2017-10

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曾根一等兵をめぐる嘘・パート2

 石田郁夫ルポ・「慶良間の虐殺」の冒頭に、「私が読むことのできた沖繩戦記のなかに、あまり姿をとどめない、当時の朝鮮人軍夫の境遇について知りたくなった。」と書いている。だが、『鉄の暴風』をはじめ、沖縄の戦記類には朝鮮人軍夫や慰安婦についての詳しい記述はほとんど見られない。

 川田文子の曾根元一等兵への取材で判った事は、彼は朝鮮人軍夫とはそれほど親しい間柄ではなかったという事である。本当は日本人の戦友を誘って逃げたかった。しかし、それは通報の危険があったので無理だった。曾根は朝鮮語も分らなかった。軍夫長のフクダは日本語を解したので、曾根はフクダを通じて朝鮮人軍夫に、決行の一時間弱前に逃亡を持ちかけたのである。軍夫との事前の綿密な連絡の上で、逃亡を実行したものではなく、寸前に軍夫長を通じて誘い、軍夫らは咄嗟の判断でそれに乗った。乗らなかった者もたくさんいたようである。誘いに乗ってきた者に二人の慰安婦がいたが、曾根は拒まなかった。

 米軍への投降成功後、曾根一等兵は軍夫・慰安婦らとは別々に収容され、その後、彼らと逢う事はなかったので消息を知らず、川田文子の主な取材目的は果たせなかったようである。曾根は川田に、赤松隊陣中での朝鮮人軍夫の処遇情況については語ってない。曾根も詳しく知らなかったのかもしれない。

 曾根一等兵らが米軍に投降したのは、六月三十日の未明である。その一週間ほど前、6月22日に、本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報が赤松隊にもたらされ、三十二軍の壊滅を知って、赤松隊は大きな崩壊感に見舞われたようである。その狂気が二十六日の食料強奪容疑での朝鮮人軍夫3名の「処刑」となって現れた。そこへ持ってきて、曾根一等兵による軍夫引率の大量逃亡である。

 曾根らの逃亡の二日後7月2日、2件の住民処刑事件が起こっている。一つは大城徳安教頭のスパイ容疑での斬殺である。「ある神話の背景」では、大城教頭は度々隊を抜け出して、妻の所に行った。何度注意しても聞かないので、「敵前逃亡」のかどで処刑をした。防衛隊員も「れっきとした」兵士であるので、処刑は正当なものだった、と曽野綾子は言う。

 だが、大城教頭は普段から、軍への批判めいた言葉を発していたらしく、それが戦隊の幹部に密告され、大城教頭は、見せしめとして水の浄化装置の手押しポンプを、終日押し続けるという重労働を課されていた。その光景を曾根一等兵は見たという。
 さらに、スパイの嫌疑を掛けられ、家を捜索され、見つかったアメリカ製食料品(漂着物)をスパイの証拠品としてこじつけられて、激しい拷問に掛けられていた。舌を噛んだが死ななかった。7月2日に、茶畑に連れて行かれて斬首されたと、曾根は後で聞いたという。

 同日に、もう一つの住民処刑が実行されている。捕虜として伊江島から移動されてきていた住民六人(女3人男3人)が、米軍からの投降勧告文を持たされ赤松隊陣地に入ってきたところ、この6人を捕らえ、赤松隊長の命で穴を掘らせて斬首の刑にした。
 「ある神話の背景」では、投降勧告を受ける訳には行かなかった、陣地の中を見た六人を米軍の元に帰すわけにもいかなかった。さりとて食料もなく、犬のように縛り付けておく訳にも行かなかったから、処刑するしかなかったと、赤松隊長はこの処刑を正当化し、曽野綾子はこれを肯定する記述をなしている。

 だが、考えてもみるがよい。2日前に曾根一等兵と軍夫20名くらいが米軍に投降したことは判っている筈である。とっくに、彼らが陣地の内情をばらしていると考えるのが普通ではないか。実際には、曾根一等兵は戦友の事を考えて、陣地の様子を言わなかったそうであるが、逃げられた方からすれば、曾根一等兵や朝鮮人軍夫がしゃべったと考えるのが妥当な所ではないか。もっとも、米軍は空から飛行機で常時、赤松隊陣地を偵察してた。その戦力がどの程度のものか承知の事であった。だから深追いをせず、執拗な攻撃はしなかったのである。

