2017-11

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「生贄の島」について③

 「生贄の島」は、従軍女子学徒とそれに関わる戦場の、多くの人間たちの生き死にの情況を精緻に描いている。学校の教師、日本兵、住民、米兵等々。だが、この作品には、あの修羅場となった南部の戦場の全体像、及び日本軍の姿というものが現れてこない。個々の人間たちの悲惨な情況は詳しく書かれているが、それは写真の一枚一枚をズラリと並べたようなものである。あの狭い南部の戦場で数十万の住民と兵士と従軍学徒たちが、地獄の底でのたうち回っていたていた様相が伝わってこない。

太田良博の「戦争への反省」によると、5月下旬、首里の司令本部を放棄した時点で、沖縄戦の決着は付いており、南部へ退却して戦闘を長引かせる事は、住民の犠牲を徒に増大させる事になるのは目に見えていたそうである。牛島中将が自決するならその時点でするべきだったとする。戦闘を1日長引かせれば、1日数千の住民戦死者が出る事は必然だった。南部戦線におけるあの数万の住民の死、女学徒の死は「無駄死」にであったと断定している。沖縄戦は、なるべく本土決戦を遅らせ、講和を有利に持ち込むための「捨石」作戦であったとする。
 島田叡県知事は、首里撤退後の作戦会議の席で、「知念半島を無防備地帯とし、米軍に通告し、住民をそこに避難させる事」を進言したが、軍に拒否されたという。組織的統制を失って、敗残兵と化した日本軍は非戦闘員である住民のひしめく南部一帯にまぎれこみ、兵士の何倍もの沖縄住民、及び女学徒を巻き添えにし、命を無駄に棄てさせたのである。
 仲宗根政善が月刊「潮」(71年11月号)に載せた証言では、「恩をアダで・・・」と題して、日本兵によって壕を追い出された事などへの恨み辛みを吐露している。この証言でも、島田知事は日本軍の南部への退却に反対したが、牛島司令官に拒否されたと書いてある。
 「生贄の島」にはそんな事に関しては全く描かれてない。それどころか、逆に住民が拒否したら、素直に引き下がり、医薬品まで与えた軍医の温情的行為を紹介している。

「三和村の村長・金城増太郎は、ある日、彼らの入っていた壕を開け渡せ、と言って来た兵隊の前に立ち塞がるようにして応えた。『どうしても出ろ言うなら、出ます。しかし、隊長にお伝え下さい。私たち村民はすでに三度も、壕を明け渡して移動しています。ここを出たら、私たちは行く所がありません』 (中略) 兵を帰したものの、金城村長はその言葉が受け入れられるとは思ってなかった。…… しかし、しばらくして、その兵隊はひとりで帰ってくると、いった。『佐藤軍医殿にそのことを申し上げたところ、後方で壕を探すから、明け渡さなくてよろしい、とのことであります。それから、これは佐藤軍医殿からことづかってきました』
兵は一包の品物を、拍子抜けして立っている金城増太郎の手に渡した。金城はそれらを開いてみた。量は僅かだったが、中には、ヨーチン、包帯、ガーゼ、モルヒネ、注射器などが入っていた。・・・ 金城増太郎たちは、その後、別の部隊に追い出された。」
(「生贄の島」講談社刊p159~160)

読む者を感動させそうな軍医のはからいである。しかし、金城増太郎たちはその前に、日本兵に3度も壕を追い出されているのであり、その後、結局その壕も別の部隊に追い出されているのである。そんな事については、曽野は詳しい記録をする事はない。「生贄の島」全体に、日本軍の残虐行為を一切書いてない。200名もの体験者からの聞き取りを行ったはずである。その中に、日本軍の非道な行為を証言した人が皆無だったとは考えにくい。月刊「潮」(71年11月号)では、100人もの体験者が日本軍の残虐行為を証言しているのだ。
この作品は、そういう趣旨のノンフィクションではないと言われればそれまでだが、後々の「ある神話の背景」へ向けて、この作品で曽野が恣意的な取捨選択を行い、「露払い」の役を果たしたのは明白である。

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コメント

このへんでこれは終わり

潮位のことでもうあなたと論議するのは無駄ということは、よくわかりました。
 
しかし、まだ事情を飲み込めない読者に2,3、参考事項を説明してこの件は新たな攻撃を受けない限り、終わりにします。読者自身の判断にまかせようと思います。

一つは例の「罪の巨塊」誤読事件との比較です。  この場合、大江健三郎は作者で曽野綾子は読者でした。おそらく曽野は「悪の巨塊」を「悪の巨魁」と類似語であると即断したのでしょう。 しかし、作者の意図は極悪人の意味で使用したのではなく、大きな罪の意味で使用していた。  このことは正しい文法として確認出来る。 ところが、曽野綾子は文法、つまり文章全体の構成からではなく、単に単語の類似性から「罪の巨塊」の意味を即断した。 これは曽野綾子が発音の類似性から、「未必の故意」を「未必の恋」と思い込んだ癖と同じことでしょう。 

   裁判長は、(大江の文章は難解で)罪の巨塊を極悪人と受け取る人もいるであろうと認定し曽野綾子の解釈に一定の同情を寄せました。   nio615さんや山崎行太郎氏は、誤読は誤読だという立場で曽野綾子の立場に理解を示すことはなかったわけです。

いうまでもなく、「ある神話の背景」の作者は曽野綾子です。 「おおむね干潮であった」というのと「潮が引き始めた」とは表現だけではなく、現実の意識や意味において全然、異なるものがあります。

潮が引き始めたということは、潮目の変わり目・ターニングポイント・トレンド転換・状態というより状況の急変に他ならない。 それを単に文学的修辞-表現の綾であり、長期の状態と同じと解し混同することは出来ない。    曽野綾子が読者ではなく、作者であること、重大な嘘であることに鑑み、「罪の巨塊」の誤読とは比較にならない悪意に満ちた事実の改竄と判断する。

  海軍の意識では太平洋戦争の決戦はマリアナ沖海戦であり、日本軍の戦死者が最大の地域はフィリピンである。 しかしながら、全ての戦史の記述がそうであるように海戦に於ける太平洋戦争のターニングポイントはミッドウェー海戦であり、陸戦に於けるターニングポイントはガダルカナル島の戦いである。
壇ノ浦の海戦や朝鮮の役において勝者は潮目の変わり目を待って勝利した。 

たとえ、干潮付近の泛水時間が同じであっても泛水作業を行う人間の意識は全然違う。   「これから泛水が終わるまで、海がどんどん遠ざかる」と意識するのと「これからは海が遠ざかることはない。どんどん海が近づいてくれる。」と思うのは違う。

登山において同じ高低差を行き来するとしても、日暮れまでぎりぎりの時間が登りであるのと、下りであるのでは心のゆとりと疲労度が全然違う。

  一緒に闘っていた部隊が遠方に引き揚げこれから孤立無援で闘う状況と、戦線崩壊の危機にある状況で援軍が来るのとは全然違う。第四次川中島の戦いで武将の多くが戦死しながらも武田が持ち堪えたのはもう少し持ち堪えれば、(もぬけの殻であった)1日前の上杉本陣を攻めた味方が帰ってくるという期待があったからである。

  全滅寸前の部隊が援軍到来により、感涙にむせびつつ勇気百倍、どこにそんな力が残っていたのかと敵に逆襲・勝利する例は戦史上、枚挙にいとまがない。

潮が引き初め、これから泛水終了まで海がどんどん遠ざかると思えば意識せずとも腕は萎える。一隻だけ泛水しているのとはワケが違うのだ。  干潮が終わったとたん、意識は変わる。もうこれからは楽になると。   曽野綾子の誤読を批判した者が曽野綾子の嘘に理解を示すのは奇妙である。

和田さん
>潮位ソフトを操作し潮位時間を確認することもすべて怠った上で、狼魔人や曽野綾子の肩を持つ理由は、いったいなんなのですか。

和田さん、私はあなたがいうようなことをしておりませんので、貴方を笑うしか私には術がありません。
(余りにも馬鹿馬鹿しいインネンなので、25日に保存した潮位グラフのスクリーンショットをコメントなしに明朝までアップしておきましょう。私はこのデータにもとづいてここ数日の意見を申上げています。)

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/900.html
和田さんだって、潮位をたしかめているのですから、泛水作業をしていた時間帯が、低潮位の時間帯だということは認めているのでしょう。

あとのことは、既に申上げています。何度も申上げますが、曽野が「汐が引き始めた」と書いたのは、タカピーな文学少女の大チョンボでしょう。まあ文科系のアタマの人には心地イイ間違いなのでしょう。心地よすぎて夜明けになっても引き潮のままかと思い込む人もいるとか。

チョンボではありますが、高い潮位の時間帯で泛水したのでないから、艇を持ち上げて運ぶ距離が長かった、という記述自体は事実に反していません。

もっとも、マルレの泛水困難を汐の満ち引きのせいにしたら「何の為に訓練していたんだ」という一喝でオワです。マルレは夜間出陣が鉄則で潮目を選ぶことなど出来ないのですから、こんな言い訳が通らないのは当たり前です。「プロ軍人」のプロたる所以は何処へすっ飛んでしまったのでしょうか? 冷静に読めるひとは、赤松に同情どころか軽蔑の気持ちが増すのです。

私は、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という感情はありながらも、批評に於てはそれを避けたいですねえ、と自戒したいだけです。曽野綾子を陰謀家として罵倒するよりは、書いていることが間違っていますよ、と読者に冷静に伝えるほうが、よっぽど曽野さんへのダメージになりますよ。

和田さんは結局これまで曽野綾子を誹謗しただけでしたか? 貴方の立論がどのようなものか私は再三お尋ねしましたが、文章は長いけれども明示的なものはお示し頂けなかったと思います。まあ、私の差し上げた図を使ってかまいませんから(ご自分でダウンロードしてくださいね)、きちんと曽野綾子本人に読ませることができる、キチンとした立論を期待しています。


ところで、曽野本を何度も読み返してみましたが、ようするに、

1)大町大佐がグダグダいったから時間がかかった
2)泛水のプロである勤務隊を対敵警備に当てるという大チョンボを侵し、朝鮮人しかいなかったから上手くいかなかったと泣き言をいう
3)ようやく出陣というときに指揮艇がエンストするなど、さまざまなミスが露呈した。
4)あれやこれやしているうちに空が白み始めた
5)もはや自沈するしかなかったが、2艇だけ(煙幕で隠しながら)引揚げた。

という顛末でしょう。
確かに「潮目」も責任転嫁のツールに使っていますが、なんか情けないですね。


和田さん、
阿嘉島ニシ浜の勤務隊が作っていた「神楽」。「神楽桟(機にあらず)=かぐらざん、かぐらさん、おかぐら、ろくろ」というものだったのですね。貴重な情報ありがとうございました。滑車をつかった何かなのでしょうね。ゆっくり研究します。

わからない

私は、曽野綾子が赤松隊と個別に一人一人会ったという嘘と、泛水時の潮位の嘘については誰も反論出来ないはずだと自信を持っていた。

 ところが、その両者について狼魔人に「荒らしと思われて当然だ」という趣旨のコメントが出た。

私としては、考えられることは私が依拠している読売版「ある神話の背景」の潮位にかかる記載とその他の版では潮位の記載表現が異なること以外考えられなかったので、どうして他の版を全部収集すれば良いか-確認可能か-と考慮していた。

しかし、今回のことでキー坊さんの読んだ「ある神話の背景」の潮位の記述も私の読んだものと表現が同じであることが分かった。

キー坊さんがわたしの云いたいことの7割程度を説明してくださった。   私にはさらに言いたいことがある。

私のような慌て者の読者が斜め読みで読めば、あるいは「ある神話の背景」の「それに加えて、潮が引き始めた。持ち運びの距離もそれにつれて長くなったのだ。」との記載を「泛水作業は、おおむね干潮に近い時間帯で行われた」と誤読する余地があるのかもしれない。  もっともそのような誤読内容も事実と言い切れないが。(曽野が言うように泛水開始と完成を遅く設定すると) 

  
曽野綾子は読者ではない。作者である。   
「それに加えて、潮が引き始めた。持ち運びの距離もそれにつれて長くなったのだ。」との表現は連続する一体的文章である。  潮が引き始めたとは、満潮から干潮に向かって転換したことを意味する。  持ち運びの距離もそれにつれて長くなったのだとは、島の海に近い特定地点から海が遠ざかることを意味する。  間に文章が挟まるのではなく連続した一体的文章で、同じ事を異なる視点で語っている。   このような性格の一連の文章が、作者の単なる「文学的修辞」、つまり単純ミスのような感覚で書かれるはずがない。 

