、奥行きはどれくらいでしたか? 何艇ぐらい収納できる広さでしょうか?
天井の高さが2.5メートルもないほどでした。この天井が5メートルあればバス1台分は入ると思いましたから、幅3メートル、奥息12メートル程度でしょう。

>それから、そうした壕は何個ぐらいあったか、情報はありましたか?
何個あったかは不明です。僕は沢山あったと思っていたので近くを探そうとしましたが、民間の畑になっていたのと木がうっそうと茂っていたのでやめました。今度、住民の人がいたら聞いてみます。

了解しました

阪神さん両件に関し了解しました。
阿嘉島ニシ浜の「レール」に関し参考になればとメモアップしておきました。(私的メモなので数日の予定です。阪神さんからのお返事があり次第削除します。)http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2265.html

ところで、渡嘉敷島の渡嘉志久の方ですが、秘匿壕の写真拝見しましたが、間口、奥行きはどれくらいでしたか? 何艇ぐらい収納できる広さでしょうか?

それから、そうした壕は何個ぐらいあったか、情報はありましたか?

???

ni0615さん、丸太のレールについてはよくわかりません。2本の丸太が平行に並んでいて電車の線路のようになっており、その上に台車を載せて滑らすのだと思うのですが、もう少し時間を下さい。
Fは深沢さんが個人情報を守る為にわざと間違えたのかもしれませんね。

矛盾無く

阪神さん
書き起こし、誠に有り難うございます。

「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記」(深沢敬次郎 平成16?)からの
~~~~~
美しいニシバマの海岸には、既に十数個の秘匿壕が掘られており、平和と思われていたこの島も基地化していた。一つの壕に2隻か3隻が格納されることになっており、壕はあだんなどの葉で覆われていたが、既に黄ばんだものさえ見られた。整備が終了したマルレは基地隊員の手によって台車に載せられ丸太のレールの上をすべるようにして秘匿壕に格納されていった。
~~~~~~~
この表現だと、基地第二大隊第三中隊の陣中日誌と矛盾はありませんね。

とはいえ、
>台車に載せられ丸太のレールの上をすべるようにして

これは、どのような絵を描けばいいのでしょうか? 「丸太のレール」は「丸太のためのレール」でしょうか? 実地見聞のないライターが聞き書きリライトした文章の匂いがします。 

なお、お尋ねのF少尉とは、石田四郎手記(平成2年)によれば、宮下力少尉です。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2263.html
しかしFがイニシャルならば、FとMの違いは、深沢氏と石田氏のどちらかの記憶違いということになるかもしれません。

余りにも少ない情報

ni0615 さん、こんにちは。下記だけの情報しか今の所ありません。

美しいニシバマの海岸には、既に十数個の秘匿壕が掘られており、平和と思われていたこの島も基地化していた。一つの壕に2隻か3隻が格納されることになっており、壕はあだんなどの葉で覆われていたが、既に黄ばんだものさえ見られた。整備が終了したマルレは基地隊員の手によって台車に載せられ丸太のレールの上をすべるようにして秘匿壕に格納されていった。

はん水方法についてはもう少し別の情報を探します。

阪神さん

海上挺進基地第2大隊第3中隊の、20年2月に改組され大隊主力が本島に移転する前までの、「陣中日誌」を見つけました。

検索ページ
http://www.okinawa-sen.go.jp/search.php
で「海上挺進基地第2大隊」を検索すると直ぐ見つかります。

陣中日誌は「広島・宇品」で編成された時から始まるのですが、この「土木勤務中隊」の担任地は阿嘉島北(ニシ)浜海岸だったようです。

19年10月、11月、12月分の巻末附表を見ますと、「連絡艇秘匿壕」はこの中隊では18個も掘ったようです。戦隊の一中隊分でしょう。本文には私の記憶では連絡艇18隻づづ2回受領し、其の引揚の度に中隊総出でレールを敷設したとあります。また随所に、「木馬」の製作、コロ材の伐採、といった記述があります。

渡嘉敷島の基地大隊の報告書では「橇式」となっていましたが、阿嘉島では「レール式」だったのでしょうか?

ただし、レール式といっても艇引揚げの時にのみ設置する可動式だったのではないかと、私は推測していたのです。レールの上にコロを敷き、其の上で台(木馬)に乗せた艇を滑らすといった。といいますのは、18個の壕から総て車線幅を固定したレールを敷いたとは思われないからです。深沢敬次郎氏の著書ではどうなっているでしょうか?

なお、この陣中日誌には「泛水時に使用する神楽機の製作」という作業も記録されています。「神楽機」とは不思議な名前で何のことやら? 全くの想像ですが、水際から艇を掬い上げるように大勢で担いで、ある程度水深のあるところまで運ぶ、連絡艇用ハンモックのような道具ではないかと思うのです。たぶん、昔からの漁師とか山仕事のことを知る人ならば分かるかもしれません。

訂正:9月24日
4~8人で担いで → 大勢で担いで

トラックエンジンを積んで1トン以上あるマルレを4~8人では到底無理でした。お詫びして訂正します。

150m前後かと

キー坊さんこんにちは。僕の記憶では150m前後だったと思います。

秘匿壕

阪神さん、情報を有難うございます。
この写真の現場に、実際に行かれたと思いますが、この壕から(満潮と仮定しての)水際までの距離はどの位だったでしょうか?

F少尉が誰か不明

こんにちは。阿嘉島の特幹隊員の著書「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記(深沢敬次郎)」によると阿嘉島のニシバマの秘匿壕にはマルレが台車に載せられ、丸太のレールの上をすべるようにして格納されていたそうです。
また、大町大佐一行は24日早朝に座間味島から阿嘉島にやってきて、25日未明、一行はF少尉の操縦するマルレで渡嘉敷島に渡ったそうです。
なお、参考までに渡嘉志久の秘匿壕写真です。
http://cgi.2chan.net/f/src/1253573774444.jpg
http://cgi.2chan.net/f/src/1253573741028.jpg

私がこのブログを立ち上げた訳は、当然、曽野綾子『ある神話の背景』の悪を追求する為であり、他サイトのコメント欄やBBSに自分の意見を述べるより、もっと多くの事を言いたい欲求があった為であります。それで、拙いながら資料サイトまで作ったのです。

私と同様に、或いは私以上に、曽野綾子追及の志を抱いた大和人の方が何名か居て、沖縄人の私は心強い思いを持ったものです。
和田さんもその一人で、詳細な事柄にまで及ぶ分析力には敬服させられる事がありました。もちろん全部の事に首是出来るのではありませんが、例えば、3.26未明の出撃時、「干潮」であったという『ある神話の背景』の嘘を見破ってくれた事には、大変感心しました。

ni0615さんと和田さんとの確執は、かなり以前からの事だと思います。やはり、自分の資料を「歪曲」した形での引用は止めてくれとのクレームからだったと思います。 私の小資料から引用については、「歪曲」だと思った事は一度もありません。
和田さんの引用の仕方が「歪曲」に当たるかどうか判断が付かないのですが、資料主から引用を拒否されれば、引用を止めるのが筋でしょうね。

今回の「爆雷装着」に関する和田さん指摘の疑問点も、『ある神話の背景』に書かれている不出撃の弁明に腑に落ちないものがるから、思い付いたのだろうと思います。誰でも、何か嘘があるのではないか、隠蔽している事があるのではないかと考えます。「干潮」への疑惑もそこから生じたのでしょう。
爆雷装着不手際の推測も、あり得ない事ではないと思いますが、これは「干潮」という自然現象とは違って、各陣地状況に差異があるので、検証する事は容易ではなさそうです。決定的な資料が出てくれば別ですが、この件への見解の相違をめぐって論議を紛糾させる事は、意味の無い事だと思えます。申し訳ないですが、一先ず、この件へのコメントは中断して頂きたいと思います。