 六月下旬、32軍の崩壊情報を耳にし、曾根一等兵や軍夫に逃げられて苛立っているところに、伊江島の住民が米軍の命を受けて、投降勧告に来た事が許せなかったのが本音である。これが処刑の正当な理由になるのであろうか?「生きて虜囚の辱めを受けず」「捕虜になった者は殺す」。これが大城徳安、伊江島住民処刑の本当の理由である。これは戦争犯罪に他ならない。曽野綾子はその犯罪を正当化するという「犯罪」を著書でもって行ったのである。

 七月五日には、「逃亡者四名」を捜し出し、逮捕したという記述が陣中日誌にある。この逃亡者四名は曾根と一緒に逃げた者ではない。彼らは全員米軍に保護されたのだから。川田文子はこの四名はでっち上げられて、見せしめのために処刑されたのだろうと、推測している。
 赤松隊の記録に朝鮮人軍夫の処置に関する記述はまったくない。だが、知念朝睦や大城良平は、軍夫の処刑があったという証言をしている。おそらくかなりの数の処刑が行われたのではないか。

 曽野綾子は「勤務隊第三小隊所属の曾根一等兵のように、彼ら軍夫たちをかたらって逃亡させた立場の人に訊いてみれば、又、別の視点があり得るだろう。曾根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である。」と、「ある神話の背景」でうそぶいているが、会って話を聞けば、朝鮮人軍夫については、たくさんの赤松隊に不利な証言が出てくるだろうと予想して、曾根氏に会わなかったに違いあるまい。
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コメント

キー坊さん
>水勤隊の名簿は、私などが気が付くような資料ではありません
いやいや、私の力では見つかるわけがありません。

実はある方から、防衛研究所資料<沖台・沖縄>シリーズが、http://www.okinawa-sen.go.jp/ここでWEB閲覧できることを教わったのです。しかし、そのシリーズの一覧索引は無く、さまざまなキーワードで検索して探る以外にはないのです。
そこで、気がつく言葉を順繰りに放り込んだりして遊んでいたのです。

そんなわけで、曽根事件から探ったのではありません。

軍夫らの陣地

ni0615 さん。
貴兄の探査力には何時もながら敬服いたします。水勤隊の名簿は、私などが気が付くような資料ではありません。勉強になりました。
中隊全部で700人だとすると、座間味、阿嘉で夫々350人、渡嘉敷は220人ぐらい、住民による証言や戦記と大体一致するわけですね。

P25には、米軍の上陸地となった読谷村渡具知の陣地の地図があります。ここは私の地元から遠くないところです。入り江の断崖壁面に洞窟が幾つかありました。防空壕かと思ってましたが、それはマルレ舟艇の秘匿壕だということを最近知りました。だから、斎田小隊もこの構築作業に関わっていたかも知れません。
米軍の上陸直前までには、その陣地は完全に撤退していたわけですが。

水勤隊編成表

キー坊さん

>この陣中日誌、どこで第三戦隊配属の勤務隊と判るのでしょうか

<勤務隊>と<特設水上勤務隊(水勤隊)>は、全く別です。

前者は、もと海上挺進基地大隊の一部で、編成地は広島宇品です。
後者は、将校・下士官・兵がわずかで大部分は朝鮮人軍夫からなる中隊です。編成地は朝鮮です。

渡嘉敷島にいた海上挺進第三基地大隊は、2月に大部分が本島の戦力補充の為引揚げとなり、一部だけが勤務中隊と整備中隊として島に残り、赤松隷下となりました。
そして穴埋めとして、基地建設の土工隊として本島に送られてきていた、海上特攻とは無関係な特設水上勤務隊が転属されてきたのです。

「戦史叢書:沖縄方面陸軍作戦」によれば、特設水上勤務第103中隊の半分ずつを、第一戦隊(梅澤)と第ニ戦隊(野田)に分けて配置しました。そして第三戦隊には、特設水上勤務第104中隊のうちの1小隊を配備したとあります。何小隊なのかも書かれてないのは、この隊に対する扱いの杜撰さが、部隊事務にも戦史編集室にも顕れているのでしょう。