 曽野綾子は、明らかに嘘と知りつつ嘘を書いているのだ。
「ある神話の背景」の潮位該当箇所を確かめることも、私の記事内容を確認することも、簡単に操作出来る潮位ソフトを操作し潮位時間を確認することもすべて怠った上で、狼魔人や曽野綾子の肩を持つ理由は、いったいなんなのですか。

書いていますが

潮位のこともここに書かせて下さい。
私は以下の番号のコメント投稿で潮位のことに触れているのですが簡単に操作出来るソフトを動かさない他人のことまで知りません。

[80]
朝夕の嘘と島民の沈黙
気象庁の潮時表というシェアウェアソフトを利用して1945/03/26渡嘉敷の高潮位・低潮位を推定しました。サンプル上渡嘉敷に近いのは24.20N 124.1Eの石垣島と32.39N 129.44Eの長崎県高島であった。 一方渡嘉敷ピーチ付近の緯度を地図ソフトで調べると26.19N 127.35Eであった。
赤松隊泛水時1945/03/26午前の石垣島の低潮位時刻0時16分、高潮位時刻午前 6時38分。長崎県高島の低潮位時刻0時52分、高潮位時刻午前7時19分。
このことからマルレ泛水時渡嘉敷での高潮位時刻は午前7時近辺ということは宇宙物理学上否定できない事実である。当然、それ以後に潮が引き始める。

ところが、曽野綾子は「ある神話の背景」でこう記述した。読売版266ページを引用する。
「午前零時、出撃準備命令が発令されていた。・・・・普通の場合でもそれを三十人で下ろすという無謀を訓練で補っていたのである。それに加えて、潮が引き始めた。持ち運びの距離もそれにつれて長くなったのだ。」また読売版267ページでは「下ろすのに五時間かかったのだ」

事実は曽野の言に反し、潮位が高くなる中で「持ち運びの距離がそれにつれて短くなる中で」泛水作業が行われた。
赤松主導の嘘か、曽野綾子独断の嘘かは明らかでないものの、赤松等が泛水当日の朝夕状況を忘れることはありえないので意図的な嘘といって間違いない。
[85] 潮位表返信
実はエクスプローラーのバージョンを8に上げようとしたら混雑していたせいか上がらずツールバーなどが消えてしまいました。

入力するにも苦労するのですが潮位表以下のリンク
http://www.twin.ne.jp/~sakamaki/
の中左3番目の潮位表ソフトを開いてください。
そしてダウンロード。サンプル版は地点が少ないのですが正式ソフトを購入すれば渡嘉敷も地点に含まれていることがわかります。

私は、そこまでやっていません。
是非ホームページに潮位グラフを掲載してください
[139] 那覇の潮位
那覇の潮汐表見つけました。
http://www.ten21.co.jp/4703.htm
上記の右側月単位表示にして1945年4月まで
戻り、日単位表示に切り替えることにより
1945/03/26日の満潮時間などにたどりつけます。

予想時間と変わりません。 那覇と渡嘉敷は数分程度の誤差でしょう。

キウマとロクロ

自然現象と工具器具など、理科系のことはこの欄を使用させて下さい。

「基地隊陣中日誌」に記載された木馬と神楽については、どのようなものかはっきりしました。 主に江戸時代に使用されたものでしょう。  紛れはないでしょう。  木馬は、キウマ叉はキンマと読むようです。
http://furusatosaku.naturum.ne.jp/e381802.html
神楽の正式名称は、神楽桟で、ロクロと読むそうです。

http://www.monotsukuri.net/wbt/wbt_soseki/s0414/s0414.htm
http://www.monotsukuri.net/wbt/wbt_soseki/s0417/s0417.htm
この目次から全貌がわかります。
http://www.monotsukuri.net/wbt/wbt_soseki/mokuji/mokuji.htm

どちらも昔、写真やテレビで見た記憶があります。 写真と解説に尽きていて特に説明することはありません。
一言だけ言えば産業革命以前の代物と思えます。

不手際

キー坊さん

>私は、(大佐を含めて)赤松隊幹部が命を惜しんでの故に、ワザと不手際を重ねたのではないかという疑惑を持つのです。

それが本当なら凄い疑惑ですね(笑)。

私は、慶良間3隊の中で赤松隊は舟艇壕の建設にしても、隊指揮運営の上でも、問題児だったと思います。鈴木元基地隊長が大町船団長と渡嘉敷で合流する予定だったのは、その辺の問題解決のためだったと思われます。(勤務隊長西村大尉とのギクシャクは降伏時まで引きずっていたのでしょうか? 3月25日を最後として陣中日誌(両者)に名前が一切登場しません。)

米艦隊襲撃はそうした赤松隊の根本問題を隠蔽してしまいましたが、26日未明の泛水作業において、モロにその構造的な欠陥が顕れたのだと思います。

泛水が終わったのが04:00だといいますが、発進しようとしてエンストを起し発進できなかったのは恐らくその前のことだったのでしょう。発進できなかったのは、泛水に時間がかかっただけではなさそうです。

(青白き公達赤松大尉殿下は全く無頓着なようですが、マルレのエンジン冷却水は「海水」だったとの事です。整備隊員はそのために起こるエンジン故障のリカバリーに涙ぐましい努力を払ったとあります。>>海上挺進基地第3大隊戦闘概要 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2260.html#id_4a273a29

夜明けは満潮と伴に

ni0615さん。レスをどうも。
>それより私が強く思った曽野綾子の嘘は、一例をあげれば、「いままで泛水を手伝っていた基地隊は・・・」 といった表現です。

おっしゃるとおりで、ゼネストをやったなどと、軍隊の指揮系統を無視した曽野の記述はまったくの嘘に違いないです。引き潮の嘘より重大な嘘だと思います。「ある神話の背景」には赤松隊をいい子にする為に、他の軍人達を悪役に仕立てて弁護している部分が多々在ります。基地隊、大町大佐、隣の第二戦隊、留利加波に関する本部参謀など…。

 それでも、潮の満ち干という自然現象についての嘘を使ったという事は、重大度は別にして、バレテしまえば余りに明瞭な欺瞞である事が、誰にでも判ってしまうと思うのです。

「それに加えて、潮が引き始めた。持ち運びの距離もそれに連れて長くなったのだ。珊瑚礁が、白骨の山のように長々と泛びあがる。……」(p117)
で、明らかな嘘記述をした後に、
「 夜が明けてしまえば、ベニヤ板の船が飛行機に狙いうちされながら、本島まで辿り着けるものではなかった。大町大佐は再び艇の揚陸を命じた。」(p118)

お持ちの潮位表でお分かりと思いますが、26日の満潮は日の出と重なっています。曽野の記述では夜明けの寸前に、大佐は揚陸を命じたとなります。26日になって潮は引き始めていて、日の出の寸前に揚陸を命じたが、それが(干潮の為)不可能だったので、大町大佐は自沈命令を出したというのが、曽野の記述です。日の出は満潮時だから、明白な嘘です。

干潮の為に揚陸を命じたとは、その部分では書いてないですが、記述の流れと日の出・潮位の事実を対照すれば、曽野の明瞭な嘘が判るのではないでしょうか。
その当時の潮位については一般の読者には判るまい、と思って、赤松が曽野綾子に嘘を書かせたと思います。曽野はそれが嘘でも何でも、赤松弁護の材料になるものは、躊躇いなく使ったのでしょう。不出撃について、このように嘘を重ねる曽野・赤松の態度から、私は、(大佐を含めて)赤松隊幹部が命を惜しんでの故に、ワザと不手際を重ねたのではないかという疑惑を持つのです。

キー坊さん
こんばんは

私も、午前零時に「それに加えて、潮が引き始めた。」は、間違ってると申上げましたので同意です。
私が申上げたのは、曽野は自沈時が引き潮だったとは言ってない、ということです。

さて、誰かが
「そのとき汐が引いていましてね」
といったとき、それの受け取り方は様々でしょう。

1)「その時、汐が引き始めた」と受け取る
2)「その時、潮位は最低であった」と受け取る

曽野は、1)とうけとり、ドラマツルギーとしても1)のほうがリズムがでる、と無意識に考えたのかもしれません。もしそうなら、これはウヨクだからなせる虚偽というよりも、文科系才女のやりがちなイイカゲンさ、というべきかも知れません。そんな訳で、曽野の罪としてはこの問題は軽い部類ではないかと思っています。

それより私が強く思った曽野綾子の嘘は、一例をあげれば、、
「いままで泛水を手伝っていた基地隊は・・・」
といった表現です。

基地隊に取って、泛水は、手伝うものではなくて、主任務です。

そこところが曽野の大きな虚偽です。泛水に手間がかかったのは、基地隊を主任務に邁進させなかった、赤松の指揮の誤りでしょう。

もともと潮目を選ぶことが出来ない夜間泛水・夜間出撃が基本なのですから、潮位が低い時の泛水作業はあらかじめ心積もりしていなくてはならないことです。しかし、それを理由として強調するところに、大事なことを隠す虚偽性を強く感じます。

赤松の指揮のミスを覆い隠し、墨を他人に塗りつける為に曽野は、「ストライキ」という修辞で勤務隊を貶めています。また、赤松の命令理解の曖昧さ逡巡の罪を、大町大佐のセリフ「貴様にげる気か!」に転化することにも成功しています。

自沈時は満潮時

ni0615さん、私はむつかしく考えてません。
『ある神話の背景』(集団自決の真実p116・12行目)に、
「既に三月二十六日になっていた。悪夢のような時間が過ぎていく。…(中略)… それに加えて、潮が引き始めた。持ち運びの距離もそれに連れて長くなったのだ。珊瑚礁が、白骨の山のように長々と泛びあがる。……」

実際は、三月二十六日になって直ぐ(00:05)に干潮のピークを迎えて、それからは、潮は満ち始めるのです。朝の何時の時点で大町大佐は自沈命令を出したか、資料では分らないのですが、払暁(夜明けの頃)である事に違いないのであって、満潮ピーク時(06:30)より少し前ではないでしょうか?

これで、数ある曽野の嘘のうちの一つが明らかになったというに過ぎません。が、一事が万事、曽野綾子『ある神話の背景』は、嘘満載の謀略書という事が明白になったのではないでしょうか。

Re 潮位表

キー坊さん
レス有難うございます。

私も同様なデータを最近「図」として手にいれましたので、潮位にかんしてはキー坊さんの知識に少しは追いついたかと思います。

典拠が曽野「ある神話の背景」だとすると、「午前零時を過ぎて汐が引き始めた」というのは間違いですが、引き潮で露出した珊瑚礁の長い距離のあいだ連絡艇を運ばなければならなかった、という泛水作業の困難性は、午前2時ごろまでは尤もな説明だということになります。

また、曽野は自沈時が「干潮」だとも「満潮」だとも言っていません。説明が足らず「いつまでも干潮だった」と読者を誤解させているではないか、という批判は成立するかもしれませんが、説明が全く逆だとまではいえないと思います。

曽野自身が
>「干潮」の為に、引上げ困難と成り、作業を断念して舟艇を自沈せざるを得なかった

という「真っ赤な嘘」を言ってるかどうかは、きちんと引用して適否を判定したいと思います。藁人形タタキをやることは相手に得点を与えることになります。潮汐図の掲示も必要ですので、私のブログで行ってみたいとおもいます。そのときにはよろしく御意見くださるようお願いします。

潮位表

ni0615さん。
「『干潮』の故に、それが不可能だったので泣く泣く艇を自沈させた」という赤松の弁明、これについての資料は、私も『ある神話の背景』の曽野の記述以外知りません。これが「虚偽」だから、それ以外に資料は無いのでしょう。

最近、1945.3.25~3.26の那覇の潮位表を入手しました。渡嘉敷もほぼ同じだと思います。 自サイトにアップしようと思いましたが、技術が未だ拙くて、出来てないです。
その表によると、3月25日の那覇の満潮時刻は、06:04と17:37です。干潮時刻はその中間の11:37で、その次の干潮は24:05です。(つまり26日00:05)
3月26日は、06:30に最初の満潮がきます。それは赤松隊が大町大佐の命令により、マルレ艇を自沈させた時間帯です。あの遠浅の渡嘉志久湾では満潮でなければ、船は沈めても水中に隠れないと思います。(占領後米軍がとった、浅瀬で残骸を晒しているマルレの写真があります。日本の軍人はなんて愚鈍だったのか呆れさせられますが、これを見ても彼らが命が惜しさに自沈させたのではないかという疑惑が晴れません)その後26日の干潮時刻は12:24です。

泛水に時間が掛かったというのは、本部電報を前にして赤松が悩んだという事と、大町大佐に泛水中止命令を出された事を理由としているようです。
25日17:37(満潮)から26日00:05(干潮)に向かう時間帯で、3分の1の泛水を終えたが、電報で悩んだ。そこへ到着した大町大佐に作業を中止されて時間を食って、それから全艇転進の命を受けて、干潮から満潮(06:30)へ向かう時間帯で全艇の泛水を終えたのです。
「干潮」の為に、引上げ困難と成り、作業を断念して舟艇を自沈せざるを得なかったというのは、曽野綾子(及び赤松元隊長)の真っ赤な嘘である事は、この潮位表で完全に検証された事になります。

「沖縄戦ショウダウン」の記述でも、26日朝の上陸時は「満潮」とともに出撃だったとあります。(さんご礁の岩肌で船底を傷つけない為)
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown1.html

米軍の記録でも、阿嘉・慶留間への上陸時間帯は26日am8時から9時の時間帯とされていますね。
http://www.okinawa-senshi.com/aka-geruma.htm

赤松氏の弁明について

[C155] について
キー坊さんにお尋ねします。

>夜が明けてしまい、計画が露呈するのを恐れた大町大佐が出撃中止・再引き上げを命令したが、「干潮」の故に、それが不可能だったので泣く泣く艇を自沈させたというのが、赤松の弁明です。

多数の史料があって私が失念しているのだと思いますのでお尋ねします。赤松氏が、「干潮」のゆえに「曳揚」困難だったと弁明している史料とは何ですか?