和田さんが他人のHNを間違える事に、他意はないと思います。私も前に間違えられました。ただ、それは間違えられる方にとっては、嬉しくない事なので、コピペするなりしてミスを防止したほうが良いでしょう。
前にも、和田さんにお勧めしましたが、ご自分のサイトを立てられたら如何でしょうか?ブログはすぐできると思いますし、それだけの資料調査力が有るなら資料庫も作成できるのでは、と思います。
そうすれば、私らも書かれる記事に対して、適時コメントを書き込めるし、お互いのサイト間で意見をやり取りできる思います。

それから繰り返しになりますが、拙ブログに長文のコメントを書かれる事は私は気になりませんが、間隔を置いてまた長文をかかれる場合、前の長文のコメントを要約した短文を冒頭に入れて頂きたいという事です。そうすれば、偶にのぞく人にも解りやすく読めると思います。

私以上に研究されている方々に、差し出がましい忠告をしたかもしれません。
曽野綾子という亡国の言論人を追及するためには、小異を捨てて大同に付くべき、という古臭い文言を持ち出すのは野暮ですが、今はそんな気分です。
長文で失礼しました。

512における、スリカエ

和田さんは御自分が次のように書いていることをご記憶ですか?
でしたら、真摯な謝罪と訂正を願います

(和田が書く)~~~~~~~
次に
>石田四郎少尉の回想でも、特攻艇二隻に分乗と書かれていて、大町大佐は那覇まで帰還するつもりだったと、書かれています。
>ていうか、手漕ぎのクリ舟かマルレかの2案なら、那覇司令部に早く帰るという目的では、マルレを選ぶでしょう。