私はその名簿を見つけて、それが慶良間列島と無関係でも、<水勤隊>のことが分かればいいな、とおもっていました。

分かったことは、
中隊は本部と3小隊からなり、小隊は軍夫3分隊からなる。1分隊は約24名づつの3組からなる。
つまり、1小隊には軍夫が、約24x3x3=216人いる、中隊では、その3倍プラス本部付き軍夫がいる、およそ700人いるということです。小隊には将校1、下士官若干、兵若干います。

それから、赤松隊「陣中日誌」では名誉の「戦死」をしても員数か若干としか書かれませんが、この構成表をみれば、みなさん皆、姓と名がキチンと登録されているのです。

「もしや」と思って、前の方の記事を見たら、後で赤松隊の隷下となる斎田少尉の名がある。そしてなんと! お示しした頁には、「赤瓦の家」にある曽根一等兵から誘われた「軍夫長フクダ」の名と、彼のトナリには態と時間を遅らして赤松隊に脱走報告した「吉本」の名が「組長」として有るではありませんか!! 

ということで、間違いありません。
渡嘉敷島に送られたのは、「特設水上勤務隊第104中隊第1小隊」の朝鮮人軍夫だったのです。
そして、「第2分隊」を中心に調べれば、曽根一等兵とともに勇気ある脱走を試みた人たちが見つかるかでしょう。

とはいえ、以上は既知のことかもしれません。また、キー坊さんにはご存知のことを長々と書いたことをお許しください。

>ni0615さん。
>大城教頭処刑と、伊江島住人処刑は、たまたまテキトーに「7月2日」の所に加筆しただけだと思います。

それはあり得る事ですね。辻原本には全く記載が無いし、どの戦記にも日付の記載は見られないですから。
ただ私は、川田文子が分析したように、6.23司令部壊滅、6.30曾根と軍夫逃亡で、赤松隊が平静を失っていたところへ、伊江住民が投降勧告に来たので、苛立ちに駆られて、6人と大城訓導を処刑したと推測した方が自然のように思えますね。

>「フクダ」他の朝鮮人軍夫の所属名簿
この陣中日誌、どこで第三戦隊配属の勤務隊と判るのでしょうか。

日時不詳の件

キー坊さん

大城教頭処刑と、伊江島住人処刑は、たまたまテキトーに「7月2日」の所に加筆しただけだと思います。谷本版「陣中日誌」の日付は信用できないところが多いですし、そんな彼らですら「日時不詳」といってるのですから。

谷本元伍長は、「様相」もしくは「概要」に書かれたことを無視せず、赤松隊側の言い分を書きたかったのでしょう。改造「陣中日誌」に加筆したうえで、「解説文」(弁明文)まで添えたのだと思います。

改造「陣中日記」は、世間に向けて赤松隊からの巻き返しを図るための偽造「記録大成」ともいえましょう。で、曽野「ある神話の背景」は、偽造「記録大成」に基づく「論説大成」なのでしょう。

ところでキー坊さん。

曽根一等兵が連れてった「フクダ」他の朝鮮人軍夫の所属名簿が見つかりましたのでお知らせします。此の中の20数名でしょう。
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301118_00
p28 左

奥さん ni0615です

江崎孝(狼魔人)氏の「源哲彦さんの論壇」引用が正確であるかどうかは検証の要があるでしょう。そのうえで、

>狼魔人ブログに詳しく書かれている通りです、

もし「そのとおり」であれば、奥さんの「源哲彦さんの論壇」解釈は不正確ですね。

>沖縄タイムスの源哲彦さんの論壇を拝見して私達の勉教会においてこの点を指摘したのは私でした

最初の着眼者が奥さんならば、江崎氏が二番者だとすると、逆に、江崎氏が妙な解釈をしたのかもしれません。

>確かに私の文章は専門的ではありません、それはなるべく自分の言葉を文章化しているからです、

いずれにしても、どうにも受け取れる思わせぶりを書いて、読者に妄想歪曲させる、それは一般的に歴史改ざんをする方々の、極めて上手なところです。べつにインターネットに限った話では有りません。

