2017-08

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狼魔人自ら暴露

 成りすまし沖縄人の狼魔人こと江崎孝がブログで、目取真俊氏のことを「沖縄版・言論封殺魔登場」として揶揄している。目取真氏が自身のブログで、「星雅彦との会見記」を書き、その中で、星氏が「大江・岩波裁判」の判決を、新聞の要旨を読んだだけで、詳しいものを読んでないことを知った。星氏はインターネットをやってなく、そこから詳細な判決文を入手できる事を初めて知ったという。目取真氏は判決全文を星氏に送る事を約束したと言う。

 自分の主宰した雑誌の特集で、裁判の判決を批判するくらいなら、その詳しい内容を知る必要性があるのではないか。新聞掲載の要旨だけでは不十分なはずである。目取真氏の苦言は妥当なものである。それを狼魔人・江崎孝は「沖縄版・言論封殺魔登場」と大袈裟なレッテル張りをして、目取真氏を貶している。この記事だけを読んでも狼魔人がまともな言論人でない事が判る。
 このブログ記事の中に、「記事内容に不自然な点が多いので、星氏に問い合わせたところ、・・・」という下りがある。江崎孝も星雅彦も浦添市在住だから、問い合わせすることは不自然ではない。だが、このサラリとした書き方に、私は不自然なものを感じる。いつも連絡を取り合っている仲なのではないか?
「星氏の発言が数箇所にわたて歪曲して報じられている。」とも書いている。これは星氏の言ったことを書いているのだろうが、まるで自分が言っている事のような書き方である。星氏に関して、どこか馴れ馴れしい書き方ではないか?目取真氏に語った事について、江崎は電話で、星老人を責めたのではないかという憶測も可能だ。

週刊「新潮」の櫻井よしこの二回目の記事が出たそうだが、前回の記事について、狼魔人は櫻井よしこが書いてないこと(昔のタイムス論考の改変事情)を、書いてあるものとしてブログに記述していた。その櫻井よしこは前回は、星雅彦には面会してないのに、沖縄で面会したと「嘘」記事を書いている。今回の櫻井記事は「星雅彦氏が興奮気味に電話をかけてきた」ことからの取材だという。櫻井は二度も星雅彦に会わずに彼からの取材として「週刊新潮」に記事を書いている。

それは「昭和19年11月3日、那覇市で県民決起大会」、『県民一丸となって戦おう。 元気な若者は戦おう。 老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧の憂いなからしめるために集団自決しよう』と決議したことを、櫻井よし子に告げて、「集団自決」は県知事以下沖縄県の幹部が決議したことであり、「集団自決」は軍の命令とは関係なかった事だと、星氏が言ったという。
こんな手垢の付いた話題を日本軍免罪論の根拠として、星氏が今更言うことなのだろうか?言ったとすれば、星氏の老化現象としか言いようがない。また、それを重大な発言と受け止める櫻井よしこの無知さ加減を露呈したことに成る。
あの沖縄戦直前の県民大会は、軍の意を先取りして迎合した県幹部の軍へのお追従だったのである。その県知事は沖縄の人間ではもちろんなく、その直後に沖縄から逃亡した某知事だったのだ。

ともかくも、櫻井よしこの記事に付いてはもちろん、「うらそえ文藝」の特集についても、狼魔人=江崎孝、及びその他の似非沖縄人グループが仕掛けたものである事が、今回のブログ記事からも裏付けられたという事だ。
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コメント

卑怯な狼魔人

想定外だったが、狼魔人は私にしゃべらせなかった。今後もすぐ削除するのだそうだ。
問答無用である。狼魔人は今後他人を言論封殺魔と罵倒する資格はない。

しかたがないので「ある神話の背景」の記述そのものから赤松隊が曽野綾子に年金のことを語っていることを引用しよう。
そうすれば赤松が年金のことを死ぬまで黙っていたということはありえないことが確認できる。

1970/3/27赤松隊が報道陣に「本当のことを言ったらたいへんなことになる。絶対に言わない」と語っているのは事実だろう。  しかし、本当に絶対に言わないことは存在の有無さえしゃべらず墓場まで持っていくのが本筋。
子供が「秘密を知っているんだ。お前には教えてやらない。」というようなことを思わせぶりに言った場合、半分は言いたい場合がある。その場合、ばらすことを予定し予告しているといえる。 

赤松隊の場合はどうか。読売版「ある神話の背景」の305頁から306頁には次のように記載されている。

まず、「もう一つの意見は現実的なものであった。それは、軍命令であったことにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が下りなかったのだ、という説である。」と誰から聞いたのかは伏せて読者に説の存在を知らせる。

曽野綾子が「ある神話の背景」で多用するこの手法(隠蔽(特に前提と主語・熟語)とそれに続く多様に解釈できる切り貼りされた曖昧な取材回答により誤解を誘導させること)は騙し絵に似たトリックである。