たとえば「ある神話の背景」 では、汐が引いていたので「泛水が困難」で時間がかかり、泛水完了は夜明け前になってしまった。兵達は疲労困憊、夜明けまでの残された僅かな時間では「曳揚」は到底おぼつかなかった、という表現があります。「干潮」は泛水に時間がかかった理由であり、曳揚に時間がかかった理由には挙げられていません。

キー坊さんが仰るように「夜明け時が満潮」ならば、泛水真っ盛りのときはまだ潮位は低かったということもでき、曽野の文章はそれほど間違っていない、ということになりませんか?

キー坊さんが仰るような「赤松の弁明」、出典を1個でも教えてくだされば幸いです。

結城伍長(2)

キー坊さん
レス有り難うございます。

>この(谷本版)本文の書き方は、誰が連行したのか紛らわしいという事ですね。

1970年に書き加えたという不審はありますが、構文には、特に欠点はないと思います。「誰が」「誰を」連行したかは明示的に書かれていますので「紛れ」もありません。

Re: 結城伍長

>ni0615さん、

> 谷本版陣中日誌はこうです
> >>海軍水兵兵長、吉田実、陸軍一等兵川崎貞一、国頭方面より儀志布島に漂着、第三中隊の斥候結城伍長本部に連行。

この(谷本版)本文の書き方は、誰が連行したのか紛らわしいという事ですね。事実は、吉田と川崎を、結城が連行したという事。

結城伍長

和田さんは、おそらく弊ブログ収録の谷本版「陣中日誌」をお読みになって、

>谷本版陣中日誌に拠れば、1945/8/16米軍との投降会談の直前、(沖縄県史-知念証言に記載のある)隊長命令であろうが出撃すると言って操縦桿を握ったまま海に沈み引き上げられた結城伍長が連行されている。

とお書きになっていますが、
「結城伍長が連行され」たという記述は何処にもありません。

記述は
>>海軍水兵兵長、吉田実、陸軍一等兵川崎貞一、国頭方面より儀志布島に漂着、第三中隊の斥候結城伍長本部に連行。
です。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1438.html#id_61f838d1

この文章では、結城伍長は「連行された」のではなくて、国頭方面から漂着した3兵士を「連行した」のです。

時計はあったはず

こんにちは。出撃は全部のマルレを泛水していると時間がかかるのだから、例えば10隻だけ泛水して出撃させるとかの方法は考えなかったのでしょうかね。東の空が明るくなる時刻が近づいているとわかっていたなら一部のマルレだけでもよかったのではないでしょうか。

上陸後の輸送船が標的

阪神さん
泛水の難易はいろんな条件が絡むと思います。 まず海岸の地形、壕の数(間口と奥行き)、次に潮位、労働力、月齢(明るさ)、準備・着手の早さ、敵の位置等等。
よって一概にいえないが金武湾では干潮時に4時間、満潮時に3時間かかっているようです。 第三戦隊にとって他の慶良間の戦隊より有利だったのは上陸が一日遅れたこと。
当然、1945/03/25の米軍攻撃は座間味・阿嘉島・慶留間島に比して軽かった。
従って沖縄県史で知念実質副官が語るように出撃は可能な状態になったのである。

さて、マルレの沖縄転進命令は戦理に従って判断されるべきです。 そもそも、海上特攻はマリアナ沖海戦(航空戦)に完敗し機動部隊を失った日本軍はこれまでの方針を転換せざるをえなかった。レイテ沖海戦は最後の苦肉の策であり、シーレーンを破壊され輸送船を多数撃沈される日本軍は逆に上陸後の米軍の膨大な物量を削ぐために当初から海上特攻隊を輸送船攻撃部隊として構想した。 爆雷の威力は装甲の厚い軍艦を撃沈するには力不足。 もはや艦隊決戦を求められない日本軍は源義経が壇ノ浦で平氏の漕ぎ手を射るような実質的作戦を取ることになったといえる。

http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_06.pdf
上記によれば成功したリンガエン湾のマルレは米軍上陸後に出撃した。
上陸直前まで陸に近づくのは戦艦など艦砲搭載船。 上陸時からは、当然輸送船の往来が激しくなる。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=word&word=%E6%88%A6%E4%BA%89%20%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F&type=normal&page=%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%85%B6%E8%89%AF%E9%96%93%E3%81%AB%E4%B8%8A%E9%99%B8%E3%81%99%EF%BC%81
引用すると「 第三十二軍の司令部から中央に向かって、 「―米軍が、二十五日、午前七時三十分から渡嘉敷、阿嘉島、座間味島に上陸開始―」 の誤報がとんだ」

この情報によって、司令部はここでマルレを出撃させなければマルレは出撃しないままいずれ米兵にマルレを発見され慶良間の戦隊配備は水泡に帰すと考えて当然。
ならば、あの「敵情判断不明、戦隊は状況有利ならざるときは本島糸満付近に転進せよ。」との司令部命令は逃げろというような話ではなく率直に輸送船などがいるようなら出撃し、いないようなら本島に転進し再起を期せという意味にとれる。

阿嘉島の通信隊長もそのように解し玉砕の覚悟で無線を破壊したのだ。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-108247-storytopic-86.html
その後慶留間島の8隻が出撃する。

泛水

>阪神さん。

「ある神話の背景」の記述でも、3月26日の未明から早朝にかけては、渡嘉志久湾内外には1隻の米軍艦は居なかったかとされています。だから、泛水できたのです。

夜が明けてしまい、計画が露呈するのを恐れた大町大佐が出撃中止・再引き上げを命令したが、「干潮」の故に、それが不可能だったので泣く泣く艇を自沈させたというのが、赤松の弁明です。

実際は、その時は満潮だったのです。

儀同氏の本を読み直しました

>和田さん。 今、本を読み直してみました。
三宅少佐が5月12日に那覇に到着したときのクリ舟は5月はじめに5号無線機を積んで渡嘉敷島に到着した2隻のクリ舟のうちのどちらかです。これは「慶良間戦記(儀同保)1980年発行」に出ていました。
沖縄返還直前に発行された「マルレの戦史(儀同保)」の第3部によると「25日夜には那覇所在の軍司令部から、慶良間方面の戦況不利の場合には、戦隊は舟艇を起動させて本島の糸満地区に転進するよう命令を受け、同夜半からその出航と併せて、命令ある場合は出撃を行うため、舟艇を泛水する作業にかかったが、夜半を過ぎて26日夜明け前となった時、阿嘉島から舟艇で来島してきた大町大佐、三池少佐らを迎え、一時は海上を突破して沖縄本島に転進するか、または海峡に入った米鑑定に突入するかを図ったが、結果沖縄本島に転進を決意し、泛水作業を終わり、エンジンを始動し、準備を完了した頃は、既に東方が白みかかったので、このまま発進するならば海上で空襲を受ける事は必至となると判断され、大町大佐の命令で大半の舟艇を自ら水中に沈没させた。」とあります。また同書の第2部では「3月26日夜から、可動舟艇の全部を泛水し、最初は軍司令部の命令に基づいて那覇に移動すべく計画していたが、秘匿壕全面の慶良間海峡に米艦艇が侵入してくるに至ったので、情況不利として大町大佐の命令により遂に全舟艇を自沈させるに至った。」とあります。第3部と第2部では自沈理由が違っているのでそれぞれ別人の証言なのかもしれませんね。
儀同氏は様々な書籍を参考文献として読んでいるのですが、同時にマルレの隊員に可能な限り連絡をとり、マルレの戦闘について調べたようです。第三戦隊のどの隊員に会ったのかは不明ですが、自沈の件については謎のままです。
なお、第2部では「25日夜半過ぎに既に近海には米海軍部隊が接近している中を、同戦隊の第二中隊宮下力少尉以下三名の操縦する2隻のマルレ舟艇に分乗し、26日夜明け前に第三戦隊の駐留する渡嘉敷島に到着した。」とありました。クリ舟ではなくマルレになってますね。

渡嘉志久湾に米艦はいたか?

こんにちは。出撃出来なかった理由ですが、もし渡嘉志久湾に米艦が停泊して直ぐにでも攻撃出来る態勢でいたならば出撃は無理だろうと思います。私が見た秘匿壕からビーチまでは人間20人でマルレを担いだとしても泛水するまで3分は掛かるだろうと思います。3分も大勢の人間が動いていたら直ぐに見つけられて、米艦から撃たれると思います。

>和田さん。

大町大佐が戦死した情況では、赤松不出撃の理由を決定付ける証拠はなく、証人も居ないから、我々の考えは推測の域を出ません。だが、 当時のあらゆる情況を点検して、積み上げれば、不出撃の理由は大町大佐に止められたのではない可能性が強くなります。

「ある神話の背景」で、マルレが生還可能性ある攻撃艇であることを隠した事。
満潮時を干潮時だったとして、自沈の理由とするウソを付いた事。
今回貴兄が仰るように、他戦隊は混乱の中を自主的判断で出撃し、それなりの戦果を上げた事実がある等々。

赤松が生存への執着心があったから、出撃しなかった可能性は、限りなく大きいものと推断できます。

慶良間の出撃例

「ある神話の背景」には、大町大佐は軍命令に怒り泛水を中止させ、皆本中隊長は大町大佐の中隊出撃を断ったと書かれている。 日本軍では考えられない行動で反逆罪により銃殺されて当然。  一般論としてはそのように言えても、具体的に大町・皆本の行動が状況に即していないといえる史料がなかなかみつからなかった。
しかし、出撃→やむを得ざる時は沖縄へ転進、つまり軍出撃より船艇の隠匿を重視などしていない証拠は他にもあった。

戦史叢書に1945/03/28未明に第二戦隊のうち慶留間島の第1中隊4艇が出撃し米艦に損傷を与え、2艇が沖縄本島に到着。牛島司令官が感状を授与したとある。
経過を補足すると、大町大佐は3/25夕まで第二戦隊主力が存在する阿嘉島にいた。25日第3中隊船艇全部が破壊される。27日2時第2中隊は出撃を目指し泛水を開始するが、水陸両用戦車に阻まれ27日20時再度船艇壕に行くと特攻艇は破損していた。
26日夜篠崎伍長は阿嘉島から200メートル遊泳し慶留間島の第1中隊に隊長の出撃命令を伝え28日未明出撃した。
そもそも25日夕まで大町大佐は阿嘉島に居た。当然、野田戦隊長に今後の指示を与えたはずである。 それを受けて第二戦隊は出撃しようとした。 沖縄に転進したのも本部の指示どおりと考えられる。 そもそも(上層部から軽はずみな出撃で船艇を暴露し、戦局を危うくしたと判断された)船艇出撃者に感状が与えられるわけがないだろう。
儀同保著「ある沖縄戦」には次の記述がある。(儀同氏は第二戦隊の隊員)
1945/3/26日夜「ただ今より総力をあげて斬り込みを決行し、戦隊将校は船艇出撃を行う。無電は最後の連絡を打って破壊した。われわれの行く手は玉砕あるのみだ。・・・・」
よく知られているように、日本軍は全滅覚悟の行動をとる直前、軍旗の焼却、重要書類の焼却、無線の破壊を行った。 軍旗を奪われることは最大の不名誉とされ、重要書類を遺すことは味方の配置などを敵に知らせることになり、無線を破壊しないと上層からの機密無電を聞かれあるいは敵に味方になりすまされ機密事項を聞き出されることになるからである。