自分達の言い分に矛盾があっても、読者をして混沌の海に投げ込めば、後は読者をして、理性の海から混沌の坩堝へと誘うことができるのですから。 そう思われませんか、奥さん。

証言の遅れ

ハンニバルさん。コメントをどうも。

富山真順という人は「手榴弾配布」証言をする前に、戦後早い時期から戦時中の体験談を語ってきた人物なのですが、赤松軍を告発する証言はして来なかったのです。それは何故かと私が思うに、兵事主任という戦時中の役職は、兵役経験者であり、住民を戦争協力に駆り立てる立場のものだったのです。

集団自決の場所では、村長とともに、住民を自決へと先導したのです。だが、自分は自決に失敗し、戦後を生きるのですが、罪悪感を持っていて、あの戦争を客観視する事が出来なかったのではないかと推測します。が、年を重ねた故に、富山はあの慶良間の悲劇は日本軍の強制的進駐の為だと、思い立ったのではないかでしょうか。

それで、戦後43年後の1988年、突如とも思える「手榴弾配布」証言をしたのではないでしょうか。だから、私もそれは事実だったに違いないと思うのです。だが、その事を他に証言する体験者は現れていません。そこを「保守」「右翼」は突いてくるのです。
戦後も、援護金との絡みもあって、渡嘉敷村の有力者として村を運営しなければならなかった葛藤が、あの証言を遅らせた要因と思えるのです。

証言の信憑性について

何十年もたってから、そんな証言をするのは信用できないといいますが、べつに証言するまでかなりの期間があったのは、その証言の内容が真実か否かとは関係ないとぼくは思うのです。そもそも、事件の細部に関してとき明かそうと思うのなら、証言というのは、非常に重要になってくるわけであって、事実や当時の状況と照らしあわせることで、信憑性は判断されるのだと思います。当時の住民の証言、また、当時の日本軍が捕虜を出すことを禁じており、実際、林博史氏の最新刊によると、サイパンやグアムなどで、日本軍が住民に自決することを命じていたということであり、このことから推察すると、その富山証言(僕自身このような証言があったということも、まだろくに知らないというレベルなのですが)は信憑性はあると思います。いずれに、せよ、金城兄弟に関してや、当時の住民の細部の事情はまだ把握しておりません。まだまだ、自分で調べ続ける必要があると思います。

nio615様奥です

狼魔人ブログに詳しく書かれている通りです、確かに私の文章は専門的ではありません、それはなるべく自分の言葉を文章化しているからです、専門家の方にはお叱りを受けるかもしれません、申し訳ありません、
 沖縄タイムスの源哲彦さんの論壇を拝見して私達の勉教会においてこの点を指摘したのは私でした、それに私がブログを開いて見る事自体つい最近からです、狼魔人さんのこのブログも始めて読みました。

奥さん(2)

奥さんの源哲彦に関する書き込みが、主語も定かでない訳がわからない文章になっているのは、江崎孝(狼魔人)氏からの寸借だからでしょうか?
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/61374ccbeb34ab86f7e0fb69e8b396ac

奥さん

奥さんの仰ることは到底常人には理解できません

>富山真順氏の手榴弾、配布は創作だったと思います、なぜなら当時16歳以下だった青年を役場まえに集めて配ったとの事ですが、金城重明兄弟が参加していませんし、

と仰いますが、金城重明兄弟がそのとき役場付近に居た、呼集を受けたら集まっていたはずだ、という前提はどこから創作したのですか? 金城重明兄弟の住いは確か、村役場の或る渡嘉敷ではなく阿波連でしたね。阿波連にいたとすれば役場のある渡嘉敷とは何キロ離れていますか? 阿波連にいるものが渡嘉敷で呼集をうけると考えられないと思いますよ。あるいは、軍の為に勤労奉仕中だったとしても、それは軍施設のあった他の地域だった可能性が高いのでは有りませんか? 16歳以下だった青年のすべてに配ろうとして配りえたかも、富山証言は言及していません。 それは、兵器軍曹の命により非常呼集をかけただけの富山さんには解らなかったのでしょう。

真実を極めようという志の奥茂治さんまでもが、島中の16歳以下を集めたと富山真順氏が言ったかのような前提をかってに誂えては、「集団自決原告応援団」の良心が問われてしまいますよ。


>昨年沖縄タイムスの論壇で渡嘉敷の源哲彦氏が発表していました。

いつの記事か教えていただけますか?

