2017-10

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曾根一等兵をめぐる曽野の嘘

「ある神話の背景」の朝鮮人軍夫を語る文脈の中で、こういう記述がある。

「…(赤松隊の)数人が、収容所に入ってからも「朝鮮人」から私刑を受けなかったのは赤松隊くらいなものだった、という意味のことを言った。
 しかしこれとても、勤務隊第三小隊所属の曾根一等兵のように、彼ら軍夫たちをかたらって逃亡させた立場の人に訊いてみれば、又、別の視点があり得るだろう。曾根氏は私が今も会いたいと思っている人の一人である。」
(『集団自決の真実』p283~284)

曽野綾子はこの文章を書いた1972(S47)年頃、曾根一等兵に会ってなく、捜し難い人物のように書いている。
渡嘉敷島の第三戦隊に配属された朝鮮人軍夫の動向・消息については、赤松隊の記録にはほとんど記載がなく、軍夫をつれて逃げた曾根一等兵に訊けば、戦時中の朝鮮人軍夫について、かなりの事が分るのではないかという事である。
「ある神話の背景」執筆時には、曾根元一等兵の消息を曽野は知らないのであるが、それ以後の曽野の「集団自決」に関する論考で、曾根一等兵に触れた記述は無いようだ。

 だが、川田文子著・『赤瓦の家』では、著者・川田文子は曾根元一等兵に1985(S60)年頃面会して、朝鮮人軍夫を引き連れて赤松隊を脱走した経緯を詳しく聞きだしている。
元日本軍兵士の消息を尋ねるには、厚生省援護課へ訊くことが一番の良策であろう。国は元兵士の生死に関わらず、援護金を支給しなければならない。だから、厚生省は元兵士の消息については、詳しく調査しているはずであり、しかるべき理由があれば、その情報を教えてくれるものである。
川田文子は、厚生省援護課から曾根元一等兵の住所と電話番号を聞いて、曾根氏に連絡が取れたのである。曽野綾子は厚生省に問い合わせをしなかったのだろうか。ここに一つの曽野への疑惑が見い出せる。

曾根清士元一等兵は、川田文子に当時の慶良間の戦況を回顧して、次のように語っている。
「特攻機はいったんわずかに上昇し、それから火の玉となって真っさかさまに落下していった。そして、あたり一帯に飛び散った燃料が暗い海面で色鮮やかに燃えあがった。
 ――ああ、また、日本の若い者が無駄な抵抗をして死んだ。この戦争はもう敗けじゃ。絶対に勝つことはない。軍の指導者が一刻も早く降服しなければ、犠牲者は増えるばかりじゃ。日本の飛行機がわれわれの上空まで来たら、それを見て喜ぶよりは、かわいそうに、また今晩も落される。どうぞ去(い)んでくれたらいいのに、と手を合わすような気持でした。」


曾根一等兵は、当時の日本兵では数少ない「目覚めた兵士」だったのであり、博愛主義者でもあったのだろう。次のようにも語っている。

「勝敗はすでに決している。大本営は一日も早くこの戦争に終止符を打つべきなのだ。もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかげたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるといぅではないか」と、鼻先に軍刀をつきつげられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。
 ――1人では、わが身一人だけでは助かろうとは思いませんでした。 曾根氏は朝鮮人軍夫に呼びかけた。」


投降を決意した曾根一等兵は日本人戦友を連れて逃げたかったが、軍国主義に染まっている彼らに意を告げる事は非常に危険だった。それで、曾根氏は朝鮮人軍夫に呼びかけた、のである。どの国の人の命でも救いたかったのである。これには驚嘆させられる。逃げると決意すれば、大勢を引き連れて逃げるのは危険度が大幅に増す。通常は、わが身一人が助かる事を思うものではないだろうか。(続く)
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コメント

re:『ルソンの碑(いしぶみ)』

私もつい最近、アマゾンの中古400+送340円を買ったので、ついつい情報がそれによってしまいますが、名も無き仲間達の死の戦記を書くために、大検資格を、職業を、弁護士を、と目指した儀同さんには頭が下がります。

『ルソンの碑(いしぶみ)』

儀同保の『ルソンの碑(いしぶみ)』、借りてきて、最初のところを読んだばかりです。儀同氏は復員後、家庭の事情で進学できなかったので、独学で大学検定・及び司法試験に合格したほどの努力家のようです。
 
綿密な資料調査と分析で、マルレ部隊の全貌に迫っている優れた戦史のような気がします。浮ついた沖縄戦後史しか書いてない佐野眞一の本より、よっぽど価値あるノンフィクションだと思います。マルレの攻撃方法変更についての記載は最初の方にありますね。

>「吃水線より上で爆破しても船を沈没させるほどの効果はなく、むしろ十メートルぐらいの水中で爆破させる方が、水圧の利用により、装甲に弱点をもつ輸送船には効果がある、という理由からであった。」
これが説得力ある説明だと思えます。
敵への命中率という点では、体当り法が高いと思います。当時も、反転方法に変えても、兵員が生還する確率は低いと思われていたそうですから、軍中枢が、命中率を落としてまでの攻撃方法変更は採用しないような気がします。現実的理由で変更されたに違いありません。もしかしたら、梅澤も具申したかもしれませんが、それが特攻方法変更の切っ掛けではなさそうです。