26日夜まで第二戦隊の無電は通じていた。沖縄上層部からの命令-出撃し(会敵しなければ)那覇に向かうという-は生きていた。 そして第二戦隊は命令を実行しようとした。一部を除き実行できないのであるが。 ここにも船艇の隠匿よりも個別でも出撃せよという軍の意向が看取される。 
http://www.okinawa-senshi.com/aka-geruma.htm
上記に戦史叢書と儀同氏著作の一部引用がある。

儀同保著「ある沖縄戦」には大町大佐は座間味から阿嘉島には、クリ船2隻で異動したこと。第二戦隊はクリ船1隻を海岸の砂に埋めて隠したことなど興味深い記事がみられる。

谷本版陣中日誌に拠れば、1945/8/16米軍との投降会談の直前、(沖縄県史-知念証言に記載のある)隊長命令であろうが出撃すると言って操縦桿を握ったまま海に沈み引き上げられた結城伍長が連行されている。もちろん純粋日本主義者の結城に降伏交渉の邪魔をされないためであろう。  結城は第三戦隊の戦死者名簿にない。  1970年頃も生きていた可能性が高いと思われるが、赤松の戦史改竄計画に参画していないようである。ある神話の背景にも原告資料に一切名前が出てこないのは、赤松や曽野の隠蔽工作に不純なものを嗅ぎ取り同調することに耐えられなかったからではないのか。

赤松の退路を断つ

赤松の退路を断つ。
新兵器に伴い新戦術が必要とされる場合、所期の構想が実戦・訓練・陣形研究などにより修正されることがあるのは当然のこと。
さて、マルレと震洋(マルヨン)を合わせてマルハチと総称した。初期の構想は狭い地域にマルハチを集中配備し一気に同時出撃しできるだけ多くの敵艦戦を撃沈するということであった。
しかし、その構想は実態に合わないことがわかり修正される。初期の構想が修正されたことを示す軍の情報もいろいろあるが2つ示せば充分であろう。
一つは、現実の船艇を隠す壕が一箇所に集中されることなく二重に分散配置されたこと。
まず、沖縄本島においても、慶良間諸島においても地域的に分散配置された。従って赤松隊は阿嘉島・座間味島についで第三戦隊であった。 さらに一つの戦隊でも一つの壕に戦隊が集中配備されたのでなく三箇所程度に分散配置された。
分散配置の理由は2つあるだろう。 圧倒的な火力を持つ米軍に対して一箇所に集中配備すれば偶然にせよ見つかった場合、硫黄島の最高峰、擂鉢山のように艦砲・飛行機の集中攻撃を受けるのは目に見えている。 また、船艇を集中配備した場合、泛水に手間取り機動性を欠くことになる。 

空母決戦マリアナ沖海戦の日本軍構想は空母の飛行機隊と近隣諸島の基地隊飛行機が連携して米軍の空母艦載機に立ち向かうことであった。 しかし、基地隊飛行機は米軍空母の奇襲攻撃によって各個撃破され全滅状態になっていた。
日本軍の通信設備・統合運用能力では艦載機と基地隊が連携することなど夢想でしかなかった。特攻船艇を二重に分散配置したということは、同時一挙攻撃を捨てたということになる。
実際、豊廣隊は何度も出撃している。 二重分散配置はトカゲのしっぽの発想だから1つの壕が暴露してもすべての出撃が不能になることはない。

http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_44.pdf
上記8ページを見られたい。 これは豊廣・皆本などの座談会である。
引用すると「20年3月上旬に首里の県立女子師範と第1高女併設の大工場で、陸軍の海上挺身隊全部の兵棋演習が行われた時に、海軍の震洋、魚雷艇、特殊潜行艇の指揮官4人がオブザーバーとして出席しました。長参謀長がマルレの第一戦隊から順にいろいろと質問されましたが、最後に牛島司令官が、次のように言われました。海軍の震洋隊指揮官にたずねる。白昼、金武湾に米軍が上陸してきたら指揮官はどうするか。と大音声で質問されました。魚雷艇指令の白石信治大尉が、豊廣答えよと指名されたので、咄嗟でしたが私は迷うことなく立ち上がって、不動の姿勢をとり敵に対し震洋を偽装し、基地に煙幕を張ります。そして敵の艦砲射撃の間隙を見て突っ込みます。と明快にお答えしました。軍司令官は、そうかとニッコリ笑い大きく頷かれました。散会後海軍の大田司令官からも、適切な回答であったとお褒めの言葉を頂きました」とある。

注目すべきは押しも押されもしない沖縄防衛の最高責任者牛島中将が「貴様、それは猪武者のすることぞ。そこは戦隊全体の成功のために船艇を秘匿し隠忍自重することがもののふの道ぞ。」などと言わなかったのである。  だから、個別船隊の秘匿は切羽詰まった1945/03の時点ではそれほど問題ではなかった。 分散攻撃しかなかった。
さらに座談会において、兵棋演習に出席した赤松隊の皆本が「豊廣君、そんな自慢話は嘘だろう。」などと異議申し立てをしていないことを確認しておこう。

以上、大町大佐も牛島中将の意向に逆らえるわけがないので、大町大佐の泛水中止命令は曽野綾子と赤松の最大の嘘であることがわかる。軍の意向は万難を排して出撃せよ、敵艦に会敵出来なければ那覇で再起を図れということであった。

和田さん、クリ舟の件は納得しました。そして先ほど「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」読了しました。
震洋と同じくマルレも戦歴の無い兵器という事もあったのでしょうが、赤松の状況判断が悪かったから出撃出来なかったのでしょうね。

赤松は帝国軍人として失格

赤松は、帝国軍人として失格だった。
既に「ある神話の背景」の干潮転換時の泛水と富野が先頭でエンジンが故障したとの記載が事実ではないことが確認されている。 「ある神話の背景」での1945/3/23から大町大佐の本島帰還の失敗まではかなり事実に反することや隠蔽があるものと思われる。
「戦史叢書」、「ある神話の背景」皆本の2つの回想録を読み比べても、転進命令(主体と時間)、大町大佐来島(時間と船種)、1群転進命令、泛水と船艇引き揚げ・自沈(引き揚げ命令がなかったとするものなど)異同が著しい。 曽野綾子は、照屋氏や藤岡の先輩として死人を利用して何かを隠していることは推測できたが、手掛かりがなかった。

第22震洋隊長、豊廣稔の34ページに及ぶ回想録、潮書房発行「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」は、金武湾に配属された陸軍海上挺身隊の海軍版(震洋-マル4)の戦記である。
それによると、豊廣隊長は「1945/03/25日朝から三日連続の米軍機来襲が続いたので上陸があると確信し、すぐ司令部に上陸の企図を持った敵機動部隊ではないのかと問い合わせたところ、どうもそうらしいから、諸準備を整えておくようにという返事であった。豊廣隊長は即刻、「震洋艇に頭部を装着、エンジンその他、完全に整備しておくようにと基地隊庁と整備隊長に命じた。頭部とは爆雷のことでマルレは船尾船艇の上に爆雷を載せるシステムだが震洋は船艇頭部の小さな区画に収納するシステムであった。収納がむつかしいことと船艇と爆雷集積地の距離があることで徹夜作業になった」」というのである。

翻って、赤松隊の爆雷装着作業を谷本版陣中日誌で確認すると
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1436.html
「三月二十六日晴 ○○○○出撃準備命令 湾外より艦砲射撃を受け水面にて瞬発信管により散弾飛び散りまた焼夷弾山を焼く中泛水作業、爆雷装着、湾内の警戒等次々と行うも残留、敵を邀撃する基地勤務隊 特設水上勤務隊の感清交錯し干潮のためリーフ各所に露出延々五時間余を要し東天既に黎明近く白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が沖縄本島に到着すること不可能となるを考え船舶団長再び艇の収容揚陸を命ず。」
豊廣隊長は、反射的に出撃準備を整え、命令一過直ちに泛水作業に入れるよう準備万端整えた。 それに反し、赤松は準備が不足し泥縄的な作業をしている。 そのことが出撃不能の原因であったのだ。「ある神話の背景」によっても司令部から第三戦隊に1945/03/24日午前10時米機動部隊が沖縄接近中との情報を伝えていたのであるから、その時点で爆雷装着を動物的に思いつかない者は帝国軍人失格だ。
おそらく、谷本いや赤松はさりげなく書いて、大町大佐の行動を少し改竄すれば事実を隠せる、わからないと考えたのだろう。

世に言うミッドウェー海戦の運命の○分とは、日本の攻撃用飛行機の兵装転換(爆弾から魚雷)に時間がかかり、米空母攻撃が実行できず、逆に米急降下爆撃に一瞬にして3隻の空母を失ったというもの。  海上挺身隊においても出撃のタイミングが正否の鍵になることはいうまでもない。豊廣隊長はたびたび出撃し出撃目標時間は午後10時だったようである。
海上特攻配備において、金武湾などより格段に戦略的重要性を持つ渡嘉敷島に50機もの飛行機が2日連続で来襲した時点で赤松は万難を排して出撃準備を完遂すべきだったのだ。

大町大佐が当時の平均的な帝国軍人であったなら赤松が爆雷装着を終えていないことに対して烈火のごとく怒り次のような叱責・罵倒をしたに違いない。
「貴様は戦意(攻撃精神と敢闘精神)に欠け帝国軍人として失格だ」
また、9.11テロの実行犯で着陸訓練は不要と言ったアタなら赤松を本来の阿修羅の憤怒形相で切り捨てたことであろう。
赤松の回想録はまさに絵に描いたようなフロイト心理学の実例ではないか。 罵倒され赤松の精神は錯乱・嬰児化する。 夢の中で爆雷を運び、クリ船・ドラム缶も動員しなければ精神を安定させることは出来なかったのだ。
赤松は死の床に(もしかすると爆雷装備作業の遅れという不名誉が発覚するのではないか)という不安と、(さまざまな隠蔽工作を実行したから発覚するはずがない)という楽観が交錯しながら横たわっていたことであろう。

赤松は歴史上、戦意に欠けた帝国軍人として、また安里巡査と未必の故意により、集団自決を招いた人物として記憶されるであろう。

渡嘉敷のクリ船

阪神さんにお答えします。
まず、5月まで三宅少佐が本島に帰還できなかったとこと。 このことはクリ船が大量には残っていないからではないでしょうか。さらに戦史叢書に拠れば三宅少佐等が帰島したクリ船のうち1隻不明分を除き糸満から来島したクリ船を使用したとの記述。   これらが、事実に反するという証拠も嘘をつく動機もない。 渡嘉敷に乏しいから糸満から来島したクリ船をしようしたのではないでしょうか。

渡嘉敷は小さな島にしては多数の米軍機に爆撃されている。 爆撃前には相当数のクリ船が入り江にあったはずであるが、空から目に見えるクリ船は爆撃で破壊されただろう。
沖縄本島は広いので、全島の船艇をすべて爆撃で破壊するのはむつかしいと思われる。

次に渡嘉志久湾で米軍が多数の特殊船艇を捕獲したのは紹介した写真のとおり。
このような物を見せられれば、歩兵は必至になってクリ船なども破壊しようとするか、捕獲しようとするのが自然ではないでしょうか。

爆雷素手の4人で4個運搬するのは無理でしょう。
爆雷の装着については第22震洋隊長、豊廣稔の34ページに及ぶ回想録が潮書房発行「丸別冊 最後の戦闘 沖縄・硫黄島戦記」に掲載され大変参考になる。
この記事と谷本版陣中日誌を読み比べさらに戦史叢書、2つの皆本回想録、「ある神話の背景」の異同などから赤松が墓場に持っていきたかった、もっとも隠しておきたかった事実が浮かび上がる。

和田さん、「当時渡嘉敷のクリ船は三宅少佐の本島帰還に使われた1隻があったかどうか」と言われる根拠を教えてください。光人社月刊「丸」の戦記に、本島南部に逃げてきた慶良間の漁師に出会った兵士の話があります。また阿嘉島から久米島へ刳り舟で脱出した兵士もいます。糸満ほど多くの刳り舟は無かったでしょうが、渡嘉敷島でも5,6隻は見つけられたはずです。漁師が住んでいるわけですからね。
あと、歩兵は1人60キロの装備を背負って歩く事もあるので、2人いれば時間を掛けて爆雷1個を運べると思います。実際は4人で1個を運ぶ事になるでしょう。

