2017-08

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満潮とともに出撃命令

 タイトルは、沖縄のドキュメンタリー作家・上原正稔(うえはらまさとし)氏が1996.6月1日から、琉球新報朝刊に13回に亘って掲載したコラム「沖縄戦ショウダウン」第1回目の見出しである。副見出しは「2等兵、慶留間に上陸」である。出撃と言っても、海上挺進隊マルレの出撃ではない。米軍が慶留間島に上陸・攻撃した事をいっている。
「沖縄戦ショウダウン」原文は、元米陸軍2等兵、グレン・シアレス氏が晩年、言述した従軍物語である。これを読んだ上原氏は、シアレス氏のハードボイルドな戦闘ぶりに感動し、また実際にシアレス氏が目撃した慶留間・渡嘉敷の住民「集団自決」の有様を読んで、その真相を知る重要な鍵を見つけたそうである。そして、翻訳し注釈を付けた論考を「沖縄ショウダウン」という題で、琉球新報に連載する事になったという。


シアレス氏の戦闘の緒となったのは、満潮の早朝、慶留間島への上陸作戦だったそうである。その満潮の時というのは、外でもなく1945.3.26の早朝である。同じ時に、赤松隊は干潮による引き上げ不能を理由に、特攻舟艇を自沈させている。米軍の上陸隊は岩礁を避けるため、「満潮とともに出撃命令」が下されたとされているのである。
ここで計らずも、和田さんが潮位表を詮索して推理した、「ある神話の背景」の記述の大嘘を、敵軍兵士の回顧録が証明してくれた。

 この連載の構成は、まずシアレス氏の物語を紹介して、間々に上原氏の注釈(集団自決への見解・戦闘物語への称賛)を挟んでいくものである。シアレス氏の文章と上原氏の注釈文は同じ位の分量がある。確かに、激戦を生き残ったシアレス氏の文章には迫力があり、実際の戦闘場面(日本兵との殺し合い・集団自決の再現場面など)は、あたかも戦争映画を見ているような気分にさせられる書き方である。元日本兵が語る戦闘回顧録はこんなに生々しい書き方はしないと思う。それだけに読み応えは有るのだが・・・。

ところで、「集団自決」への上原正稔氏の見解であるが、氏はこの物語を読んで、「隠されていた秘密を解き明かす重要なカギとなった」と書いている。しかし、シアレスの目撃談は、今まで知られてなかった「事実」を明らかにした部分はあるにせよ、それはこれまでの検証と矛盾する事があるので、これ自体に検証の必要があると思える。また、たとえシアレスが見た事が事実だとしても、これが「秘密を解き明かす重要なカギと」なるようには私には思われない。

今回1回目だけテキスト化したのだが、これから、徐々に資料アップして検討を加えて行きたい。

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コメント

和田さん
この写真のことですか?
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=upload&act=open&page=%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E7%94%A8&file=%E9%9C%87%E6%B4%8B%EF%BC%9F%E3%81%AE%E6%AE%8B%E9%AA%B8%EF%BC%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%EF%BC%9F%EF%BC%89.jpg

おそらく震洋でないことがわかって削除したのでしょう。
和田さん、大事な写真はご自分でキープしておかなければ、いくらぼやいても後の祭りですよ。

この写真から「爆雷はどうした」を類推することは到底不可能だと思います。

なお儀同さんらの考証では、爆雷は120キロ陸軍制式爆雷(写真:http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage14.html 私の推定:小ドラム缶、炸薬の比重を1.5と仮想すると内容量80リットルくらい)2個を縦に結束して搭載したそうです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2283.html

更新で写真削除される

「145」を参照して下さい。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinyo-his.htm
上記は、2009/10/6日更新され、米軍とマルレの残骸(複数)が掲載された写真が削除されています。

何隻か壊れたマルレの写真があり、爆雷が装着されていなかったことがわかる写真でもう一度見ようと思ったのだが。 このサイトのオーナーが赤松擁護のために写真を削除した可能性があります。

ただ、渡嘉敷島公式サイトなど複数のサイトにある十隻ばかりのマルレが渡嘉敷島に浮かんでいる写真はまだほとんど残っている。米軍が上陸後撮影したもので、後部に爆雷装着を確認出来るものはなかった。
240キロの爆雷を後尾に装着したマルレを一旦沈め、(海底に沈んだ120キロの爆雷を短時間に揚げる作業は極めて困難と思われる)その後浮かんだのであれば、先端が上がり、後尾が沈むのでなければならないが、ほとんど水平に浮かんでいるように見える。

このことからも、爆雷を装着出来なかったマルレが存在したことは確かと思われる。

皆本陣中日誌に地雷を埋めた図がある。一ヵ所に一個づつか不明だが、勤務隊にも地雷そのものの装備はなく爆雷の転用と思われる。(ある神話の背景にマルレ自沈後爆雷を地雷として海岸に埋めた話がある。これも装着出来なかった地雷と思われる。)

下記右側の写真を見てほしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinyo-his.htm
説明ではフィリピンの震洋の残骸となっているが、亀の頭のような先端の形状などから渡嘉志久ビーチだろう。 立っている米軍から、海面といっても水際であることがわかる。
この程度の自沈が隠匿といえるのか。 これも泛水時が満潮に近いことが納得できる写真です。

http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_51.pdf
38-40ページをよく読んでほしい。
「ある神話の背景」、「戦史叢書」、2つの皆本回想とはまた異なる内容である。
誰が書いたものか不明だが、改竄を続けているうちに別のバージョンが生じてしまったのだろう。