次に、古波藏村長が「部下の蓮下政市氏も隊長だった赤松への忠誠のつもりか、赤松と同じく『真相は別にある。これを言えば村民への影響が大きい』とあたかも自決は村民の間に責任があるかのように恐喝めいたことを放言して、今となって責任を転嫁しようとしている。・・・・こんな破廉恥な言葉を信じるような、世間の人は愚者でないことを彼らに説教したい」と記述する。

この話からは、古波藏は年金のことを気にとめる気配は感じられない。古波藏村長にとっては、赤松の頭に年金問題があること、そのことで村民が責められるとは、予想だに、していなかったようである。ここに事実の一つの鍵がある。
曽野が年金の話しを聞いた情報源が古波藏や金城牧師である可能性はほとんどないだろう。



そして、この記述の直後に「この点に関しては、もと赤松隊員の連下政市氏と谷本小次郎氏からの回答があった」としその内容を「軍が命令を出していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです。我々が口をつぐんでいた理由はたった一つそれだけです」との記述が続く。

曽野綾子は赤松隊に集団自決の取材をしていることは告げているはずだ。  そうすると本当に赤松が年金のことを死ぬまで話さないつもりなら、赤松隊員に「曾野氏に年金のことは語ってはいけない」というはずではないか。 ところが連下と谷本はあっさりと語っているのである。いや、赤松が絶対に漏らしてはならない秘密であったなら赤松は曽野綾子に「どうか村民のためにそのことだけは書かないでほしい」と哀願するのでなければならない。

そんなことはなさそうである。 やはり、子供のけんかと同じで世間に流す意志はあったと考えざるをえない。

これだけで、(赤松隊と曽野綾子の会合とそれによる数々の嘘は単なる補強材料に過ぎない)赤松隊が初めから、誰かに年金のことを伝え世の中に流布させる意志があったことは明白である。
「ある神話の背景」を騙し絵にまどわされず、普通に読めばそれ以外の解釈はできない。

狼魔人は、「ある神話の背景」を見ていないわけではないだろう。 事実を書かれるのが怖かったにすぎない。
もういいかげん、ごまかし・みせかけ・思い入れによる憶測は止めてほしいものである。

谷本は新城兵事主任に、自決した子供が勲章をもらった話を聞きたくなかったという。 それで、集団自決が清らかで軍命説は人間をおとしめるものとは矛盾している。 自決した人間を顕彰することをおとしめているのだから。 これで集団自決を美化しようなどというのは反発されて当然。

古波藏村長がその後沈黙するのは、年金のことではない。渡嘉敷の島民であれば、砲撃で死んだ者達も自決としたこと、勲章に傷がつくことを曽野綾子等に示唆され沈黙したと考えられる。

3,4日対応して下さい

先ほど、「狼魔人日記」に曽野綾子に「ある神話の背景」で援護金のことを書かせたのは赤松であり、証拠は会合写真である、曽野が赤松隊の一人一人個別に会ったという嘘と泛水時に干潮という嘘を認めるのか、認めないかという趣旨を書き込みました。

しかし、所用のため3,4日反論に対応できません。
どんな反論をするのか、削除するのか見届けてて自由に論議してください。

中井記者の不幸な取材2

さて、http://blog.zaq.ne.jp/osjes/2
の「第5 中井和久記者の陳述書と神戸新聞報道 」を読むと中井記者自身、座間味島住民を主体とした沖縄取材のほとんどが電話取材であったことがわかる。 最も重要な宮城初枝についても電話取材だったと語っている。 

梅沢は座間味で宮城初枝と会った時期を1982年6月だという。一方、「母の遺したもの」では、1980年12月だという。
沖縄はともかく梅沢が大阪空港を発つはずの6月と12月の気候は似ていないはずだが、どちらが正しいかは保留しておこう。中井記者が取材した時期、大阪では富村順一と梅沢の個人演説で多少梅沢の主張は知られていただろう。  しかし、座間味で騒ぎがおこったのは宮村行延が書いたとされる念書が新聞報道なので座間味島民に伝わった時期からのようで、その頃までは宮城初枝と梅沢の1945/3/25壕会談に関するやりとりはいわば私的な存在で島民に伝わっていなかった節がある。大きな理由は、神戸新聞が座間味島に配達されていないためであろう。

そのような状況の中で中井記者は郵便局長を含む島民に電話取材を行った。島民に宮城初枝と梅沢の私的交流の前知識があまりない状況で中井記者がどのような聞き取り調査を行ったのか。    アンケート調査では形式論理的には同じ質問であっても、問いに付加する部分の内容如何によって回答内容が随分変わってくるという。  また、あまり知られていない事実に関するアンケートでは回答の前にあらかじめ与えた前知識の内容によって回答内容が変わるという。  中には調査者が意図せずして誘導尋問に近い質問をしていることさえありうるのである。