フロイト心理学

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1437.html
上記谷本版「陣中日誌」によると、「六月十四日 爆雷を以て再び水上特攻を実施すべく第三中隊をして準備せしむ 三中隊爆雷運搬のため竹島伍長以下四名出発器材の集積を始む。 六月十五日 昨日同様、敵情変化なし、爆雷運搬を実施  
六月十六日 爆雷攻撃準備のため第三中隊長以下儀志布島偵察に出発、タ刻帰隊す。」
125キログラム2セットで250キロの爆雷をわずか4人で運べるものか。 重機も車両もない状況で円筒形の爆雷を二人で1個どれだけの距離を運べるか。 軍夫・勤務隊・防衛隊総動員でないと多数の爆雷は運べない。 船艇を沈めた時に爆雷だけ引き上げることが出来たかは非常に疑わしく、船艇に積めなかった余分の爆雷で米軍に接収されなかった爆雷はほとんどなかったと考えられる。

http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm
上記より
「(戦前の糸満は刳舟が生業の元手で、百をもって数えるほど、刳舟はあっただろぅ)。刳舟は監視もいないから自由勝手に取りたいほうだいです。」
「わたしたちの鈴木小隊は4月中旬ごろ玉城村糸数のアブチラ壕から大里村大城を経て、豊見城村高安に移動しました。特攻艇は冨名腰の前のキビ畑で焼かれてしまったので、これに代って沖縄の刳舟を使うようになり、一夜に二十隻ぐらいの刳舟が島尻各地の海岸から豊見城村高安の西谷口(タングムイ)に集められていた。 4月28日夜、いよいよ戦隊長以下数集の刳舟で出撃するようになり、豊見城城跡の下の石火失橋(イシバーシ・わたしたちはメガネ橋といっていた。)から刳舟に爆雷を積みこむ作業をしていた。橋の下は干潮で舟が浮べられないので、舟が通れるように防衛隊が皆裸になって潜って泥を掘りおこし舟のとおれるようにし、また橋のらんかんから舟へ爆雷箱を手渡していたところへ砲弾が落下したのです。 」

糸満は刳船産地で工房もあったのだろう。糸満の戦隊では船艇代わりに爆雷出撃も試みられたようだ。
ところで、赤松は回想録-渡嘉敷島先頭の概要-で船艇がなくなったのでクリ船での爆雷攻撃を計画し訓練したという。「陣地完成後丸木船により敵艦戦を攻撃せよと逐次準備を整え、敵の目を盗んで訓練を重ねたりき、しかるに何ぞや上陸する敵により船は焼却せられ遂にドラム缶により決行せんとせしも潮流早き為失敗に終わり・・・・」
当時渡嘉敷のクリ船は三宅少佐の本島帰還に使われた1隻があったかどうか、それも糸満から流れたものかどうか不明であって渡嘉敷では刳船がほとんどないため訓練は出来なかったものと考えられる。
ドラム缶に125キロの爆雷を固定する機具があったか、ないだろう。艦船に突っ込む際信管操作はどうする。ドラム缶はその形状から前方へ推進しにくく偶力により回転しやすい。125キロの円筒状の爆雷と連結させれば制御不能となる。 小学生低学年の夢想で軍人が本気で考えることではない。

また大町大佐が阿嘉島からクリ船で来島したという。 そして「ある神話の背景」では大町大佐がクリ船で渡嘉敷から本島帰還を試みたとする。
これは阿嘉島から来島の話は船艇が阿嘉島に引き返したという戦史叢書の記述に反する。

以上、赤松のクリ船話は収容所で他の戦隊との会話から生まれた嘘の物語であろう。
しかし、そのような途方もない夢物語を語る心境は何か。
先頭を切った富野のエンジン故障の話は知念証言その他で否定され、泛水時の潮位も明らかな嘘。 赤松の物語は、誠実性とか事実の直視から遠く離れているといえる。

フロイト心理学からいうとトラウマの補償ということになるのだろう。
それも一方での父親(大町)への許し(精一杯努力したが出撃できなかったいう、いいわけ)と他方での父親殺し(大町のクリ船話)のセットではなかろうか。

うっかりしていました。爆弾1個120キロを積んで4人で漕ぐというのなら可能でしょう。艦船の脇に来たら手榴弾を叩いて爆発させるという幼稚な方法です。

沖縄の刳舟は大人6人位までは乗せられますが、8人となると沈みそうになります。よって250キロ爆弾を積んだとしたら大人2人で漕がなくてはなりません。刳舟の大きさによっては4人でも漕げるでしょうがとても進めないでしょう。

くり船の真実

くり船の件は大体わかりました。
河川用のクリ船ではありませんね。 そのことでは間違っていました。
「戦死叢書」と谷本版「陣中日誌」に1945/5/5沖縄本島に所在していた稲垣栄少尉以下11名がクリ船で渡嘉敷島に到着したとなっています。 これらの記事は第三戦隊だけでなく戦隊本部の三池少佐(クリ船で本島に帰還)や糸満の防招兵(「戦争の様相」と合わせ考えると元の職業が漁師ということらしい)など生き残った他の者がかかわっている事項と考えられ(嘘をつきにくい)大筋で正しいものと思われる。
谷本版陣中日誌(nio615さんのホームページ以下同じ)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/1437.html?guid=on
クリ船は沖縄本島のもので、渡嘉敷のものではないようです。
ただ、3隻のうち1隻が辿り着かなかったのに三池少佐を本島に送る船は3隻になっているので1隻は渡嘉敷のものか、後に流れ着いた船その他であったのか不明です。

そこで、赤松が収容所で書いたとされる「渡嘉敷島戦闘の概要」を検討する。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/1428.html?
クリ船と同義の丸木船の話は二回出る。
まず「二四時○○分船舶団長大町大佐丸木船にて第二戦隊阿嘉島より来島」
次に「一方海上作戦はいかなりしや、全く断念せしや然らず、陣地完成後丸木船により敵艦船を攻撃せよと逐次準備を整え、敵の目を盗んで訓練を重ねたりき、しかるに何ぞや上陸せる敵により舟は焼却せられ遂にドラム罐により決行せんとせしも潮流早き為失敗に終り、更に機をうかがうも敵の探知する所となり各海岸の警戒ならびに捜索厳重を極め遂に断念の余儀なきに至る。」

最初の話は第二戦隊の生存者がいることから戦死叢書記載の船艇送還が事実と考えざるをえない。 赤松の事実誤認か、故意の嘘かどちらかである。
一方、丸木船で艦船攻撃の訓練を重ねたというのはどう考えても嘘。 まず250キロ爆弾は海に沈められたか壕に眠って米軍に押収されたかどちらかの可能性が極めて高い。
また、三池少佐の送還を鑑みても渡嘉敷で多数の丸木船が調達できた可能性は極めて低い。
要するに物理的に不可能なことを語っている。

こうしてみるとやはり、赤松のクリ船話は嘘の可能性が高い。 
もちろん、動機は大町大佐がいかに船艇を秘匿しておきたかったかを強調し出撃しなかったいいわけとすることが一つ。 そして出撃断念後もクリ船での出撃を準備していたアリバイ作り。 「渡嘉敷島戦闘の概要」作成時期は古くても時期が下っても問題なく赤松のいいわけと考えられる。

しかし、曽野綾子「ある神話の背景」での記述は異なる。
「戦死叢書」に書かれた大町大佐の漁船での帰還も選択肢とされたという固定資産提供の内容を、「戦争の様相」にみられる労力提供の話を参考にすり替え、もって、渡嘉敷島の島民は赤松隊の完全な統制下に置かれたのではなく、自由に振る舞えたという印象操作に利用した。 

演技派赤松

私は、大町大佐が沖縄本島へ刳り船で帰還する話を誰が言いだし、それを知ることが出来る機会はどのようなものであり、どれだけの範囲の人間がその話を知ることが出来るのであろうかという問題意識で話を途中まで進めましたが、赤松が阿嘉島から渡嘉敷に大町大佐が丸木船でやってきた記載文書がある以上、それを検討しないわけにはいきません。  現在nio615さんの該当分「陣中日誌 海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成 の前書きとして所収 「渡嘉敷島戦闘の概要 赤松嘉次      昭和二十年十一月      沖縄本島収容所において元海上挺進第三戦隊長      赤松嘉次 」より」は工事中だそうで見れません。
戦史叢書では大町大佐の阿嘉島から渡嘉敷への渡航はこう書かれています。
「大町大佐は25日夜、海上挺進第二戦隊宮下力少尉の指揮する特攻艇二隻に分乗して渡嘉敷島に向かい、渡嘉敷島阿波連西方海上に上陸し二二〇〇ころ海上挺進第三戦隊本部に到着した。一行を輸送した特攻艇は二十六日〇五一〇阿嘉島に帰着した。」

また、曽野綾子の「ある神話の背景」には同じ場面は以下のように書かれている。
「船舶団本部の団長・大町茂大佐(陸士二十八期生)とその一行は、慶良間列島内の阿嘉島を発って渡嘉敷島へ向かっていた。・・・・艇は、海上挺身第二戦隊の宮下力少尉の指揮する特攻二隻である。」とあり、「戦史叢書」も「ある神話の背景」も大町大佐が阿嘉島から渡嘉敷へ丸木船で渡海してきたとは記載されていない。

赤松の大松大佐の丸木船渡海はさまざまな問題がある。
まず記載時期で本当に復員時期に書かれたものか、1970年の赤松隊の陣中日誌編纂に伴って書き加えられたものかの検討が必要。
次に、特攻艇か丸木船かどちらが正しいのかそれとも漁船や遊泳、丸太船(筏船)もありうるのかということが問題となる。
最後に赤松の丸木船認識は正しいのか、単なる事実誤認なのか、意図的な嘘であるのかが問題となる。

あまり、先入観は持たずに考察すべきとは思うが赤松の文章と赤松の心境を突合させると一定の方向しか考えにくい。 確か赤松は平重盛を持ち出し自分と同じ心境と書いたと記憶するが、それは当時の軍人精神と皇国史観からすれば、赤松が抱いた第32軍と大町大佐との間での忠誠をめぐる葛藤を表現したということになる。(私は建前を思わせぶりで語った空涙(嘘泣き)と考えていますが)
次に梅沢隊は米軍上陸後大規模な斬り込みを出して短期に6割程度の戦死者を出した。
赤松のこの文章では斬り込みをたびたび出したような書き方だが、実際には皆本の水際防御戦と二度にわたるA高地防御戦の戦死者の比率が高く、斬り込みの戦死者は微々たるもので斬り込みという攻撃ではなく実際には米軍の食料や水のおこぼれを盗みに出かけて戦死した者を斬り込みのようにみせかけているだけだろう。
私が赤松の性格・行動パターンで思い出してしまうのは米軍投降時のまだまだ持ち堪えられるというハッタリと、那覇で謝罪したのは「社交辞令だ」という演技派ぶりです。

1968年赤松は、戦死叢書の記載内容がかたまった直後、同窓会(戦友会)を開催する。
当時の軍人精神や赤松自身の行動からして、その時まで赤松の関心は(特攻艇の出撃を中止した卑怯者の汚名をすすぐ)ことであったと思われる。戦死叢書に大町大佐の命令で出撃を停止したと記載されたため、赤松はそのことは一段落したと考えそれからは自決命令に軸足を移したと思われる。

>ni0615さん。

小生の真意をご理解頂いて有り難いです。
あの会合に元地元召集兵が居たとすれば、それは大城氏だろうと思います。でも、考えてみれば、我々が最近、それを発見したわけでなく、当時から既に、地元民、研究者の間では、知られている事だったに違い有りません。だが、誰もそれを表立って、批判する者は居なかったのでしょう。

米田元村長・富山元兵事主任・屋比久元防衛隊長等々、大城氏以外の、住民を戦争協力に導いた村幹部の責任を問うこと出来ない情況下で、大城氏の軍隊擁護の姿勢を糾すことは出来ないことだったのでしょう。

>キー坊さん

お応えくださってありがとうございます。無責任な陰謀論に発展する可能性がないことで安心しました。

WEBというのは恐ろしいもので、この地味な(失礼!)掲示板ですら何者が探り当てるかもしれません。そしてそのコピペが一人歩きするのです。ですから、「たら」または「れば」が併せて2つ以上ついた議論は禁物だと心得ます。

引用元のURLがついていても、その逆論を平気で行い、それが5年間も放置されてしまうというのが、残念ながらWEBの理性なのです。違う話題なので恐縮ですが。 
http://www.news.janjan.jp/world/0512/0512035891/1.php
ここは、Googleで上位にヒット(「白リン弾」)するJANJANのページです。

英文記事に書いてあることの逆を「この英文記事に書いてある」とししているウソ記事を、JANJANですら4年間も放置しウソを見破れない。その間に、「平和主義者の巣窟であるJANJANですらこういっている」といううたい文句で、このデマ記事は大手を振い、どれだけ引用宣伝されたことか!

