2017-08

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特集は「転落」の露呈

記者会見で二人は次の発言をしている。

上原 「赤松・梅澤両元隊長を(不名誉の)窮地から救ってやりたいというのが、これからの自分の人生の大切な仕事である。」

 「沖縄戦全体の様相を、「慶良間の集団自決」のように、単に隊長の自決命令という事で決着したのでは、沖縄戦の真相から遠くなってしまう。」

私は最初、星雅彦が上原正稔を誘って、「うらそえ文藝」に「集団自決」をめぐっての、沖縄の新聞など、沖縄言論界を非難する特集を組んだ理由を「善意に」解釈していた。星雅彦が39年前、沖縄タイムスに書いた「25年前は昨日の出来事」は、全く共感できる内容であった。「集団自決」への軍隊の責任追及を徹底する為には、共同体内部の戦争責任を追及する必要があるという、至極正当な意見であった。これはおそらく、その数年前の大和人ルポライター・石田郁夫の「沖縄の断層」を読んで影響を受けたと思われる。星も、「自決命令」は赤松隊長から出されてないのではないか、という微かな疑念を持ったのだろう。
 それでも、星雅彦の「集団自決」に関わる論考は「集団自決を追って」など、概ね軍部の責任を追及する論調で書かれていたはずである。だが、73年に「ある神話の背景」が出現したとき、直後に、沖縄タイムスに「曽野綾子・『ある神話の背景』をめぐって」という、長文の批判論文を載せて以降、36年間ぷっつりと、あらゆる政治性を含む論考を発表しなくなっていた。この論文には、『生贄の島』・『切りとられた時間』と書いて来て、最後に『ある神話の背景』を放った曽野綾子の策略と気迫に圧倒されて、たじろいでいる雰囲気が感じられる。

これを最後にずっと40年近く沈黙していた星雅彦なのだが、今回、自分が主宰する「うらそえ文藝」で「集団自決特集」を上原正稔と一緒に組むという情報を聞いた時の、私の予想は次の通りである。
 星は老年に達した今、人生最後の一仕事として、「集団自決」への自分の偽らざる考えを吐露して沖縄マスコミおよび沖縄戦研究者に対し、一方的な軍隊批判と、内部の責任追及の甘さ、そして「鉄の暴風」の粗雑な記述への反省を促すという、ささやかな意図で特集をしたと思っていた。

 だが、それは私の甘い期待でしかなかったようだ。
上原正稔は金城重明氏の名を挙げて、「彼は自分の家族や他の住民をたくさん殺して多額の援護金を貰っている。これは大変な事だ」と、金城氏を殺人鬼呼ばわりするような発言をしている。
これは徳永弁護士が出張法廷で、金城氏が家族や他の人を殺した事について、殺人鬼を責めるような尋問をした事や、鴨野守、秦郁彦が雑誌で、金城氏は自分の大量殺人を赤松隊長におっかぶせる為に、軍命説を唱えているのだとした「妄説」に追随する言い方である。

星雅彦も、「『集団自決』で家族を殺して生き残った人で、援護金の受け取りを断った人が居り、これが正常ではないか」として、援護金を受け取ることは悪であり、慶良間の住民は援護金の為に両隊長の「自決命令」をでっち上げた、とするかのような発言を会見で行っている。
両者とも、全面的に両隊長の戦時責任を免罪する発言であり、大江・岩波裁判における原告支持勢力に全面追従する今回の「うらそえ文芸」特集であり、記者会見である。

星は39年前、「25年前は昨日の出来事」でこう言った。
「告発を徹底するためには、軍国主義に忠誠だった村の指導者たち(思想を先取りして、村民を足手まといに扱ったふしがある)にも向けてしかるべきであり、一人一人あの時点でどうだったか、真実をさらす勇気が問われるべきだと思う。」
その、「告発の徹底」はどこへ行ったのだろうか?

今回の「特集」と「記者会見」は、彼らが権力の誘惑に負けて、「転んだ」事を自ら暴露した以外の何ものでもなく、沖縄人として取り返しのつかない暴挙を為したと言えよう。
沖縄のマスコミ、言論界の主流は彼らの泥仕合に引きずり込まれるわけにも行かず、これを無視する以外に方法は無いだろう。匿名ブログ人の私は無視したくなかったので非難の言葉を浴びせてやったが、もうこれ以上はやる気がしない。
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コメント

再び「殉国日記」について

「殉国日記」内の主要な文献をファイルしましたので御報告します。
■沖縄作戦 殉国日記 index
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2223.html

早々と「気がついたことを纏め」た方がおられますが、その“飛ばし”記事の中に事実誤認や誤解を招くやもしれぬ独断がありますので、以下に事実を指摘しておきます。

オフトピについての長文の討論となりますので、ブログ主さんへのご迷惑を避けるため、弊ブログへのリンクと致しました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2270.html
なお再反論は、上記頁にコメント欄を設置しましたので、皆様、和田さんに置かれましても、そちらにてお願いします。

敬具

殉国日記雑感

「殉国日記」で気づいたことを纏めておく。      5頁赤松版「戦斗の概要」の一部だが24:00船舶団長が丸木船で阿嘉島から来島は時間を2時間以上遅くしている。 沖縄本島から渡嘉敷まで大町大佐と行動を共にした大町の側近、三池と石田四郎、とりわけ後者は赤松と米軍投降まで行動を共にしたはずで、本来丸木船にて来島というような(特攻艇2隻で来島、阿嘉島の乗務員の名までわかっている)誤った情報が赤松に伝わるはずがない。  赤松が早い時期から自分の不手際を隠すために策動し、偽りの情報を発信し続けたことがわかる。
35頁「赤松戦場日記」に「船舶団長基地隊長以下15名座間味より○船ニテ来島」とある。36頁にも座間味島より渡嘉敷島本部に来たり、とある。 座間味島のはずがなく、鈴木元基地隊長は、途中下船で21日来島の筈だが意図的な嘘か。そもそも特攻艇2隻に操縦者2名を入れ17名で来島したはずはなく、沖縄本島を出発した大町大佐一行15人のうち何人かは座間味・阿嘉島に留められたと考えるべきである。
36頁皆本の印鑑からしばらく皆本の書信らしい。37頁「戦闘準備状況を視察中たりし軍船舶隊長大町大佐24日我が渡嘉敷島対岸阿嘉島に在りて状況を判断せられ海上挺進第3戦隊は直ちに沖縄本島に転進同地に於て海上攻撃に参加すべきを決心し25日夜日没を待って○船より敵艦船群突破我が渡嘉敷島に到着直ちに転進命令を下達す。然れども時刻既に22時を経過し・・・・」 以下読み取りにくい文章が続く。
大町大佐は24日第三戦隊は沖縄に転進すべき事を決心していたという。状況から考えて当然すぎる決心といえる。当然、渡嘉敷に無線で出撃準備を伝えたはずだ。 この時点で壕の中で爆雷装着作業に着手すべきである。 ここでの皆本書信は後の皆本の説明とも、赤松の記載とも異なる。 ここにも嘘があり○は読みがたいが櫂か、櫨の可能性がある。 特攻艇ではないとの記述である。当初から、よほど大町大佐がクリ船で来島したことにしておきたかったらしい。
44頁なも皆本の直話として、「大町船団長は当時阿嘉島より座間味島に移って居たが渡嘉敷における敵の攻撃と更に慶良間周辺にある敵艦船の状況より判断して一刻も猶予する事を得ず。直ちに全部隊を本当に移し一挙に敵を破るべき計画を決心せられ・・・・」とある。 45頁には、「3月23日第十一船舶団長大町大佐は第五基地隊長鈴木少佐以下副官等を従え那覇より慶良間に於ける作戦の状況視察に来島せられた。一(連叉は般か)の観測は「敵の侵攻は早くて3月下旬恐らく4月初旬になるだろう」と云ったものであった。・・・・」
何の事はない。大町大佐は戦況を正確に把握し、当然取るべき策を考えていた。甲号戦備が発動された日は確か24日。この時点で赤松は昼夜兼行で船艇に爆雷を装着すべきであったが怠った。 この不始末を隠すためにさまざまの嘘を考案し、集団自決にはほとんど興味を示さなかったと思われる。 曽野綾子が集団自決に対する赤松の責任を消そうとする思惑に赤松は軍事上の不始末を撹乱し隠すという目的で乗ったものと考えられる。
47頁に大町大佐が漁船での本島帰還を検討したと記載があるが、米軍上陸前夜に漁船が無傷で存在したとは信じがたい。 船艇を隠すことで真相を隠すことを企んだ一連の赤松の執念吐露とみる。

ありがとうございました

キー坊さん
上原正稔「あとがき」の転載有難うございました。

> 原作者グレン・シアレスさんは自分の孫ために戦争の物語を残した。一年半前、おきなわプラス50市民の会のデーブ・ダーベンポートさんを通じて、この原稿と出会った時、筆者は感動でたたきのめされた。自分を抑えて書くことが出来る人間がいることに驚いた。どこまでもハードボイルドでありながら感動を与える作品があるのだ。さらに驚いたのは、これは公表されるために書かれたのではない、ということだ。<

私には、再検証性を封印するための文章とも読めました。と同時に、
(1)「孫のために」ということで、そうとう後年に書かれた、
(2)「公開を前提にしていない私家版」ということで、執筆時に地名(※)や日付などの正確性は担保されてない、
(3)「ハードボイルド」という表現から、「小説」である
ことがわかりました。

連載3回分だけを読んでも、地名が「阿波連」しか出てこないことからも、「原作者」シアレス氏の記憶が限られたものであることが分かります。あるいは、米軍兵士は「暗号地点名」を使い、村落名としては「阿波連」だけを教えられていたのかもしれません。だとすれば、ある種の合点はいきます。

> 「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。<
と上原は書いていますが、原文を見ずになんともいえませんが、「山を下りてthe villageを確保せよ」だったのを、上原が阿波連と訳した可能性も排除できません。

>川底のくぼみに大勢の住民が群がっている沢に降りると多くの人が殺しあっていた<
との表現は、留利加波東部の高地から第1玉砕場に降りて住民を介助保護した米軍の行動と合致するように思えます。

とはいえ「沖縄戦 ショウダウン」が資料足り得るには、入り口として、再検証性が保障されなくてはなりません。まず琉球新報に問い合わせるのが先決なのかもしれません。担当者は、原文を確認したか?など。


※蛇足ですが、転載の<2>に誤植 「おれたちは数日震嘉敷島に残り」ありました。

ショウダウンの最終部分

ni0615さん。ご指摘ありがとうございます。

>この小説はいつ書かれたのでしょうか? いつ書かれたものであるかによって、資料として信憑性は左右されます。検証が必要です。

仰るとおりで、私の「沖縄戦ショウダウン」の転載は未完結でした。それを忘れていました。上原正稔は最後にいきさつを書いています。とりあえず、その部分だけをHPにアップしておきました。

http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown4.html

終戦後かなり年月が経ってから、グレン・シアレス氏によって未公表の手記が書かれ、新報に発表される1996.6の一年半前に上原氏はそれを入手し、自分の注釈を加えて「沖縄戦ショウダウン」とタイトルを付けて公開したものです。