中井記者は石川郵便局長にどのような前知識を与えた上でどのような質問をしたのか、そのことが問題となる。

http://osj.jugem.jp/?eid=30 によれば石川氏は次のように答えたという。
「「村役場の三役にはよく会っていたが、戦況が日増しに厳しく『敵が上陸したら、何とか安らかに死にたいね』とよく口にしていた。『一億玉砕』思想が浸透していたのだろうと思う。」」

石川氏が梅沢と宮城初枝の交流内容を知らないとして、中井記者は前知識を与えたか与えなかったのか。 このような場合、取材記者の考え方はさまざまで、前知識を与えず(予断を排し)村役場の幹部の動向を聞き出したほうが、相手に警戒されず正直に回答してもらえるので真実に迫ることができるとする立場と(ただし質問内容が求める回答に照らして曖昧であれば、回答が曖昧になることは避けられない)、前知識を与えた上で、たとえば「ところで、村幹部が自主的に自決するようなそぶりがありましたか」と質問するかいずれかになる。

 いずれが良い結果をもたらすかは個別具体的状況によるのであり、いちがいにどちらが正しいとは言えない。記者の経験と手腕が問われるところであろう。
今となっては、どちらであったのか、回答内容から判断するしかないのだろうが、回答は曖昧という他ない。  自主的に自決する、決意表明の表現としては弱すぎる。軍から強制されているが、せめて楽に死ぬことができたならという願望にも思える。

石川氏の回答内容からは、中井記者が梅沢と宮城初枝の交流内容を郵便局長に充分伝え、その上で中井記者が自決は強制かそれとも自主的だったのかYESかNOかと迫る質問内容だったようには思えないのだが。  私には中井記者は二者択一的質問をすべきだったがそうしていないように思える。

中井記者の不幸な取材1

座間味村役場の幹部が軍の足手まといにならぬ様死のうと話し合ったという話をA、沖縄知事以下町村の幹部らが集結して県民決起集会が開かれ、自決しようと決議した話をBとする。 その上でそれぞれの情報源を行、情報を得た時間を列にすると4象限出来る。

A初出が
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1002.html
の「敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。」部分。情報源は石川氏で情報を得た時間は不明。 初出は1986年。

B初出は正論2005/9月号として情報源・情報時間とも不明。

ところが、http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page022.html
によれば、Aに相当する事実が「10 当時の沖縄県民の意識について
座間味島駐屯の元第一戦隊長の原告梅澤は、昭和57年に同島を訪れた際、村の長老連が、集団自決は役場幹部の指導で決行されたこと、軍命令などなかったことは衆知の事実であること、幹部は一ヶ月前から自決の打ち合わせをしていたことなど、「交々」語るのを聞いたと記している(甲B1)。」と記載されている。
これをA2と名づける。甲B1とは原告が最初に提出した梅沢の陳述書であることを示している。 A2では、情報源が石川氏ではなく、長老連となり、情報を得た年が1982年となっている。

また、Bに相当する事実は2の「その背景には、昭和19年11月3日、県知事以下各町村の幹部らが那覇の波の上宮に結集して県民決起大会が開かれ、男子は最後の1人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです(そのような経過があったことは、当時郵便局長であった石川重徳氏より、戦後昭和62年にお聞きしました。)。」とあってBではなかった情報源を石川氏とし、1987年が情報を得た年とされる。

とりあえず、Aのほうから。訴訟での証拠としては、時期と出所が特定されている必要がある。石川重徳は提訴時、故人となっているようだが、そうであるのに(死人が語ったことであれば、嘘であっても隠し通せそうなのに)梅沢がAの情報源を石川から長老連に変更したのは何故か。 長老連では特定性が弱い。つまり、証拠力が弱い。訴訟は、戦争と同じ性格があり、好んで相手の有利に主張を変更することはありえない。 どうしようもない理由があってやむを得ず変更したと見るべきである。

http://osj.jugem.jp/?eid=30
上記14を引用する。
「14 石川重徳 当時の座間味郵便局長(Ⅱ)
(1) 『神戸新聞記事』(中井和久)【昭和60年7月】(甲B9)「村役場の三役はよく会っていたが、戦況が日増しに厳しく『敵が上陸したら、何とか安らかに死にたいね』とよく口にしていた。『一億玉砕』思想が浸透していたのだろうと思う。」(2) 小括   《梅澤命令説》を何ら語っていない。」