>(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)

私はこの記載を、北山にて阿波連部落の人が百数十名自決したと、読み流していましたね。谷本はどこからこのソースを持ってきたのでしょうか。戦時中の情報か、それとも米軍記録などからの後付でしょうか。

 戦闘に関するものはともかく、「集団自決」については信じがたいですね。この連載から13年が経ってますが、阿波連で大規模な「集団自決」があったという報告や証言は、私は聞いたことありません。沖縄の研究者がこの「沖縄戦ショウダウン」について、言及した論考を見た事もないですね。
 30日に出る「うらそえ文藝」を早く読みたくなります。

尚、小生は明日から住居移転作業に取り掛かりますので、しばらくネットから離れます。

「沖台 沖縄209」日誌部分には、
「三月二十九日-悪夢のごとき様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)」
このような記述は一切ありません。
(三月二十八日を含めて集団自決・玉砕にかかわる記述はない)

谷本版「陣中日誌」自体が、米軍戦闘記録も踏まえた後知恵ではないでしょうか。「戦史叢書」1968刊は米軍記録と赤松らの聴取とのブレンドです。

「沖縄戦 ショウダウン」の3回目をHPに掲載しました。その中に、

「渡嘉敷では「恩納ガーラ」と阿波連の川の上流で二つ「集団自決」があったことになる。」
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown1.html#aharenjisatu

と上原氏は記述してます。シアレス氏の記録と、谷本版「陣中日誌」の

「三月二十九日-悪夢のごとき様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面においても百数十名自決、後判明)」

の記録が符合する事を、上原氏は言っているわけです。だが、私は、これは両方の事実誤認が偶然一致しただけだと思いますが。

金城武徳氏が曽野綾子に玉砕場を案内したのは、金城武徳氏が『玉砕場守り』を担っていたからではないでしょうか。また、赤松を慕っていたのは、赤松の宿家の「坊や」だったからではないでしょうか。

裁判時には赤松擁護の地元のまとめ役を買って出ていたようですが、わたしは、金城武徳氏があたかも「陰謀団」の一員であるかのようにいうのは全く納得ができません。

渡嘉敷村史に寄せた金城武徳氏の手記は、そのときの行動を偽りなく書いたものだと思います。本人は気がついてないかもしれませんが、曽野「ある神話の背景」の破綻の傍証にもなり得るものだと私は思っています。

チャンネル桜が撮影した彼のインタビューでは、放映分では玉砕までの体験の具体的部分が削除されています。

キー坊さん
http://www.okinawa-senshi.com/aka-geruma.htm
上記によると慶良間島などへ26日8時頃上陸。気象庁の当日石垣島の満潮は6時38分。
慶良間の満潮は7時前後とみて大過ない。
米軍艦船は満潮を利して海岸線奥深く進入。
上陸兵員は、干潮に向かい出した頃ずぶぬれになることもなく干潟を上陸。 まさに理想的なタイミング。

曽野綾子の「ある神話の背景」の嘘ではあるのですが、元はといえば赤松の嘘でしょう。
出撃寸前までいった泛水作業の労力と時間に影響を与えた潮位のことは死の直前まで忘れるわけがありませんね。
「沖縄ノート」にこんな記載があります。
「つづいてかれ(渡嘉敷の守備隊長)は自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。」

まさに、はまっている表現ではないでしょうか。

さて、撃論ムック「沖縄とアイヌの真実」に皆本の記載内容には、おもしろいことが満載。

その中に曽野綾子が渡嘉敷島を訪れた時の案内約をした人物が金城武徳だったとの記載がある。 「ある神話の背景」で自決場を案内した人物には実名が記載されていない。
私は密かに金城武徳ではないかと疑っていたが当たっていたようだ。

これで上原正稔氏が赤松を悪く言う者はいないと語る三羽がらす-安里・大城・金城武徳-は曽野綾子が早い時期に会見したことが明らかとなった。 奇しくも第三戦隊直属以外の赤松擁護者トリオに上原・曽野ともども接点があった。

nio615さんにしかられそうだが、私は上原氏は曽野綾子に感化された可能性があるのではないかと推測する。 少なくとも検証する価値はあると思っている。

>キー坊 さん
レスありがとうございました。「沖縄戦ショウダウン」の我ながらの検証に努めたく、よろしく転載お願いいたします。

ni0615さん。

曽野・太田論争は確か1985年の事です。

上原正稔は、この「沖縄戦ショウダウン」の注で、94年か95年にこの原稿を読み強く感動して、渡嘉敷島の戦闘の真実を探らなければならない、と感じ、現地へ渡って、武徳・良平から聞き取りをし、本島の知念・比嘉らからも聞き取りを行った結果、
「一人の人間をスケプゴートにした沖縄の人々の責任は限りなく思い。筆者も現地調査をしてをして初めて人間の真実を知る事が出来た・・・」と書いています。

上原正稔が聞き取りしたという内容は、彼らが何十年も前に、県史や「ある神話の背景」に述べている事です。
「沖縄戦ショウダウン」は幾つもの疑問符が付くドキュメンタリーです。

上原正稔氏は「土俵をまちがえた人」(太田良博)頃はまだ、そこに名前が登場しますhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/106.html。赤松や日本軍擁護に転じた契機は何だったのでしょうか?

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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