2008.3.30(1審判決翌日)の東京集会で、藤岡信勝が、「梅澤氏は攻撃方法を上層部に攻撃方法変更を具申して、隊員の命が助かるようにした思いやりの深い人物」だと称えていたりしていたのを思うと、梅澤は何処でもその話をして、自分の人格者振りを吹聴しているようです。

阪神さん
こんばんは

衝突方式を替えたのと、2個同時にしたのは別の改良ではないでしょうか。工場出荷時は震洋と違って衝突前時投下にはなっていましたが、120kg爆雷は左右に積む仕様だった。それを急遽、結束して船尾から落とすようにした。その装着変更の木工細工を現地でやったのではないでしょうか。

ただし梅澤の自己経歴を見つけましたところ、転属時期を誤解していました。
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305197
戦隊の編制は8月ですが、梅澤は1月に船舶司令部付きになっています。そうすると改良に携わっていた可能性は充分ありますね。

第2戦隊長野田、第3戦隊長赤松の転籍時期は不明です。

体当たり訓練をしていた深沢氏

こんにちは。「船舶特攻の沖縄戦と捕虜記(深沢敬次郎)」では深沢氏は体当たり訓練をしていたそうです。反転攻撃に変更になったと知った時期については書いていませんし、反転攻撃の訓練をしたかどうかも書いていません。それゆえ、隊員個々人によって、突っ込むつもりだったのか反転するつもりだったのか当時の隊員の気持ちは複雑なものだったのではないでしょうか。ちなみに爆雷を2個同時に投下するようにする改修工事は阿嘉島で行ったと書いています。この改修工事については「血塗られた珊瑚礁 (関根清)」でも書かれています。
マルレは船首から突っ込む事を想定して開発されたのではないでしょうか。それゆえ梅澤氏が反転攻撃を提案したというのは事実の可能性もあります。

とうか酸っぱい

座間味灯火スパイ事件の顛末も、2点転載しておきます。

1 座間味島では

>>座間味島に駐屯していた海上挺進基地第一大隊に所属していたミヤシタクラジの日記の四四年一一月一日に、次のような記述がある。監視所から、この三、四日間の夜、島と海上の何か所かで信号灯が見 えたという報告があった。さらに今日、阿真方向に二、三〇の火が見えた。そこで約六〇名が捜索をおこなった結果、その火は島民が完全に消さなかった火の残り火にすぎないことが判明した。風が吹くと、その火が大きくなったり小さくなったりして信号灯のように見えただけだった(C-C Trans 34 Bull 161/45, 27 June 1945, 英文より翻訳 W0208/1010)。なお彼は同じ日の日記のなかで、「地元民は軍人に対して悪い感情を持っている。そして日がたつにつれ、その感情が行動にあらわれてくる。ここは不愉快な場所になってきた」とこぼしている。 << 
(林博史『沖縄戦と民衆』p95、96)

2 第三二軍参謀部は

>>「(四四年)七月以降沖縄本島方面に出所不明の信号弾に関する情報多々あり軍は其の出所を探査」していたが、ようやく「憲兵隊の異常なる努カに依り何れも星光、月光、友軍飛行機の翼燈航空機誘導燈友軍信号燈(弾)自動車前照燈、ランブ燈、焚火、魚火等を誤認せるものと判明せり」と、杷憂であったことが確認されている(第三二軍参謀部陣中日誌、一一月一日、沖縄40)。

戦後まとめた「第三二軍史実資料」(沖縄37)においてもこの問題について触れられているが、「状況の緊迫すると共に峰火光事件頻発し且敵潜水艦に依る沖縄人間諜の潜入説等喧伝せられしも各部隊及憲兵隊の努力は之が確証を挙ぐるに至らざりき」と確証がなかったとしている。 << 
(林博史『沖縄戦と民衆』p95)

3 梅澤裕だけが、平成になって確証? した???


やはり嘘つき

ni0615さん。私こそ勘違いさせる書き方をして、申し訳なかったです。
この本はタイムスから95年に発刊されていて、上原正稔は当時は重宝されていたわけです。私が検索した限りでは、練馬図書館にしか置いてないようです。

それにしても、梅澤元隊長の言う事には随所にウソが散りばめられているのですね。年を追う毎にそれがエスカレートしているのでしょうね。宮平秀幸の調子よさといいコンビです。

>その後の陸戦の過酷さも、第十戦隊「死没者結果104名中97名」が物語っています。菅原少佐は生還したのですが、上記の通り5月21日までは戦っています。

米軍は日本兵捕虜から情報を得たとは考えられますが、菅原少佐が捕虜になったのは5月21日以後の事で、少佐がしゃべった可能性は無いのですね。梅澤はそれを知っての上で、菅原氏の名誉を汚す発言をしているわけで、タチが悪いです。京氏のDVDには、フィリピンからの生還者の証言映像も載っていますが、戦死者の大部分は山中での餓死だったようです。