中井記者のこの記事をA3とする。 Aの初出が1986年。A3は1985年。そして情報源は石川重徳。

次にhttp://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/63/
引用しよう。
「4 石川郵便局長の証言(第5項)
陳述書のなかで、武一は、日本軍が座間味村の村幹部に集団自決を指示していたという話を座間味村の郵便局長だった石川から聞いたという。垣花は昭和42年に郵便局につとめ、局長の石川の話を聞く機会があったようだが、「村の幹部は、米軍が上陸したら軍の足手間といにならぬよう住民を玉砕させるよう、軍から命令されていた」と話していましたとし、昭和20年の2月ころ、「村の三役が石川さんたち要職者を村のある場所に秘かに集め、米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている、と打ち明けたということでした」という。この石川郵便局長の話は、武一の伝聞に過ぎないが、座間味島の住民の証言が記録された『沖縄県史第10巻』にも『座間味村史下巻』にも『母の遺したもの』にも『潮だまりの魚たち』にも一切登場しない。その内容の重大性に照らせば、不自然極まりない。座間味島にきた武一が「在職中何度も聞かされた」というのだから、石川郵便局長が当時、この話を秘匿していたわけでもない。武一自身も伝聞として語る機会はいくらでもあったにもかかわらず、その証言録のなかでは、触れられていない。
そもそも、昭和20年の2月頃は、島に米軍が上陸するようなことは日本軍においても全く想定されていなかったのである。梅澤隊、赤松隊は、沖縄本島に向かうと考えられていた米艦隊に夜陰に乗じて特攻ボートで体当たりする特攻隊であり、陸戦を戦う火器の準備もなかったのである。部隊が、この時期に、想定もされていない米軍上陸の事態に備え、住民の玉砕を命令したなどということはありえない。」

以上は原告が被告が提出した証言に反論して語っていることである。この時点で原告は、元Aの「(村の)指導者が死のうと話し合った。情報源は石川郵便局長」との反論はおくびにも出さない。
何故か。

ずばり言うと、A3の話に梅沢が尾びれをつけてAに変えた可能性が高い。そうすると時間的・論理的に説明がつく。 原告主任弁護士は、Aの元情報がA3であることを確認したため、Aを主張し続けると梅沢が石川氏から得た情報でないこと、元のA3の情報に尾びれをつけたことが分かる可能性を考えてAを引っ込め、A2を準備書面の中身にしたのではないか。

Aについては、まだ問題が残る。A3は中井記者のいかなる心証の元、石川氏にいかなる情報を示し、どのような質問を投げかけたのか。また、それは現地直接取材なのか、それとも電話取材なのかという問題である。後者は裁判資料からほぼ電話と特定できる。紙面が多くなったのでここまでとしたい。

沖縄新報

こんにちは。沖縄県立図書館の郷土資料室にある沖縄新報を見れば県民大会の記事が掲載されているかもしれません。沖縄は12月か1月に行く予定です。随分先の話ですが・・・
資料番号1001630597 請求番号K07/O52/

浦添市立図書館にも下記2冊があります。
(1)資料コード1101759254 請求記号 K/070/オ
(2)資料コード1100790284 請求記号 UK/070/オ

創作伝説

ni0615 さん、レスをどうも。

星雅彦は「沖縄県史」の戦記部分の製作に関わった知識人のはずで、この決起大会が意味を持つ歴史的出来事なら、自分がよく認識しているはずです。
櫻井よしこに教えを請う事柄ではないと思います。それとも、星はそんな事在ったのだろうかと疑問を持ち、櫻井に電話でその真偽を問うたのでしょうか。それを櫻井はまた利用して記事を書いたのか、という疑惑も生じます。

キー坊さん、レス有難うございます。
私も「即製伝説」だと90%思いますが、100%だという確証はありません。

~~~~
敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。
~~~~(梅澤「戦斗記録」)

この、村の指導者達の会合は、どうみても「第32軍 戦斗指針」(s20.2.15)の示達を受けて開催されたものと考えるのが順当です。「戦斗指針」の軍民示達の直前には、長勇参謀長の県民向け檄文「『一人十殺』これでゆけ」(沖縄新報s20.1.27)が発表されています。

在郷軍人会の「決起大会」はおそらく沖縄各地で開かれ、新聞紙面に頻繁に載っていた(各地のを報道するからでしょう)かもしれませんが、それと渡嘉敷村の指導者達の会合とを結び付けるのには無理があります。

もし内務省―県庁―市町村、という経路で「住民の玉砕」が下達されたというなら、それはれっきとした公文書に書き留められていたはずです。

たとえ公文書が戦乱の中で失われたとしても、市町村役人の記憶としてどこかに残っていて、「村史」「町史」に記載されているはずです。

蛇足ですが、県民行政組織がまるで70年学生の「全共闘」のようなものだった、と思い描いてしまうご都合主義ウヨクの皆さんの、珍妙な感覚についていけないで困っております。

「戦さ世の県庁(荒井紀雄)」には、11月3日に県庁が那覇に復帰したとしか書かれていません。10・10空襲後は泉県知事だけでなく多くの職員がどこかへ行ってしまい警察部と経済部しか機能していなかったそうです。

重要性に疑問

ni0615 さん。
コメントをどうも。

>梅澤氏の言動以外に、「1945・11・3の県民大会」と石川氏を結びつける根拠をお持ちですか?