前にも言いましたが、この手記に「集団自決」の軍命説を否定できる根拠は無いと思います。また、阿波連ウフガーでの集団自決を、自ら実証する努力を上原氏はやってないようです。
この発表以後も、新報が彼を起用し続けた事は、極めて安易だったと言えましょう。

キー坊さん
有難うございます

「日米最後の戦闘」では、どのような記述があるのでしょうかね。「ショーダウン」も、作戦行動記録と照らし合わせなくてはならないでしょう。

>「阿波連方面の集団自決」を記述しているのは「ショウダウン」だけだと思います。

この小説はいつ書かれたのでしょうか? いつ書かれたものであるかによって、資料として信憑性は左右されます。検証が必要です。上原が引用している「第三戦隊陣中日誌」が1970年に書かれた「回想録」に過ぎないことと同じです。 

「沖縄戦 ショーダウン」は、キー坊さんがご苦労して琉球新報から転載なさっていますが、上原はそうしたデータを載せていないようにお見受けしました。いかがでしょうか? 原題名とか所収誌名とかも。

もし載せてないとしたらそれは、上原のミスであると同時に、琉球新報編集部のジャーナリズムとしての失態(再検証可能性を遮断したまま情報を広範囲に流布してしまう罪)だと思います。担当編集者が、「上原さん、これは何時書かれたものですか?」「上原さん、原題名は? 何処へ行けば読むことが出来ますか?」という質問さえすれば避けられたであろう、大ポカです。

上原正稔という人物を、「米軍資料に明るい」ということから便利屋に使って、積年のうちに編集者としての責務を疎かにしてきたのでしょうか? これでは、彼が「米軍資料」を歴史改竄のために恣意的に使っても、チェックのしようが無く、読者はその情報操作のままになってしまいます。

苦言を呈しますと、沖縄の言論界やジャーナリズムの大甘なとことが、随所に目に付きます。「何時、何処で、誰が・・・・」にこだわらない鷹揚なところが、逆に歴史改竄者に付け込まれることになってやしないか、自己検証してほしいなと思ってます。

そもそも、「第三戦隊陣中日誌」については、米軍と対峙していたときに書かれた「陣中日誌」ではなく、1970年に書かれた「戦闘回想記」に過ぎないことは、大田=曽野誌上論争なとで明らかになり、「ショーダウン」連載時にはすでに既知の事実になっていたことです。ですから、上原がどのように書こうとも、琉球新報編集者はきちんと編集者の責務として注釈をつけなくてはならなかったのです。

~~~~~

キー坊さんには恐縮ですが、こうした当時の琉球新報社上原番編集者のポカを補って、「第三戦隊 陣中日誌」についての注釈を、転載ページには付記してくださることをお願いします。

WEB検索で、「沖縄戦ショーダウン」を探し当てた人は、なんの予備知識もない人が殆どでしょう。そうした人がキー坊さんの転載を読めば、残念ながら、キー坊さんの御意図とは逆に、上原正稔の主張をナルホドとうなづいて帰ることでしょう。

阿波連方面の記録

>それから、ショーダウン以外にアメリカ軍の軍記はないのですか?

私は全部を読んでないのですが、上原正稔はそれ以外に「沖縄戦トップシークレット」とか米軍記録を基にした数編のドキュメンタリーを発表していますが、「阿波連方面の集団自決」を記述しているのは「ショウダウン」だけだと思います。もし、他の記録にも書いてあれば、上原は得意になって披露するでしょうから。

謹んで訂正

キー坊さん
>田中徳祐氏の記述した「米軍残虐行為」のような情報はないのですね。

(2)外報記事の中にそういうものがあれば、山室建徳氏が指摘していると思います

>ところで、「三月二十九日曇雨「・・・(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)・・・」の記載ですが、陣中日誌・三月二十九日の2行目に書かれているようですが…。

仰るとおりです。私の間違いです。訂正しておきます。

>だが私は、それ(阿波連方面での自決)はシアレス氏の記憶違いと、陣中日誌の、阿波連部落の人が百数十名(北山で)自決したの意味で記載した事が、偶然に一致したものと思います。

「方面」という言葉は、場所に限ったことではなく「何々の方」という時にも使いましたよね。例えば「政界方面では」とか。また、シアレス氏の回想録はいつ纏めたものか、それも重要な判断要素です。

それから、ショーダウン以外にアメリカ軍の軍記はないのですか?

阿波連方面の自訣

ni0615さん。
サイパンの玉砕情報ありがとうございます。貴資料庫の充実ぶりが分ります。

田中徳祐氏の記述した「米軍残虐行為」のような情報はないのですね。
ベトナム戦争におけるソンミ村事件、或いは日本軍の各戦地における住民虐殺行為のように、状況によっては、軍隊は大量虐殺をするものと思いますが、田中氏が1983年になって、著書でこの様な証言をするという事に疑問がありました。

ところで、「三月二十九日曇雨「・・・(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)・・・」の記載ですが、陣中日誌・三月二十九日の2行目に書かれているようですが…。
 上原正稔は、この文言が元米兵グレン・シアレス氏(ショウダウンの原作者)の記述と一致するから、陣中日誌は信頼できるとして、軍命説否定の根拠にしています。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown1.html

だが私は、それ(阿波連方面での自決)はシアレス氏の記憶違いと、陣中日誌の、阿波連部落の人が百数十名(北山で)自決したの意味で記載した事が、偶然に一致したものと思います。

サイパンの玉砕情報

キー坊さん
田中徳祐著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦」(s58)を38年前の沖縄県民が読むはずはありません(笑)。それにこれは、場面設定が荒唐無稽でつくり話でしょう。

1945年3月までに沖縄県民の耳に入った「サイパン」の話は次の3つです。

(1)大本営情報部発表をソースとするもの

「サイパン島在留邦人は六月十五日、敵上陸するや、老若男女を問わず皇軍に協力一体となって挺身し、銃を執り得る者は悉く銃を執って、皇軍将兵と共に敵軍に突入して、壮烈な戦死を遂げ、また銃を執り得ざる者は概ね自決して護国の華と散ったものと信ずる。」
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/415673/

この一文を含む大本営発表(『週報』、昭和19年7月19日号)、加えてそれ以後の発表などを新聞社が記事にしたものが、「沖縄新報」などにも載ったもの。すなわち大本営ソースの情報。

ただしこれは、「司令部玉砕」の前日でサイパン現地との交信は途絶えているのですから、住民玉砕は事実として確認できるわけがなく、期待100%の「信ずる」と記されているのです。

「信ずる」としたその期待感が、そのように住民を「玉砕に向けて精神指導」してきたからなのか、これからの戦争指導方針をここで新たに謳いあげたのか、分析は必要です。

※)以下に紹介した山室建帝京大学講師は、このことについて、「「全員」と「概ね」の違いはあるが、軍民が一体となって闘い、共に戦死していったと報じられている。」と書いています。しかし大本営情報部の文章が、起きたことを見てその後で報じたものでないことは日時の後先から自明です。これを「希望的憶測」ではなくて「報道」だと断じる山室氏は、「住民玉砕」を当然の帰結だったと「信じて」疑いがないのでしょうか?

(2)外報記事

今年の初めに知ったのですが、バンザイ岬などの「住民自決」の様子は、19年8月の新聞各紙で紹介されたようです。タイム誌の記事をストックホルム(中立国首都)から日本人特派員が翻案して送ったものです。タイム誌の記事も翻案記事も、原文全文を知る必要はありそうです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1032.html#id_f9bd2491
藤田嗣治の玉砕画もこれを題材にしたと考えられます。

(3)軍や兵士の指導

こうした情報に尾ひれをつけて、身近に居る部隊や同宿の兵士から、島民は「教育」を受けたでしょう。
中国戦経験者から「捕虜になると酷い目にあうぞ」と散々聞かされたことは、私が見たNKHの番組にも、サイパン生存者の証言として採録されていました。

また、中国戦経験の同宿兵士から、「捕虜になると酷い目にあうぞ」と散々聞かされたことは、かの「宮平秀幸」氏も東京の大学生に語っています。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1466.html


書かれてないのですか・・・・(追記訂正」あり)

阪神さん
キー坊さん

お返事有り難うございます。

ところで
>第3戦隊陣中日誌で「三月二十九日曇雨「・・・(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)・・・」と書かれていることです

とのことですが、防衛研究所資料室に提出した第3戦隊陣中日誌には書かれていないようですが??

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1436.html#id_4ec07097

「書かれている」と言っているのは誰ですか?
阪神さんは、誰の言をお聞きになりましたか?

*****(追記)*******

上記は私の全くの思い違いでした。謹んで訂正いたします。(ni0615)

防衛研究所資料室に提出した第3戦隊陣中日誌には次のようにかかれていました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1436.html#id_4ec07097

========
三月二十九日曇雨
 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自決したるもの約二百名 (阿波連方面に於いても百数十名自決、後判明) 首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頚部を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽くし得ない情景であった。
(以下 略)
========

なお、これは1970年に編纂した「陣中日誌もどき」です。「後判明」は、当日から1970年までの間があります。この編集に用いた「陣中日誌原本」辻政弘中尉記には、住民の自決も玉砕も、いまのところ記述が見当りません。

別記録の不存在

盆の京太郎氏とは議論しても仕様が無いので、お引取り願いました。

上原正稔は「沖縄戦ショウダウン」で、一米兵の従軍記のある部分が「陣中日誌(谷本版)」の記載と一致するから、「陣中日誌」は信頼できると短絡した結論を出してます。が、他にそれを裏付ける記録や証言が無ければ、信憑性は薄いものです。

>阿波連に数百の(米軍の)死体
これも他に記録は無いようなので、信憑性は薄いでしょうね。

ところで、鴨野守や狼魔人などの低劣右翼が好んで題材にする田中徳祐著「我ら降伏せず サイパン玉砕戦」(s58)の、米軍による民間人大虐殺の証言(女は皆全裸にしてトラックで運び去り、乳幼児を股裂きにして、老人・子供と供に火の中に投げ込み焼き殺した)は、有り得ない話ではないと思いますが、沖縄戦における民間人捕虜の扱い方とは、かけ離れた感じがします。

サイパンにおける米軍残逆行為について他に記録はあるのか、或いは他の戦地において同様な米軍の民間人大量虐殺行為の証言や記録があるのかを知りたいところです。どなたか情報あればお知らせください。

ショーダウン、陣中日誌

ni0615さん、こんにちは。上原正稔氏の 「沖縄ショーダウン」で、阿波連ウフガーで集団自決があったとの記述と、第3戦隊陣中日誌で「三月二十九日曇雨「・・・(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)・・・」と書かれていることです。

阪神さん

こんばんわ
>この夥しい死体の群れの事が、集団自決があったと誤解された可能性もあるのかもしれませんね

誰がどこでどう誤解したのでしたっけ

阿波連に数百の死体

「第2次世界大戦9(太平出版社)」の中で、著者の代田昇氏は3月26日の夕方、特攻機が巡洋艦に体当たりし、空母が2日に渡って火を噴いているのを見たそうです。そのために「阿波連では数百人のアメリカ軍の死体が流れ着いた」と書いてあります。ただ、代田氏は阿嘉島にいた特幹隊員だったので阿波連の死体を肉眼では見れるわけがありません。望遠鏡で5キロ先の死体の群れが確認出来たのかもしれませんが。
この夥しい死体の群れの事が、集団自決があったと誤解された可能性もあるのかもしれませんね。そうは言ってもかなり低い可能性ですが、気になったので書いておきます。

留利加波と爆雷の諸記述

「切りとられた時間」は、「ある神話の背景」の習作である。 言ってみれば、いかに謀略文書をそれらしく記述するか演習の意味もあった。 古事記と日本書紀で記述の違いから神話の変遷を探る研究がある。  
「切りとられた時間」で出撃時の記述は「しかもその夜は、八幡大菩薩も護り給う真の闇夜だった。木っ端舟を下ろすのに5時間近くかかったのは手さぐりの作業だということと、闇夜は大潮でしかも干潮の時間にさしかかっていたので、海がリーフのはるか彼方まで引いていたからだという。 舟を水に泛べてエンジン、百キロの爆雷、信管をつけ・・・・という手順の途中に・・・・」

以上のうち、闇夜と干潮云々は事実ではない。 「切りとられた時間」の記述のうち「ある神話の背景」に闇夜は採用されず、干潮の記述は踏襲された。 一部踏襲で「切りとられた時間」はフィクションを含めているという曽野綾子のジェスチャーであろう。 壕内又は砂上での爆雷装着ではなく、泛水後の爆雷装着手順の記述は谷本版陣中日誌と同じである。  この手順について「ある神話の背景」は「何しろ自重一噸、それに百二十キロの爆雷二個を載せてある。人手が減れば、てきめんに秘匿壕から海面まで艇を引き下ろす力は失われる。」と記載されている。
 何時どこで爆雷を装着したかの記載はないものの、泛水前に爆雷装着があったような記載に変更されている。  これは泛水がむつかしかったとみせかけ、あらかじめ爆雷装着をしていたかのようにみせかけたさりげない嘘。

また、 「切りとられた時間」には次のような記述がある。「艇隊はそういう蚤のような船艇を百三十八杯も持ってきたのだ。嘘には三と八がつくというが、嘘ではなかった。百三十八ぱいの船には、それに見合うだけの数の秘匿壕がいる。掘りかけのしころで遅いと言われ、波が高いから場所を移すと言われて、基地隊はむくれたのである。「気紛れのおかげで一ヶ月の苦労も水の泡」であった。」

曽野綾子は嘘の予告をして楽しんでいるようである。 戦隊は138隻ではなく100隻。   留利加波について「殉国日記」46頁には「十一月十日・・・・第二中隊は留利加波に・・・・駐在して居った」との記述がある。 「ある神話の背景」では1944/10初旬、赤松が参謀に留利加波基地移転を進言しているが、それから一月経過後に留利加波基地は移転ではなく放棄されたということになるのだろうか。 基地隊が渡嘉敷に上陸したのが1944/9/9だから実際には二月以上無駄になったことになる。


留利加波にかけた労力と時間の損失、それによる訓練不足などマイナス面は計り知れない。

テキスト化にご協力を

阪神さんから教えてもらった
沖縄作戦 殉国日記です
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2223.html

沖縄で「集団自決」が起こった島の一つ、渡嘉敷島に駐留していた海上挺進第三戦隊第三中隊所属の中島一郎少尉は、戦後もなお行方不明であった。千葉県の実家への郵便は昭和20年1月15日消印が最後であった。父中島幸太郎氏は必死に息子の消息を尋ねた。沖縄の収容所にいる部隊関係者と連絡を取ろうとした。彼らが復員してくると手紙で問い合わせ、直接面会もした。こうして息子一郎氏の戦斗と戦死の真相を求めつづけた。その過程を綴ったのが「殉国日記」である。

息子からの手紙をまとめた前半は、いわゆる 特攻作戦のための「特別幹部候補生」 を理解する上でも貴重な資料である。

息子の消息をたずねる後半は、 赤松戦隊長や皆本中隊長の手紙や直話が網羅 されていて、終戦直後の戦闘状況の認識が分かって興味深い。

中島一郎少尉の行方不明と戦死は、第三戦隊将兵の中でも特異だ。当時、渡嘉敷島には赤松隊を指揮する船舶団司令の大町大佐とその幕僚が訪れていた。慶良間列島が米艦隊に包囲されたことを知った大町大佐は、全隊をもって敵艦隊を突破し、沖縄本島に転戦する命令を下していたが、渡嘉敷島では舟艇の泛水に失敗し、その機会を失った。窮余の策として舟艇2隻をもって、大町大佐と幕僚の本島転進を図った。そのとき選ばれて、操縦の任についた2人のうちの1人が中島一郎少尉だった。

したがって、彼の死の真相に迫ろうとすれば、「なぜ赤松隊は出撃できなかったのか」、「転戦命令は如何に出されたか?」といった核心に触れざるを得ない。のちの曽野綾子「ある神話の背景」などに於ては、大町大佐の優柔不断が赤松隊の戦闘意志を砕いたかのごとく語られるが、果たして真相はどうだったのだろうか?

渡嘉敷島の戦闘から1年ないし2年のうちに語られた戦場は、軍人側から見たモノとして貴重な資料といえるかもしれない。

序文として、赤松戦隊長が沖縄の捕虜収容所でまとめた「戦闘報告」が載せられている。