早トチリお詫びします

キー坊さん
>ni0615さんの近所の図書館に無いかどうか、お調べいただきたいです。

てっきりお持ちかと思ってしまいました、早とちりをお詫びします。国会図書館に行く機会にコピーを取ってきます。

なお、「ルソンの碑」で梅澤の嘘をまたひとつ発見しました。フィリピンルソン島、リンガエン湾での海上特攻は20年1月ですが、特攻挺発案者の菅原少佐(陸51=梅澤より一期上)率いる第10戦隊は、リンガエン湾から遠く離れたルソン島東岸に配置されており、海上特攻のチャンスが無いままにゲリラに脅かされたり、マニラ後背部にある湖への進出を図って、その派遣部隊が全滅したりしました。そしてついに・・・

>>したがって菅原少佐の集隊(3戦隊残兵の集合)は、もはやこれ以上舟艇を使用する機会は無くなったので、五月二十一日に、残っていた第七戦隊の12隻、第9戦隊の21隻、第十戦隊の37隻を爆破して処分し、戦隊も陸戦に加わることになった。

との記載があります。

その後の陸戦の過酷さも、第十戦隊「死没者結果104名中97名」が物語っています。菅原少佐は生還したのですが、上記の通り5月21日までは戦っています。「米軍の捕虜となった菅原が、爆雷投下方式を巡って確執のあった俺を妬んで、座間味のことをベレベラしゃべった。だからこんな目にあってしまったんだ」というようなことを梅澤は言ってますが、それは予想どおり、誰が見ても真っ赤なウソ、というものでした。

re:ご真影

上原正稔「沖縄戦トップシークレット」、私は所有してません。以前住んでた練馬の図書館にあったので、借りて読んだだけです。コピーも取ってません。
近所の図書館にあるか検索したら無いようです。
ni0615さんの近所の図書館に無いかどうか、お調べいただきたいです。

写真は5~6枚だったですが、モノクロ・遠写で、サイズは小さく、梅澤が写ってるのは1枚だけで、座った後姿で顔は映らなく、かなり大きい背中しか見せてませんでした。

胸が洗濯板みたいになって、復員してきたと言ってましたが、胴体の肉付きは良いように思えました。
残念ですが、その写真は遅れません。代わりに京氏のマルレ関係の資料送らせて頂きます。

ご真影

キー坊さん
>阿嘉島の大谷海岸で野田隊と交渉する場面を写真入で記述しています。担架に座った梅澤少佐の大きい後姿も写ってます。

その写真をどこかにアップできませんか?ご面倒なら私のところにメールで送ってくださればアップします。

>「ルソンの碑」
儀同さんの前作「マルレの戦史」は読んでいませんので、どっちが詳しいか?

ばれてたマルレ

ni0615さん、詳しい解説有難うございます。

>>「邪推」した可能性もあります。この神山中尉の消息を探る必要ありそうです

これは、梅澤の邪推に違いないと思っているので、中尉がスパイかどうかを調べたいのではなくて、沖縄出身かどうかを知りたい為です。梅澤も沖縄人には疑心暗鬼の日本兵だったのかを探りたいわけですが、沖縄人であるかないかを知ったところで、何も判るわけでないし、特に必要性もなさそうです。

>「ルソンの碑」、
まだ読んでないです。その本にはマルレ攻撃方法変更の真相が書いてあるのですね。
知念朝睦は天皇の思し召しだったと証言していました。これは他戦隊の隊長を誉めたくない為の「歪曲」だと思ってましたが、梅澤のも自分を誉めたい為の「歪曲」証言だったのですね。(笑)ちょっと騙されました。

>「死人に口無し、何でも人のせいにする嘘つきジイさん」という感を…
このあたり、宮平秀幸とかなりの部分共通します。戦後、梅澤が島を訪ねるようになってから、イキを合わす様になったのでしょうね。
 
フィリピンに派遣された戦隊は、S20年1月にリンガエン湾で、最初に出撃した第12(?)戦隊が、敵艦隊にかなりの損害を与えたという記録があるそうです。(京太郎氏が送ってくれたDVDに解説あり)
しかし、その第一回目の攻撃で、米軍に戦法を知られてしまって、その後は徹底的にやられて、全く戦果は上げられなかったそうです。だから、沖縄・慶良間にも、同じ戦隊が配備されいるのは、既に米軍の知るところと成っていたのが事実だそうですね。

>慶良間3島三戦隊長の中で真っ先に投降し、真っ先に米軍協力者になったのは元少佐梅澤です。
上原正稔・「沖縄戦トップシークレット」の記録には、なかなか降伏しなかった第二戦隊・野田少佐を説得する為に、米軍に要請されて梅澤が担架に乗せられて行って、阿嘉島の大谷海岸で野田隊と交渉する場面を写真入で記述しています。担架に座った梅澤少佐の大きい後姿も写ってます。情勢の変化に合わせて言動を変える調子のよさは生来のもののようです。

追記

キー坊さん
>自分には責任は無いという状況証拠を自分で作り上げようとする3.25夜の鮮やかな場面説明はその意欲の発露です。S19.11.3の県民大会の大袈裟話もそうです。