当然そうですね。しかも石田手記によれば、第二戦隊第三中隊長中川少尉は護送を全うするため全中隊の出撃を許可されたいと申し出ている。どうしてクリ船とマルレの混成で並航する理由があるのか。足の遅いクリ船はマルレとはぐれ大町大佐が上陸した阿波連以外に上陸した、そのまま沖縄に向かったなどの結果を招き、同一行動は不可能ではないか。 クリ船とマルレの混成は空想ではないか。
~~~~~~~~

この中の
>石田四郎少尉の回想でも、特攻艇二隻に分乗と書かれていて、大町大佐は那覇まで帰還するつもりだったと、書かれています。

これは、阿嘉島出発にかんすることです。もっともであろうか無かろうかは、なんら関係ありません。石田四郎さんが書いていることを紹介しているだけです。

こちらの方は
>ていうか、手漕ぎのクリ舟かマルレかの2案なら、那覇司令部に早く帰るという目的では、マルレを選ぶでしょう。

渡嘉敷島出発に際して大町大佐が示した2案に関する、私の解釈です。

和田さんが勝手に刳り舟とマルレに関して謬論を構えるのは、それは謬論ですと申上げれば済みますが、他者の言辞を全く違うシチュエーションで使って誹謗するのは、人語にもとる詐欺的行為です。厳重に抗議すると共に即刻の謝罪と訂正を求めます。

管理人様

先にも私は、和田さんの詐欺的引用に対して抗議しましたが、和田さんからは謝罪も弁明もありません。当件についても再び不問に付すことは、今後もこのようなことは許容の範囲、という意思表明になるかと思われます。

和田さんが悪意の主だとは思いたくありませんが、悪意無くこのような非常識をしているとすれば、悪意ある場合以上の危惧を感じます。管理人様のご見解と対処をお願い申上げます。

和田さん

>和田さん

和田さんは、相変わらず私の名を平気で間違える。何度ご注意しても間違える。これはきっと意図的なのでしょうね。「オレの提起した議論には参加するな」、という忌避のご意志かとは存じますが、曽野綾子に関する議論に『紛れ』を求める企図なれば、今後も放置というわけには参りますまい。

> あなたの論点の中には私には目新しいことも2,3ありますが、いずれの論点もただちに全面的に賛同出来るものではありませんでした。

勘違いしては困ります。あなたの文章は論ずるに値する様には書かれていない手抜き文ですから、 論じはしませんと私は先に申上げていますよ。

この度の和田さんの投稿[C512]ですが、あなたがいろいろモノを読んだという表明はありますが、それらを正しく読んでいるか再検証の機会を読者には与えない仕掛けになっていますね、前の投稿と同じです。別の意味で感服しました。そのような投稿の仕方では、狼魔人のサイトに投稿しても「アラシ」として一蹴されるだけでしょうが。

なお、元石田少尉の文章は何らしがらみのない立場だから信用できる、といったご主旨がありますが、とんでもありません。石田元少尉は赤松隊のしがらみだらけです。彼は、1945年には所属が違う居候として、渡嘉敷島で給食、投降、復員何から何まで赤松隊の世話になった立場です。そして何よりも、その文章を書いた平成2年には、「戦友会」という大きなしがらみがあります。「ある神話の背景」や「戦史叢書」記述には逆らわない範囲で、大町大佐の名誉回復を図ろうと書いたのがその手記だとおもいます。したがって私は、石田回想文の渡嘉敷での回想個所は大いに問題ありと解しています。

会報特攻 第11号 平成2年8月
沖縄第三十二軍 第十一船舶団長 大町茂大佐の洋上戦死
http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf


>キー坊さん

>それは枕木の上にレールを通した線路状のものです。このやり方はマルレでも同様であったとの解説があります。

そういう解説が正しいかどうかを固めないと、後々とんでもないことになります。はん水方式には色々あって渡嘉敷では「橇式」であったことが最近わかりました。全艇それぞれを橇の上に乗せ隠蔽壕に格納しておくのです。整備隊長木林明中尉の報告で明らかになったことは既に投稿いたしましたのでお読みください。#comment510

常識的に考えれば、波打ち際までマルレを橇に乗せて運び、分散して貯蔵した穴(座間味での見取り図あり)から運んだ爆雷を装着したと思われます。勿論、戦隊ごとによるはん水方式の違いなど、よくよく検証の必要があります。

また、「甲号戦備」が出たらそれは警備態勢から戦闘態勢への移行なのだから、真っ先に「弾づめ」すなわち爆雷装着を始めて戦闘態勢に入るべきだった、という珍論があるようですが、それはとんでもない間違いです。「マルレ」は水際応戦のための特攻兵器ではありません。米軍上陸中の船団背後に沖縄全体の全「マルレ」が一挙に襲い掛かる、という機会限定1点突破の戦略型特攻兵器だったのです。

ですから、「甲号戦備」がでたから爆雷装備をするのではなく、「マルレ総攻撃」の命令が出たときのみ爆雷装備をする手はずだったはずです。もしも、出撃命令を先取りして赤松が1/3はん水を命じていたということが本当なら、それらは爆雷装着はしてないと思われます。誘爆の懸念もありますし。

なお、はん水作業や爆雷装着作業については、赤松部隊長は「細かいことは知らん」だったかもしれません。そして「艇隊」のメンバーたちも。だとすれば、曽野綾子にもいい加減な情報が伝言されたでしょう。私はその辺の記載のいい加減さは、いい加減さの現われであって狡猾さの現われではないかもしれないと思っています。

もしも、「艇隊」のメンバーたちが爆雷装着作業のような肉体作業に無頓着であったとすれば、逆に、「艇隊」以外の「勤務隊」「整備隊」の将兵達は、「マルレ総攻撃」についての戦略戦術に関しては、無頓着だったかもしれません。むしろ、つんぼ桟敷に置かれていたかもしれません。

「はん水すれども出撃せず」、は北山に篭った赤松隊内部でわだかまりの渦を巻いていたに違いありません。そんな中から、大町大佐をエスケープゴートにした『お話』が生まれたであろうことは、容易に推察できます。興味深いことは、谷本版「陣中日誌」では「筏に爆雷を乗せての特攻計画」が縷々経過報告(事後加筆)されていますが、辻版原本「陣中日誌」では記載なしだということです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2251&file=%E3%80%8C%E9%99%A3%E4%B8%AD%E6%97%A5%E8%AA%8C%E3%80%8D%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E3%81%A8%E6%94%B9%E5%A4%89%E7%89%88.6%E6%9C%88.htm(6月14、15、16日の項)

これらを防衛研究所の<沖台 沖縄>資料群に探るのも一方法かと存じます。

爆雷

 ni0615さん、和田さん、何時も中身の濃いコメントを有難うございます。
 でも、現在、お二人の見解の相違が拡大しているようです。和田さんのコメントに、ni0615さんが疑義を述べた事から議論が展開されていますが、本来なら管理人の小生が、コメントをつけて議論を調整しなければならない事です。しかしながら、私など、近年とみに(物理的)眼力、集中力、記憶力の低下などを防ぎようがなく、短時に長文を読みこなす事に、少々の努力を要する情況になっていて、素早いコメントを入れるタイミングを失いがちです。

 そこで、和田さんに少し要望いたしたい事は、長文は書くなという事ではもちろんなく、文章の頭か末尾の方で、仰りたい事の要点を、数行くらいでまとめて書いて頂ければあり難いという事です。少し前に書かれた長文に関連して、また長文を書かれる場合、冒頭に、以前の論点を簡潔にまとめておけば、私などもすんなり読み込んで行けるのでは、と思います。
 
 クリ舟や爆雷装着に関しては、以前にもお考えを述べてられたと思いますが、その内容を、私は直ぐには思いだせませんでした。
 爆雷に関しておっしゃりたい事は、「ある神話の背景」に書く、爆雷を装着したマルレを秘匿壕から引き出す事は、その重量ゆえに長い時間がかかって、夜が明けてしまい、出撃不能になってしまったので舟艇を自沈させたというのは、嘘であるという事ですね。実際には、泛水前に爆雷装着する海軍の「震洋」とは違って、渡嘉敷の赤松隊は、浜に泛水した後に爆雷を装着するという手順を取った。しかし、そのやり方は過去の教訓(?)を生かさない不手際なやり方であった。
 水の上に浮かんだ舟艇に爆雷を取り付ける事はかえって時間の掛かる事であった。曽野綾子と赤松元隊長は、その事を隠して、爆雷をつけたマルレの重さや、「干潮」やら基地隊のゼネストやら嘘の理由を並べて、泛水遅れの正当化を行った、という事でしょうね。 和田さんは、その論拠を、赤松の留利加和基地からの変更(及びその事の隠匿)、海軍の「豊廣記録」、その他の資料で推測したという事ですね。