ここの本文と田島氏のコメントを一度お読みくだされば、私の申すこともおわかりいただけると思います。

>ni0615さん。

私は別に、大城氏があの会合に居たと判ったら、これから彼への非難を強めて行こうと思っている訳でないです。村の公式戦史(様相・概要)作成に関わった元防衛隊長・屋比久孟松も、赤松の死後に「『集団自決』は赤松隊長が命令したのではない」と、伊敷清太郎氏に語っており、「軍命説」を否定する体験者は、他にもたくさん居ると思います。だが、ほとんどの人はそれを公に発言してませんでした。諸事情あるでしょうが、そういう人でも「集団自決」は日本軍がこの島に来たから起こったのだと、考えているからだろうと思います。

大城氏は、曽野綾子が「ある神話の背景」に着手した以降に、「潮」・「沖縄県史」と、二つの証言を行っています。証言時期は、両方ともあの写真の会合の後です。内容は、両方とも「ある神話・・・」を追認するものです。この証言が曽野や赤松と関わりなくされたものなら、大城氏はそういう考え方をする生き残り島民であり、それは彼なりの考え方だから、外部の者がとやかく言うべきことではない事に成るでしょう。

だが、現地召集兵もあの会合に参加していた事に気づいたのいで、和田さんの指摘も有り、それは大城氏ではないかの疑惑が私も生じたのです。
この写真は、曽野が「元隊員には個別に会った」の言がウソである事の証拠として大きい意味を持ちますが、それとは別に、大城氏が会合参加者だとしたら、曽野のウソ満載本に力を貸し、その後、公式の出版物の中で「ある神話の背景」の記述に追随した証言を行ったという点で、大城氏は大きな責任を持つと思うのです。それはその証拠写真ともなります。

しかし、今はそれが証明されたのでもないし、証明するものも簡単ではない気がしますので、大城氏への、これ以上の言及はブログでは避けたと思います。また、たとえ、大城氏があの写真中の人物だと判っても、バッシングを始めようと思いません。
ただ私の中で、大城氏は曽野綾子と赤松嘉次の謀略に進んで手を貸した、責任のある地元民だという認識を持つだけです。

キー坊さん

>曽野が赤松元隊長及び元隊員と密接に通じていた事の証拠写真に他ならず、もし、その写真中に大城氏が居れば、彼もまた赤松グループの一員として、責任を問われる存在だとされる根拠になると思います。

もし仮にその写真の中に大城氏がいたとして、一体何の責任を氏に問うのですか? 私には全く理解できません。「仲良く会合した」責任ですか?

あの会合写真で問える責任は、当事者とは距離を置いて客観的に書きました、という曽野発言の責任です。責任が問える相手は、そうしたウソをついている曽野綾子本人ではありませんか?

もし仮にあの写真の中に大城氏がいて、大城氏が「曽野綾子とは親しく口をきいたことがない」とでも言ってるなら、その責任を問うということができるかもしれませんが、それはとやかく言うことでもないでしょう。「あいつと仲がいいのは怪しからん」というのは、単なる感情であって責任を問うことではありません。

また遡って、1945年当時において、比較的早くに米軍統治のもとに下った村人たち、投降間際に米軍統治のもとに下ることを決めた村長と行動をともにした村人たち、最後まで赤松らと行動をともにした村人たち、また、戦後復員して戻ってきて肉親の死を知った村民たち、それぞれ複雑に人間関係が絡み合って、赤松批判も赤松擁護も、複雑に推移したと思います。

もし赤松と行動をともにしたことの中で、村民たちの責任を問うことがあるとすれば、それは赤松隊による民間人処刑への関与でしょう。赤松の命令に従った、というだけでは責任論にはならないでしょう。しかも、仮に責任論が提起しえても、地元住民のなかから自然体で起こる議論に任せるより他には無いでしょう。

村長らが赤松の強烈な信奉者であったのに、「寝返った」と思っていた生存者も少なくなく、しかし、それを声に出すのは憚られた。ということは、最後まで赤松に同道した村民に対しても批判の声はあげられなかった。間宮さんの映画で村人たちが口を開かない理由はそこにあるのでしょう。

なんびとであっても自己の人生を後から否定されるのは避けたいものです。赤松の下で「闘った」という大多数の村民の人生体験、これを自ら自己批判するに至らなかったということの結果が、1970年の「赤松歓迎」であり、その後の「元赤松隊員歓迎」なのでしょう。

これを克服する道は遠いでしょう。しかしだからといって、部外者が外からとやかく言えるものではありません。

島に渡り住み自分の人生の全てを島に委ねるという人であれば、村民の意識革命を働きかける権利が生まれるかもしれません。また、住民処刑にかかわる責任を問う場合には、明確な実証証拠や法的根拠、責任を問う規準も明確でなければならないでしょう。

誠に残念なのかも知れませんが、村民の意識にふれる、という行為は鉄の暴風の著者や沖縄タイムス社ですら敬遠してきたのです。そうした弱点を曽野綾子がつき、上原正稔氏もついているのです。