全くそのとおりですね。私は藤岡信勝の宮平秀幸評を思い出しました、『他人から聞いた話でも、自分があたかもそこに居たかのように話すことができる特殊な能力』。梅澤はきっと、上陸した米兵を我が身を晒してずっと観察していたし、その県民大会にも参加していたのでしょいう(笑)。

ところで、S19.11.3の県民大会については、「惠隆之介の祖母の証言」とやらも後押し(秦郁彦本脚注)してるようですね。また梅澤がインタビューの中で言ってる「元退役軍曹、当間」というのは、那覇市長から大政翼賛会沖縄県支部事務局長になった「当間重剛」を、アテ役にしたのかもしれません(林『沖縄戦と民衆』P86)。

嘘つきが矍鑠としていた

キー坊さん
おはようございます。

私がチャンネル桜の梅澤インタビューを聞いて驚いたのは、
・「座間味の集団自決でなくなった人たちは本当にお気の毒です。」
・「(私が命令したわけではないが)当時の軍の指揮官としてもうしわけない」
という言葉が、延々3時間番組の中で一言もなかったことです。

私が感じたのは、全てを他人のせいにする「さもしい元日本陸軍将校」です。92歳で矍鑠とした、「元軍人、見てきたようにウソをいう」の3時間の姿でした。

>「邪推」した可能性もあります。この神山中尉の消息を探る必要ありそうです

キー坊さんは仰いましたが、その必要はあまりなさそうです。

なぜなら梅澤は、フィリピンルソンで米軍は〔○レ〕に酷い目に遭わせられたから、沖縄座間味にスパイを送ってきたのだといってます。どうやって、そんなことができるんですか? フィリピンに送った海上挺進隊も、梅澤隊も、そして基地大隊も、偏制は1944年8月です。ドラエモンにだってできる技ではありません。

しかも梅澤によれば、アメリカが開戦後直ぐにアメリカ国内で日系人をかき集め、その中からスパイを養成した、その一人が「神山中尉」だというのです。さらに梅澤によれば、開戦後に密かに日本に送られ、「特幹」から将校になったそうです。(インタビュー後半では、フィリピンルソンの結果を見て日本に送ったようにも行ってますが。)

この場合の「特幹」は、「船舶特別幹部候補生」ではなく甲種特別幹部候補生のことだと思います。兵士からの下士官、将校への道で、二等兵から入隊した軍役期間と2年間の陸軍予備士官学校の教育が最低必要です。通常『特幹あがりの将校』という言葉は、士官学校あがりの将校が「あいつは教育程度の低い将校だ」という意味で使う言葉だそうです。

しかも、基地隊の士官は既存部隊からの転属です。どうやって首尾よくスパイがもぐりこめるのか、梅澤にもう一度聞いてみれば、おもしろい漫才となるでしょう。

・・・・挺隊と基地隊の編制経緯については、海上挺進第2戦隊の特幹生だった儀同保さんの「ルソンの碑」に詳しく書かれています

神山中尉の消息を探った結果は、きっと、ご遺族からの名誉毀損の訴訟なり声明になるでしょう。

次に、

>マルレの生還型・反転攻撃を船舶司令官に進言したという梅澤の話は本当かもしれませんね。部下を戦死させる事が一番イヤだったというのも本当かもしれません。

〔○レ〕を爆雷とともに衝突させる方式から、爆雷投下後に衝突回避させる方式に変わったのは、前者よりも後者の方が相手の艦船にあたえるダメージが大きかったからです。それも、儀同保さんの「ルソンの碑」に詳しく書かれていました。 ヒューマニズムの為でないことは知っておく必要がありそうです。

Wikipedia「四式肉薄攻撃艇」にも
>>特攻艇として認識されているマルレではあるが、震洋との大きな違いは最初から特攻艇として開発されたものではないということである。従って震洋は艇内に爆薬を搭載しているのに対し、マルレは艇尾に爆雷を懸架する形式になっており、正式名称が示す通り大挙して高速で敵船団に奇襲をかけ肉薄し敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発されたものである。

と書かれていますが、「離脱するという構想の元に開発」は虚偽で、あとから爆発効果の問題で改良された、というのが正しい姿です。

>>最初は船体に直接爆装し、これでぷち当たる方法が考えられ、隊の幹部はむしろそれを希望したとも言われているが、実際に採用する段階で投下方法を採ったのは、吃水線より上で爆破しても船を沈没させるほどの効果はなく、むしろ十メートルぐらいの水中で爆破させる方が、水圧の利用により、装甲に弱点をもつ輸送船には効果がある、という理由からであった。
(儀同保さんの「ルソンの碑」より http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2288.html#id_43a1ff05

離脱方式は、当初からの構想でもヒューマニズムによる改良でもありません。同書には

>>なお爆雷については、前に書いたように、艇の両側に一個ずつ装着する方法であったが、のちに宇品の沖で老朽船の高崎丸に対して投下実験をした結果、これでは撃沈するには十分でないことが判ったので、艇の後ろに二百五十キロか、百二十キロニ個を結束してつけることになり、舟艇が配置された現地でもできるかぎり改造された。(同上)

