2017-07

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惠隆之介論考の点検2

 惠隆之介の論考「日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか」に、次のような下りがある。

 我々沖縄の戦後世代は米軍による沖縄占領から四十七年五月十五日までの二十七年間、米軍とこれに同調した『沖縄タイムス』など地元ジャーナリズムによって徹底した反日、侮日教育を受けて来た」。

 これもデタラメである。私は高校時代までを日本復帰前の沖縄で過ごしたのだが、日本復帰の7年前の1965年(s40)、佐藤栄作首相が沖縄を訪問した時の事をよく憶えている。学校の先生は、戦後わが祖国の元首が沖縄を訪問する事は初めての事だから、皆、日の丸の小旗を作って、沿道で振って歓迎の意を表すようにと、担任の先生から言われたのである。実際多くの生徒が日の丸を持って1号線(現58号線)で佐藤首相の乗る車を、長い間待って、小旗を振って歓迎したのだった。
 一部労組団体、学生などが首相の宿泊ホテルに押しかけて抗議デモしてしたが、学校(および教職員組合)は生徒に佐藤首相歓迎の指導をしたのである。だから、私は何で、祖国復帰を叶えてやろうとしている首相に抗議するのか当時よく分らなかったが、今となっては忸怩たる思いである。

 惠の言う「反日、侮日教育」という言は、沖縄のことを少しも知らない「ヤマトB層」へ向けての「大嘘」でしかない。その頃の沖縄の新聞は、米軍及び米兵の凶悪犯罪を追及する記事で溢れていたのである。また沖縄の新聞紙面には、ベトナム戦争への批判記事も溢れ、学校の先生方は多くはアメリカ軍とアメリカ兵への悪口を、生徒へ言い連ねていたものである。「反日、侮日教育」だったという言葉を使う事だけをもってしても、惠隆之介がまともな言論人でないことが判ろうというものである。

 沖縄の新聞が旧日本軍の悪行を打ち出し始めるのは、沖縄の「日本復帰」が現実感を帯びてきた1968年頃からではないかと思う。その頃から、大和のテレビ局も盛んに沖縄の映像を流すようになっていた。(その年4月、赤松嘉次氏は週刊誌に、責任否定のコメントを初めて発表した。11月には曽野綾子は『生贄の島』取材と称して、沖縄に乗り込んでいる。)
 良く知られている月刊「潮」の沖縄戦日本軍特集は1971年11月号である。そこには沖縄戦体験者100人による日本軍批判の談話が連ねられている。

 沖縄人にとって、いざ復帰が現実のものとなった時、過去の悲惨な記憶が甦って来て、『大和』は自分の祖国だろうかという疑念が、無意識のうちに徐々に湧いてきたのだとおもう。だから、1972・5.15の時、沖縄は喜びに沸き返る雰囲気ではなかった。日本はわが祖国だと小学生の頃から教育されてきた自分には、アメリカの支配から脱出できたからこれで良いのだとしか思わなかったのだが。

 惠隆之介の言う「二十七年間、地元ジャーナリズムによって徹底した反日、侮日教育を受けて来た」は、子供だましの与太ごとであるが、彼の言葉は大和人の「B層」の向けてのものだから、それなりの効果があれば彼にとってはそれで良いのである。
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Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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