今回の裁判がなかったら、タイムスの聞き書き連載も無く、曽野綾子や上原正稔氏の意図のままに歴史は終わっていたかもしれません。

私は、大江健三郎氏は最高裁判決が出たら直ぐに、渡嘉敷、座間味両島を訪れるべきだと思っています。仮に、狂信的右翼に命を狙われたとしても。私たちはそういうことが起こらないように、世論を結集させなくてはなりません。

~~~~~
いずれにしても、部外者が「陰謀論」という形で感情的に村民の一部を非難するのは、最悪の効果しか呼びません。

今回の裁判をきっかけに口を開き証言した体験者をウヨクはあしざまに罵っています、しかしそうした行為によってウヨクは村民たちの信頼を失っています。

そんなときに、大城氏非難のような感情的な部外者の罵りは、ウヨクへの不信頼を解放してやる、利敵行為といえましょう。

読めないための曲解

キー坊さんによると
「だが、くり舟で大町大佐が脱出したという件については、私は典拠に疑問を呈しているのです。今のところ、「様相」にも「鉄の暴風」にもその記載を見つけられません。」ということで私が大町大佐がクリ船で脱出する記事をみつけたような書き方ですがこれは曲解です。
「・・・・様相」には大町大佐ではなく、取り残された大町大佐一行の一部が5月のいつの日か刳り船で沖縄本島に辿り着いたことが書かれています。

従って、私はいささかも大町大佐本人が刳り船で脱出したとは考えず刳り船の話は、別人の記事を元にした曽野綾子の創作であろうと言い続けているのです。

しかし、キー坊さんがそのように解釈したということは私の表現に問題があるということになるので、今後事実はこうで推測はこうだという区分ははっきりさせようと思います。

「戦闘報告」では「二四時○○分船舶団長大町大佐丸木船にて第二戦隊阿嘉島より来島、」とかいてます。 ?!

えっ、本島ですかと叫びたくなる記載です。

上記記事は、「戦史叢書」の大町大佐一行が阿嘉島から特殊船艇で渡嘉敷に渡ったという記事と完全に矛盾するのですが。

「戦闘報告」は後世書かれたものではないのでしょうか。
戦闘報告が陣中日誌に準ずる文書ならば後段に心情を散りばめた表現は非難されるべきありえない書き方だと思うのですが。

「・・・・様相」の該当部分を掲載してもらえば誰でも理解できると思いますのでよろしくお願いします。


>ni0615さん
>どうか資料から分かることと、ご自分の類推であることとを、峻別して語り合ってください。

そのお言葉に完全に同意します。
和田さんの新しい着眼、例えば、3.25の夜の潮位の情況などを調べた上での推測、或いはトカシク湾に横たわっているマルレの写真からの自沈理由のウソ発見には、なるほどと思わされます。
だが、くり舟で大町大佐が脱出したという件については、私は典拠に疑問を呈しているのです。今のところ、「様相」にも「鉄の暴風」にもその記載を見つけられません。このブログを立ち上げた責任上、論拠のない類推には、それを指摘して置かなければならないと思っています。
また、例の71年名古屋での会合写真、あれは確かni0615さんが見つけたものを、山崎行太郎氏のブログに転載されたのを見て、私は知ったのですが、曽野が赤松元隊長及び元隊員と密接に通じていた事の証拠写真に他ならず、もし、その写真中に大城氏が居れば、彼もまた赤松グループの一員として、責任を問われる存在だとされる根拠になると思います。

>一番大事なのは「大町大佐の出撃消極説」が、何時から出てきたかです。

私は、マルレが体当たりの「必死の」特攻艇でないことを、曽野と赤松がひた隠しにしている事から疑問を持ったのです。太田良博が言うように、「必死」である事と、「決死」でしかない事の間には、精神状況に大きな違いが出るように推測します。
また、25日の夜9時半に「敵情判断不明。・・・ ・・・那覇に転進すべし・・・ ・・・」の命令電報を前に、赤松は、転進は退却ではないか?これは意味不明な命令だとして、出撃を躊躇したという事ですが、これに私は不自然な感じを持ちました。
マルレは実際には体当たりの特攻艇でなく、生還を期した攻撃艇であることを考えれば、この電報は意味不明ではありません。爆雷を投下後、敵の攻撃から逃れた艇は、慶良間ではなく那覇に向かえ(転進)と解釈するのが自然ではないでしょうか。私は彼らには「生」への執着があり、無数の米艦船を前に生還は不可能だと感じて、出撃を躊躇ったのだと推測せざるを得ないのです。

>阪神さん
もちろん、生還型であっても厳しい戦況では、命を棄てる覚悟をもってた兵士も少なからず居たでしょう。出撃すれば体当たりを実行する特幹隊員も出たかもしれません。が、今まで検証してきたように、出撃できるのにやらなかった事実、「ある神話の背景」で曽野と赤松は生き残る可能性のある特攻艇であるのに、体当たりの艇であると「ウソ」を付いた事実もあるから、少なくとも、赤松及び多数の幹部は「生」への執着を持っていたと私は推測します。

ところで、「ある神話・・・」では、夜9時半に意味不明の命令電報を受けて、夜10時ごろ大町大佐がトカシクに到着して、泛水中止を命令したと書いてますが、「戦闘報告」では「二四時○○分船舶団長大町大佐丸木船にて第二戦隊阿嘉島より来島、」とかいてます。三十分だけ躊躇うのと、二時間半躊躇うのは大きな違いです。これはもちろん、曽野の記述のほうがウソであること間違いないでしょう。

補足です。
座間味、阿嘉では米軍上陸直後に多数の斬り込み隊が編成されて多くの死者を出しています。生への執着が彼らにあったのであれば多くの敵前逃亡兵を出していた事でしょう。圧倒的に不利とわかっていても彼らは手榴弾を握って斬り込んで行ったのです。
赤松に生への執着があったのなら他の隊員が気付いていた事でしょう。そして「臆病風を吹かした隊長」として大騒ぎになっていたはずです。
やはり出撃中止したのは、他の兵隊も納得出来る理由があったのでしょう。

キー坊さん、こんにちは。300人も特攻隊員がいるのだから、中には生への執着があった人もいたでしょう。ただ、殆どの人が体当たりすることを前提に短時間の訓練を受けていたようですし、投下方式に変更されたことにより必死隊が決死隊になったようなものであり、特攻隊みたいなものには違いありません。赤松の生への執着が出撃を中止させたとするのは、理由としては無理があるように思います。

>和田さん
>キー坊さん

どうか資料から分かることと、ご自分の類推であることとを、峻別して語り合ってください。

ご自分の主張を通したいがために、まだ裏づけられてないことを「事実」と押し通さないで下さい。

このせっかくの諸文献資料収集サイトが、「史料うらづけ」のない無責任な「陰謀論」の震源地にならないことを望みます。

たとえば、
くり舟の発想のもとが「様相」であったのか「鉄の暴風」であったのかは、即断できません。曽野綾子は、両書とも読んでいますし、赤松からの口述、電話取材も行なっています。

「ある神話の背景」の『諸君』連載版を読めば、悪者赤松の視点から作品にしてみよう、という意図はかなりストレートに伝わってきます。それが、ヤマト人の心を打った理由です。つまり、客観的事実の探求ではなく、ある意味芥川「藪の中」的な、それぞれの人の「心の中にある事実」の探求という。

それが単行本化するに当たって、曽野は「赤松隊隊員」からの「ウラ」を集め、赤松の「心の中にある事実」を「客観的事実」にグレードアップすることを図ったのです。

それによって、「沖縄ノート」に対抗する書という、新たな出版目的を付与することができたのです。

以上はいまのところ私の類推です。いまのお二人の関心事にもどれば、一番大事なのは「大町大佐の出撃消極説」が、何時から出てきたかです。

少なくとも、赤松嘉次が投降後の収容所で20年11月に書いたと自称する(収容収容所にも2説あり)「戦闘報告」には、そのような匂いすらありません。

=======
 明くれば二十四日また前日に倍し二十五日には艦船をも伴う。いよいよ事態の急なるを察し、戦隊将兵一同ただただ穏忍腕を撫しつつ出撃の機を伺う。タ闇の迫る頃、敵機は脱出、艦船また列島の四周を警戒す。戦隊は出撃に備へ約三分の一の舟艇を泛水す。二四時○○分船舶団長大町大佐丸木船にて第二戦隊阿嘉島より来島、軍命令ならびに団長の意向により途中の敵を撃破しつつ本島において海上作戦を行うに決す。

 ここに於いて戦隊は勇躍泛水出撃の作業を開始す。おりしも阿波連においては敵艦船湾内に侵入し作業を妨害、遂に命中弾により舟艇に引火し、爾後の作業は不能に陥。また一方主力渡嘉志久中央基地においては敵砲弾下鋭意作業を続行するも訓練不十分の半島出身軍夫のこととていかんせん作業は容易に進捗せず、全舟艇の泛水出撃準備の完了せるは○五時にして東天白々と明け始めり、ああ白昼堂々と敵船に斬り込まんか、成功望み無きも全員死所を得べく、しかりといえども他の五ケ戦隊の企図を暴露し、軍の海上作戦に重大なる影響を及ぽすべし、舟艇の揚陸また不可能なり。重盛が心の悩みもかくありたるべし。万事休す。涙を振つて愛艇を自沈す。誰かこれが心情を察せざる、誰一人としておのれの愛艇を沈むるものなく互いに戦友の艇を沈む。

陣中日誌 海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成 の前書きとして所収
「渡嘉敷島戦闘の概要 赤松嘉次
     昭和二十年十一月
     沖縄本島収容所において元海上挺進第三戦隊長
     赤松嘉次 」より
=======

「大町大佐の出撃消極説」は、「赤松臆病説」の払拭には都合のよいものです。

赤松が防衛研究所の戦史部に聴取を受けて、「赤松臆病説」を払拭できて元気を取り戻したこととは、週刊新潮に書かれています。

何もかもを「赤松=曽野」共同謀議説=証拠は会合写真、とする雑駁さは簡単に足を掬われてしまうでしょう。

少なくとも、そのような確信があるならきちんと立論して世間の検証を受けるべきです。


私の集めた資料はいま点検中です。雑駁な陰謀論に手を貸す脇の甘さが無いかどうか。

>和田さん。
写真の浜はトカシクビーチだと分りました。勘違いしてました。トカシクの舟艇は全部海底に沈めらたので、海面に浮かぶはずはない、の先入観もありました。失礼しました。
遠浅の浜で、満潮時に海岸に近いところで沈められたから、干潮になると海面に姿が表れる、というのが貴兄の推理ですね。
だとすると、やはり、干潮で引き上げ不可能になったので自沈したという赤松の証言は「ウソ」だという事の、一つの証拠になりますね。「様相」では多数の女子青年団、婦人会、壮年会などが泛水協力したと書かれていますが、曽野の本にはそれは書かれていません。
自沈理由がウソだとなれば、もはや、大町大佐が出撃中止命令及び自沈命令を出したという、赤松の弁明も到底信用できるものでないという事になります。

あと、「様相」にクリ舟の記載があるかどうか、手持ちの資料では見つけ出せません。また、渡嘉敷島に河川用の「サバニ」が在ったかどうかも今のところ、私には検証できません。大町大佐らはマルレではなく、河川用のクリ舟で漁師らと脱出したから、前島で中継休養しなければならなかったという事を仰っているのでしょうか?その辺はよく呑み込めませんが。

キー坊さん
いえいえ、渡嘉志久ビーチに間違いありません。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=79
まず上記渡嘉志久ビーチ 左の亀の頭のようなのが目印。
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=77
上記が阿波連ビーチ 
次に渡嘉敷島公式サイト
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu02.pdf
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu05.pdf
いずれも下部に渡嘉志久湾の船艇写真
それから出撃準備態勢になることがなかった他の慶良間諸島の海上で大量のマルレが浮かぶはずはないです。

次に前稿で書き忘れたことを書く。すでに確認済みのことだが、赤松隊の船艇自沈作業の時間帯は満潮位に近い時間帯であって、船艇を沈めた所は陸寄りの場所であった。海岸際で沈められた船艇はその後の干潮で浮かび上がり、潮と共に海上に送り出されることになる。 そのような理由で、渡嘉志久で自沈させた船艇が多数浮かび米軍の写真に収められることになる。潮位表がなくとも、この写真は曽野の潮位にかかる嘘の証として充分な証拠となる。

さて曽野綾子の「ある神話の背景」における(くり船)の種本は「鉄の暴風」ではなく、「渡嘉敷島における戦争の様相」である。
曽野綾子は「ある神話の背景」冒頭近くで「渡嘉敷島における戦争の様相」の一部を紹介しているからそれ以前に読んでいることは間違いない。
改めてnio615さんの
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1449.html
渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』を参照願いたいがあいにく現在キャッシュでないとリンクできない。

要約すると、渡嘉敷に取り残された大町大佐一行の一部が、本島帰還のために刳船に詳しい防衛隊員を伴い帰還したという話。
だが、そこには見逃せない内容がある。まず、漕ぎ手に糸満の漁師2名も加わったにもかかわらず一気に本島に行けず前島で中継しなければならなかった。
こう考えたらどうか。 

ほとんど対空兵器を持たない渡嘉敷の日本軍に対して米軍は損害を最小限に止めるため、米軍機を低速・低空でなめるように目標物に対して銃爆撃を繰り返したことに疑いの余地はない。 だから、漁に出ていた糸満漁師の漁船も破壊された。
このくり船は、山に挟まれた狭小な谷の川岸に置かれた河川用のくり船だった可能性が強い。 考えてみるがよい。 南太平洋の海洋民族が操るカヌーは充分遠洋航海に耐えられる。 渡嘉敷のような狭い島の海洋民の(海洋用の)くり船に4人もの漕ぎ手がいないと30キロの場所まで一気に航海できないはずがない。 ちゃちな構造の刳り船だからこそ、船足が遅かった。 それは米軍の死角にあったウンナー川やイシッピ川の谷沿いに無造作に置かれていた河川用のくり船に違いない。

曽野綾子は、「ある神話の背景」において戦史叢書における(特攻船艇か漁船か船の選択にかかる内容を)村民にくり船の人手を出せという要請にすり替えたのである。 その時点(1945/3/26)で漁船が見つかっていることを前提にした話だがありえない。また、年齢的に屈強な男はアジア・太平洋に出征している。 次に屈強な男子の年齢層は防衛隊の年齢層になるので村民に要請することは体力のないものを選ぶことになりありえない。 たとえ漁船があり、漁船での帰還を選択したとしてもやはり、「戦争の様相」のように漕ぎ手は防衛隊とたまたま米軍に遭遇し避難した他地域の漁師しかありえない。 もし漕ぎ手の島民を募るなら、島民の多くが壕などに避難している現状では西山集合命令と同様、伝令に拠らなければならないがそのような事実は一切伝えられていない。

刳り船脱出の実話も5月になってから。米軍が一時撤退した時も大町大佐残留組は刳り船を発見していなかったのであろう。

曽野綾子は、「ある神話の背景」において赤松の上司に対する留利加波壕破棄具申が受け入れられなかったかのように描き、泛水作業中に潮汐が干潮方向に転換し赤松隊が難儀したかのような嘘を描くなど一貫して読者に赤松隊への同情が集まるように事実を改竄している。「青い海」の写真に掲載された曽野と赤松隊との会談において彼らは渡嘉敷島民を貶め、赤松隊を美化する神話作りに狂奔した。

刳り船を利用(投影・剽窃)した神話はさまざまなバリェーションが考えられた。 しかしその最終稿は曽野綾子に委ねられた。 (続く)

下の「米軍に鹵獲された船艇」の写真は、湾の右側の岬の形状から見て、阿波連ビーチのように思われます。

http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html

戦闘前に、慶良間にはマルレ300台が配備されたということが公式記録と思われるので、自沈や米軍攻撃で破壊された分を除いて、米軍上陸後に、尚300台が残存していたというマグドナルド記者の報告は、記録とは矛盾してます。

>阪神さん
>ただ、当時は戦果をあげる事より死ぬこと(結果はどうであれ出撃する事)に意味があったようですから…

WILL、08.8月緊急増刊号に梅澤元隊長の手記がありますが、梅澤は部下の若者達を爆死させたくなくて、宇品にいる時、船舶司令官に「直前投下、反転退避」の意見を具申したところ、これが受け入れられて、「こんな感激は無かった。隊員の特幹候補生も大喜びし…」という下りがあります。