~~~~~
お好きな場所からテキスト化してください!!

プラグインが必要です

http://www.okinawa-sen.go.jp/
ここから入って>>所蔵資料検索>>資料検索
「殉国日誌」で検索してください

なお、資料をみる為にはDjvuプラグインのダウンロードが必要です。
http://www.okinawa-sen.go.jp/serch.htmlの左欄

なお、お返事しておきましたのでよろしく

ni0615 さん。
mixiにメッセージ出しておきました。

ところで、阪神さんが紹介したページ、マイPCでは開けないですね。

大町大佐の指令

キー坊さん
>その事を、曽野綾子は赤松、皆本らと謀議して隠蔽し、はん水の遅れの理由を大町大佐の二転三転した指令、干潮による舟艇引き降ろしの困難化等などに転嫁したという訳です。

それについては、阪神さんが示した資料が、簡潔明解な答えをくだすかもしれません。

爆雷装着手順の欠陥

和田さん。
文章が長いので、話のポイントがどこに在るのか掴みにくかったのですが、つまりは、渡嘉志久においてのマルレ泛水作業遅れの本当の理由は、泛水直後の舟艇への爆雷装着の手間取りにあった、という事ですね。
それを波の荒い留利加波基地の建設中止と、海軍の資料から推量できたという事なのでしょうね。

その事を、曽野綾子は赤松、皆本らと謀議して隠蔽し、はん水の遅れの理由を大町大佐の二転三転した指令、干潮による舟艇引き降ろしの困難化等などに転嫁したという訳です。
嘘満載の「ある神話の背景」からすれば、それも十分考えられる事です。でも、私は、赤松隊幹部の根底に、なるべく助かりたいという生への願望が有ったから、そのような不手際も生じさせるのではないかと思うのです。無意識のうちに重要な手順の欠陥を放置したのではないでしょうか。

皆本氏の殉国日記

和田さん。もしかしたら既出かもしれませんが、皆本義博氏による沖縄作戦殉国日記が見れます。全56ページです。爆雷装着などの詳細は書かれていません。しくじったことについてはみっともなくて詳細が書けないのでしょうね。http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331

留利加波の真実

曽野綾子の「ある神話の背景」に第三戦隊の赤松隊長が上司に工事中の留利加波の壕の作業を辞め他の場所に移動するよう進言するが聞き入れられなかったかのような記載がある。 実は、留利加波壕建設は中止された。 移された場所は阿波連ビーチか渡嘉志久ビーチかどちらかで、どちらかは建設中だったと思われる。

まず留利加波と他の地域どちらに船艇壕を建設したほうが良かったか検討してみよう。 
                           Google地図を最大にして航空写真で俯瞰して留利加波と渡嘉志久ビーチを比較する。 渡嘉志久ビーチは阿波連に近い島の南部。湾の入り江でかなりの遠浅であることがみてとれる。留利加波は島の北部で人気がなく、湾内とはいえず浜の幅が狭い。  
特攻艇の配置は最終的に二重の分散配置が採用されている。事実として、配置は二重の分散配置となっている。二重分散配置になっている理由は米軍の上陸予想地点が読谷飛行場から糸満まで不明なためと、一箇所に基地を集中して米軍の情報網に場所を特定された場合集中攻撃で壊滅される危険を分散させるために違いない。

以上の前知識により、留利加波基地布陣の得失(出撃時はこの後検討)を検討する。 デメリットは阿波連部落から遠いため1補給に難 2 泛水作業に部落民の協力が得にくい 3 民家を利用せず軍営を設営しなければならないなとが、考えられる 一方メリットは 1分散配置となり、全滅の危険が分散される 2米軍の上陸地点が読谷飛行場から那覇までの場合、敵船艇までの距離が短いことが挙げられる。 デメリットの3であるが、現在の渡嘉敷留利加波方面の陸側は航空写真から気がうっそうと生えたジャングルのように見え、加えて渡嘉志久方面の軍営もニッパハウスにして偽装したとの皆本証言からそれほど重大なものではないと考えられる。  

それよりも留利加波から基地を途中で変更することには重大なデメリットがある。 一つは仕掛かっていた工事や設営設備が無駄になり、改めて別の地域に運搬することによる時間と労力の損失。 時間喪失による実際の出撃訓練の不足。 さらに「ある神話の背景」で曽野も指摘した基地隊の「何故、いまさらやり直し」という士気の低下。  これらを総合すれば出撃時の得失を考慮に入れない段階で、留利加波基地を変更しないほうがベターであったと考えられる。

さて、「ある神話の背景」では「赤松大尉は、(某参謀に)留利加波基地は荒波が立っているので、船艇の上げ下ろしには不向きだと」言ったという。 本当にそうだろうか。 まず座間味島や阿嘉島の船艇基地をgooglear地図の空中写真で見ると渡嘉志久より留利加波に近い地形のものが多い。 船艇の上げ下げだけを考えれば留利加波は渡嘉志久より浜の幅が狭く、遠浅でない。 つまり、船艇の泛水作業では船艇移動距離が短く、浜の傾斜で地球の重力が利用できるのでどう考えても留利加波のほうが早く泛水出来る。

留利加波の波が荒いのは、湾のない地形で風が緩和されることがなく、また遠浅でないため波の影響が大となるからである。 それで波が荒くて問題なのは何か。赤松が某参謀に具申した1944年段階では米軍の上陸時期は推測しがたかったはずであり、それ故に上陸時の風向きは不明。泛水に向かい風か逆風か確定できない。 風よりは距離が短くと坂が急なことが泛水時間の短縮に有利なことは間違いない。 