>これまで目的は判りませんが手榴弾配りをしたと言う富山さんの発言を信じていたのですが、源氏の意見を見て幻の手榴弾配りだった事を確証しました。

この文章の主語は奥さん、あなたですか? この文章はあなた個人のできごとですか? だとすれば、<確証しました>は言葉の使い方が間違っていますよ。それに、照屋証言のプロモーターである奥茂治さんが昨年まで富山さんの発言を信じていたとは、いい加減な言い草に過ぎやしませんか?

定評の或るこのブログのコメント欄には、なんでも正確なことを正確に伝わるように書いてくださらないと、読者として集う私達にとっても迷惑です。

奥茂治様。コメントを有難うございます。

富山真順証言は、他に裏付ける証言者がいないという点では完全な信憑性があるとは言えないです。が、仰るように金城兄弟がそれを知らなかったということは、和田さんも仰ってますが、彼らは阿波連部落の居住であり、3.20の集合の合図を聞かなかった可能性が強いのではないでしょうか。

また、渡嘉敷部落にも、その証言者はいないとされてますが、渡嘉敷島全体では三百数十名の自決者を含め、多数の戦死者を出しています。それ故、その役場前の兵器軍曹・自決命令を聞いた生存者がいなかった可能性もあります。

何よりも私が注目する事は、富山真順はこの手榴弾配布証言を、1969(s44)年に渡嘉敷に来た曽野綾子に話したという事を、沖国大・安仁屋教授に1988(s63)年に証言していることであります。それを曽野綾子は同じ年の家永裁判で、「そんな人知らない、憶えてない」と偽証した事です。

何故そんな嘘を言ったかといえば、曽野綾子は全く同じ手榴弾配布証言を、富山真順から聞いたからではないかと思うのです。

記憶の錯覚

富山証言は http://okinawasen.web5.jp/html/chisai/1_syomen_01.htmlによれば
「当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務め、『集団自決』の際に生き残った人が『日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた』と初めて明らかにし、インタビューに応じてその詳細を証言した。」     「(当時兵事主任であった富山真順村議の話として)『島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。
となっていて、手榴弾配布の日を1945/3/20と断定しているわけではない。

ところで、http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_44.pdf
によれば、金武湾の震洋隊隊長、豊廣は陸海軍合同の演習は1945/3/7か8日に行われたとしている。ところが「ある神話の背景」では、「第三中隊長皆本義博少尉は、3月10日、那覇の県立第一高女で行われた陸海の海上特攻作戦会議に出席した」とある。
  
一方、軍事研究2005年3月号で元第三戦隊員、木村幸雄は「特攻艇の運用については3月10日から12日にかけて、船舶団長大町大佐統裁のもと、那覇において牛島司令官をはじめ陸・海の首脳や海上特攻関係者が一同に会し、海上挺進攻撃の兵棋演習が実施された。」と書く。 

  3/7と3/10どちらが事実であろうか。 おそらく3/10が正しいのだろう。  何故なら、皆本等は自ら戦史研究所にいたことがあり、第三戦隊の戦史を飾るため戦史研究所で積極的に活動していたと自ら語っている。 歴史を改竄するためには、兵棋演習の日など主観を挟まない事項で、出撃できずに生き残った兵士たちによく知られた事実は正確に記す必要がある。 そうしないと肝心の改竄を企むその他のすべての記述が疑われ、改竄の目的を達することができないからである。  豊廣の兵棋演習の記憶は日付に関する限り正しくないのだ。 それではなぜ誤ったのか。 豊廣隊長といえば自伝とはいえ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-wagatekihaminatogawaniari-toyohiro1.html
を見れば、獅子奮迅の働きをした軍人であることは誰も否定できない。3/14空襲により演習中多数の戦死者、そして3/24からは出撃準備と出撃が続く。  
こんな経験はないだろうか。 かなりの大事件(政治的でもその他でもよいのだが)が報じられるが、数日後、直前の事件を上回る大事件が起こる。 そうすると前の事件は後背に退き大昔の出来事のような錯覚を持ってしまう。 実際には後のほうが小さな事件だったが、阪神大地震の後の地下鉄オームサリン事件の後の報道。阪神地震が霞んでしまった。   豊廣隊長は兵棋演習後、演習中多数の隊員を失う空襲を受け、爆雷運搬・装着に没頭し何度か出撃した。 兵棋演習の日が遠い昔と感じられるのは無理もない。 ここでもう一つの錯誤を思い出す。渡嘉敷の島民は3/25夜から26にかけての泛水作業、27日米軍上陸→27日夜から28日に賭けて西山からフィジガーへの移動と集団自決という一生に二度とない事件経過であれば、27日米軍上陸はいわばエアーポケット。時間が経過して26日が米軍上陸の日だったろうと思い込むのも無理はない。 戦史叢書が出るまで民間ではたとえ、軍サイドに近い書物でも3/26が米軍上陸と記載され、信じられていたのに曽野綾子は島民の錯覚を鉄の暴風の誤りが伝播したなどと皮相な理屈を考案して、歴史改竄に利用した
。   

