2017-06

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曽野が慶良間に眼を向けた時期

 曽野綾子は「新沖縄文学」42号(1979)で、沖縄初めて訪れたのは1961年の初めであったと言っている。その後1967年の暮れに、「姫百合学徒隊」の教師・仲宗根政善氏の自宅で、沖縄女学生徒の生き残り三名の話を聞いて、沖縄戦中の女学生の悲劇の記録を行う事を決意したという、。1968年11月に、「週刊現代」の記者数人と一緒に沖縄に乗り込んで膨大な聞き取り調査を実行し、翌69年に週刊誌に「生贄の島」というドキュメンタリーを連載して、単行本も刊行している。その「生贄の島」取材の間に、慶良間の「集団自決」についての話を聞くようになったと言っている。
 だが、「ある神話の背景」(新版「集団自決の真実」)の本文冒頭の文章はこう書かれている。
 
「その小さな島のことを、私は初め、何も知らなかったし、また、知る必要もなかった。・・・その島のことを聞いたのは、今から、もう十数年前になる。・・・」

 
雑誌・「諸君!」に、「ある神話の背景」が連載開始されたのは1971年年の10月である。それから十数年前といえば1961年より後ではありえない。

 つまり、曽野は「生贄の島」取材中の1968年でなく、1961年初めて沖縄に行った時に、既に、慶良間の「集団自決」に関する赤松嘉次元隊長の存在に強い関心を持った、と容易に想像できる。冒頭の文章では、初めて慶良間の話を聞いたときは、自分の父母を殺さなければならないという夢まで見たと書いているくらいの関心を持ったのである。
「生贄の島」の取材に取り掛かるかなり前から、「集団自決」と赤松元隊長名誉回復の構想を胸内にもっていたと考えられる。そのために、仲宗根政善元教師(当時流大教授)など沖縄の有名関係者に接触したものと思われる。

また、曽野は1970年3月の赤松渡嘉敷訪問騒動の報道をみて、「世の中に、このように絵に描いたような悪人が存在するのなら一度は逢って見たい」という無責任な興味を持ったからとか、同じ年に「大江健三郎が赤松隊長を『悪の巨魁』と評する」『沖縄ノート』の一節を読んで疑問を感じた事も、自分が渡嘉敷島「集団自決」を調査する切っ掛けになったから、と言っているが、それは彼女一流のオトボケであり、沖縄訪れた最初の時期から、「日本軍の名誉回復」作業の企図を腹の中に持っていたに違いないのである。

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コメント

1969.4~7 曽野『生贄の島』「週刊現代」連載 
ですね。ですから、それになぞらえて「島民の死」を「いけにえ」としたのでしょうか?

赤松弔辞は、1970版「陣中日誌」に付録収録されています。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1434.html
「 偲ぶに皆様方の尊きいけにえも決して無でなく平和な日本建設の礎として史上高く讃えらるべく皆様の御霊を以て冥すべきでありましょう。」

「犠牲」の言い換えのようにも思えます。

いけにえ

阪神さん。
新たな着眼点を示してくださって、有難うございます。

この70年3月29日の沖縄タイムスの連下政市の弔辞代読、初めて読みました。「いけにえ」という語に、私も強い違和感を覚えます。よく連下(赤松)はこんな言葉を使ったものだと思います。
この時点では、「生贄の島」は発刊されていたのであり、曽野と赤松(隊)は気脈を通じていたのは確かだと、私は推測します。

だが、「ある神話の背景」では、曽野は連下の代読部分の引用に、「いけにえ」を出してません。曽野は、まだ赤松隊とは気脈を通じている事はバレたくないから、それを削ったのでしょう。
邪推ではないと思います。確証を摑むことは難しいでしょうが、曽野綾子を状況証拠で徐々に追い詰めて行けることは、私らなりに十分できると思います。


>私は20年以上前は長崎に住んでいたので…

そうですか。小生も4年間を長崎で過ごしたのです。が、無気力学生の故、カトリックも、原爆も(沖縄戦さえも)勉強することなく、無為に送ってしまいました。

慰霊祭での弔辞

こんにちは。70年3月29日の沖縄タイムスの記事に
元海上挺身隊の小隊長だった連下政市氏は、参列できなかった赤松大尉の代わりとして「み国の必勝を祈りながら自らの生命を絶ち、多くの犠牲者を出していた事は遺憾である。しかし、この尊いいけにえは決して無駄ではなく、平和の日本のいしずえとして史上高くたたえられることでしょう」と弔辞を代読した。
とあります。私はこの「いけにえ」という表現にカトリック臭さを感じました。というのは、永井隆博士の著書「長崎の鐘」で、原爆で亡くなった浦上信者を祭壇に捧げられたいけにえに例えた事を思い出したからです。私は20年以上前は長崎に住んでいたので永井博士の著書は全て読んでいました。あの時の強烈な違和感を連下氏の代読にも感じたのです。代読だから連下氏の考えた弔辞だったのか、或いは赤松の書いた弔辞を読んだだけなのかは不明ですが、死者をいけにえと表現するのは一般的じゃないと思います。戦跡の碑文は戦死者を英霊、御霊などと表記するのが一般的であり、いけにえなどと表記された碑文は見た事がありません。つまり、戦前の教育を受けた人なら英霊とか尊い犠牲とか言うのが通例であり、いけにえなどという発想は普通しないだろうと思うのです。もしかしたら曽野に吹き込まれたのかな、と邪推してしまったのです。
しかし憶測だけでは曽野を追い込めないので、なんとかして確かな証拠を見つけたいものですね。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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