いいえ、持ってません。「出席した事に違いない」というのは私の憶測に過ぎません。

その大会の存否を確かめる必要性があるとは思いますが、私は以前から、例え在ったとしても、それほどの重要性は持たないと考えていたからです。全民間翼賛的雰囲気の中で、開催された県民大会で、「全県民玉砕」が決議されたとしても、それを以って、慶良間で起きた「集団自決」の軍命説を否定できるものとは思えなかったからです。

阪神さんからの、泉知事は11.3に職場に戻ったという情報は大会の存在自体を疑わせますが、また、狼魔人の記述は、存在したとしても、その重要性は小さいものではないかという疑問を持たせます。
ともかく、梅澤の石川からの伝聞証言は、意味を持たないということで、法廷でも顧みられる事無かったわけですね。

それを、星雅彦はそんな大会が在ったなら重大だとして、櫻井よしこに「それは本当か?」と質問しているのですが、沖縄在住の老作家が、何で東京に居るタレントジャーナリストに訊かなければならないのか?と不思議に思わされるのです。

キー坊さん

>石川重徳郵便局長は1945・11・3の県民大会に出席した事に違いないでしょう。

あくまで私の類推ですが、それは違うでしょう。

「1945・11・3の県民大会」は石川さんの話ではなく誰かの後付けでしょう。その話は石川回想を引用した梅澤「戦闘記録」にないのですから。

当時、梅澤の活動は盛んで、自分に有利な証言を引き出そうと石川氏に対しても必死に喰らいついたでしょう。それにもかかわらず「1945・11・3の県民大会」はひとこともありません。

キー坊さんは、梅澤氏の言動以外に、「1945・11・3の県民大会」と石川氏を結びつける根拠をお持ちですか?

毎月数回の「決起大会」

和田さん。
「正論」2005年9月号、松本論考送付、有難うございます。これは提訴の直前に掲載されたものでしょうね。

石川重徳郵便局長は1945・11・3の県民大会に出席した事に違いないでしょう。そこには県の幹部・地方の指導者たちが居たと思います。県知事は全県民の玉砕を訓示したかもしれません。
だからといって、これが、沖縄県民は軍と関係なしに、自主的に自決したのだ、との証明になるはずはありません。

秦郁彦の「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」の中の、江崎孝(狼魔人)論考・「『沖縄タイムス』と山城安次郎の『神話』を追う」に、次の下りがあります。

>山城(安次郎)教頭は銃剣を構えた日本兵より「権力」を持っていた。当時の沖縄では、このように軍人より軍人らしい民間人は決して特異な例ではなかった。
 当時の沖縄では毎月数回の、「決起大会」が開催され、演壇では軍人より過激な民間人が檄を飛ばすことも珍しくなかった。<(p169)

 狼魔人は「決起大会」について詳しい記述してないのですが、戦時中、小規模なそれが頻繁に行われていたということです。11・3もそのようなものではなかったでしょうか。
 この時に、山城教頭のような軍国主義思想に染まっていた、民間人の教育者が軍に殉じての「玉砕」を訓令したとしても、それが軍とは関係無い事とは言えません。

軍人は誰がいたのか?

11月3日は八原高級参謀が台湾に向け小禄から飛び立った日です。大会なら来賓として軍人がいるはずですが誰が招かれたのでしょうね。

<石川氏談>伝聞の初出候補

再検索してみたら、
<当時郵便局長であった石川重徳氏談>の初出はもっと前であることが分かりました。

1986.3 沖縄史料編集所紀要11
に梅澤裕が寄稿した「手記『戦斗記録』」の記述は以下のとおり、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1002.html

~~~~~~(引用開始)
 比島戦は終熄した。今度は沖縄だろう。大勢は極めて不利、部下、村民の運命如何にと案じつつ訓練に励んだ。之を推進する基地隊は三百名足らず。その装傭は機関銃一、軽機関銃数挺、鄭弾筒二、後は小銃のみ、村民は約八百、老幼婦女子の他青壮年若干、之を指導する者は村長、助役、収入役等役場の幹部そして校長先生警察官等であった。敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。何という事だ。戦国の落城悲話の如き心情がケラマにあったのだ。
~~~~~~~~~(引用終了)