出撃時モーター作動には波は邪魔だろう。 しかし、水深3,4メートルの港を泊地とするモーターボートがざらにあるのは周知の事実。 問題にならない。外洋に出ればどちらでも波の影響は同じ。
実は、荒波が問題となるのはモーターボートの後部定位置の定置金具に125キロ爆雷2個を取り付ける作業だったのではないか。確かに、そんなに大きくない人が持ちにくそうな爆雷を波が荒立ち、モーターボートが木の葉のように揺れる中で定置金具で取り付ける作業はかなり大変だったろう。  波が立つことによる影響は爆雷装着作業で間違いないだろう。そうすると、赤松の意見具申そのころから爆雷設置作業は泛水作業の後とされていたらしいのである。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/1436.html?guid=on      上記谷本版陣中日誌でも「三月二十六日晴 ○○○○出撃準備命令 湾外より艦砲射撃を受け水面にて瞬発信管により散弾飛び散りまた焼夷弾山を焼く中泛水作業、爆雷装着、湾内の警戒等次々と行うも」 とされ明らかに爆雷装着は泛水作業より後であったことがわかる。
実に、一瞬を争う出撃準備でありながら、壕内で先行的に準備すべき爆雷装着が後回しにされている。それも参謀の容認するところで。 考えてみれば金武湾の豊廣隊長は震洋隊つまり海軍であった。

http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/d170610.html     兵装転換で時間を取り惨敗を喫したとされるミッドウエー海戦で自軍の航空母艦4隻喪失を1隻と嘘をついた。 
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/d191019.html   米軍の大半の航空母艦を撃沈したとする台湾沖航空戦の戦果は海軍偵察機により、誤認が確認された後も、天皇に報告済み、提灯行列済みという理由で海軍から大本営さへも報告されず、レイテに上陸した米軍を敗残兵の転進としてルソン島からレイテへの大規模な物資と兵員の転送を行った。出撃した第一師団の兵士は戦闘は一週間ほどで勝利に帰するものと漠然と信じられていたという。  

  おそらくこのように極端に情報を統制し都合の悪い情報を隠蔽する中で、ミッドウェー海戦で兵装転換に時間を要した教訓もさすがに海軍内では教訓化されても陸軍には伝わらなかったものであろう。
従って、爆雷装着の不手際は赤松だけの責めではなく、海軍などにも責任があろう。しかし、本気で必勝を狙う将であれば、あらかじめ出撃命令前に爆雷装着を済ませておくのは当然のことである。

赤松と曽野綾子はこのことを隠蔽した。 赤松は爆雷装着の遅れのため出撃不能になったことをどうしても隠したかった。曽野綾子は赤松にとって渡りに舟の存在だった。 

以上が留利加波の真実である。

星氏はチャンネル桜の別番組にも出演したようです
http://www.youtube.com/watch?v=ur6rdRd8tMo

ところでキー坊さんにお尋ねしますが、星氏はうらそえ文芸で照屋昇雄について言及していますか? 私には、してないように思えるのですが。

講談

1945/3/25日の動きに補足と中間的考察。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-wagatekihaminatogawaniari-toyohiro1.html
上記に金武湾震洋隊長豊廣の手記が詳しい。 爆雷装着に注意

さて、21時半に赤松隊長が独断で船艇の1/3泛水を命じたという「ある神話の背景」の記述は嘘で、司令部から20時に条件付き命令が出された。
次に、大町大佐が渡嘉敷を目指していたというのも嘘。沖縄本島を目指していた。そもそも、石田四郎は沖縄から渡嘉敷まで大町大佐と行動を共にした人。クリ船で沖縄に帰還した三池少佐は戦死し、渡嘉敷に留まった石田は生き延びたのだろうか。石田が赤松隊に食料その他で世話になったことは間違いない。

石田の手記では、22時に船艇で阿嘉島を出発した大町大佐が22時に赤松隊本部に到着したとある。渡航と阿波連東海岸から初めての渡嘉敷赤松本部までの移動距離1時間は要するのではないか。 石田の赤松・皆本への配慮がこんなおかしな(大町の出発を遅めにずらすというバイアス)記述をさせたのではないか。意図しない渡嘉敷上陸などの諸記述は赤松に迷惑がかかるとは思わなかったから記述してしまった。

次に、「ある神話の背景」での大町大佐の泛水中止命令も嘘。赤松・皆本の古い手記には、司令部と大町の命令により、全艇の出撃が決定したことを明示している。

次に赤松と「ある神話の背景」での干潮の話は真っ赤な嘘。天動説が誤りなのと同じ確率。
先頭の富野少尉のエンジンが故障して出撃できなかったというのも嘘。 沖縄県史で事実上の副官だった(職制上は副官ではない)知念は、計画でも当日の事実としても、自分が先頭であったとはっきり語っている。

曽野・赤松は隠蔽したが、当然、米軍の攻撃があったとしても影響が少ない壕内で昼夜兼行、先行すべき爆雷装着作業を怠り、浮力で困難な泛水後に後回しにしたため、出撃不能となった。 壕などに多数の爆雷が残っていたとすれば、赤松手記の4月以降、爆雷運搬の話は荒唐無稽とまではいえないかも知れない。

次に第1小隊の泛水不可能もあやしい。仮に26日夜に出撃命令が出されたとすれば、船艇秘匿優先の話は嘘。

出撃に関するだけでもこれだけの嘘がある。

曽野は太田との論争において鉄の暴風を「講談」とののしった。
「ある神話の背景」こそ、講談ではないのか。

 清水次郎長は、実は敵役の黒駒より悪だった。次郎長を善人にした講談は、薩摩と長州に献金した次郎長に対する報酬でもあった。 真田十勇士に書かれた大坂冬の陣、大坂方圧勝は嘘。薄田とか誰かは遊女と寝て砦を落とされるなど本城と真田丸以外の支城・砦はすべて徳川の手に落ちている。 鼠小僧が庶民に金をばらまいたというのは大名屋敷から盗んだ続きを夢想したい庶民の願いを発酵源としたフィクション。

一杯のかけそばという栗原某自身の嘘がヒットしたのは、不況で疲弊した庶民が美談を求めていたから。
マニラでマッカーサーの部下だったアイゼンハワーはマッカーサーから学んだことは芝居・演出だけだったという。「レイテ戦記」の大岡昇平もマッカーサーには嘘と自慢が多いと言う。フィリピン帰還・厚木降下・天皇会見、すべてマッカーサーの計算づくのプレゼンテーション。中でも極め付きは天皇が国民をかばったという説。戦後、ソ連・オーストラリアなどは天皇を戦犯にしようとした。
冷戦で日本の旧勢力を味方につけ反共の砦とする必要からマッカーサーは一世一代の芝居を打つ。いわく天皇が「私はどうなっても良い。国民を助けてほしい」と語ったと。 天皇になんらかの責任を取ってもらいたい願望があった国民はまんまと共鳴させられたのだ。通訳で、その説を肯定する者は日米共にいない。

講談は嘘によって、強きをくじき、世の中のうさを晴らしたい聞き手の需要を満たそうとする。 
鉄の暴風には、事実を曲げて強きも弱きもどちらに対しても、くじいて喝采を浴びようという意志はみられない。よって講談ではない。

しかし、「ある神話の背景」の中身は、個々のきれいな言葉でみせかけの事実を装い、実際にはあたたかさも真実味もない文体で、偽の悲劇のヒーローへと擬態、弱い者に対する嘲笑と揶揄、家畜管理者になって、非国民に錬成をほどこしたいなどの加虐的右翼勢力の需要・願望を満たさせる、魔性のプレゼンテーション、即ち封建的な傾向を極大まで膨張させた庶民性のない、奇形的な講談そのものであるといってよい。 

曽野綾子は、ここでも(講談という)自分自身の隠された傾向を他人に転化し非難する。

成りすまし ?同姓同名 ?ガセネタ ?

私は、まだ成りすまし、同姓同名などによるガセネタの可能性のほうが高いとは思っていますが、2年ほど前から気になる記事があった。それは削除され、また別の所に掲載されるようになった。今後、2週間ほどして削除されるようなら怪しい。
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/mail.htm

中段上から引用すると
「前略 私も憂国の念を持つ一人として一言申し上げたい
大東亜戦争でありますが、これは善悪で考えるべきではなく、歴史の流れにおける一つの事件は現在の人間が考えるべきではなく、その当時我が国がどのような状況に置かれていたかを冷静に考えて行くべきであって、当時の先人たちの行為を我々がどうのこうのと言うべき問題ではないと思います。また神社神道についてですが、神道は、イギリスのように国教にすべきではないかと思います。現在全国の神社は代々木にある神社本庁の包括下に置かれ、一宗教法人として成り立っています、また、伊勢神宮も神宮司庁として、これまた一宗教法人として存在しています(靖国神社も然り)。これらを神社省として国の行政機関の一つ(正確に言えば神祇機関)として置けないかと考えております。領土問題や国防問題もとても重要ですが、天皇陛下におかれましては、年間100件以上の祭典(国及び世界の平和、国民の安寧の祈願)を執り行われます。
それらを考えると、神社神道は国の宗教(国教)とするのが当然ではないかと思います。
このことについてもご研究いただきたいと思います。また右翼という言葉も余り頂けないのではないかと思います。なぜなら、多くの「右翼」の方々の考え方、思想の大本はぜんぜん右に偏っておらずその大本が絶対正しいのであって、中央からそれた(右に偏った)ものではないからです。
現時点では、それに代わるスマートでわかりやすい単語は見つかりませんが・・・・・
私の考えには賛否両論あるかもしれませんが、私の浅い考えにすぎませんので、そのところをご考慮願いたく筆を置かせていただきます。」        
草々
皇紀2659年 平成11年 卯月 14日
大日本臣民会 総裁 上原 正稔

インデックスに戻るとこんなおどろおどろしいサイト
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/index.html

果たして、沖縄ショーダウンの作者上原正稔と大日本臣民会総裁は同一人物か、別人物か

2年前より気になる。なぜなら、一つには沖縄ショーダウンの作者が、経団連を襲った野村や山口組幹部に養われていた富村順一の情報を掴んでいると語ったこと。それは、上原正稔自身が富村順一やもっと上層の右翼と繋がりがある可能性を感じさせるものだ。

そして今回チャンネル桜への出演。
一つの疑念にすぎないが、提示してもいい時期か。

反論の必要性

ni0615さん。素早い情報をどうも。

「うらそえ文藝」の二人はウヨクに引きずられて、転落するより外に行く道無さそうですね。
沖縄の知識人は彼らに反撃すべきであると、仰る事に同感です。しかし、この二人を操っているのは、ヤマトの低劣右翼勢力であり、助っ人が無数に居る事を考えれば、簡単にはいけないような気もします。

新聞が直接叩く事はしないでしょう。
私としては、県史編纂作業の「同僚」・大城将保(嶋津与志) 氏や安仁屋政昭氏などベテラン陣に、新聞以外のメディアでやって頂きたいと思うのですが。

>和田さん。
資料送付ありがとうございました。

照屋昇雄ビデオは旧出演

大高未貴が照屋昇雄にも改めて取材したのかと思ったら期待に反してそれは旧ビデオ。・・・・奥茂治らのまえで照屋が語るもの。水島総も同席。

“援護法審査会議に赤松が出席し東大総長茅誠司に説得される、それを照屋昇雄が見ていた”という荒唐無稽なもの。

私は書き起こしましたので、旧知の方にはメールでご希望があればお送りします。
(「正論」に水島が内容を要約していますが、そこでは、事実関係の荒唐無稽さは覆い隠されています。おそらく星雅彦は、産経新聞の記事か「正論」記事しか読んでいないのでしょう。)