 その説に直ちに賛同するという訳には行かないですが、私は十分あり得る事だとは思います。
 京の京太郎氏が頒布されている「陸軍水上攻撃隊」というニュース番組(TBS.1992)のDVDがありますが、この中に「震洋」の泛水路の映像がありまして、それは枕木の上にレールを通した線路状のものです。このやり方はマルレでも同様であったとの解説があります。その後に直ぐ、座間味の泛水路跡の映像(細い赤土の道路)が出てきます。渡嘉敷でも同じだったとすれば、たとえ爆雷を装着してもそれほど時間は掛からないように思えました。
 「ある神話の背景」で、赤松隊の特攻不出撃の理由を大町大佐の頑迷な態度、舟艇の重さ、干潮、そして大町大佐の自沈命令に帰している事は、嘘である可能性が強い・・・。そんな風に推測する事に共感は覚えますが、実証の仕様がないという点で虚しいものがあります。

 事実だと仮定した場合、何故赤松隊は、泛水後に爆雷を装着するという拙いやり方をしたのか解せない事です。やはり、出撃したくないという命への執着が有ったからでしょうか。

ゆっくり

Nio615さん
ここはあなたのサイトではないのですから、狼魔人のような問答無用は止めて下さい。

船艇の図があるURLには、船艇の長さが書いてある。大きさが船艇に類似する大型乗用車がエンストした時、30人もの大人が直接車に接触し、上げ下ろしをするには(かがんだり、手を添える空間が必要なので)無理。大型乗用車の周りに30人は立っているだけで隙間がなくなる。一隻に30人の泛水訓練を続けたという「ある神話の背景」の記述が事実なら枕木を使用する泛水路は3月20日以前に完成していることになる・・・・という意味ですが。

あなたの論点の中には私には目新しいことも2,3ありますが、いずれの論点もただちに全面的に賛同出来るものではありませんでした。 ここはやはり、ゆっくり個々の一つ一つの論点をさらに細分・整理して論議する必要があります。
たぶん、私と依拠する史料が違うためか事実認識に相違があると思われる2点については特に慎重に事実解明を進める必要があります。

その一つは、私には大町大佐一行15名が大名行列のように沖縄本島から渡嘉敷までずっと同行していたとは考えられないことです。  今ひとつは、赤松などは「戦闘の概要」で大町大佐一行が阿嘉島から渡嘉敷にクリ船で渡海したと語っていて同じような趣旨がが「第2戦隊の戦闘概要報告」に書かれているということですが、(記載を見れば納得できるかもしれないが)今のところそれは事実ではないと考えています。

私は「戦史叢書」、「石田四郎手記」、儀同保「ある沖縄戦」を比較して私選後者2つの記述に類似性が高いのに「戦史叢書」では記載がなかったり、異なる記載が多いことに気づきました。また石田四郎・儀同両氏には、戦史叢書に関与した赤松・皆本と比較して事実改竄の動機は低いことを考慮して、他の史料とも比較することを事実に近づく指針とした。

大町大佐一行15名の内訳に「戦史叢書」元基地隊隊長鈴木常良が含まれているのに「石田手記」では鈴木常良は抜けている。石田手記では内訳が詳しく通信兵が7名含まれている。石田手記では大町大佐一行は座間味から阿嘉島へクリ船2隻で移動したことになっていて、儀同氏の記述も黒い船2隻が現れその中に大町大佐がいたと類似した記述となっている。 そして、後に考察するようにクリ船のメッカ、糸満から渡嘉敷に渡海した第2戦隊稲垣等は、3隻のクリ船に、11人が乗船し、渡嘉敷から三池少佐一行12名も沖縄本島にクリ船3隻で渡海したとされている。(谷本版陣中日誌等)つまり、一隻平均4人という計算になる。三池少佐の沖縄渡海の人数内訳は谷本版陣中日誌に詳しく大町大佐一行は三池のみ。

 陣中日誌兵士4人に糸満漕ぎ手6人とクリ船経験のある防衛隊2名。 座間味から阿嘉島へは「マリリンに会いたい」でしられるシロという犬もよく往復した短い距離なので一隻のクリ船に5人の乗船は可能かもしれないが7人、8人は無理である可能性が高い。「マリリン・・・・」の前宣伝では、激しい海流もあったと記憶しているので未明に阿嘉島を目指すには防衛隊か第一戦隊の水先案内人兼漕ぎ手も何人か必要だったはずで、一行15人を超える乗船は物理的に無理と考えられる。
第2戦隊の戦闘概要報告に何時、どのような名前の人びとがどこからどこへ渡海したのか前後の記事を是非教示願いたい。検討すれば、クリ船での阿嘉島から渡嘉敷に納得するかもしれないが、今のところ可能性として、第二戦隊員として沖縄本島にいた稲垣一行と混同しているか、何らかの事実誤認の可能性があると思う。 

渡嘉敷から沖縄本島に船艇2隻で渡海を試みた大町大佐一行は6人(ただし鈴木大佐を大町大佐一行の数に入れない石田手記では5人となる)。そして、一行のうち5月に三池が沖縄本島に渡ったのみ(谷本版陣中日誌)。 阿嘉島から渡嘉敷に渡航した石田を入れた6人以外の人物は今のところ見いだせない。


次に
>石田四郎少尉の回想でも、特攻艇二隻に分乗と書かれていて、大町大佐は那覇まで帰還するつもりだったと、書かれています。
>ていうか、手漕ぎのクリ舟かマルレかの2案なら、那覇司令部に早く帰るという目的では、マルレを選ぶでしょう。

当然そうですね。しかも石田手記によれば、第二戦隊第三中隊長中川少尉は護送を全うするため全中隊の出撃を許可されたいと申し出ている。どうしてクリ船とマルレの混成で並航する理由があるのか。足の遅いクリ船はマルレとはぐれ大町大佐が上陸した阿波連以外に上陸した、そのまま沖縄に向かったなどの結果を招き、同一行動は不可能ではないか。 クリ船とマルレの混成は空想ではないか。

大町大佐一行15人のうち7人が通信兵。視察だけでは通信兵が多すぎる。 あくまで推測だが、大町大佐は視察ではなく、決戦場に出向いた。通信兵を(たとえば大町大佐が那覇を出発した中型船搭載の2人乗りボートで)各船隊に先行的に配置させ、小さな無線音(大きいと米軍に察知される)と暗号で連絡・統合的攻撃を仕掛けることを計画したなどが想定される。

 沖縄軍上層は、阿嘉島は、全滅した可能性があるが(儀同氏によれば斬り込み直前、無線機を破壊した)、渡嘉敷はそうではない兆候があるとして稲垣を渡嘉敷に送り込んだ。兆候とはかすかな無線音が聞こえることではないか。

なお、直前の投稿ではURLの数が多すぎて容量を超えていますとのことで殉国日記からの2つの引用を取り消さざるをえなかった。

C497について

和田さんへ

C497は、「爆雷に関する不手際」とは何ぞや、という私の問いに対するお答えのおつもりのようですが、とてもそうはなっていないとお見受けします。

爆雷の装填作業についてとうとうと述べていらっしゃいますが、「どの文献の」「どの記述」を考証し、それをどのように受け取ったりどのように捨て去ったのか、引用文の銘記もなく、全くの和田さんの一人相撲で、他人の検証を排斥する作法がテンコ盛りです。結局、何があなたのご主張なのか分からず、検討の対象とは致しかねます。

「爆雷の不手際」とは何を指すのか? という私の問いには明示的なおこたえは無く、ぼんやりとした「思わせ」でしかないことは、承知しましたので、それには言及いたしません。議論の紛れとかく乱が起きるだけで、私たちの目的とは逆行するからです。<要約版>ですらこうなのですから<詳細版>に至っては読む側の苦痛も推して知るべしかと存じます。どうか<詳細版>はご自分のサイトでやってください。

あなたが為すべきことは、赤松隊における泛水作業の仕様書を探すか、それを推察する根拠と論理を資料を求めて緻密に構築することです。そのうえで3月25日の夜どんな判断があったのか、を浮き彫りにして考察することです。それなしに、曽野綾子批判など有り得ないかと存じます。

ところで、
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm
これは、何のための参照なのですか? これの何処を読め、というのですか?

特攻艇と橇

私は最初、「橇船」は「繰船」の誤記かと思っていましたが、それは間違いでした。

「陣中日誌」原本の辻中尉だけでなく、赤松元戦隊長、皆本元中隊長も昭和21年のころは、「橇船」とか「橇艇」といった表現をしています。

「橇船」=特攻艇「マルレ」
まだ断言できませんが、それを示唆する表現があります。

■渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』
>その頃軍の防衛陣地及壕は大方完成し舟艇の待避壕も完成、海辺に至る枕木も敷設を終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は全く完了した。

■渡嘉敷村遺族会『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』
>いよヽヽ軍の防衛陣地や壕も大方完成し舟艇の待避壕や海岸に至る枕木も施設も終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は完了した。