とも書かれております。

海上挺進の「第1」戦隊長である梅澤が、最終的な投下実験に携わっていたことは充分に考えられます。しかしだからといって、開発に携わっていたというのは「法螺」であり「虚偽」です。梅澤は北支の騎兵隊長をしていたのです。編制されたのは8月です。出発したのが9月です。彼が設計考案者の一人だった可能性はないに等しいのです。

なお、インタビューの後半で梅澤は、フィリピンに行った別の戦隊長をこっぴどく誹謗中傷していますが、これを聞くと「死人に口無し、何でも人のせいにする嘘つきジイさん」という感を強くします。

その戦隊長とは、フィリピンに派遣された第10隊長の菅原久一氏でしょう。もともとは落下傘部隊で昭和18年に「特攻挺」を考案し、そして、自らの落とし前をつけるために海上特攻実戦部隊に志願したのです。

梅澤はまた、前任地北支では「自分は部下を一人として死なせなかった」とヒューマニスト自慢していますが、座間味ではどうだっかには全く触れません。おそらく慶良間3島三戦隊の中では、部下を死なせた筆頭ではなかったかと思います。それもこれも「みんなスパイのせいだった」といいたいのでしょうか? 

座間味の梅澤指揮下部隊の死没者
・第一戦隊 69名(104名中)
・元基地第一大隊 約100名(約250名中)
・元船舶工兵第26連隊 32名(約50名中)
・水上勤務隊 軍人15名 軍夫 不詳(不詳中)
(防衛省公刊戦史『沖縄方面 陸軍作戦』より 他隊との比較http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2347.html

これも本人は隠していますが、慶良間3島三戦隊長の中で真っ先に投降し、真っ先に米軍協力者になったのは元少佐梅澤です。
・「おいおい、梅澤少佐が米軍の服を来て米軍の船に乗ってやってきたよ」
それは、梅澤のヨタ話の中の「神山中尉」と同じ姿です。こちらの方が真実で記録も残っています。

根拠なしに他人をスパイだという、こうした梅澤裕の卑劣な人間性。92歳になっても世間に害毒を撒き散らしている姿は、座間味の人々にも良く報せるべきだと思います。

どうしても長文になってしまいました、深くお詫びします。

「命」尊重派のようだが、

「WILL」2008.8月号に載った梅澤手記をアップしました。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/umezawa/umesyuki.html

「桜」映像で、第一戦隊所属、勤務隊神山中尉はスパイだったと、実名を言っていますが、この手記ではK中尉としてますね。「K中尉はハワイ出まれの日系人だった」と言ってます。神山という苗字は沖縄にも多いし、ハワイには沖縄系の二世が多いです。ハワイ生まれというのが事実なら、梅澤がこの基地隊副官をスパイと言う事は否定もできないですが、「邪推」した可能性もあります。この神山中尉の消息を探る必要ありそうです。

マルレの生還型・反転攻撃を船舶司令官に進言したという梅澤の話は本当かもしれませんね。部下を戦死させる事が一番イヤだったというのも本当かもしれません。座間味の戦時体験者からは、隊長の関知した所での住民処刑、朝鮮人軍夫の処刑や虐待があったという事は聞かれません。
梅澤は人の命に対するする柔しい一面があったかもしれないですね。画面から推測しても、どこかに愛嬌を感じさせる人間味を持っていたように思えます。「沖縄ノート」を裁判が始まるまで読んだ事が無かったと、正直に言ったのもその気質の現われかも知れません。
推測だけを言って申し訳ないのですが、「島に梅澤さんを悪く言う者なし」と、梅澤に書き送った宮城初枝の言葉もウソでなかったのでしょう。

だが、やはり元帝国軍人の性で、自分の名誉を回復する為には、あくどい事も躊躇いなくやる。調子の良い作り話も留まるところを知らない。宮城初枝が事実話を打ち明けた時に、週刊誌の「自決命令報道」のせいで家庭崩壊を招いたと言ったが、実際は崩壊などしてなく、老夫婦仲良く暮らしていたようだ。反抗していたという長男は、一審判決日に北海道から孫を連れて駆けつけたと言ってます。
家庭崩壊話は、座間味の人たちに罪悪感を抱かせるウソだったのです。

彼に、地元マスコミへの情報提供、宮村幸延への仕打ちや、沖縄タイムス・沖縄県への抗議行動をエスカレートさせた要因は、国家権力・自衛隊筋の後押しがあるからでしょう。多数の座間味住民を自決させた事実が在ったのに、自分には責任は無いという状況証拠を自分で作り上げようとする3.25夜の鮮やかな場面説明はその意欲の発露です。S19.11.3の県民大会の大袈裟話もそうです。

自由に?