こんなものを 「真相の核心」として期待していたという星雅彦の言には、いかに転落したとはいえ耳を疑う。

いずれにしても、沖縄の知識人は「収容所列島」にいるから真実を語れない(上原)とまで言われて、黙っている必要はもう無いだろう。

ところで、スタジオで井尻某が、「沖縄は72年まで米軍の占領下にあった」を忘れるなと繰り返していたが、沖縄の戦後の言論が、「米軍は解放軍」から「米軍基地反対」へと移行していった史実を、井尻らチャンネル桜は無視しようとしている。

米軍基地に対する闘争華やかな中でも「鉄の暴風」が読まれ続けたのは何故か、チャンネル桜は意識的にその問いを避ける。星もまたいっさいを「援護法」に還元して大事なことを忘れている。

祝・桜初出演

桜ビデオを聞いての第1印象。
1、上原=星のうらそえ文芸対談の再現
2、上原の長々とした自己顕示と太田元知事への恨み節、
3、それを退屈気に聞きながらノートの端をバリバリとかきむしる星
4、最後に星が照屋昇雄を持ち上げるが、その話が始まったかと思うところでチャンネル桜側が突然カット

おそらく、なぜ彼を証人席に立たせなかったのか、といった原告弁護人批判でも始まったのだろう。

で桜ビデオは、
2/2【沖縄集団自決】「軍命令」とせざるを得なかった事情・照屋昇雄氏に聞く[桜 H21/7/27]
につづく。
http://www.youtube.com/watch?v=LsVIOTLd-vQ

桜出演は転落の確定

上原正稔、星雅彦のふたりはついに「チャンネル桜」の番組に出演しました。
1/2【沖縄集団自決】うらそえ文藝・星雅彦氏、1フィート運動・上原正稔氏に聞く[桜 H21/7/27]
http://www.youtube.com/watch?v=nPZz66ixfWA

私としては星雅彦氏の転落を信じたくなかったのですが、これで決定的となりました。

大城将保(嶋津与志) 氏ら沖縄県史編纂人脈にある沖縄の識者の皆さんも、この2人に対する批判あるいは意見を表明していただきたいと思います。むろん、見解にさまざまなスペクトルがあることは歓迎します。

動転と思い直し

キー坊さん
「軍事研究」2005/3月号 PDF送信しました。

高裁結審時、宮平秀幸証言に関し死んだ田中村長の行動を被告から指摘された藤岡は、(無効だが)結審後、10日だったか、2週間だったか経過した後に、田中村長の次の村長名に訂正を申し入れた。
恐らく、気が動転して茫然自失、とっさに何をすべきか思いつくことも出来なかったのだ。
もし、単純ミスであったら指摘された直後躊躇なく訂正を申し入れるのが世の中のならい。
遅れて訂正すること自体、嘘の蓋然性が高いということを意味する。

沖縄司令部も、阿嘉島米軍上陸の誤報に動転し、しばし茫然自失した。 しかし、戦意を失ったわけではないので遅ればせながら条件付き転進命令を午後8時に発動したというのが真相であろう。

曽野・皆本の真正面からの嘘

曽野綾子の「ある神話の背景」での、1945/3/25日の赤松隊の行動記述を要約するとa 午後8時、赤松隊長は(本部に)独断で1/3の特攻船艇を泛水することを命じた。 b  午後9時半船舶団本部から那覇への転進命令があった。 C 夜10時頃大町大佐一行が第三戦隊本部に到着。 D 大町大佐は、泛水は赤松隊長の独断でなされたと考えて泛水中止命令を出した。(前後の文脈で赤松は本部の命令に従っただけなのにというニュアンスを散りばめていることに注意)


Dには、トリックがある。最終的にB命令に従ったことにはなっても、aが事実なら泛水の発端は独断であり、(曽野や赤松の主張する独断禁止説明では)命令違反となる。(曽野の言うように本当に独断が禁止されていたかは別に検討する必要がある)


この問題は、「軍事研究」という雑誌の2005年3月4月号と2006年11月発行のアスペクト「特攻」での皆本証言により、一連の嘘として解明できる。沖縄裁判訴状提出が2005年8月。 それに備えて原告応援団が「軍事研究」に資料をまとめたもの、と考えられるが、応援団の意図とは逆に他の資料と検証することにより、赤松・曽野・皆本の嘘が明らかとなる。

   まず、「特攻」169頁の皆本証言を引用する。
「話は前後しますが、私は赤松隊長に『状況がわかりませんから、軍司令部にお伺いの電報を出しましょう』と進言しました。その伝聞の返事が『状況不明』そして『甲号戦備に準じて行動すべし』でした。甲は敵が上陸して来たので戦闘を開始せよ、という意味の秘匿名称です。さらに、このままでは慶良間にいる船舶部隊は全滅をまぬがれないから、状況を見て沖縄本島に転進せよとの命令でした。命令に従って、糸満方面に行く準備を進めていたら、隣の島に視察で来ていた船舶団長・大町大佐が夜中に我々の島を訪ねてきました。・・・・大町大佐は隊長を捕まえて『貴様、逃げるのか!』こう言ったんですね。私も側におりました・・・・」


一方、「軍事研究」2005年3月号152~153頁では皆本の昭和38年回想として、次のような引用がある。
「私(皆本)は軍から転進命令が来ていることは全然知らなかった。本部に集合を命じられて22時頃、行った。船舶団長が到着されており、戦隊長から、転進のための泛水命令を受けたが、船舶団長の命令によるものと思った。」


「特攻」での証言と回想の内容は、全然、異なっています。 どちらが事実かは、古い回想と考えるべきでしょう。 

 もう一つ、軍事研究3月号には、赤松隊長の戦史資料(20年11月記)を引用している。  「三月二十三、四日両日の爆撃に引き続き二十五日には敵艦艇慶良間海峡にも進入し艦砲射撃を加ふ、 連日の砲撃により舟艇に若干の損傷を受くるとともに泛水施設の大半は破壊され臂力搬送に止むなきに至る 二十五日二十時本島転進に関する左の命令を受領し折りから阿嘉島より来島せられたる第十一船舶団長大町茂大佐の命により遂に転進を決し泛水に着手す。命令の要旨 「状況有利ならざる時は戦隊を率い本夜中に本島に転進すべし」」


この内容は、http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1406.html
と同一である。  「ある神話の背景」での転進命令時刻より1時間半早い。
考えてもみるがいい。光人社刊の戦記によれば、金武湾震洋隊の豊廣の三度の出撃命令はすべて夕刻出されている。出撃時刻は22時から26時。命令の遅れは致命的。転進命令は、25日米軍の阿嘉島上陸誤報を受け、船艇の全滅ないし全捕獲を恐れた本部が出したもので、20時の命令も遅すぎるとの誹りを免れないものである。  船艇が何の役にも立たずに初戦を削がれるよりは、一刻も早い出撃又は転進を考えるのは理の当然。 


「軍事研究」の著者、大田嘉弘は、赤松の20時転進命令受領に ?を記している。 その意味は、赤松や皆本が60年代以降主張してきた話と食い違うではないか、勘違いだろうと善意に解釈したということであろう。   

そうではない。 赤松・曽野・皆本は真正面から嘘を言う。 そして、とりわけとんまな皆本は馬脚を出す。 皆本が、被告側が戦史資料室の資料を探索しないことに触れていたのは、もしかしたら「特攻」と「回想」の矛盾を突かれることはもうなくなったという安堵と、(調査不足の)被告への侮蔑が混ざった表現かもしれないが、これも曽野とよく似た蛇足。

受信できてます。

和田 さん。
送信有難うございました。
アスベスト「特攻」、当PCに保存しました。

これから読んでみて、感想を述べたいです。

添付送信終了

キー坊さん
先ほど2回に分けて送信したのですが、高品質としたためか、容量結構(2MG)大きかったです。

数時間経過しても受信できない場合連絡して下さい。品質を下げるか、送信分割回数を増やします。

骨折した赤松

和田さん、「沖縄戦に生きて(山中義中)」に、赤松が米を盗んだ兵隊を銃殺したために兵隊の怒りを買い、9月15日夜に暴行され骨折したと書かれています。この兵隊が朝鮮人軍夫なのか日本兵なのかは不明です。証言者が少ない中、朝鮮人軍夫(水勤隊)がどうなったかは闇の中ですね。ハワイの捕虜収容所に水勤隊の人達が送られた可能性があるくらいしかわかりません。
10年前の報道によると厚労省は名簿を公開してくれないそうです。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-94531-storytopic-86.html

船艇に装着できなかった爆雷

曽野綾子の「切りとられた時間」は「ある神話の背景」の習作とでもいうべき存在です。

その中にこんな記載を見つけました。引用すると    「木っ葉船を下ろすのに、五時間近くかかったのは手さぐりの作業だということと、闇夜は大潮で、しかも干潮の時間にさしかかっていたので、海がリーフのはるか後方まで引いていたからだという。舟を水に泛べてエンジン、百瓩の爆雷、信管をつけ・・・・という手順の途中に、突如として駆逐艦は目覚めた。おびき出したのだという説もある。砲撃が再開され既に爆雷の装着を終わっていた特攻船艇は、花火のように吹っ飛んだ。・・・・」 

 
1945/3/25月齢11日の闇夜と干潮は曽野綾子の嘘だ。だが、当時の曽野が軍事に詳しいとは思えず、(沖縄とアイヌの真実で皆本が自白したように皆本の情報を皆本の娘が曽野に伝えていたに違いない)爆雷装着までの手順は、赤松隊の情報をそのまま書いたものだろう。


やはりな、なるほどな、と納得できる。米軍上陸が近いと感じて直ちに本部と連絡を取り、即刻震洋頭部に爆雷装着を命じた金武湾豊廣震洋隊隊長とは大違いだ。   エンジンさえ船艇泛水後に取り付けたというのだ。 赤松は、壕内でほとんど出撃準備をしなかった。考えたらわかることだが、船艇後部に合計250キロの爆雷を取り付ける作業を海面で行ったらどうなる。  ボートに人間が乗船する時、端のほうだと 浮力のためにボートが揺れることは誰でも知っている。 後部に一旦金具で定着させなければならない爆雷装着作業は浮力のために難航したに違いない。 

 「ある神話の背景」で曽野は出撃を取り止めた後、爆雷を地雷代わりに埋めたと記述した。 装着できなかった爆雷もあったのだろう。  爆弾を装着しない特攻機が脅威でない以上に、爆雷を装着しない特攻船艇などまったく軍事的意味がない。  赤松が肝心のことを後回しにしたため、出撃できなかったことは間違いない。 赤松の回想で爆雷が頻繁に登場するのは、やはり爆雷のことがトラウマになっていたからである。
準備の遅れを取り返そうとして元も子も失った。