■海上挺進基地第3大隊戦闘概要
>2.マルレ艇泛水路ノ構築
  各種方法ヲ比較研究シタル結果橇式ニ決定
  橇道ノ構築ヲナス
  即チ秘匿壕ヨリ海中迄数本構築
  對空偽装ニ萬全ヲ期ス

つづき

>>和田さん

>「これにはさまざまの隠された事情があったらしい。そのころ船団長の大町大佐といぅ指揮官が島に渡ってきていて、この人が島からクリ船で脱出する計画がからまったりしていたので、赤松大尉に出撃中止の司令軍令が下ったらしい。」

随分イイカゲンな要約ですが、大城氏にキチンとした話を求めるのは、無理というものでしょう。島民はもとより中隊長より下の将兵は、25日夜から26日朝にかけての情況の推移を、知らされてなかったはずです。

>一方、戦史叢書には「大町大佐の(渡嘉敷から沖縄本島への)帰還輸送を特攻艇にするか、漁船にするかが研究されたが漁船が得られず、第三中隊でようやく引き上げた特攻艇二隻によることになった。」との記載がある。

漁船と特攻艇の2案があるが、現実は特攻艇しか選択肢がなかったのでしょう。漁師に打診しても漁船は和田さんのいうように出航できないと断られた、と考えるのが妥当でしょう。

>同じく「殉国日記」37頁に大町大佐が阿嘉島から橇船(この語はあまり使用されないようだがクリ船と同じ意味だろう。

私はそうではなく、橇船は「橇を使って泛水する船」つまり、特攻艇マルレの可能性が高いと思っています。

石田四郎少尉の回想でも、特攻艇二隻に分乗と書かれていて、大町大佐は那覇まで帰還するつもりだったと、書かれています。
http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf

ただし石田回想は、大町大佐以下6名のことは語っていても、残り9名のことは欠落しています。じつは他に2隻のクリ舟が同行していたのです。
(第2戦隊の戦斗概要報告に記載あり)

>「戦史叢書」には「大町大佐は25日夜、海上挺身第2戦隊宮下力少尉の指揮する特攻艇二隻に分乗して渡嘉敷島に向かい」と記述されている。

「戦史叢書」は、「大町大佐は25日夜、海上挺身第2戦隊宮下力少尉の指揮する特攻艇二隻とクリ船二艘に分乗して渡嘉敷島に渡り」と訂正すべきかもしれません。

>上記を読めば、赤松等の語ることが嘘であること、赤松が隠していることがかなり書かれている。 

というか、この平成になって書かれた石田手記は、赤松=曽野の事実描写を引き写し「ある神話の背景」が語ることを全肯定しているのです。それに言及されてない日時帯を自分の記憶で埋めている、といっても良いでしょう。

>そんなわけで大町大佐ひいては、軍の不名誉にも繋がる爆雷装着手順の不備その他、第三戦隊の不始末に手を貸すことに同意したのだろう。

そんなこと石田手記は書いてないはずですが。
それとも何処かに書いてあるのですか?
 
>赤松は、早い段階でクリ船や漁船を利用し、大町大佐が船艇の秘匿を優先させたため、出撃の機会を逃したとの嘘の構図を編み出していたのである。 しかし、漁船の嘘は25日に米軍が上陸した阿嘉島や座間味島の島民が未明の潮位に関心を払わず、渡嘉敷一島の島民を脅せば潮位の嘘がバレにくいのとは違っていた。

和田さん、妄想の量で曽野に勝とうとするのは止めましょう。
ホントは何で、それをどう摩り替えたか、丹念に明らかにする以外にはありません。

>座間味・渡嘉敷の鰹船は早々と1944/10/10の空襲で全滅していたのである。 

村の『様相』にも遺族会の『概要』には
>>全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事すると同時に各高地に設けられた軍監視哨勤務につき、日夜軍に協力した。
とありますね。

>つまり、1944年末には、漁船=鰹船は渡嘉敷島及び座間味島から姿を消していた。 赤松・曽野・大城良平は漁船のことを「ある神話の背景」に書けば渡嘉敷の島民は脅しにより沈黙させることが出来ても、座間味島の島民から疑問の声が起きることを恐れたに違いない。 そこで、「ある神話の背景」連載には漁船ではなくクリ船と記載した。 

ていうか、手漕ぎのクリ舟かマルレかの2案なら、那覇司令部に早く帰るという目的では、マルレを選ぶでしょう。

>大城は「ある神話の背景」にクリ船が記載される前から漁船ではなくクリ船と記載されることを知っていたようである。 そうだとすれば、それは大城良平が1971年春から夏にかけて名古屋での赤松と曽野の会合に同席し、漁船にするかクリ船にするか話し合った当事者であったからであろう。

ただただ、話が紛れてるというだけです。大城良平氏が和田さん以上に、使える漁船がもはや無いことを知っていたら、クリ船としか思いつかないのではありませんか? <名古屋謀議>と仮に無関係でも。

以上。

ダメじゃん

>>和田さん
>渡嘉敦村の公式文書を抄録したものである。
これは、『みんなみの厳のはてに』金城和彦における根拠のない主観です。こんなもので発行jj順を決められないからこそ、伊敷さんは詳細に分析したのです。

間違い
×http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
>昭和25年にまとめられた (※) 、島民自身の戦史である。(週刊新潮)

和田さん歪曲引用ですよ。困りますね。
私が添えた以下の注記を無視するくらいなら、ご自分で資料ファイルを調達してください。私の資料庫の利用は自粛願います。

>> ※(引用者注)記事上の記述からは「昭和25年にまとめられた」とする根拠は不明。ガリ版刷の文書には、成立の日付はないという:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照。

貴方がこうした歪曲引用を繰り返すならば、私は再びファイルの公開を遠慮しなければなりません。
歴史史料を<汚して紹介する>のはネトウヨ諸君、狼魔人、サンケイ古森記者などの常套手段です。味方の側にそのような人がノサバッテ居たのでは、もう真実をもとめる戦いはオワです。

(和田さん)
>あれほど反赤松派であった古波藏氏が深く関与していた「戦争の様相」について、1968年の週刊誌にはっきり1950年発行と書かれていた。

ダメですよそんな安直な! 週刊誌記事の安直さに頼っては!
あなたは、週刊新潮の記事が「事実の集大成」だとでも云うのですか? 

(和田さん)
>ところが曽野綾子が「ある神話の背景」の連載を始めた頃(キー坊さんによれば、古波藏氏は1980年代後半まで存命だったにもかかわらず)古波藏氏から戦争の様相の発行が戦闘概要に先行しているとの反論がまったく出てこない。情報が消えてしまう。

文章の意味、不明です。

(和田さん)
>今ひとつの不可思議なことは、曽野綾子の「ある神話の背景」における潮位の嘘である。戦争の様相等には、1945/3/26深夜、青年団・防衛隊等の島民が枕木と綱を利用して船艇の泛水作業を行っている。 それらの島民が「ある神話の背景」での潮位の嘘に反論していないようである。

だから、「潮位の嘘」とは何ですか? とお尋ねしてるんですが。

>満潮へ進む中での泛水作業は島民にとって忘れられるものではないはずだが、

「何」が忘れられないのですか?  干潮に進む時の作業は忘れちゃうのですか?
干満の時刻を貴方は分かっているのですか?
貴方の長文は単なる思わせぶりに過ぎません。

>私は、いかに図々しい曽野綾子とて、これら島民に周知である事実に関する嘘は島民が脅迫されていない限り、恐ろしくて書けるものではないと思う。

何が「潮位の嘘」なのかも指摘できないで、「脅迫うんぬん」を云うヤクザな態度は、もしかすると、批判者をヤクザだと思わせて曽野綾子を支援しようという狙いですか?

>クリ船以外の推定根拠は、〈赤松が〉上記会合に出席したとする渡嘉敷の召集兵は70人で42人戦死。大城は年長組であり、バリバリの赤松擁護派であり、「潮」1971年11月号の大城良平の写真と上記1971年6月号の「青い海」の年長者写真が酷似していることである。 

推定根拠? 何が何の?
写真から脅迫言辞の内容でもわかるというのですか?
呆れて私の口は開いたままです。

曽野綾子という「悪」は、慎重に丹念に理詰めに追求してゆけば、その正体があきらかになる代物です。和田さんのようなご都合主義のツマミ食い食い逃げ罵倒戦術は、そうした追求の努力を挫折させ、曽野綾子を喜ばせるだけです。

イイカゲンなことでも喋る口が多ければ勝つのだ、というのは、狼魔人らと同じ考え方です。

和田さんより狼魔人の方がマシかもしれません。なぜなら、自分のサイトに物を書く狼魔人は、自分自身の品性と信用を勝手に貶めているのに対して、和田さんのこうした投稿はホストであるサイトの品性を貶めたり、引用元サイトの信用を損なわせ、利敵効果で曽野綾子にご奉仕するだけだからです。

私は大いに不遜なことを申上げたと思いますが、和田さんは逆批判の前に、引用の最低マナーを守ってください。

