2017-09

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「生贄の島」について②

 曽野綾子は1961年初頭に文春講演会で、今東光、中村光夫と供に沖縄を初めて訪れた。その時既に、慶良間「集団自決」の話を聞いて、強い関心を抱いたことは間違いない。

 その後、1967年の暮れ、仲宗根政善・元師範学校教諭の自宅で、仲宗根氏及び往年の従軍女子学徒(ひめゆり部隊)の生き残りである三名の女性に逢ったそうだ。偶然にも、隣家は、娘さん二人を従軍学徒として失うという悲運に見舞われた金城和彦氏(当時・殉国沖縄学徒顕彰会)の家だった。「新沖縄文学42号」 
 その時、仲宗根氏と教え子の女性三名の話を聞いて、まだまだ知られていない従軍女子学徒のあり様があると感じた。それを掘り起こし記録するのは、自分のような書く事を専門とする者がやるべき事ではないかと、曽野は思い立ったという。

 それからいろいろ経緯があって、曽野の沖縄に関する初めての著作となったのは、週刊現代に1969年4月3日号(発売3月24日)から18回連載された「生贄の島」であった。
 現地取材において、彼女に帯同した週刊現代記者(後編集局長)・鈴木富夫氏による文春文庫への解説文によると、68年9月、東京において仲宗根政善氏、大田昌秀氏、金城和彦氏などと事前の会見・打ち合わせを行って、68年11月、鈴木氏を含む週刊現代の敏腕記者四名を引き連れて、曽野綾子は沖縄に乗り込んだと言う。(曽野・秦【対談】) 約2週間の滞在で、200人近い人たちの、膨大な証言、資料・文献を収集したという。

 この曽野綾子の精力的で、綿密な調査振りを称讃する向きもあるが、これは曽野単独の作業とは言えまい。沖縄の指導的立場にある人たちの協力を取り付け、週刊現代(講談社)という体制側の大手出版社から、資金と人材を提供して貰った事を考えれば、特別に困難な事業ではなかったのではないかと思う。 
 内容は、日本軍に従軍した女子学徒の大部分、及び彼女らに戦場で関わった多くの人々の生き死にの有り様を描いた記録であるが・・・。
 曽野は「生贄の島」後書きで、「この作品はそうした200人近い方々の御協力によって完成した。書いたのはその方々であり、私はただ、ひとりの語り部であった。しかし、このような形で、歴史の一部を書き残すことができたということは、作家として大きな喜びであることはまちがいない」。と、書いている。

女学生等の戦場での凄惨な場面を、あたかも写生をするかのごとく冷徹な筆致で描いている。あるいは映画の場面を撮るように、斜め上からの冷静なカメラワークで映し出しているように思える。だが、やはり、沖縄に関する最初の作品であるこのノンフィクションにも、曽野綾子らしい詐術が施されていると思う。

感情を押さえた写実的な書き方ははそれなりに、対象を描く有効なノンフィクションの手段であろう。だが、その描写の一つひとつは、書き手によって取捨選択が可能である。ノンフィクション作者は膨大な聞き取り、資料文献の中から採り上げる材料を選ぶのは常識に違いない。実際、曽野は秦郁彦との対談で、富山真順の取材は採り上げる必要性がなかったので、「ある神話の背景」で落としたと言っている。同じように、「生贄の島」でも恣意的な取捨選択が見られるのである。 (続く)
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コメント

用心深さと大胆さ

なるほど。
曽野綾子は会ったとも会っていないとも語っていない。
ところで「ある神話の背景」3ページくらいにこんなことが書いてあります。
「私が島について再び耳にしたのは、昭和四十三年のことであった。・・・・そしてその間に度々、「慶良間には行かれないのですか」と訪ねられた。」

訪ねられた相手の固有名詞を出していないのです。やはり曽野綾子は当初は用心深かったと思います。 長年嘘がばれないと大胆になった。 嘘と隠しは情報操作の両輪です。
曽野綾子の嘘だけではなく、隠し事も追求しないといけません。

固有名詞をわざと外している場合とか、日時を書かない場合には注意が必要です。

たとえば、大阪の会合で函館在住の元隊員の固有名詞が表現されていません。
この隊員の名は高い確率で特定することができました。 曽野が隠す理由もあります。

和田さん。
>、「68年9月、東京において仲宗根政善氏、大田昌秀氏、金城和彦氏などと事前の会見・打ち合わせを行って、」

この3氏には、鈴木富雄氏が会ったと書いていて、曽野も一緒だったとは書いてありません。都内でこの3氏に曽野が会ったかどうか分からないですね。ただ、その頃に曽野が金城和彦氏に会ってる可能性は十分あると思います。

富山真順は村の戦争協力指導者として、住民を集団自決に導いた役割を果たした手前、85年まで、あの「手榴弾配布」証言を公表できなかったのだと推測します。

金城和彦と富山兵事主任

本文に拠れば
曽野綾子は、「68年9月、東京において仲宗根政善氏、大田昌秀氏、金城和彦氏などと事前の会見・打ち合わせを行って、」ですか。1967年の暮れ曽野が金城和彦に会ったかどうかわかりますか。
金城和彦は山岡莊八の盟友で靖国カルト。彼の「愛と鮮血の記録」は防衛庁防衛研修所戦史室が刊行した『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』にも採用され、第三戦隊本部壕に富山兵事主任が(最終)集結場所を伺いに赴いたとされている。
つまり、曽野綾子が金城和彦氏と会っていれば必ず渡嘉敷島集団死の話しを聞いているはずなのだ。曽野綾子は1968年9月には渡嘉敷島関連のかなりの知識を入手していることになる。

なお、「潮」1971年11月号の百人証言特集には富山兵事主任も寄稿している。
しかし、「集団自決のことは話したくないんですが・・・・」と語ったのはこの時であり、しどろもどろ、まともな話しをしていない。赤松・曽野サイドから富山に圧力があったとして不思議でないと思える内容である。
もう一つ、この時の富山証言では先頭の島民が赤松に(最終)集結地の伺いをしたとしている。 「戦闘の様相」以下富山が赤松に伺いを立てたという多くの記述は、単に命令系統からすれば赤松から富山兵事主任という系統でなければならないという建前に基づいた記述の可能性がある。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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