言いたいことは手榴弾が配られたという富山証言の日付は3/20より、3/21の可能性が高いということだ。
3/21日は桜花を搭載した特攻機部隊、神雷が初出撃し全滅した緊迫した日であり、手榴弾が配られるとすれば蓋然性が高い日である。   緊迫した経験が続けば人間の記憶には錯覚が混入する。 このことは、検証の前提として憶えておく必要がある。

富山証言

1年半ほど前に別のサイトに投稿したものをそのまま引用する。

検証の前に原告支援サイトを引用してみよう。
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/35/    『3月20日手榴弾配布の命令説であるが、なによりも、当時16歳であった金城重明自身が、そうした命令を受けていないことを明確に語ったことは重大である。金城重明は、20日に役場に集められたこともなく、兵器軍曹から手榴弾を交付されることもなかった。もちろん「1発は自決のために使え」という命令も受けてなかったのである。金城重明の言い訳は、兵器軍曹から手榴弾を配られたのは渡嘉敷部落だけであり、阿波連部落には、手榴弾の配布はなかったということであった。それが軍の命令なのであれば、阿波連に伝えられないということがありえようか。さて、それでは、渡嘉敷部落で手榴弾をもらったものがいるのかと聞けば、なんと、もらったものは誰も知らないというのである。与那嶺次郎、小嶺勇夫、安里広信ら渡嘉敷部落の同級生も、同級生で役場の職員だった吉川勇助も3月20日に手榴弾をもらっていない。当時14歳だった知人の金城武則も。』

次にhttp://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/tokadata/de_1/b/de_1b_1.htmにより、1905年渡嘉敷小学校より、阿波連分校が独立したことを確認されたい。  さらに富山証言http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061016/jiketu より引用 『・・・・島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満の少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。』
富山証言によれば、15,16才の少年で渡嘉敷部落在住の者が対象となっている。  そうすると、当時渡嘉敷島に中学校はなく離島の中学進学者はほとんどいないだろう。 同級生とは小学生であるが金城氏が阿波連出身である以上、同級生は阿波連分校での同級生であり、渡嘉敷部落在住でないから手榴弾を渡されることはなかったことになる。
なお、最初に引用した原告支援サイトには『金城重明は、法廷でも集団自決が軍命令によるものであることを主張し、その根拠として、(1)昭和20年3月20日に役場に17歳以下の少年が集められ』となっているが、富山証言は17才以下ではなく、17才未満である。防衛隊が17才以上なら論理上もそれ以外ありえない。
さらに、原告支援サイトの『当時14歳だった知人の金城武則も。』は、15,16才の対象外であることが判る。
また、http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/nuchigatai09.htmlによれば、原告支援サイトの2007年9月12日より前の6月14日には、富山氏から手榴弾を配布されたことを証言しているようですが。