<続き>においても遠慮なく、ご批判申上げます。

大城良平とクリ船2

生き残った沖縄県民100人の証言  月刊「潮」1971.11月号より                      
 大城良平 (当時防衛隊分隊長・33歳、現在渡嘉敷村村議会議員
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/ryouhei/ryouhei.usio.html
大城良平はこんなことを言っている。「これにはさまざまの隠された事情があったらしい。そのころ船団長の大町大佐といぅ指揮官が島に渡ってきていて、この人が島からクリ船で脱出する計画がからまったりしていたので、赤松大尉に出撃中止の司令軍令が下ったらしい。」

一方、戦史叢書には「大町大佐の(渡嘉敷から沖縄本島への)帰還輸送を特攻艇にするか、漁船にするかが研究されたが漁船が得られず、第三中隊でようやく引き上げた特攻艇二隻によることになった。」との記載がある。

上記記載は、「殉国日記」
47頁の記載とほぼ同じである。  敗戦からあまり時間を経ていないこの記述も嘘であることが判明した。

同じく「殉国日記」37頁に大町大佐が阿嘉島から橇船(この語はあまり使用されないようだがクリ船と同じ意味だろう。赤松版「戦闘の概要」ではクリ船と表現されている)にて渡嘉敷島に渡海したというのである。

しかし、これは事実に反する。 「戦史叢書」には「大町大佐は25日夜、海上挺身第2戦隊宮下力少尉の指揮する特攻艇二隻に分乗して渡嘉敷島に向かい」と記述されている。大町大佐がクリ船で移動したのは座間味島から阿嘉島という短い距離であった。 この点に関しては沖縄本島から渡嘉敷島まで大町大佐と行動を共にした石田四郎少尉の回想に詳しく記載されている。
http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf

上記22頁以下を見られたい。石田四郎氏は同じく大町大佐と渡嘉敷まで行動を共にした三池(戦争の様相などでは三宅と誤記されている)少佐が中期間渡嘉敷に留まっていたが本島から来島したクリ船で本島に渡り、戦死したと推定されるのに反し、長く赤松と渡嘉敷島に留まっていたと考えられる。  
そうでありながら、戦史叢書初め各種文献に記載されず、上記が唯一の手記かもしれない。  上記を読めば、赤松等の語ることが嘘であること、赤松が隠していることがかなり書かれている。 石田四郎は階級が少尉であり、赤松大尉より階級が低かった。 赤松のおかげで食料にも不自由をしなかったはずである。 

そんなわけで大町大佐ひいては、軍の不名誉にも繋がる爆雷装着手順の不備その他、第三戦隊の不始末に手を貸すことに同意したのだろう。 隠すためには表に出ず、隠遁しなければならなかったのだ。 しかし、この手記のおかげで歴史の闇から真実が発見されることになる。
 
赤松は、早い段階でクリ船や漁船を利用し、大町大佐が船艇の秘匿を優先させたため、出撃の機会を逃したとの嘘の構図を編み出していたのである。 しかし、漁船の嘘は25日に米軍が上陸した阿嘉島や座間味島の島民が未明の潮位に関心を払わず、渡嘉敷一島の島民を脅せば潮位の嘘がバレにくいのとは違っていた。


慶良間諸島の漁船といえば鰹船である。  そして、慶良間諸島の鰹船は軍に徴用され座間味・渡嘉敷の鰹船は早々と1944/10/10の空襲で全滅していたのである。 鰹節は、飢餓に悩まされた日本軍にとって携帯性・腐食に強いことから重宝極まる食料であり、早々と軍管理にあり、米軍は早々と攻撃・撃沈していた。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/modules/tinyd03/index.php?id=10
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu01.pdf
http://zamami.blog97.fc2.com/blog-date-200907-1.html

つまり、1944年末には、漁船=鰹船は渡嘉敷島及び座間味島から姿を消していた。 赤松・曽野・大城良平は漁船のことを「ある神話の背景」に書けば渡嘉敷の島民は脅しにより沈黙させることが出来ても、座間味島の島民から疑問の声が起きることを恐れたに違いない。 そこで、「ある神話の背景」連載には漁船ではなくクリ船と記載した。 

 大城は「ある神話の背景」にクリ船が記載される前から漁船ではなくクリ船と記載されることを知っていたようである。
そうだとすれば、それは大城良平が1971年春から夏にかけて名古屋での赤松と曽野の会合に同席し、漁船にするかクリ船にするか話し合った当事者であったからであろう。

大城良平とクリ船1

大城良平とクリ船の話をしよう。

私が、曽野綾子の「ある神話の背景」に書かれた数々の嘘の中でも次の2つについては、何故このような嘘を堂々と書いたのかという視点で注目した。1つは、「戦闘の概要」が「戦闘の様相」より前に書かれたという嘘。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
上記引用「『渡嘉敷島における戦争の様相』(以下『様相』と略す)について、・・・・この記録は、当時の村長古波蔵村惟好(こはくらいこう)[※1]氏と召集された村民でつくられた防衛隊の隊長尾比久孟祥(おびひさもうしょう)[※2]氏の話をもとにして書かれた渡嘉敦村の公式文書を抄録したものである。」

一方、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html
上記より引用「沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』 (正しくは『渡嘉敷島における戦争の 様相 』) と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた (※) 、島民自身の戦史である。」

あれほど反赤松派であった古波藏氏が深く関与していた「戦争の様相」について、1968年の週刊誌にはっきり1950年発行と書かれていた。ところが曽野綾子が「ある神話の背景」の連載を始めた頃(キー坊さんによれば、古波藏氏は1980年代後半まで存命だったにもかかわらず)古波藏氏から戦争の様相の発行が戦闘概要に先行しているとの反論がまったく出てこない。情報が消えてしまう。


今ひとつの不可思議なことは、曽野綾子の「ある神話の背景」における潮位の嘘である。戦争の様相等には、1945/3/26深夜、青年団・防衛隊等の島民が枕木と綱を利用して船艇の泛水作業を行っている。 それらの島民が「ある神話の背景」での潮位の嘘に反論していないようである。満潮へ進む中での泛水作業は島民にとって忘れられるものではないはずだが、曽野綾子は島民の反論を恐れることなく堂々と潮位の嘘を書いたのだ。

 曽野には、絶対に村民から反論を受けることはないという確信と自信があったとしか考えられない。
私は、いかに図々しい曽野綾子とて、これら島民に周知である事実に関する嘘は島民が脅迫されていない限り、恐ろしくて書けるものではないと思う。

 何を材料にまた、誰が脅迫したかというと赤松隊・曽野綾子・大城良平等が、現在狼魔人等が脅しているような、迫撃砲・病死などで死んだ島民も援護金をもらえた、特に阿波連住民の一部は血縁が薄い親族に全滅した家族の援護金がまとめて支給された、子供まで勲章をもらった云々等に違いない。

さて、大城良平が例の写真のうちの一人であるという
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=840&file=aoiumi-akamatsu.jpg
クリ船以外の推定根拠は、〈赤松が〉上記会合に出席したとする渡嘉敷の召集兵は70人で42人戦死。大城は年長組であり、バリバリの赤松擁護派であり、「潮」1971年11月号の大城良平の写真と上記1971年6月号の「青い海」の年長者写真が酷似していることである。 

そして、最終的に「潮」1971年11月号に掲載された大城良平のクリ船の記述から赤松と曽野の会合に出席した召集兵は大城良平に間違いないとの判断するに至ったのである。         〈続く〉

誰がといわれれば私以外には言っていないことになるのかもしれないが

nio615さん
爆雷とクリ船の件につきましては、不審なものを感じてさまざまな角度から調べましたが、いろんな回り道をしたため記述間隔が長くなり、分断化・モザイク状の記載で、非常にわかりにくいものになったことは自覚しております。

そこで、まず爆雷から説明しますが、要約版と詳細版の二本立てとします。詳細版は一度に分割した記載を連投しないとわかりにくいと思われるので少し先の話になります。  今まで触れなかったことも記載します。 しかし、詳細版はかなり冗長で読みにくい記載になると予想されるので舌足らずになりますが要約版を記載します。