  ここで思いつくのは、米軍収容所で梅沢が朝鮮人軍夫に報復の暴行を受けたのに赤松にそうした事実がなさそうなこと。 一部の軍夫が脱走したというが第三戦隊所属の軍夫は行方不明者が多いという。 口減らしのために殺された者がいることは、「ある神話の背景」からも想像できる。 曽野は「ある神話の背景」発行後相当な時間を経て「今一番知りたいことは朝鮮人軍夫の情報だ。」という。 私は、曽野綾子は会合写真その他から赤松隊の機密情報はすべて知っているはずだと思う。  赤松に(大町大佐の死亡で可能性はやや低くなるが、戦後日本軍から爆雷装着の不始末を責められる可能性があると恐れ)出撃準備の遅れと手順のミスを隠そうという意志が働けば、朝鮮人軍夫を始末、(南京屠殺やスパイ嫌疑による斬殺でも書面による命令などなく、口頭や事後承認、ネッソス向井・野田等にみられるきままな切り捨てごめんが主流だったと思われる)つまり虐殺したのではないか。  後に残る勤務隊と第三戦隊は共犯関係で準備の遅れを隠すことに共通の利益をもっている。 


 曽野の雑誌、諸君等での発言を検討すると「私は、本当は知っているのだ。探せるものなら、探してみろ。ざまあみろ。」という内容を影絵のように語り、楽しんでいる場面にしばしば出くわす。 これもその一つだと思っている。                       

本の入手法

284の回答ですが、普通の図書館にあるようですが。
PDFで送信しても宜しいが、折り目が見づらくなってしまいます。

「様相」と「概要」は弊サイトを批判たたき台にしてください。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html
参照データも示さないあまりに粗雑な引用をする人がいたので一時非公開にしておりました。

テキスト化

和田さん。
今、「様相」と「概要」をテキスト・デジ化中です。
皆本証言をあまり読んでなくて、「沖縄とアイヌの真実」とアスベスト「特攻」も持ってません。素早く入手するには何処が良いでしょうかね。

掲載依頼

キー坊さん

皆本証言が記載してある「沖縄とアイヌの真実」とアスベスト「特攻」ゆっくりと資料に掲載して下さい。「特攻」にある渡嘉志久と阿波連ビーチ二箇所の自沈場所を記載した地図と「特攻会報」の石田四郎が大町大佐の動向を書いているものも重要な資料もお願いします。

25日の初枝さんの行動

和田さん、「家の光」38年4月号はまだ発見出来ません。また6月29日の私の書き込みを訂正します。「悲劇の座間味島」と「母の遺したもの」の初枝さんの戦記は同じではありません。梅澤隊長から軍命がもたらされたとは「母の遺したもの」には書かれていないからです。うっかりしていました。また「悲劇の座間味島」には初枝さんが軍命令を直接聞いたのか、誰か他の人から聞いたのかは文面では判断出来ません。「午後十時頃梅澤部隊長から次の軍命令がもたらされました」という文面だけでは誰が軍命を聞いたのか判別不能です。これは「子供向け家の光」「これが日本軍だ」でも同じです。和田さんが気にされている3月25日の初枝さんの行動ですが、「母の遺したもの」には初枝さん他4名と本部壕を訪れた事が書かれていますが、それ以外の「悲劇の座間味島」「子供向け家の光」「これが日本軍だ」「母たちの戦争体験」には25日に初枝さんが本部壕を訪れる話は出ていませんでした。

追伸、6月29日にあやふやに書いた「これが日本軍だ」の初枝さんの証言ですが、「軍命令が出なくとも、住民は覚悟していたと思う」が正しい記述です。

あと参考までに、渡嘉敷島の戦闘について大町大佐の戦死に至るまでの情況が書かれた「わだつみの戦士(久貝徳三・ゲンダイ経営出版社)」というノンフィクションノベル(結局信用出来ない)があります。小説だから全てを信用できませんが、久貝氏がなぜ第三戦隊を描いたのか、また何を元にして書いたのか等があとがきに書かれていないのが不満です。

ミッシングリンク

いよいよ、第一中隊の出撃準備有無を検討する。 実は、沖縄県史に書かれた大城良平の第1中隊船艇の出撃準備が完了していたとの証言は3つの文献に存在する。 鉄の暴風、戦闘概要、戦争の様相、これらの3つの著作はいずれも渡嘉志久、阿波連から船艇が出されたと記載している。 ただし、様相と概要は計百隻、鉄の暴風は渡嘉志久から50隻、阿波連から30隻の船艇が出撃準備を終えたとしている。 「戦史叢書」と「ある神話の背景」に第1中隊の出撃準備が出来なかったように書かれているためか、これらの事実が忘れられている。

曽野綾子は、これら3文献は米軍の上陸日を1日早く記載しているから、信用できないとする。 しかし、戦史叢書が刊行されるまでは、軍寄りの山岡荘八「太平洋戦争」、金城和彦「愛と鮮血の記録」を含めほとんどの著作が渡嘉敷米軍上陸日を1945/3/26と一日早く記載していた。従って、上陸日記載の誤りを理由に諸著作の記載が事実ではないと否定することは誤りである。

 さて、既に「戦史叢書」と「ある神話の背景」はいずれも皆本第三中隊長監修であることは記載した。その皆本が投稿したアスベスト発行「特攻 最後の証言」175頁地図をよく見られたい。そこには、渡嘉志久ビーチと共に阿波連ビーチにもマルレ自沈場所として丸印が描かれている。この記載により、26日早朝、第1中隊の出撃準備が出来ていたことは、確定的となりました。  
海上に浮かべないと人為的な自沈は出来ません。 さすがに上陸前日昼の泛水は無理。上陸日も当然無理。 地図執筆当時、皆本は沖縄裁判に勝利すると夢想し、注意散漫になっていたのだろう。 第1中隊が26日も27日も出撃不可能であったなら自沈は無理。やはり26日未明、第1中隊は出撃準備が出来ていた。 皆本は嘘との整合性を忘れ、つい真実を記録してしまった。  皆本の重大なミスであった。


第1中隊の出撃準備があったという事実の確定は、ミッシングリンク(失われた環)を探し出したことを意味する。  「戦史叢書」と「ある神話の背景」の嘘と真実に関するこれまでの推定事項が一連の時間的・論理的に整合性で自然な流れにまとめられる。 整理しよう。


大町大佐が阿嘉島から渡嘉敷島ではなく、沖縄本当を目指したのは何故か。渡嘉敷より1日早く米軍が上陸した座間味と阿嘉島の壕にあるマルレの大半は米軍により破壊された。 壕にあるマルレについては米軍従軍記者も発表している。 大町大佐は渡嘉敷を視察しても同様にマルレは米軍に破壊されているか、出撃はむつかしい、それならば米艦戦から距離はあるが、より多くの戦隊が配置されている沖縄本島で勝負を賭けるしかないと沖縄本島を目指したのであろう。 

    ところが、あにはからんや、米軍の妨害ではからずも不時着した渡嘉敷のマルレはほとんど無償だった。 とすれば、3月上旬の棋上演習http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_44.pdf                             で牛島大将が頷いたように、あるだけのマルレを出撃させるのが大町大佐の使命。「本島に近づいた時は懐中電灯をまるく振れ」との命令もあるから、たとえ無線が故障しても阿波連と渡嘉志久の間にある丘で勤務隊に縦と横と合わせ3つの信号で、出撃指揮をする方法はある。2キロ弱は月齢11日で足の速い伝令なら20分かかることはない。 渡嘉志久・阿波連とも出撃準備を開始した。 阿波連では青年団の支援があるが、渡嘉志久では屈強な軍夫と勤務隊の支援が多いだろう。


しかし、本部付き10隻含め70隻の渡嘉志久では全艇出撃を目指したが、50隻で時間不足になったのだろう。 様相等では、阿波連の青年団等はかなり長時間出撃を待たされたことが書かれてい
る。


ここでもう一つの戦闘の概要
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/1428.html?guid=on
でいかに赤松が爆雷に執心を見せていたか思い出されたい。   上記、爆雷への執心を私のような解釈の他に上原正稔は赤松の誠実さを見るという。 マンガに違いない夢想を誠実さと解釈するのは驚きだが、第1中隊の泛水が早く終わり、渡嘉志久が遅れたのは爆雷装着の着手が第1中隊の25日昼着手が、渡嘉志久では着手しなかったと考えれば、謎がすらすらと解ける。 大町大佐は爆雷着手しなかったことで赤松を叱責する。赤松は失策を取り返すために全艇一斉出撃にこだわるが逆に裏目に出て一隻も出撃できなくなる。

  この構図であれば、まったく死角がない。数々の嘘の理由と真実がすべて整合的に説明できる。 第1中隊の中隊長・群長は原告側で引用されることがない。「ある神話の背景」では戦死した群長を利用して連絡の悪さを説明している。  第1中隊の(兵装着手の早さ)手柄を取り上げ、いやしめたから第1中隊幹部は赤松に協力しなかったのだ。


 叢書と神話で27日第1中隊出撃命令を記載していることは自沈からして、嘘である。 反面、秘匿一本槍ではなく、1中隊の出撃でも出撃しないより、良かったことも暴露している。 そこにも秘匿理由の出撃不可能論理の無理がある。 赤松本隊の爆雷装着遅れのミス、及びミスを取り返そうとして全艇同時出撃にこだわり、6割出撃し残りは随時出撃という柔軟な戦術がとれなくなった赤松のせいで全艇出撃不能となった。 そしてそれは安里巡査のせっかいと並び、集団自決を招くこととなる。

クリ船の要約と補足

クリ船関連で要約と補足をしておきます。

・大町大佐は、座間味から阿嘉島までクリ船で渡航した。理由ははっきりしないが、理由として考えられるのは、座間味の空襲が激しく船艇の多くが破壊された、船艇の存在を隠匿するため、短い距離なのでクリ船のほうが目立たず米軍が見逃すかもしれないと考えた-という3つの理由。 

・大町大佐は阿嘉島から沖縄本島まで船艇二隻で渡海中、米軍に阻まれ渡嘉敷阿波連に着陸。阿嘉島に利用できるクリ船はあり、長距離を理由に船艇で渡海したと考えられる。  

・阿嘉島では中川中隊長が大町大佐に中隊単位での出撃を申し入れていた。 

以上から渡嘉敷の大町大佐がクリ船での沖縄本島帰還を考えたが島民から断られたとの曽野綾子「ある神話の背景」の話は嘘である。 潮1971年11月号に掲載された大城良平の大町大佐のクリ船帰還要望のため、船艇出撃が遅れたとの説は、大城良平が名古屋で赤松・曽野会談に同席した新たな証拠である。

沖縄本島を出発した大町大佐一行は、戦史叢書によると15名。1945/3/26深夜、渡嘉敷を離れた船艇二隻には大町大佐一行はわずか6名。 残りはどうしたのか。元基地隊鈴木大尉は沖縄から途中下船だった。座間味・阿嘉島に留まった者もいただろう。 すべてが戦死したわけではない。さらに、阿嘉島から大町大佐の船艇を出した第二戦隊隊員に生存者がいた可能性がある。具申の件は第二戦隊に共有された意識だろう。そのために曽野一派が大町大佐を悪者にして、赤松の泛水作業の遅れをかばおうとすると上司を誹謗中傷しようとして事実を曲げたとして船舶団や第二戦隊隊員から非難される恐れがあった。