>自由に米軍の方へ行ってよい

と、朝鮮人軍夫に間接的にでも言ったとすれば、梅澤は座間味住民にそれを言わなかったことをどう説明するのでしょうか? 自分自身も1ヵ月後には「自由に米軍の方へ行く」決断をしたのですから。もっと早く住民に言ってやればよかった、とは悔やまないのですね。この「陸士優等生」を鼻にかけた泳ぎ上手は・・・。

私の勉強が不充分なためなのですが、座間味に関しては軍部隊側からの戦闘情報が少ないですね。渡嘉敷島の場合は、様々な将校の手記が戦争直後のものからあり、複合的にみて虚偽が内在的矛盾として浮き彫りになって来そうですが、座間味の場合は、同調も批判もどちらも、梅澤の一人芝居に頼るようで(苦笑)。

座間味の朝鮮人軍夫

うっかりしてました。「恨・朝鮮人軍夫の沖縄戦(権丙卓)」に座間味で死亡した4人の水勤隊の話がありました。3月26日夜に特幹隊員1人に「特攻艇を出せ」といわれたので砂浜に出したら、この若き隊員は装置を叩いたそうです。多分、手榴弾で爆雷を叩いたのでしょう。大爆発の巻き添えで軍夫4人が死んだそうです。
「アリランのうた(朴 寿南)」では住民の宮平敏さんの証言があります。水勤隊の田村と言われていた隊員が逃亡の罪で殺され、もう一人マチグワーにいた隊員が殺されたという噂を聞いたそうです。
また、衛生兵だった野村氏の証言として四十数人の朝鮮人軍夫が死んでいると証言しています。どのようにして死んだかは書いてありません。野村氏は水勤隊が米軍に投降した後でも、波打ち際に何人かふくれて死んでいるのを見たとも言っています。
梅澤隊長は水勤隊を前にして米軍に投降しろとは言っていないようです。本間という兵士が梅澤隊長に「どうしましょうか」と聞いたので、梅澤隊長は「自由に逃がしてあげろ、米軍のほうへ行かせてやれと、私は言ったんです」と答えています。戦隊長が直接、水勤隊を前にしてどうするかを問い質すというのは、命令系統というか、当時の軍のやりかたとしては異例だと思うので、やはりこの本で梅澤氏が証言している通り、梅澤氏が本間氏に指示しただけなのでしょう。

帝大2名

>ni0615さん
>これは儀同さんの「慶良間戦記」ですか?
風に立つ(玉井向一郎)です。もう1冊あった記憶がありますが失念しました。あと下記HPにも罪状不明となってますが出ています。
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/196/index.html

誰もが滅入ります

阪神さん
>パート3も我慢してみないといけないのかと思うと気が滅入りますw。

本当に滅入ります。1/4~4/4全部で3時間だそうです。

しかし、これは最高裁判決に向けての宣伝のようです。沖縄戦と梅澤がこれまでやってきたことを、いくらかでも知ってる人には、この3時間は単なるバカバカしさですが、何にも勉強してない人はとりあえず感化されるかもしれません。ですから無視はできません。

ですから、「反論は当然あるんだ、梅澤は90歳になっても虚言の名人だ」、ということをとりあえず素早く示さなくてはならないのですが、反論の土台作りに今朝から私が書き起こしたのはまだ3時間のうちの10分分にすぎません。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2346.html

>斬り込みに行かず捕らえられ、チシ浜で殺された帝大出の隊員
これは儀同さんの「慶良間戦記」ですか?

>座間味の水勤隊ですが、「哀号 朝鮮人の沖縄戦(福地曠昭)」では阿護の浜で一人轢殺され、それ以外にも殺して埋められたといわれる」と書かれていますが、これを検証する本はみつかっておりません。でも福地先生の本では集団投降を容認したと書かれているので、これは本当の事なのでしょう。

詳しい情報、ありがとうございます。「哀号 朝鮮人の沖縄戦(福地曠昭)」これはまだ借り出したことがありません。

ところで、10年前の琉球新報記事見つけました。週が明けたら問い合わせて見たいと思います。
「沖縄連行の朝鮮人軍夫は2815人-名簿を韓国遺族会が発見-本紙入手、厚生省は非公開」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-94531-storytopic-86.html
「沖縄連行の朝鮮人軍夫は2815人/名簿を韓国遺族会が発見/本紙入手、厚生省は非公開1999年6月22日」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-94531-storytopic-86.html
この記事の記者が「船舶関係」を「船舶乗務」と勘違いしているフシもあります

キー坊さん
上記のような道草で、私の約束も遅れています。ごめんなさい。

反転攻撃考案者だったとは

>ni0615さん、キー坊さん
>(山中義中)」に触れた狼魔人日記は何時頃のものだったでしょうか?
2008年7月1日です。
>山中氏の所属部隊はわかりますか?
独立歩兵第十五大隊第四中隊です。
>勤務隊神山中尉という人物はご存知ですか?
私は知りません。スパイについては私はとても興味があるのですが、梅澤氏は捕虜になってから神山中尉と会話したのでしょうかね。憶測だけで話しているのなら裁判になってもおかしくありません。神山中尉が自ら希望して座間味に行けたのでしょうかね。そんな事は出来ないと思うのですが。
あと、戦後、特攻隊員のお母さんが尋ねてきたとありましたが、梅澤氏は隊員の遺族に手紙を書かなかったのでしょうかね。斬り込みに行かず捕らえられ、チシ浜で殺された帝大出の隊員の遺族にはどう説明したのでしょうか。北支で4年間部下を殺していないと自慢してますが、座間味での死者について言及していないのが不思議です。
それにしても特攻から決死へ変更になったのは梅澤氏の考案だったのですか。
座間味の水勤隊ですが、「哀号 朝鮮人の沖縄戦(福地曠昭)」では阿護の浜で一人轢殺され、それ以外にも殺して埋められたといわれる」と書かれていますが、これを検証する本はみつかっておりません。でも福地先生の本では集団投降を容認したと書かれているので、これは本当の事なのでしょう。
それにしてもキャスターの2人を見ていると気分が悪くなりますね。
パート3も我慢してみないといけないのかと思うと気が滅入りますw。