「爆雷装着作業の不手際」とは第3戦隊=赤松隊の1945/3/25から3/26の出撃準備の際、泛水作業の後に爆雷装置役作業が行われ、全部の船艇に爆雷が装着されないまま、黎明を迎えたため、出撃を中止せざるを得なくなったと考えられることをいいます。

爆雷装着の不手際を思いつくきっかけと結論は、赤松が復員局に提出した「戦闘の概要」。この種の文章は淡々と事実が記載されるべき性格のものであるが、赤松の爆雷(とクリ船)の記述には何らかの感情を投影した記載がみられる。これは、戦略的・合理的な反省でも近視眼的な喚きでもないと感じ、資料を収集した結果、赤松自身が主体性なく、命令遵守ができなかった弁明・釈明と判断された。 この点については赤松の軍命否定との関連で別にやや詳しく説明しようと思う。

前提となる間接的な予備知識       ミッドウェー海戦で日本軍が爆装から雷装への兵装転換に手間取り大敗を喫した故事(戦訓)。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-wagatekihaminatogawaniari-toyohiro1.html
上記のとうり、マルレと姉妹版の特攻船艇震洋で何回か出撃した豊廣隊長の頭にすぐ浮かんだのが爆雷のことであり、泛水前昼夜兼行で爆雷装着作業を行っている。


第三戦隊と渡嘉敷の地理、爆雷・マルレの特質など前提となる事実。
「母の遺したもの」によれば座間味島で基地隊の兵士10~15人が爆雷を装着していないマルレ一隻を陸揚げしたとの記載がある。同じく同書に梅沢隊が爆雷投下演習を行ったとの記載がある。一戦隊当たり割り当てはマルレ100隻、爆雷210個。マルレの後尾には定置金具で2個の爆雷が装着されることになっている。つまり、全艇が爆雷を2個装着すれば、演習使用を前提とすると、残りの個数は極めて少ないはずである。不発不良品の爆雷も少しはあった可能性もある。赤松は傾斜がきつく、浜の奥行きが短い留利加波を捨て、浜の奥行きが長く、傾斜が緩やかで遠浅の渡嘉志久・阿波連ビーチを出撃地とした。 一個120キロの爆雷を装着したまま海底に沈んだマルレから爆雷を引き離し、引き上げるのは潜水服と重機がなければ困難な作業である。


赤松・第三戦隊員・曽野綾子の出撃時の記載
谷本版「陣中日誌」と曽野綾子「切りとられた時間」には、泛水作業後に爆雷を装着する手順が明記されている。  「軍事研究」その他、泛水前の爆雷に関する第三戦隊員の、ほとんと゛全部の証言・文献は爆雷の点検という記述に止まっている。  ただし(さすがにというべきか)、曽野綾子の「ある神話の背景」には、爆雷を装着したマルレを泛水したとしている。そして自沈させたマルレから爆雷を取り出し、地雷として埋めたとも書かれている。これは嘘である。海の底に沈んで水圧も加わった爆雷をマルレの定置金具から切り離し、陸地へ運ぶ作業は重機を使用しないと困難。 爆雷を地雷に転用したとすれば壕の中に隠していた爆雷でしか有り得ない。  「ある神話の背景」では一隻のマルレを30人がかりで泛水したという。
http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm
長さ5~6メートルのマルレに30人も群がればかえって統制が効かず、力が分散される。泛水しにくいはずだ。座間味では上り坂のマルレをせいぜい15人までで、陸揚げした。下り坂の浜の泛水に一隻30人従事したとすれば、(戦争の様相・概要の既述のとおり)エジプトピラミッドの石・石室の天井石を運ぶ方法(修羅)と同じ原理のはすであり、マルレに荒縄を通して綱引きのように運ぶ丸太泛水路を利用できたからである。 つまり泛水には、時間をとらなかったということだ。一部の泛水路が破壊されたことが事実だとしても。


距離・浜の傾斜から泛水時間が短く済むはずの留利加波を放棄したのは、泛水後海上に浮かぶマルレに爆雷を装着するには波が高くマルレが浮遊して困難だと赤松が判断したからである。 戦争の様相その他文献にマルレ多数が海上に浮かんでいるにもかかわらず、長時間出撃できなかった記載がある。爆雷を装着せず武器として用をなさなかったから出撃できなかったのである。マルレを海面に浮かべても爆雷を装着するのに手間取ったからである。

赤松の「戦闘の概要」や谷本版陣中日誌に爆雷が頻繁に出てくるのは、壕から出されなかった爆雷が現実にあったためとも考えられる。    曽野綾子の出撃時の記載はほとんど嘘である。

心理学としての照屋証言

キー坊さん
こんにちは

「南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた」(照屋)
は眉唾でしょう。照屋昇雄はそのような現場にいなかったはずです。

担当者がなんとか援護法摘要のために努力し、厚生省が「軍公務」であったことのなんらかの「裏付け」を求め、「書証」があれば提出してほしいと口頭要求したことは、有り得たでしょう。そして村当局が、「隊長命令が確かにあった」という文書として、『様相』または『概要」などを提出したことも考えられます。(だからといって、「命令書」の提出を必須のものとして、厚生省が求めたとはいえません)

照屋証言はそのような長年の阿吽の上にたった狂言です。
歌舞けば歌舞くほど心理的「真実性」を増したかもしれません。
照屋証言そのものの虚偽性は、「閣議」を調べればよいかと思います。

命令はもとより玉砕も現認していない玉井村長などは、赤松隊長本人を目の前にしたとき、「あなたが否定している『隊長命令』を村のタテマエとしていてすいません。どうか事を荒立てないでください。」と、エクスキューズせざるを得なかったのでしょう。

私自身は、照屋昇雄氏がとんだ天一坊氏でありながら、「援護法」と言う言葉をきくと口篭もる村民達の、心の襞を抉る効果は発揮したのだと思います。

その抉りをさらに情け容赦なく行おうとしているのが、狼魔人や恵そして上原正稔らだと思います。「反戦」を叫びながら「軍協力者」として恩賞を貰うのは、ニンゲンの屑だと。(文化人の敬称略)

「軍の犠牲者」でありながら「軍の協力者」として補償する、援護法の欺まんからくる心理学的罠でしょうか(主観的には、戦時中は自分だって人生を賭けた「協力者」であった、という負い目も含めて)。

しかししかし、そもそも村民を「集団自決」に追いやったあの戦争の、現地軍の司令官としての心からの詫び状が、犠牲者たちの手元に届いたことがあったのかどうかこそ、問題だったはずです。
(軍人さんは一人一人は虚勢を張ることはなくとも、いつぞやそれは「部下の為」「部隊の為」「軍の為」「御国の為」となって、ええかっこしーの独善に陥るのです)

詫び状があれば33回忌の「和解」はできたのかもしれません。阿吽の「和解」を双方蹴飛ばさざるを得なくしたのが、裁判であり沖縄プロジェクトだったのでしょう。

>本音の根元

和田さん。
>援護金は時間的にも論理的にも厚生省事務官馬淵氏により、全島漏れなく支給する内定が与えられたとみるのが自然です。

ご指摘その通りだと思います。宮城晴美「(新版)母の遺したもの」P250~P257に詳しく解説されていますが、馬淵氏は、特に、伊江島・慶良間の戦死者に対しては、援護金を支給すべきとの強い方針を持っていたと思えます。この晴美の記載にあるように、馬淵氏は厚生省から「南方連絡事務所」に出向し、沖縄に赴任した「戦闘協力者」の調査官であったのです。
照屋昇雄氏は、産経新聞証言・一問一答で次のように言っています。

--集団自決を軍命令とした経緯は
  「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に(琉球政府の)社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。

南方連絡事務所は馬淵氏の所属する日本政府の出先機関であったのです。その職員が沖縄側に立って、「泣きながらお願いしていた」と言ってます。出先機関の支給方針と、本省の事務手続き方針に噛み合わない部分があったと思います。私は、形式上のズレを埋めるために、慶良間に関して、厚生省本省は「形式上」の隊長命令証言や「命令文書」を求めたと推測してます。

つまり、本エントリーで述べたように、この「命令文書捏造事件」は4者・5者の協同作業であったのではなかろうかと考えるのです。だから、照屋昇雄以外の、沖縄県援護課・厚生省・渡嘉敷村は「捏造」を否定する材料を裁判に提出したのだという「憶測」を、私は捨てきれないのです。所詮「憶測」なので、50%の確信しかありませんが。

この捏造事件が事実だとしても、赤松元隊長の責任が無くなったり薄まったりする事は無いと私は考えています。かえって、赤松氏個人の薄汚さが暴露されたのではないかと思います。だから、家族も否定したのでしょう。

細かいことですが

和田さんにお尋ねします。