ハンニバルさんへの意見について

キー妨様、口を挟むようですが、富山真順氏の手榴弾、配布は創作だったと思います、なぜなら当時16歳以下だった青年を役場まえに集めて配ったとの事ですが、金城重明兄弟が参加していませんし、手榴弾配りに参加したと言う青年はいないのです。
 そのため富山真順氏が生前親しい友人に手榴弾配りの件について真実は私だけが知っている、それは墓場までもっていくと言っていたとの重要証言が昨年沖縄タイムスの論壇で渡嘉敷の源哲彦氏が発表していました。これまで目的は判りませんが手榴弾配りをしたと言う富山さんの発言を信じていたのですが、源氏の意見を見て幻の手榴弾配りだった事を確証しました。秘密や真実を墓場まで持っていくと言う言葉は沖縄の人がよく使う言葉です。割り込みして申しありません。

手りゅう弾

ハンニバルさん。
渡嘉敷における手りゅう弾に関する、よく知られた証言は、s63年の富山真順元兵事主任の、「兵器軍曹」による手榴弾手渡し、「1発敵へ、もう1発で自決せよ」の証言でしょう。

これについては「右翼」は、富山氏以外に証人はいない。戦後何十年もたってからそんな証言をするのは信用できない、としていますね。
だが、富山氏は同時に、s44年曽野綾子が島を取材しに来たとき、旅館で面会し、その事も話したとの証言も行っています。
しかし、曽野綾子は家永法廷の証人尋問で、「そんな人は知らない、覚えてない」と偽証しています。富山(新城)真順の名は、「ある神話の背景」に2回も出てくるのです。

自決場に、手りゅう弾を持ち込んだのは地元民である防衛隊員であり、正規の日本兵ではなかった。けして赤松軍が自決させる為、持って行ったのではない、としています。
実際そうではありますが、貴重兵器が住民に易々と渡る情況は、「住民を自決させても良い」という軍の認識からであったと思うのです。
赤松が住民を一ヶ所に終結させたのは、捕虜にさせない為であり、住民が集団自決に追い込まれても構わない、とする軍隊の姿勢だったと思います。

ありがとうございます。

わかりました。僕も将来、身の回りの事情が片付き次第、ブログを開こうと思っているのですが、その暁には、沖縄のことも、自分に可能な範囲で、書きたいと思っています。曽野綾子以外にも、大江健三郎氏の「沖縄ノート」や、沖縄の学者による「沖縄学」に関する文献も読んでいこうと思います。
 ところで、例の本は最初の部分まで読み進めたのですが、当時、銃の弾も不足しているような状況下において、国際法において戦闘を禁じられている民間人に対して、軍が場合によっては、一人に二個も手榴弾を渡している時点で異常としか言いようがありませんし、実際「いざとなったらこれ(手榴弾)を使って自決するように」と兵士から言われたという証言が数多くあることからも、自決を強要したのは、明らかではないかと思うのですが、その辺にかんして「保守」連中はどう反論(言い訳)しているのでしょうか。

ようこそ。

ハンニバルさん。当ブログへコメントいただき、有難うございます。
林博史氏が書かれた「沖縄戦強制された「集団自決」」は、私は未だ読んでおりません。

>おそらく素人には調べづらいという、その間隙を「保守」連中はついてきているのでしょう。

仰るとおりだと思います。36年前に、曽野綾子は大胆にそれをやったのだと思います。もし、まだ「ある神話の背景」(『集団自決の真実』)をお読みなってなければ、お読みになっていただいて、その矛盾点を突いていただければあり難いです。

僕も今ようやく、集団自決に関する文献(最近、林博史氏が書かれた「沖縄戦強制された「集団自決」」という本を読んでいるのですが、集団自決について論じるには、現場にいた人々の証言や当時の状況や時間帯など、いろいろと調べなくてはならないことが多いですね。おそらく素人には調べづらいという、その間隙を「保守」連中はついてきているのでしょう。僕もこの問題に関しては自分なりに調べていこうと思います。
沖縄とアイヌの問題に関しては歴史上、同化を強制された立場であり、独自の文化を持っていたという事実を認める必要があると思います。「保守」の連中はその事実すらゆがめようとしています。事実をつかまなければ問題はいつまでたっても解決しません。結局事実をつかむためにはある種の「知的愛」という感覚が必要なのだと思います。最近の知識人は政治化してきていて、その感覚を忘れていると思うのです。僕は素人なりに事実や真理をつかんでいきたい(少なくともそれを志向していきたい)と思います。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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