(1)これは1986.3発行誌に於ける梅澤氏自らの記述です。梅澤第1陳述書にある「当時郵便局長であった石川重徳氏より、戦後昭和62年にお聞きしました。」の前年にあたります(昭和62年は1987年)。

(2)昭和20年11月3日の「波上宮」での「県民大会」に関する石川氏からの伝聞はここには有りません。「波上宮」での「県民大会」の件は、「石川重徳氏談」の中に19年後に付加されたのです。

(3)1986年の梅澤著>
「敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。」
この記述部分は、
控訴審で被控訴人側から提出された乙105垣花武一陳述書では、>
「かねてより日本軍から住民の自決を命じられていたことが明らかである。当時座間味村の郵便局長であった石川重徳も、座間味村幹部から『米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている』と打ち明けられていた」
となっています。村の幹部が事前に自決の手筈を協議・確認していたことは、両伝聞で共通しています。

ところで、1986とか1987年とかは梅澤氏が富村順一氏らの支援を受けて最も活発に活動していた時期ではないかと思います。梅澤氏や富村氏の当時の著作に(現在の著作ではなく)「波上宮」関連記述があるかどうかも、確認点の一つでしょう。

それでも主任弁護人

いずれにしても、「正論」2005年9月号に松本藤一弁護士(地裁後半からは徳永弁護士が主になっているようにも感じられるが、前半主に活躍しているのは松本弁護士)の論文「沖縄戦・集団自決は「軍が命じた」のウソ」が掲載された時期は、梅沢陳述書の前ということで間違いない。

陳述書と比較すると、こんな記事がある。

「〈予ての結審の通り〉というのは、戦後になって梅沢隊長が当時の郵便局長石川氏から聞いたところでは、「敵上陸の一カ月位前に村の指導者が集まり、敵に鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様又食料保全の為死のうと話し合った」というものであった。サイパン島では玉砕した軍と運命をともにした多くの日本人が、断崖から投身して集団自決している。沖縄から多くの移住者を出したサイパン住民多数の集団自決は沖縄にとっても身近な問題として受けとめられていた。尚、昭和十九年十一月三日、那覇市の波の上宮で県民決起集会が開かれ、「県民一丸となって戦おう、老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧のうれいなからしめるために集団自決しよう」と決議された背景もあった。」

通常の読み方なら、サイパン関連の記事を挟んで(サイパンの話には明確な主語が無く強いて主語を挿入すれば〈沖縄の一般住民は〉ということになる)前半部分は梅沢が郵便局長から聞いた話し、後半は誰が語ったか不明で自明の事実のような記載形式である。

ところで、当初の梅沢陳述書には後半部分であり、しかも石川氏から聞いたという内容が漏れていたという。2ヶ月ほど経過して石川氏から聞いた話しが付け加えられたという。  事実なら、後半部分と比較にならない重みを持つはずの前半部分が陳述書にないことになる。そして、前半部分の一部が後半部分に付け加えられた。
  
いやしくも、松本弁護士は主任弁護士である。主任弁護士があらかじめ、予告の如く、雑誌に投稿していた内容が半分は内容が(一般的な風聞を記述したような記載が、梅沢という特定の人物が、これまた石川という特別の人物から聞いたように)変更され、(梅沢が聞いたとされ、従って当然陳述書に記載されるはずの)他の半分はオミットされてしまっている。 

これは、おかしい。前半部分の内容が正論2005年9月号より以前に、梅沢サイトから伝えられていたのかどうかは別問題として、このように重大な内容を世間に流しておきながら陳述書から抜け落とさせるということは、陳述書全体の信用性を疑わせるものである。

これも伝説?

こんにちは。沖縄戦支援連絡会ニュースでは梅澤氏は「昭和33年の春ごろ。『週刊朝日』『サンデー毎日』の報道で知った」と言ってます。
http://okinawasen.web5.jp/html/news/news08.html
同時に2誌が座間味の集団自決を報道したとしたら、これは偶然ではなく何かがあったから同時に2誌が報道したとしか考えられません。
あるいは梅澤氏が1誌しか報道していないのに勘違いしているのかもしれませんが。しかしながら昭和33年当時の記事がいまだに出てきていない事からして、本当に週刊誌で報道されたのかと疑いたくなりますね。お涙頂戴の為の作り話だったら困りますね。僕が探した時には見つからなかったし・・・
原告応援団は全力でこの週刊誌を探し出して欲しいですね。といってもロクに本も読まない連中だから、探し出すことさえしないでしょうけどw。

梅澤の誇張

阪神さん。また、ユニークな情報ありがとうございます。
 浦崎純の言うことが事実なら、梅澤は嘘をついたか、或いは石川証言をとんでもなく誇張し、自分に都合よく(1987年に)解釈したことになりますね。ni0615さんの言われる「即製伝説」、と言うに相応しいようです。