1、「爆雷装着作業の不手際」とは、どんなことで、誰が何処に書いたことですか?
2、「大町大佐のクリ船」とは、どんなことで、誰が何処に書いたことですか?

和田さんは、誰もが既知の事のようにお書きになっていますが、私には既知ではありませんので、お尋ねします。また、もしやあの辺のことか、との暗示があったとしても、こういうキーな事柄は明示的に致しませんと、ディスカッションにはなりませぬ。

本音の根元

キー坊さん
私は、照屋証言の中で赤松が隊長命令を書いたなどということを最も信じないものですが、事の性格上、身も蓋もない叉は二の句が継げない論理で論証することはできません。

そこでキー坊さんの考えに個別に反論しましょう。 まず、照屋は厚生省と交渉するような地位になかった。 裁判所が指摘するとおりだが、他にも援護金受領の20要件をもっと多く語ったり、閣議で要件の要件が決定されるようなことを語ったり(そんなことは官僚が決める)、援護申請が却下された場合の救済機関である審査会の役割を知らないなど、とても援護業務に精通した人物とは思われません。

時間的流れを居っていけば、渡嘉敷・座間味の援護金は時間的にも論理的にも厚生省事務官馬淵氏により、全島漏れなく支給する内定が与えられたとみるのが自然です。  梅沢も、すぐ隣の座間味で隊長命令書を捏造したと語ってはいません。外見上、双子のように類似した一方の島だけに隊長命令書を要求するほど、日本の官僚は(実質はともかく)形式的に矛盾した行為は行いません。

座間味で隊長命令を厚生省役人に語ったのは、宮城初枝だけではありません。宮城初枝にもはい、いいえというような簡略な回答をさせただけなのに当時の宮城初枝回答だけを金科玉条にすることはできないのです。  実は後の宮城初枝の本意にもいろいろ疑問点が浮上しています。 半年後には少しずつ発表できるかもしれません。

  キー坊さんに訪ねますが、スパイ嫌疑による斬殺は、戦闘協力者になりますか、隊長命令は出してもらえましたか。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05b/chap03/content/docu050.html
  援護金を受領した住民は読谷村のサイトからも沖縄住民死者の約57%にも登っています。日本軍の中には全滅した部隊もあり、しかも首里を抜け出した後住民がどこの部隊に斬殺されたか不明のケースも多々あったはずである。    まあ、言ってしまえば援護金受領の要件は極めて緩く運用・認定されたと考えざるをえません。

次にキー坊さんの本音から生じた感覚的事象について私の考えを言いましょう。
私は、赤松が汚名払拭の行動に乗り出した主要な動機は戦史叢書に爆雷装着作業の不手際が載らなかったことで軍関係者から後ろめたい目で見られることを一応回避したと感じた赤松が、一般市民に出回っていた「卑怯な隊長」という風評をも一掃しようとして、集団自決命令を撹乱材料に「私は出撃に躊躇していない、大町大佐のクリ船のことや、大町大佐到着時の泛水中止命令により出撃できなかったのだ」という論調に転換させようとした目くらましと、考えている。  大体、赤松の手記や言動に集団自決のことはあまり感心がないようだ。 爆雷とクリ船に感心が集中している。 よほどのトラウマだったのだろう。

赤松が尊大なのは性格という他はない。一旦報道陣に「(集団自決になにがしの)責任はある」と言い逃れ後で社交辞令だと言い放つ態度、飢餓による死者が頻発しかかっているのに米軍に後10年は持つと言い放ったことなど石田記者が赤松の性格を見抜いていたのではないか。  

玉井村長が赤松隊にへつらったのは、勲章や自決でない者の親族まで年金をもらっていることをかき回されたくなく、さらに観光事業に邁進しようとしている所騒がれるのは邪魔になると考えたからだろう。 この面で赤松の伝令役を務めたのは谷本小次郎と大城良平であろう。(防衛隊70名中42名戦死、防衛隊は遠征適齢者を堺に年長・年少に分かれる。青い海写真の酷似。赤松隊しか流布しないクリ船の嘘を大城良平が知っていることから青い海写真の人物は大城良平の可能性が極めて高い)


私が知りたいのは、このような事象から隊長命令捏造が事実と考えたキー坊さんの本音とは何かということだが、まだ私の頭で青雲状態にある。

>ハンニバルさん。
>沖縄の問題を調べることは一筋縄ではいかないようですね。

曽野綾子は日本軍の罪科を免責する為に、「ある神話の背景」(集団自決の真実)で、隊長の「自決命令」があったかどうかに的を絞って攻めてきました。「鉄の暴風」で隊長が命令したとハッキリと書いてしまったがために、そこを付け込まれたのです。
住民の「集団自決」は命令があろうがなかろうが、渡嘉敷の村民は軍のせいで、自決に追い込まれたと認識していたと思います。
曽野綾子は他にも、赤松隊を美しく書くために、たくさんの虚偽記載、隠し事、勘違いさせる書き方で「ある神話の背景」を彩っている事は、和田さんni0615さんコメントでもお分かりと思います。検証する事は一筋縄ではいかないですね。

>ni0615さん

今回も意義を受けるかもしれないと予想してました。
この件に関しては、山崎コメント欄で論じて以来、再三再四で、目取真コメント欄でもありましたね。そこでも、自分の考え方を述べています。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/713fb16fa485ab9e6d81657178016ff7

目取真さんには、次の苦言をいただきました。
>「憶測」や「推測」、あるいは「思いこみ」などでいくら自説を展開しても、裁判のように第三者の目による厳しい検証には耐えられないということです。

私の発言が裁判に影響与えるとすれば、私は自分の考えを公表しないでしょう。私の見方は憶測に過ぎず、私が名の売れた論客であれば、ブログでもこの考えを表明できません。それをやれば論敵(裁判原告と応援団)を利する事になります。私以外でも、被告を支持する立場の人は思っていても、決して口にしない事と思います。
しかし、小生は匿名ブログ人であり、本音で論じたいと思うのです。私は証言が事実であった方が、それまでの経過(赤松が汚名払拭の行動に乗り出した事、尊大な態度で25周年慰霊祭に乗り込んだ事、玉井村長の赤松隊へのへつらいとも見える態度等など)がうまく説明できると思うのです。前にも言ったとおり、事実でも赤松元隊長は「集団自決」への責任を免れえません。
私はブログでは、自分の本音を述べる事を主義としたいのです。

道は険しく長し

新聞にまでさかのぼらないといけないのですか。沖縄の問題を調べることは一筋縄ではいかないようですね。狼魔人については、和田さんの赤松氏の発言まで証拠として示しているまっとうな批判を「アラシ」などとレッテル張りしている段階でおかしいと思っていたのですが、やはりデマだったようですね。元々、狼魔人の自浄能力には期待していませんが。キー坊氏にはいろいろと学ばせていただきます。今後ともがんばって下さい。

キー坊さん
おはようございます。

>照屋証言は事実かもしれない、という考えを私は半分くらいの確率で持っているのだが、

事実かもしれない確率は0だと私は確信します。
1つは赤松嘉次氏の家族が否定していること。
2つは照屋昇雄証言の完全な作り話です。
3つは照屋証言は赤松氏の言ったこと書いたことを全て「嘘」にしてしまいます。(梅澤裕氏に対する宮平証言がそうでしたね)

昭和29年の暮れまでに、渡嘉敷村村長と赤松元大尉との交渉があったのでしょうか? 照屋証言を50%でも信じれば、赤松嘉次がずっと嘘をついていたことになります。「1968年~1971年の赤松インタビューや赤松手記を、みんなみんな否定できますか?」、というのが目取真さんの端的な指摘です。

「村」が「隊長直接命令」を「公式見解」としてきたことに関して、1970年以降に島を訪れた赤松氏や元赤松隊員に対して、ホストである玉井村長が、「援護法の為とはいえ誠に申し訳なく・・・」と、エクスキューズの挨拶をし続けてきた、ということなら充分に想像できます。玉井村長はそのころ地域振興策として「海上特攻隊観光」を企図していたと思われます。

(赤松隊の遺品を集めて「博物館」を作ったり、金城武徳氏がその館長と「玉砕場」案内人に任じられたりしたことも関連するかもしれません。なお、玉井村長は当時渡嘉敷島にはいなかった復員者で、「集団自決」を知りません。曽野綾子はいかにも集団自決体験者であるかのように、彼を著書の中に登場させましたので、勘違いしている人は多いとおもいます。)

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プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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