そのため、さすがの曽野綾子も名古屋での赤松曽野会議を踏まえた大城良平証言に沿った神話捏造の完全履行は出来なかった。 また皆本の尽力か、戦史叢書に大町大佐の真実が記載されることはなく歴史の闇に葬られたかに見えた。 しかし、石田四郎という関係者がかろうじて記録を残していた。

曽野は大町大佐を小の虫にしておとしめ、大日本帝国軍人の義という大の虫を生かし帝国の大義をほめたたえ、島民を忠なる家畜としておとしめる一方で清らかな死として顕彰することを画策したが当初の計画通りには果たせなかった。 曽野は腹いせのためか、島民はクリ船を差し出さない自由があったという神話の捏造で自分を納得させることにした。 そこには、狼魔人などの軍国主義者なら必ず自分の意を汲んでくれるだろうとの思いがあった。

米軍に収容された収容所で赤松隊は他の戦隊と戦史を語り合った。 その中でクリ船の話も出てくる。阿嘉島での中隊単位の出撃具申も当然聞いているだろう。 皆本・赤松・曽野はちゃっかりと他の戦隊の話を借用した。 事実は違う。  

 皆本は最近になって「沖縄とアイヌの真実」で演習時に同席した沖縄震洋隊豊廣隊長の煙幕の話を借用し、自分が命令違反で煙幕を張って船艇二隻を引き上げたと自慢するに至った。 
自作自演による嘘の連鎖→宣伝による膨張で神話を事実に改編すること、ネッソス向井・野田の百人斬り無罪主張には、鈴木明・山本七平が荷担した。 ネッソス向井・野田は赤松の上を行っているが、鈴木明などより意図的な嘘が多いことで上を行くのは曽野綾子。 

クリ船所望の嘘

第1中隊の出撃準備を考察する前に、「ある神話の背景」での大町大佐がクリ船で沖縄本島に帰還することが検討された、との記述が嘘であることがはっきりしたのでそのことを説明したい。                
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/sundaymainichi/sunday67.html
上記より引用「一座のなかには赤松大尉の旧部下、第三中隊長の皆本少尉もいた。彼は戦後、自衛隊にはいり、沖縄には六○年代にすでに戦史研修の一隊をひきいて渡島していたが、いまや防衛庁・陸幕・募集課・募集班長昔本義博一佐となっている。」

http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf
上記、大町大佐について論考している石田四郎と皆本とどちらが信用がおけるのか。 ムックの「沖縄とアイヌの真実」で皆本は次のように言う。ひとつは、沖縄裁判で被告サイドが防衛研修所に情報開示などをしたか旧部下に確認したところ、いなかったという。答えた公務員は情報公開法及び個人情報保護法に違反する。このような問いには何も答えないことが正しく、あると答えてもないと答えても公務員法違反。 それはともかく皆本は曽野綾子が「ある神話の背景」執筆時、北海道にいて自分の娘に曽野の手伝いをさせていたという。 皆本は泛水の後、大町大佐の船艇揚水命令と、自沈命令を二転三転させ、ムックでは大町大佐の揚水命令はなく、自沈命令だけだった。皆本は命令違反を承知で二艘の船艇を引き揚げ、後から大町大佐に喜ばれたと自慢話をするに至った。  引用した(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会発行の史料で第三戦隊の戦死者と日付をみると戦死者21名中6名が東日本出身。曽野のいうとおり第3戦隊は西日本出身者が多い。 曽野の「ある神話の背景」における大阪の赤松隊14,5名の会合で「函館の元隊員とは皆本とみていいだろう。 曽野が元隊員の名前を伏せたのは、曽野と皆本が中心となって偽の戦史を捏造しなければならないが皆本がかなりおしゃべりなことから名前を伏せないと隠密性を保てないと判断したのだろう。

  皆本は渡嘉志久から本部に異動する際、米軍との30分ほどの戦闘で部隊の1/3を失ったという。
しかし、戦死者名簿では第三中隊で1945/03/27,28で戦死した者はいない。  つまり、第三中隊傘下の勤務隊で多くの戦死者を出したことを自分たちの手柄話にしたのだ。 このような人物が信用できないのはいうまでもない。     それに対して石田四郎は経歴からも大町大佐を中心にした聞き取り調査の内容、自分の住所と電話番号を記入し疑問点には答えるという態度を示していることからも皆本よりは信用できる。

以下石田四郎の記録と皆本が関与した「戦史叢書」、曽野の「ある神話の背景」を比較する。  石田四郎に拠れば、大町大佐の座間味から阿嘉島への移動はクリ船であった。 阿嘉島第二戦隊員、儀同保の著作に拠れば、大町大佐は真夜中阿嘉島に黒い小舟で現れたという。戦隊員が見慣れていて、夜間出撃を前提としたマルレなら夜でもわかるはず。 マルレでない船だったことは確かだろう。このことからも大町大佐が阿嘉島にクリ船で移動したことはまちがいないだろう。  さて、石田四郎によれば、大町大佐は本来阿嘉島から渡嘉敷に渡る予定ではなく沖縄本島に帰還予定が米軍に阻まれて阿波連に上陸した。  そして大町大佐が阿嘉島からマルレに乗船したことは異論がない。(3者とも)
座間味から阿嘉島への移動にクリ船が使用されたのは、マルレが泛水出来ない戦況だったか、マルレを秘匿するためか不明である。 しかし、阿嘉島からの乗船はマルレもクリ船も可能だった。 しかし、事実としてマルレに乗船した。阿嘉島に上陸したクリ船は壕に秘匿したはず(重くもない)。さらに25日儀同保によれば、阿嘉島から慶留間島の渡航にクリ船が利用されたという。阿嘉島に使用可能なクリ船はあったのだ。
もはや明らかであろう。 大町大佐はクリ船も利用可能であるのに、あえてマルレに乗船し阿嘉島を離れた。

 当然、座間味から阿嘉島へクリ船で渡ったもののその経験から(映画マリリンに会いたいによれば、犬のシロは阿嘉島→座間味島を往復しているがけっこう潮流は早いという)、航行距離の長い沖縄本島までクリ船で渡航するのは困難と判断したと考える以外にない。
 http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/33268370d7580054bf38f2236195f34a
上記ホームページではよく狼魔人が、曽野綾子が「ある神話の背景」で婉曲にほのめかすことを露骨に語っているので曽野綾子の狙いがよくわかるリトマス試験紙のようなものである。  たとえば、年金の件・金城牧師の件などでも曽野は、本当は狼魔人のように非難したかったに違いない。

狼魔人によれば、「反抗する術(すべ)を知らず、拒否もせず、日本軍の非道なる命令と、当時の教育の犠牲者であった“羊のように従順な沖縄住民”――というのが、安仁屋氏や大江氏がイメージする戦時中の沖縄とりわけ離島の島民像である。だが、これは全く事実に反する。 昭和二十年三月二十二日、軍船舶隊長の大町茂大佐は作戦指揮のため、那覇を出て座間味島に到着。二十四日、阿嘉島に着いたが、予期せぬ米軍の襲撃を浴びる。二十五日夜、大町大佐一行は渡嘉敷島に到着。翌日夜、一行は赤松隊の幹部と、すぐ本島に帰還する方法を協議する。防衛研究所戦史室著『沖縄方面陸軍作戦』では、次のように記されている。 「大町大佐の帰還輸送を特攻艇にするか、漁船にするかが研究されたが漁船が得られず、第三中隊でようやく引き上げた特攻艇二隻によることとなった」  あまり要領を得ないが、曽野綾子著『ある神話の背景』が、分かりやすく書いている。
 「大佐の一行は、村民にくり舟を出して貰えないか、という交渉をしに行ったが、拒否されて帰ってきた。こんな危険な時に、軍人ででもなければ《よし行きましょう》という物好きはいる筈がなかった」  大町大佐は、赤松隊長の上官だ。一般住民にはそれこそ、雲の上のような立場の人だ。その者の要望を拒否している。大町大佐や赤松隊長が、村人を脅したり舟を出すよう“強制”したという記録もない。大佐一行は引き下がっているのだ。」

以上、長々と引用したが、とんでもない話です。 事実はこうでしょう。 米軍の収容所に収容された赤松等は第一戦隊・第二戦隊の隊員と経験を語り合うことになる。そこで、クリ船の話と中川中隊長の話も出るはずだ。
クリ船の話、中隊単位での大町大佐護送の話は赤松・皆本・曽野等で借用(剽窃)されたと考えられる。前後の話から、大町大佐は第三戦隊全部隊の出撃を命令したはずである。注目すべきは、注記にある阿嘉島の第二中隊長中川が中隊全員でないと大町大佐を沖縄まで送る自信がないと語っていること。大町大佐は直前に阿嘉島から渡嘉敷への渡航で2隻での移動は棄権極まることを体験し、中川中隊長の意見具申が正しかったと後悔していたに違いない。(本来ここに第1中隊の出撃の話を続けると話がわかりやすいのだが後日とする。)

いずれにしても、大町大佐が渡嘉敷から遠洋漁業用の漁船を所望した可能性は残るが、そんなものは爆撃で消失している。 またクリ船を所望することはありえない。
従って曽野の「ある神話の背景」でのクリ船話はありえない。嘘である。 大町大佐一行15名のうち生き残った者もいるし、第1戦隊・第二戦隊の生き残りもいる。曽野はそのような状況で元軍人のクレームを恐れ泛水が遅れた話とクリ船の話を直接結びつけることが憚られ、最終的に狼魔人が共鳴した島民は軍隊に拘束されていないという証拠にみせかける嘘話としてだけの意味に限定することで満足しなければならなかった。

潮1971年11月号に大城良平がクリ船帰還構想による泛水遅れを語っているのは曽野の元の構想を語っているのであろう。この構想を知っている者は、1971年春の赤松隊と曽野の会合で話を聞いたか、漏れ聞いたかである。 このことからも大城良平が曽野と赤松隊の会合に出席した可能性は高い。

ぬちかふぅ

>和田さん
ぬちかふぅはまだ上映された事がないようなので、どのような疑念なのかは不明です。しかしながらなんとかして観たい映画です。私個人ではどうしようもないので、どこかの団体が上映企画して欲しいと思ってますが、期待しているだけではだめでしょう。何か言い方策があればと思います。
ただ、「アリランのうた-オキナワからの証言」は観ました。山形でいつでも観れます。
http://www.yidff.jp/library/library.html
梅澤氏、知念副官、岩橋少尉、沖縄で朝鮮人軍夫だった金元栄さん、借り出された朝鮮人軍夫たち、渡嘉敷で慰安婦だったポンギさんなどが証言しています。ただ、テーマが絞りきれておらず、慶良間の戦争を知らない人には何がなんだかわからない映画でしょう。膨大な映像の中から編集しているそうなので、映画より本のほうがいいと思います。本には宮城初枝さんも証言者として出ています。

27年後の証言

阪神さん
ありがとうございました。  とりあえず、宮城初枝は家の光で隊長命令を隊長から聞いた、伝令から聞いた、宮里盛秀から聞いた、その他風聞で聞いたと言っているかどうか保留にしておきます。