それにしても、星雅彦は沖縄在住の低劣言論人たちに、いいように操られているようです。

泉知事は11月3日に県庁復帰

こんにちは。元沖縄県庁職員だった浦崎純氏の「沖縄かく戦えり」では10・10空襲後、泉知事は普天間の権現堂の洞窟にこもって県民をほったらかしにしていたそうです。県庁としての機能が麻痺していることを憂慮した九州地方行政協議会会長の吉田茂長官が「10月31日までに県庁に復帰せよ」と指示したら、31日に復帰した旨の電報が届いたそうです。しかし、浦崎氏は知事が県庁に復帰したのは「事実はそれから3日おくれた11月3日であったらしい。」と書いています。「らしい」と書いているのは、浦崎氏はその時に九州に出張していたので、後で同僚に聞いたのでしょう。
泉知事が洞窟から出て県庁に復帰した当日にいきなり県民大会ですか?

「大会」在ったにしても

ni0615さん。
私は、星雅彦が電話で櫻井よしこに言った言葉を読み違えていました。
昭和19年11月3日の報道の根拠は何か?と星は櫻井に問うているのですね。私は、星がそれを根拠として、「軍命説否定」を櫻井に説いているのだと勘違いしてました。
星もこの県民大会の事を、今まで聞いた事なかったという事でしょうが、何で沖縄在住の研究家が自分で調べないで、櫻井よしこのようなタレント物書きに訊くのでしょうか?老化したとしかいえません。

私もこのS19.11.3県民集会は、「WILL」2008.8月号の梅澤手記で知っただけで、その後、原告応援団の誰かの論考で読んだ気がします。だから、特に論拠はありません。
これは「県民集会」といっても、10.10空襲後間もない頃であり、県民は各地での戦争協力に追われていた時期であり、民衆が大挙、決起集会に参加したはずはないと思います。

自分の命第一で、沖縄住民の命をなんとも思わない逃亡県知事が、各地の戦争指導者を集めて、県民は全てを軍に捧げよ、最後は自決せよ、と訓示したに過ぎない集会だったのではないでしょうか。
 その存否も当然問題とされなければなりませんが、在ったとしてもそれは県幹部お手盛りのもので、これが沖縄県民が自発的に自決した事の証明に成らないと思います。

星雅彦は、「決議があったなら、集団自決は軍命に関わりないことが明らかになります。」と櫻井に言ったそうですが、沖縄の研究家が、大和人の原告応援団に情報を請うているという何とも可笑しな構図です。

この際、ご忠告申しあげる

和田さん
もう少し注意深く読んでくださればありがたいです。

(1)「梅澤陳述書」の日付について

(和田さんwrote)
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/9/
>上記原告応援サイトでは、200/10/28となっています。サイトの日付が2005/10/31なので12/26は誤りでしょう。

『12/26』は第1審原告側最終弁論書面による日付ですから、間違いではありません。

おそらく原告側は、第1回口頭陳述10/28の法廷読み上げ原稿を10/31に支援サイトに載せ、文書としての「陳述書」は12/26になって裁判所に提出した(もしくは訂正して再提出した)ものと思われます。

和田さんが挙げた10月28日WEB版には、以下の但し書きはありません。

>>(そのような経過があったことは、当時郵便局長であった石川重徳氏より、戦後昭和62年にお聞きしました。)。

石川重徳氏の名前はあがっていないのです。

しかるに、原告準備書面(2)2006年3月24日
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page022.html
が引用した「陳述書」には石川重徳氏の名前が乗っています。

※なお、第1審での「梅澤陳述書」は2つあります。第1回口頭弁論に対応したものと、大江さんと同じ日の証人尋問に対応したものです。ここで問題になっているのは前者です。


(2)裁判所判断について

私が申しあげたのは、第1審も第2審も、この「11月3日県民大会」のことは判決では判断をしていないか
無視である、ということを申しあげました。

和田さんは、
>被告証言・判決にもこの人は被告証拠としても、判決にも引用があります。http://okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_syomen_04.html

「県民大会」のことと「垣花証言」の2つの切り分けがハッキリしない記述が気になります。私はすでに垣花武一陳述書について、被控訴人が弁論していることを例示いたしましたが、両判決文では、垣花武一陳述書の内容が言及されていないことも事実のようです。

以上、繰り返しになりますが述べさせていただきました。事実認識のことですから、放置して紛れることを恐れるからです。


(3)事実を確認しない論評合戦について

櫻井よしこが書いた
>「なお、同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。 発言の主は梅澤裕氏」。

これは、正論広告アーカイブによれば、原告主任弁護人の松本藤一氏の文章のようです。わたしは、その文章を確かめていませんが、梅澤裕の署名文ではなく、彼から松本への伝聞というものなのだと思われます。