「沖縄戦を生きて」の記事は何時

阪神さん。情報をどうも。
私もそろそろ「ある神話の背景」追求に戻らなければ成りませんね。

>ろーま人のような醜いオーシマーに褒められて、山中氏はさぞ…
一般大島(奄美)人の名誉の為にコメントさせて頂ければ、江崎孝(狼魔人)は沖縄人でない事は確かですが、奄美人であると決め付ける事はできない事です。私は直接質問してみようと思って、彼の昔の電話番号にかけましたが、もう使われてなかったです。

 惠隆之介、惠忠久、奥茂治を、私は「特殊」奄美人と呼んでいますが、現在では、彼ら以外に「沖縄の奄美差別」を絶叫する奄美人はあまり居ないと思います。奄美の復帰時代を経験した知識人や新聞人は、かつてその事を強調していましたが、そんな事は肥大化した固定観念に過ぎなかったことを、最近の一般奄美人は分って来たと思います。

(山中義中)」に触れた狼魔人日記は何時頃のものだったでしょうか?

日時場所、「神山中尉」

阪神さん
詳しく教えていただきまして有難うございます。

>場所は屋嘉です。9月15日の夜にボコられてます

伝聞とはいえ、場所も日時もハッキリしたものですから、もっともな噂としての価値は充分ありますね。書名と筆者も。

で、くどくてすいません。山中氏の所属部隊はわかりますか?

またついでに別件ですが
いままでお読みになったもので、梅澤の第一戦隊所属、勤務隊神山中尉という人物はご存知ですか? 梅澤が「国の支え」に書いたスパイだそうで、チャンネル桜が梅澤にこの件で、長時間インタビューを行いました。梅澤が若ければ、チャンネル桜ともども遺族から必ず告発されたでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=3KRreGxUHCE&feature=channel
(ご注意!梅澤と宮平秀幸で3時間だそうで、私もまだ20分しか聞いていません)

※ 私も、ろーまじん としか読んだことはありません

赤松骨折

>ni0615さん
本は、江崎孝が『都合のいい部分だけ抜き出して』幼稚な絶賛をしていた「沖縄戦を生きて(山中義中)」です。江崎はおおかみまじん、じゃなくて、ろーま人と読んでやりたいですねw。
山中氏は沖縄では「片手の中尉」でよく知られた方です。ろーま人のような醜いオーシマーに褒められて、山中氏はさぞ迷惑している事でしょう。

赤松が殴られた場所は屋嘉です。9月15日の夜にボコられてます。殴ったのが下士官なのか兵士なのか水勤隊なのかは不明です。呼び出しを喰らった理由を「兵隊が米を盗んで食べたので軍法会議とかで戦時中の行為で死刑と決まって銃殺になったそうです」と山中氏は戦友の軍曹から教えてもらっています。山中氏は赤松がボコられているシーンを見ていません。その後、山中氏は赤松が捕虜収容所内病院に入院したと聞いたそうです。結局、山中氏は赤松を見る事無く、噂話だけを本に書いています。ここが辛いですね。裏をとっている訳ではないですから。でも銃殺された兵士がいたかどうか調べてみたいですね。
僕は殺された兵士は水勤隊では無いと思います。というのは、山中氏は朝鮮人捕虜と会話を交わしていますし、朝鮮人捕虜らが日本兵に暴行を加えているのを目撃してもいます。もし朝鮮人捕虜が赤松に暴行したのなら、山中氏は目撃した可能性が高いでしょうし、朝鮮人から赤松の事を教えてもらっているでしょうから。

>それを記述した文献もありますか?
今の所、見つかっていません。


赤松が受けた私刑

>阪神さん
大変な遅レスで申しわけありません、

[C375] で次のように仰っています。
>もっとも赤松は屋嘉で兵士にボコられて骨折してますから恨みを持つ兵士が複数いたのでしょうけど。

これの典拠はなにでしょうか?

といいますのは、曽野がWAC版283ページで、
>(元赤松隊員)数人が、収容所に入ってからも「朝鮮人」から私刑を受けなかったのは赤松隊くらいなものだった、という意味のことを言った。

と書いていますが、曽野本の中で匿名で隊員に、こういう最上級表現をさせるときは必ず眉唾モノだと感じています。反証を集めたいのです。

また、特幹生からも私刑をうけたのなら、朝鮮人軍夫からも私刑を受けたに違いないと思うのです。それを記述した文献もありますか?