やはり、特攻隊員とはいっても命は惜しいから、この方針転換によって、隊員達の生への執着は意識の底に根を下ろしたのではないでしょうか。

その心境は第3戦隊の赤松隊も同様だったと想像されます。
生還型の攻撃艇だから、例の「状況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ、那覇に転進すべし…」の命令電報も、まったく不可思議なものではないと思います。この場合、「転進」は「退却」でなく、文字通り、撃沈されなかった艇は那覇へ転進せよ、という意味で何の矛盾も無いはずです。
攻撃を躊躇わせたのは、彼らの生への執着からだと私は推測してます。

こんにちは。
和田さんが言われたhttp://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html は私の記憶でも渡嘉志久ビーチだと思います。また私が見た特攻艇秘匿壕への船艇引揚は、20人の男がマルレを取り囲んで運ぶなら5分と掛からないだろうと思います。また、大町大佐がくり舟の出動を頼んだが村民に拒否された件ですが、拒否する理由が見当たりませんね。船頭をやる人が大怪我で死ぬ寸前だったとかじゃない限り無理でしょう。拒否したら叩き斬られておしまいです。あと、私が読んできた沖縄戦記130冊余りの中にはエンジン付きのサバニはありませんでした。当時の貧しい漁民がエンジン付きを持つ事は困難であるし、燃料入手が困難かつメンテナンス網の不備を考えたら所有しても長期間に渡って稼動出来ないでしょう。また、サバニで脱出した兵隊の話は数多くあるのですが、エンジン付きサバニであったケースは今の所ありません。
キー坊さんが考えられた特攻中止の理由ですが、確かにマルレは反転して生還を期する船でした。マルレ特幹隊員が反転する気でいたかどうかは人それぞれかつ、出撃後の情況にもよるのでしょうが、特攻を取りやめた理由が生還できる可能性が無いからというのは、
生還後の任務があるなら納得出来ます。ただ、当時は戦果をあげる事より死ぬこと(結果はどうであれ出撃する事)に意味があったようですから、無数の米軍船艇が遊弋していても出撃出来ると判断出来たなら出撃したいと思うのが当時の軍人の考えだと思います。壕からマルレを引き出して運んでいるうちに攻撃されてしまうからという理由もあったのかもしれませんが、私も特攻中止の謎が解けません。

戦史叢書には、「漁船」としか書かれてないのに、曽野綾子と大城氏はほぼ同時期(71年末)に、「くり舟」というキーワードを使って、マルレ不出撃・自沈へのからみ、或いはその直後の情況を語っている。
ここから、和田さんは、曽野と大城氏が同年6月、赤松隊の会合で話し合い、大町大佐が漁民に「くり舟」の出動を頼んだが拒否された、という事にしたと思うのですね。

前に書いたように、私も大城氏が赤松隊の戦友会に深く関わり、曽野とも通じていた可能性が十分あると思ってます。しかし現時点では、まだそれは推測・憶測の段階でしかないと思います。
もし、それが事実だったら、氏は「潮」と「県史」に、赤松隊の全面擁護の証言をして曽野綾子と同じ立場に立っている以上、我々の非難の対象にされるべきです。だが、それが判明してない限り、氏は知念朝睦や比嘉喜順の部外者と違って、集団自決被害者の家族という位置にあるから、我々も慎重に成らなければならないと思います。
既に故人だろうし、確かめる方法は、あの「青い海」に掲載されていた会合写真中の人物が大城氏であるかどうかを、渡嘉敷の年配の人に尋ねてみる事しかないでしょうね。ちょっと手間ひま掛かる事です。

ところで曽野は、マルレは時速20ノットの、自転車のようなノロノロの速さと言ってますが、時速20ノットは秒速10mに相当します。時速36kmです。そして、決して体当たりの攻撃艇ではなく、寸前爆雷投下・反転遁走の生き残る可能性は十分ある兵器だったのです。(知念朝睦・県史の証言)しかし、慶良間列島を取り囲む無数の米艦隊の前ではとても生還できると思えなかったのでしょう。それが、特攻を取りやめた本当の理由だと憶測しています。なぜなら、赤松と曽野はマルレが生き残る可能性のあった攻撃舟艇だという事実を、ひたすら隠しているからです。

狼魔人や秦郁彦などの劣化ウヨクは、「大町大佐が漁民に「くり舟」の出動を頼んだが拒否された」という曽野の記述を取り上げて、村民は司令官の命令さえ拒否する権利が有ったのだ。赤松隊長に自決の強制されても拒否する事だって出来たはずだ。だから、「軍命」など無かったという妄言を展開してます。

>赤松隊の陣中日誌の原本(3.23~ 辻中尉記述)
私も、これをCD映像版で持ってますが、解読に少々手間取る筆跡情況です。時間を掛けてテキスト化してみようと思います。

キー坊さん
結論を書かなかったので、むつかしく考えられていますね。
結論からいうと、くり船の話しは曽野綾子の創作であり、大城良平は名古屋の赤松隊曽野会合に出席し、くり船をダシにした創作作りの検討に参加したが詳細は曽野に一任され変更されたということになります。

なお、直前に掲げた3つの文献は参考文献であり、あくまでも「戦死叢書」と「ある神話の背景」が基本です。

まず、軍事的視点と当時の軍人の思考回路から大町が特殊船艇の他に漁船による沖縄本島(以下「本島」と略称)を検討する理由を推定すると、爾後の本島でのマルレ出撃戦闘のために船艇を隠蔽するため・米軍が民間船を攻撃しない可能性を考慮の2つが考えられる。
次に、エンジン船とくり船の比較でくり船を選ぶ理由としては音が静かでみつかりにくい、そもそもエンジン船が調達できないという理由が考えられる。
最後にくり船と大町大佐の脱出が結びつくためには、重複するが一か八かの出撃をするよりは船艇を隠蔽し本島のマルレによる出撃に万全をつくすためという理由が考えられる。

ところが事実経過や文献の記述はこれらの理由のほとんどを支持しない。
戦死叢書によると大発を米軍に破壊された大町一行は1945/03/25夜、阿嘉島から(漁船でもくり船でもなく)船艇で渡嘉敷に移動した。
そして、大町は第三戦隊に対して真っ先に「泛水作業の中止を命じ、且つ大町大佐一行を一コ群(九隻)をもって沖縄本島に還送することを命じた」-つまり、当初漁船やくり船での還送は考慮されていない。さらに戦史叢書「帰還輸送を特攻艇にするか、漁船にするかが研究されたが、漁船が得られず」との記述表現は旧日本軍・自衛隊とコネクションのある山岡莊八の思考回路(小説 大平洋戦争)によっても「何とか漁船を探してこれに乗せようとしたのだがすでに漁船が手にはいるような状態ではない。」
それはそうだろう。上陸前夜米軍機の優先目標は飛行機・大砲陣地・船舶であり上空から目に入る漁船はすべて撃沈されることはいうまでもない。

決定的な事実がある。戦史叢書と同様の記述を紹介しよう。
http://www.okinawa-senshi.com/tokashiki.htm
引用すると「ただしこの自沈命令は第1中隊には伝わらず出撃準備を完了した。・・・・26日夜半には第2中隊・第3中隊の一部を警戒部隊として残置し、残余を複郭陣地に集結すべきことを命じた。第1中隊には残存舟艇による出撃を命じたが、第1中隊は米艦艇の砲撃を受け泛水不可能で出撃はできなかった。」

いかがでしょう。まず自沈していない船艇は2隻ではなく約32隻あった。
叢書や「ある神話の背景」のようやく引き上げた2隻しか残っていなかったかのような表現は目立たない改竄。

大町は本島の戦闘を優先させるのであれば第1中隊の出撃を認めるわけにはいかないはずである。自沈させなければならない。 言っていることとしたとされていることが矛盾している。
アメリカ記者グラント・マグドナルドによれば、米軍は慶良間諸島から洞窟などからに隠されていた300隻の船艇を発見したという。その中に第1中隊の分が含まれていることはいうまでもなかろう。
さらに
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html
で「米軍に鹵獲された船艇」を確認されたい。これは第三中隊がいた渡嘉志久ビーチの写真に間違いない。

つまり、船艇を隠すため自沈したという隠し方はおよそおそまつで執念に欠けるものであったといわざるを得ないのである。
ここにおいて大町・赤松・曽野の醜く汚い民族の叙事詩改竄が確定されたと考える。
http://okinawa.from.tv/leisure/leisure6302.htm
上記写真により、満潮時の渡嘉志久ビーチからの船艇引き揚げは困難でないと思われる。

残った問題は前回取り上げた曽野のくり船記述のネタ本と皆本証言など。

和田さんが調査をお続けになるなら、次のことをお勧めします。

防衛研究所には、赤松隊の陣中日誌の原本だと思われるもののコピーがあるはずです。私も孫コピーを手に入れましたが、コピーの状態が悪く解読不能です。先に進むなら、防衛研究所に数回通わなくてはならないのですが、叶わぬままとなっています。

そこには、多分、大町大佐の命令と行動に関しては、赤松証言とも曽野記述とも違ったことが書かれているでしょう。

1971年を基点として隔靴掻痒するよりも、1945年そのものを基点として解明するほうが早道かと存じます。

ただ、その史料の解題が専門家によってきちんとなされていないかもしれないことが大きな難点ではありますが。

また、それがなんと言う史料名なのかは、ご自分で探り当てるようにお願いします。一両日あれば私が探し当てることは可能ですが、私自身が中途半端にあたってはならぬと自戒していることでもあり、他者様にも安易に便宜を供与すべきでないと思っております、ご理解ください。

私は、大町大佐が赤松隊を介さないで村民から船を調達しようとした、という曽野の記述(赤松の曽野への陳述か)自体が、笑っちゃうものでしかないと思っています。

その可笑しなものに準拠して、複雑な陰謀物語を類推するのは徒労であり、もしその様な陰謀があるなら陰謀の手の内に載る児戯にも似たり、と相成るかと思います。

根本は、赤松臆病説を否定したいがための創作物語の片隅にうまれた、辻褄のあわなさの一つに過ぎないと思います。そうした辻褄のあわなさを一々とりあげて、陰謀だと陰謀だと、畏怖しあうのは慎みたいと思います。

>和田さん。
>1968年刊行の沖縄方面戦史叢書が語る「大町大佐の(渡嘉敷から沖縄本島への)帰還輸送を特攻艇にするか、漁船にするかが研究されたが漁船が得られず、・・・

この戦史叢書への情報提供は、赤松グル-プがしたものに違いないですね。このクリ舟情報を大城氏は何時知ったかということですが、「らしい」と言ってるところを見れば、戦時中は知らなかったと思われ、叢書を見て知ったかもしれません。
それが、「潮」への赤松擁護の弁に使われた可能性もあります。

漁船がエンジン付きのものだったか、手漕ぎのサバニだったかという事の問題ですが、戦前にエンジン付きサバニが渡嘉敷に在ったかどうかですね。私は、それは戦後の物のような気がします。
カツオ漁船や連絡船は全部徴用されて、米軍爆撃で、沈められていたのではないでしょうか?夜とはいえ、無数の米艦船の取り巻く海域をクリ舟で脱出しようと、軍司令官が考えたのでしょうか?

とにかく、叢書の記述も信用できません。曽野や大城氏のクリ船記述・証言は可笑しなものです。
今回の和田さんのコメントは、大城氏が「ある神話の背景」前から、赤松グループと密接に通じ合っていたのではないかという推測でしょうが、その可能性も十分あります。だが、確たるな証拠が在る訳でないもないです。

あの「青い海」に載った会合写真の人物が大城氏であることが判れば、それは直ぐに氷解する事になりますね。

大町のくり船脱出計画の真偽1

やはり、1971年11月より後の1972年12月号ですか。
何のために調べたかというと月刊「潮」1971.11月号大城良平証言
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/ryouhei/ryouhei.usio.html
引用すると
「とつぜん「全舟艇破壊」を命じたという「事件」に関しての記述である。 これにはさまざまの隠された事情があったらしい。そのころ船団長の大町大佐といぅ指揮官が島に渡ってきていて、この人が島からクリ船で脱出する計画がからまったりしていたので、赤松大尉に出撃中止の司令軍令が下ったらしい。けっして、個人的な不安とか卑法さでおくれをとったわけではないと思う。」

この記述はクリ船の記述があることで「ある神話の背景」と共通性があるが、クリ船脱出計画が出撃中止に直結するかのような記述はない。時間的にも論理的にも。船艇を自沈させた後「夕刻迄の村民にくり舟を出して貰えないか、という交渉をしに行ったが、拒否されて帰って来た」との記述だけである。

他にも大城証言を裏付ける証言はなく、荒唐無稽として見逃されかねない証言である。
しかしながら、大城は「私は赤松の片棒をかついだ。軍に不利なことを語ってはいけない」といういわずもがなの趣旨を県史に載せる性格の持ち主である。
荒唐無稽のように思える証言から(目的・利害関係・事実誤認・方向転換)などが透けて見えるかもしれないと考えた。

曽野綾子のくり船情報が事実に基づくものであれば、大城証言が曽野・赤松隊会談を踏まえたものか、大城自身の独自のルートからの情報からか判断できない。
しかし、「ある神話の背景」のくり船情報が創作であり大城証言も創作の一つの選択肢であったとすれば、大城証言は「ある神話の背景」の先駆けであり大城が曽野と赤松の会合に同席した可能性は格段に強まることになる。

この考証に不即不離な検討事項は1968年刊行の沖縄方面戦史叢書が語る「大町大佐の(渡嘉敷から沖縄本島への)帰還輸送を特攻艇にするか、漁船にするかが研究されたが漁船が得られず、第三中隊でようやく引き上げた特攻艇二隻によることになった。」という漁船がエンジン船なのか、くり船なのかということである。
エンジン船であれば、曽野綾子の「ある神話の背景」記述は創作であり、大城良平は「青い海」1971年6月号の曽野綾子と赤松隊の会合に同席した可能性が強まる。

ヒントは3つあった。
1つはnio615さんの
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1449.html
渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』
残りの2つは、皆本が寄稿したもの
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031793781&Action_id=121&Sza_id=E1
特攻 最後の証言  及び
http://iwata910.seesaa.net/article/113527634.html
撃論ムック「沖縄とアイヌの真実」

これらにより、主として軍事的視点と事実経過から漁船がくり船かそうでないか、大城の大町とくり船の話しは真実か、創作として話し合われた選択肢の一部であったのかを検討することになる。

>大町大佐がくり船を島民に依頼したという記述

この部分は、単行本では「四」に記載されているから、もし、「諸君」に在るとすれば、72'1月号にあることになります。だが、私は雑誌「諸君」を持ってないし、国会図書館で文章をつき合わせて検討した事もないので、記載があるかどうか判りません。国会図書館で見れば、すぐわかることでしょうが。

和田さんは、この部分の記載が「諸君」にないとすれば、曽野はどんな欺瞞を弄しようとしたと思ってるのでしょうか?

お尋ねと「生贄の島」の位置づけ

キー坊さん
曽野綾子「ある神話の背景」の中で大町大佐がくり船を島民に依頼したという記述は「諸君」何月号に記載されているでしょうか。

図書館で探したところ1971年10月の連載初回はあったのですが。
1971年11月月号以後にある、又は1971年11月には記載がないということだけでもよいのですが。

「切りとられた時間」は(嘘だらけの)「ある神話の背景」のために虚実混在させた「習作」でしょう。

それに対して、「生贄の島」は練習作でもあり、その後の「ある神話の背景」を一方的な視点から記述していないというみせかけのための目くらまし・攪乱工作のようなものだと思います。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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