隊長の壕へ行ったかどうか書かれているかどうかも保留です。

ところで
http://www.cinemajournal.net/special/2009/nuchikafu/
上記によると、
「ご存知のように、座間味(ざまみ)島民集団自決について、2005年に元部隊長が、軍命ではないと提訴しております。また文科省は、一昨年、座間味の集団自決は軍命ではない。軍命の文字を、削除せよと通達しました。この裁判の根拠になったものは、元部隊長が、元村役場助役の弟に書かせた (-座間味の集団自決は部隊長の命令ではありません。当時、助役であった、兄宮里盛秀の命令です-)の念書と、 座間味出身の宮城晴海著『母の遺したもの』(著者・晴海さんの母初枝さんは、当時、座間味の役場の職員で、戦後集団自決は軍命だった、と体験を発表していたのだか…)の二つです。

私はこの二つの証拠に強い疑念を持ちました。それまで、沈黙を貫いてきた島民から、多数の証言を集め、このドキュメンタリーを製作しました。」

とのことですが、疑念の内容とかわかりましたら教えて下さい。

掲示板作りました。

阪神さん、いつも情報をありがとうございます。

掲示板も作りました。

「『神話』についての掲示板」
http://keybow49.bbs.fc2.com/

ブログ以外の話題・情報の提供等に使っていただければ良いと思います。

和田さんへ

55年に発行された「地方自治7周年」には渡嘉敷村の戦時中の戦闘経過については書かれておりませんでした。また、座間味村では証言者が誰なのかは書かれていませんでした。この手の自治体の記録出版は主語が無いのが通例です。下記のように書かれていました。
夕刻に至って部隊長よりの命によって住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員村の忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった。
また、「家の光」 63年4月号は見ていない(今後探します)のですが、子供向けの「家の光」64年発行の39号に、初枝さんが「とっておきの体験実話 沖縄戦最後の日」として戦記を書いています。これには上記「7周年記念碑」にある、夕刻に至っては・・・、とほぼ同じ軍命が梅澤隊長から言い渡されたと書いてありました。
初枝さんの証言は下記5本が判明しており、「母たちの戦争体験」以外は梅澤隊長から自決命令が出されたと書かれています。ただ、72年の「これが日本軍だ」には70年の赤松騒動があった影響からなのか、自決命令が無くても集団自決は起きたであろう(手元に本が無いので正確な記述でありません)、みたいな含みを持たせた書き方をしています。初枝さんは赤松騒動でかなり悩まれたのでしょうね。
63年 家の光
64年 子供向け家の光
68年 悲劇の座間味島
72年 これが日本軍だ
86年 母たちの戦争体験

そうすると真実は ?

http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/ の中の11号
http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf
上記22~24ページをご覧下さい。注2も。 

    そこには、大町大佐は1945/03/25阿嘉島から渡嘉敷に視察に行く予定ではなく、沖縄本島に帰還する予定だったこと、慶良間海峡で砲弾と敵艦船に行く手を阻まれ進退窮まって阿波連に接岸したこと、第二戦隊中隊長第三中隊中川が大町に中隊船艇全部で大町を護送すると申し出たことが語られている。筆者は船舶本部団に勤務していた者であり、第二戦隊生き残りからの聞き取りと思われる。   既に皆元自身第三戦隊の戦史叢書記載の監督者であったと語っている。  これらは戦史叢書に記載しないことにしたのだろう。 もちろんある神話の背景の記述では大町大佐は阿嘉島から直接渡嘉敷へ視察に向かったとの記述です。

次にhttp://keybow49okinawan.web.fc2.com/ryouhei/ryouhei.kensi.html

大城良平によれば「上陸直前、私の配属された第一中隊は、私たち防衛隊を解散し、直ちに現役兵として召集し、正式の兵隊になりました。・・・・しかし私はそれまでの朝鮮人軍夫と同様の坑木伐採などの任務から第一中隊の炊事班長に変っていました。第一中隊は兵員三〇名ばかり、私の配下には朝鮮人六名がおりました。・・・・慶良間は敵艦隊に包囲されていました。私たちは、舟艇を出して、今か今かと命令を持っていました。いっこうに命令は出ません。 私は中隊長にききました。なぜ艇を出さないのですかとききますと、「命令が出ない。電話線が焼けて、連絡がとれない」といっていました。」

少し矛盾があるが、「渡嘉敷村阿波連元第三戦隊第一中隊付防衛隊」と名乗っているから第1中隊に所属していた。ある神話の背景では阿波連ビーチの第1中隊は敵駆逐艦のため、泛水出来ないはずでした。    大城証言に拠れば、船艇は出されていたのです。
ついでに言うと「ある神話の背景」で「隊長が逃げ出すならぶった切る」と叫んだとされる第1中隊高取少尉はある神話の背景執筆時に生きていると思わせるほど活写されていますが、実は戦死していました。また地裁原告最終書面に他の中隊と違って第1中隊隊長・群長の証言は載せられていません。

これらは何を示しているのでしょうか。  しばらく考えてみてください。

本音を隠した建て前を止めよ

【C181】沖縄市市民
「>日本軍の物言わぬ(捕虜になったら殺すという)強>制力が住民を集団自決に追い込んだのです。(A)

だから自ら殺しあったんですよね?日本軍と関係ないじゃないですか。 (B)

当時の天皇崇拝、軍民一体になって戦ってた  心情を、今の価値観で語るのはナンセンスですよ。(C)
お国のために、家族のために戦って死んだ沖縄出身の兵隊さんは犯罪者ですか?

>金城牧師は、「集団自決」は結局、日本軍による
>暗黙のうちの命令・虐殺であったと言っていますね。 (D)

本人の手記を読んだがいやいや・・ただの虐殺ですよ。日本軍じゃなくて、攻めてきてる米軍に対しての 恐怖感からじゃないですか。(E)

Bは何故、関係ないとなるのだろう。 そうすると、オウム真理教のサティアンから抜け出した複数の信者が再拉致され浅原こと松本教祖から殺し合いをして勝った方は助けてやろうと言った史実も教祖に関係なくなってしまうが。

(C)逆に現代を過去の価値観で罵倒するのを止めないか。天皇の家畜(大御宝)となり蟻や蜂のような全体主義で自由と個人主義を非難するのを止めよ。

本心からEと言うのなら集団死を曽野一派のいうような「清らかな死」だの「マサダのように自由のために死んだ」だの逆に惨めな死だという表現を「死をおとしめる」だのと言うのを止めよ。 完璧に惨めな死だ。オウム真理教の信者や金王朝の臣民をあわれだ、かわいそうだと思うのが世界の一般市民。  何故一方で「土民」-日本軍、「小の虫」-曽野綾子と賤しめながら、他方で顕彰しおだてるのか。 

あなたは靖国カルトの典型だ。
オウム真理教はサティアンが米軍から毒ガス攻撃を受けていると嘘を言った。
日本軍は米軍が住民を虐殺すると大々的に宣伝して騙した。  どこが違うのか。 日本軍の捕虜になった米軍の死亡率シベリアに抑留された日本軍の死亡率を上回っている。 あなたは残虐な日本軍を擁護する目的で矛盾したことを語っているにすぎない。

第三戦隊戦死者

和田さん、阪神さん。

陣中日誌(谷本編集)の巻末に載っている「海上廷進隊戦死者名簿」によれば、第一中隊6、第二中隊6、第三中隊8、の計20名となっています。

座間味在住の研究家・宮里芳和氏の話によれば、宮城初枝が村幹部と共に梅沢の所へ行った時間帯には、隊長らは本部壕には居なかったという証言を体験者(防衛隊員か)から得ているそうで、宮城初枝の証言も確定的ではないと仰っていますね…。

垢禁とは

>沖縄市民殿
垢禁とは、「アクセス禁止」の事ですね?その通り、「沖縄市市民」および「沖縄市民」は、コメント拒否の措置をしました。
管理人が不適切な投稿者と判断すれば、それを権限で拒否する事は不当ではないですね。「うるま市民」は自主的に撤退してます。

>阪神さん
>>それも世代的にも一番反米・反日思想を叩き込まれた。71年生まれです。
これは低劣右翼の口真似をした「妄言」です。まともに相手にする事柄ではないと思います。

和田さんへ

ルソンの碑(儀同保)には船舶特別幹部候補一期の戦死者名しか掲載されておりませんでしたが氏名は下記の通りです。
鹿田恒雄、世古収、八木喜一、木村又雄、久保彗観、佐藤公正、島谷勇夫、桃坂昇、原口常親、森末正義、犬塚富士雄、石原清、高橋庸二、橋田忠一。

地方自治7周年は手元にないのですが、来週あたりに調べてきます。

「家の光」 の記述内容はそのまま「悲劇の座間味島」にに掲載されたそうなので、宮城晴美さんの「母の遺したもの」にもそのまま掲載されていると思われます。ただ、63年4月号の家の光を見た事が無いので、もしあったら見てみます。

沖縄市民さんへ

>それも世代的にも一番反米・反日思想を叩き込まれた。71年生まれです。

その反日思想がいつどのような形で叩き込まれたのかを憶えてる限り、具体的な内容をかなり詳しく教えて下さい。もの凄く興味があります。

>当時の沖縄にいたのは 悪い兵隊さんですか?沖縄出身の兵隊が大多数ですよ。恥をしれ。

兵隊の何割位だったのか教えて下さい。

都合の悪いのは垢禁ですか?

りっぱな選民思想の持ち主ですね。
あなたがどう沖縄戦を解釈しょうとかまいませんが、

自分と意見が違うとそれでもウチナーンチュかと罵倒。しまいには垢禁。

さも沖縄県民皆が、あなたと同じ意見のような解釈。

沖縄からまともな意見って(笑)。
ただあなたと同じ思想の意見でしょうが。

まだ解明されていないな事実がある

阪神さん
たくさん文献をお読みになっているようなので知ってたら教えて下さい。
・第三戦隊20名程度の戦死者名を教えて下さい。
実は第一中隊で赤松復権運動に参加した者が少ないようで理由はわかりましたが、戦死者が集中しているのかどうか知りたいです。

・地方自治7周年 「鉄の暴風」には若い者は戦闘に協力するという記載はありません。 地方自治7周年には記載があるそうですが証言者が村の幹部か単なる島民か情報の出所などわかりますか。

・宮城初枝が証言したとする「家の光」
厚生省の調査に宮城初枝は「住民は軍命令で自決したと言っているが事実か」の趣旨にただ「はい」と答えただけという。 ということは、抽出された島民の質問と回答も同じ形式と思われ、伝令が軍命と伝えながら走ったことからそうなる他はない。

問題は、宮城初枝が「家の光」で村幹部と共に梅沢の所へ行ったとの記述があるのかどうか、さらに加えて梅沢に村幹部が自決を申し入れたという記載があるのか、そうではなく軍が壕で自決を命じたとの記述それともその他。

家の光の記述内容次第ではその後の梅沢と接触後の木梨の内容の真偽に影響がある可能性があります。

上原氏は糸満出身

中年のウチナーンチュの方から非表示のコメントをいただいた。
上原正稔は糸満出身で、世渡り下手な不器用な人間であるが、今回の言論は「貧すれば鈍す」の顕われらしい、との事。「貧」が経済的状況を仰ってるのかは判らないが、自分の「貧」をこういう形で露呈する事は最悪のやり方といえよう。

ともあれ、初めて沖縄からまともなコメントを下さる人が現れてホッとしているところである。

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Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
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