一般的に、梅澤が云い櫻井が増幅することは、解釈以前の「事実」が間違っていることが多いのです。裁判を通じてその好い加減さは暴露されました。

したがって、「11月3日県民大会」が存在したかどうかのウラを取らずに、その目的内容を論評することはたいへん危険だと思っています。私自身は、「石川重徳氏(故人)から聞いた(しかも42年後に)」という、検証しようがない理由しか挙げられない段階では、「11月3日県民大会」自体を不存在として扱うべきだと思っています。

おそらく連中は、この件に関しても後だしジャンケンで、「都合の良い証人」が仕立て上げられるのを待っているのでしょう。

※(注)軍官民共生共死の一体化を具現化し(「報道宜伝防諜等二閑スル県民指導要綱」一九四四年十一月十八日)
この日付に留意してください。11月3日がそれより前だと言うのが『即製伝説』のミソかも知れません。県民の『決議』が大詔奉戴日(12月8日)では、32軍による「県民指導要綱」の徹底ということで、軍方針の否定材料ではなくなってしまうからです。

被告証言・判決にも

nio615さん指摘の通り、この人は被告証拠としても、判決にも引用があります。
http://okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_syomen_04.html

以下引用
「当時座間味村の郵便局長であった石川重徳も、座間味村幹部から「米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている」と打ち明けられていた(当審における新証言・乙105垣花武一陳述書)。」

これが事実とすれば、県民決起大会とやらが、軍お手盛りの大会としてあった可能性もあります。
学徒動員大会のような。

少し詳しく

http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/9/
上記原告応援サイトでは、200/10/28となっています。サイトの日付が2005/10/31なので12/26は誤りでしょう。

また狼魔人サイト
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/
では「沖縄戦で米軍の艦砲射撃が始まった後の昭和20年3月25日から29日にかけて、住民が自決、それは軍命だったとされてきた。しかし、それより4ヶ月以上前に県民大会で前述の決議をしていたとしたら、軍命説は覆されると星氏は言うのだ。
同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。 発言の主は梅澤裕氏。 」
ということなので、雑誌発表を先行させたようです。
マスコミ先行は、原告の照屋・宮平秀幸証言と同じいつものやり方。

石川さんからの「伝聞」

『即製伝説』の出所は、原告梅澤裕ご本人のようです。

梅澤は、2005平成17年12月26日付陳述書(甲B1・2頁)で次のように述べています。 

~~~~(引用開始)
その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。その背景には、昭和19年11月3日、県知事以下各町村の幹部らが那覇の波の上宮に結集して県民決起大会が開かれ、男子は最後の1人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです(そのような経過があったことは、当時郵便局長であった石川重徳氏より、戦後昭和62年にお聞きしました。)。
~~~~~~~(引用終了)
※昭和62年とは1987年です。

なお、一審二審の判決文では、この部分に対する評価言及はありません。(とりあわなかった)


関西の防衛を支える会機関紙「國の支え」32号http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1405.html#id_79a35a96では、梅澤はもっと詳しい脚色を加えています。

なお、石川重徳氏からの「伝聞」としては、次のような別の角度の証言もあります。

~~~~~(引用)
   すなわち、宮里盛秀助役(防衛隊長、兵事主任を兼任)は、妹の宮平春子や宮村トキ子に対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」(乙51宮平春子陳述書、乙98沖縄タイムス記事での宮村トキ子の証言)と述べており、かねてより日本軍から住民の自決を命じられていたことが明らかである。当時座間味村の郵便局長であった石川重徳も、座間味村幹部から「米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている」と打ち明けられていた(当審における新証言・乙105垣花武一陳述書)。
~~~~~~(引用おわり)
被控訴人準備書面(4)
2008年(平成20年)8月28日 より


なお私の推量ですが、
星氏の櫻井氏への電話発言の真意は、
「なぜ貴方がたは『県民大会』を立証しようと頑張らないのか?」 と、
『照屋証言』でふんばらなかった不可解と併せて、応援団への疑問を呈したのでしょう。


 

キー坊さん
>あの沖縄戦直前の県民大会は、軍の意を先取りして迎合した県幹部の軍へのお追従だったのである。その県知事は沖縄の人間ではもちろんなく、その直後に沖縄から逃亡した某知事だったのだ。

「県民大会」自体が、なんの実証性も無い虚妄なのではありませんか?
藤岡信勝氏なども、必死に記録を探したけど見つからなかった、といってます。

知事、村長、警察関係者etc・・・みんな集まったというなら、琉球新報が焼失したといっても、個人の日記など、記録が残っていないはずがないと思いますよ。この「県民大会」は、評判のわるい「泉知事」に責任を押し付けようと言う、即製伝説ではないかと思っています。

なにかもっともらしい「存在証明」が見つかったのでしょうか?


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Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
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