古波蔵「手記」について

(WAC版「渡嘉敷島 集団自決の真実」P196-7から)
>このことに関しては更にもう少し述べる必要があろう。私の手許(てもと)に、当時の渡嘉敷村長・古波蔵惟好氏の手記があるが、その中に次のような一項がある。

とあtりますが、この「古波蔵手記」が、新聞記事かなにかなのか、情報をお持ちの方はご教示ください。

もうひとつの第3戦隊死者資料

阪神さん
戦死者資料ありがとうございます。
さて、
http://www.tokkotai.or.jp/news/book.html
を見ていただくと(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会は『特別攻撃隊全史』という書籍を発行しております。

以前、図書館でコピーした第三戦隊戦死者資料と一部異なる部分があります。なお、その書籍には戦死者の本籍と出身(すべて特1か幹10どちらかに所属)も記載されています。

阪神さんの資料で木村又雄と思われる人物(戦死日4/15で同一)がその資料では木村文雄となっています。

それから阪神さんの資料で4/10戦死となっている鹿田恒男の記述がなく、替わりに6/17戦死の栃木県本籍・小松原三郎の記載があります。戦死場所は渡嘉敷島となっています。

ちなみに小松原三郎の名はhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1406.html
上記に記載されています。  

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=word&word=%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%96%9C%E4%B8%80&type=normal&page=%EF%BC%88%EF%BC%97%EF%BC%89%E9%99%A3%E4%B8%AD%E6%97%A5%E8%AA%8C%E3%80%80%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E6%8C%BA%E9%80%B2%E7%AC%AC%E4%B8%89%E6%88%A6%E9%9A%8A%EF%BC%88%E4%B8%8A%EF%BC%89

上記に1/21鹿田恒男が病気送還、12/10八木喜一結核送還の記事があります。(4/20戦死とされる)   那覇から相当南に位置する津嘉山は4/20当時米軍の侵攻は考えられず陸軍病院で病死したのではないでしょうか。

餓死者なども戦死扱いとすれば゜、第3戦隊の戦死者は22名。戦闘前の病死を数に入れなければ戦死者は20名ということになるのでしょうか。

戦死者数

キー坊さん、こんにちは。
第1戦隊の死者は74名、第2戦隊は41名です。
>じっと戦争が終わるのを待ってたという事ではないでしょうか?
私もその通りだと思います。
県民大会については「県民大会」という大げさな会の呼び方でなく、こじんまりとした会だった可能性もあります。警察部と経済部だけの人員しかいなくても、明治節だから何かするだろうと思うからです。以後も気にしながら戦記を読みます。

>第3戦隊死者

赤松隊特幹隊の戦死者は104名の中から21名ですが、第一戦隊の特幹隊戦死者は確か70名くらいいたのではないでしょうか。第二戦隊の戦死者も、赤松隊よりはかなり多かったと思います。
その他基地隊の戦死者も、第三戦隊は他の二戦隊に比べて少ないです。

という事は、一概に非難すべきではないですが、赤松隊は米軍上陸以後は、さしたる戦闘に臨むことなく、じっと戦争が終わるのを待ってたという事ではないでしょうか?

ところで、奥茂治さんからのコメントに、「朝日新聞の沖縄判が非公開ながらありましたが、県民大会が開かれたことは掲載されていません、・・・」との回答がありますね。これが11.3付けの事だとすれば、その県民大会はなかった可能性が強いですね。

第3戦隊死者

こんにちは。話題が外れて申し訳ないのですが、2ヶ月前に第3戦隊の死者の一部の名前を書き込んだのですが、全21名の名前が「マルレの戦史(若潮会)72年」に掲載されていましたので報告します。うち広島陸軍病院での死亡が1名あるので沖縄では20名が戦死されたことになります。カッコは戦死場所で、カッコ無しは戦死場所が「渡嘉敷島」としか書かれていませんでした。

横山小一3/23(阿波連)、本岡年丸3/23(阿波連)、中島一郎3/26(慶伊瀬島北方海上)、佐藤博彦3/27、世古収3/27、鹿田恒雄4/10(広島陸軍病院)、木村又雄4/15、八木喜一4/20(本島津嘉山)、高取徹昌6/13、鈴木啓一郎6/17、久保彗観6/24、藤公正6/24、島谷勇夫6/24、桃坂昇6/30(阿波連)、原口常親7/20、森末正義7/20(阿波連)、犬塚富士雄8/7、石原清8/10、多里五郎8/11、高橋庸二8/14、橋田忠一8/27(座間味島病院)

これに対し、第1戦隊は戦死者の8割以上が3月26日となっています。第2戦隊は3月26日から28日にかけて半数近くが戦死されています。これは米軍上陸直後の斬り込みによる死者ですね。つまり米軍上陸直後に第3戦隊では次から次へと斬り込みに出なかったと言う事になります。これが戦果の上がらぬ全く無謀な斬り込みに出さず、部下の無駄死にを増やさなかった赤松に対して「名将」なる説を唱える輩の藁をも掴む根拠なのかもしれませんね。
もっとも赤松は屋嘉で兵士にボコられて骨折してますから恨みを持つ兵士が複数いたのでしょうけど。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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