2017-10

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プシュケーとゾーエー 聖書解釈のハッタリ

 愛蔵太というブロガーの記事で、曽野が家永法廷で、金城牧師の「命」解釈を貶した事について、検証する記述があった。その半ばくらい所に、他者からの引用として、「「プシュケーのいのち」論争」という記述がある。ここで記述者は曽野の「プシュケー」解釈のほうが間違っていると指摘している。

 http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060802/bible


新約聖書では、「命」を表す言葉として「プシュケー」「ゾーエー」(ギリシャ語)があり、この二つの用語は意味の明確な使い分けがある。「プシュケー」とは肉体的・生物学的な生命であり、「ゾーエー」は、そのような肉体的・生物学的な生命が失われても、永遠に生き続け、輝き続ける生命をいう。
今回の秦との対談で、曽野は次のように言っている。

曽野 家永裁判の記録にあると思うんですが、法廷で金城牧師が「一人の人間の命は地球よりも重いとイエスが言われているとおり」と述べたんですよ。それで私は、イエスはそんなことはおっしやってません、と反論しました。あの人は聖書をしっかり読んでないんですよ。私は「なんて変な人なんだろう」と思いました。牧師さんなのにね。」

これはどういう経緯かというと、1988年2月「第3次家永裁判」、那覇地裁での出張法廷において、家永側証人として金城重明氏は以下の陳述をしている。自分が救われた聖書の言葉として、
私の心を捉えて離さなかった聖句は、『たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、どんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。』(マタイ福音書16章26節)とのイエスの言葉だった。人間の命が全世界より重く、計り知れない程尊いものであることを知らされた時、目から鱗が落ちる思いがした・・・・・・」と陳述した。(「裁かれた沖縄戦」p355)

この節でいう「命」は「プシュケーである。
「たとえ人が全世界を自由にできる程の享楽を得られても、今生きている肉体的生命を失えば、無意味な事だ。」というのが、この聖句の一般的解釈である。故に、金城氏の解釈『人間の命が全世界より重く・・・』は一般的ではないかもしれない。
だが、「プシュケー」を肉体的生命と訳したのは正しい訳であり、「人間の命が全世界より重く・・・」と言ったのは氏なりの解釈であり、必ずしも間違いとは言えない。

ところが曽野は、同じ「第3次家永裁判」同年4月の東京地裁での証人尋問で、金城氏の解釈は間違っているとケチを付けたのである。
例によって、その道の権威を持ち出し、高飛車に「この節でいう命とは、永遠の命の事であり、聖書には『人の命が全世界より重い』という言葉ございません。以上でございます。」と言い放った。(「裁かれた沖縄戦」p199~200)

この曽野の解釈は、塚本虎二という聖書研究者の解釈から持ってきたものである。マタイ福音書16章26節の「命」は「プシュケー」であるが、二つの用語の定義の違いがある限り、この節においての「プシュケー」を「永遠の生命」と解釈する塚本氏の論は極めての少数説であり、異説なのである。

キリスト教神学では明確に、「プシュケー=肉体の命」・「ゾーエー=永遠の命」意味の違いを定義しているのである。曽野がこの用語の違いを知らなかったとすれば、無知蒙昧なカトリック信者と言うべきだが、知っていながらやっつけたとすれば、法廷という厳粛な場で、極めてヤクザな言動を為した事になる。(この時、曽野は、例の富山真順を知らない、の偽証も行っている)

この曽野のハッタリに対して、金城氏はどんな反応を示したか?
あろうことか、自分が間違っていたと認めたのである。曽野氏の言う「あの命(プシュケー)は戦争でも失われない永遠の命のことで、金城氏の聖書解釈は間違っている」という指摘はその通りであると、自著の中で書いたのである。(「集団自決を心に刻んで」p185~186)
泣きたくなるような金城氏の反応である。曽野に何か言われるとヘビに睨まれたカエルの心境に陥るのであろうか?もう老齢であられるが、沖縄におけるキリスト教神学の権威として、「集団自決」の被害者として、この件についてもう一度、曽野への反撃をお願いしたい。

秦は、「『人命は地球より重い』というのはハイジヤック事件のときの福田首相(父)のセリフで有名になったので、金城さんはそれを借用したんじゃないでしょうか」と侮蔑的に言っているが、金城氏は「地球」ではなく「世界」と言ったのである。秦は曽野の言ってる事を検証もせず、尻馬に乗る劣化言論人の典型である。

秦や鴨野・徳永らの低劣言論人が金城氏を、書物や法廷で「殺し屋」呼ばわりして、なぶり者にしたがるのは、この家永法廷での曽野のハッタリに、あっさりひれ伏したした事を、ひ弱な沖縄男だと見くびっての事だろう。
だが、常識ある人々は曽野のハッタリを見抜いているのであり、常識ある裁判官は、原告側応援団の俗悪さも当然に見抜いているのである。(もっとも、裁判官は、原告の訴えそのものが邪悪な意図に基づくもの、と見抜いていると思う)



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コメント

キー坊さん、こんにちは。
>金城牧師の言う「命は世界より思い」言葉も間違いではないのではないでしょうか。
間違いではないですね。いくらお金を出そうが、どんな権力を与えられようが、命を失ってしまったらそれらは無になりますからね。

>阪神さん
>ただ、キリスト教にとって「永遠の命」を得る事は何よりも重要なことです。

それは、キリスト教だけでなく、仏教でも同じ事ではないかと思われます。昔、ある仏教系の教団に出入りした経験がありますが、そこで教えられた事は、簡単に言えば、信仰のの究極の目的は「成仏」する事だったと思います。
「成仏」といっても、必ずしも「肉体」の命を失った後に「成仏」(永遠の命・ゾーエー)を得る事だけでなく、この世に生きてい居る間の「現世成仏」を達成するのが理想としていたと覚えてます。もちろん現世成仏は生やさしい事でなく、大方の人間はそれが達成できなくて、つまり「永遠の命」を得ぬままに「肉体の命」を失ってしまう事になる、と思います。

が、そういう仏の位置に近づく修業もこの世に生きていればこそ、実行できるものだと思えます。また、霊界に旅立ったものの、未だ「永遠の命」には遠い位置に居る「ご先祖様」「縁者」を供養して上げられる者は、今、肉体の命(プシュケー)を持っている我々しか無いのではないかと思います。
その修行の具体的方法は、「利己を棄て、利他に生きる」事だと思います。「全世界を儲ける」という文言が、利己を指していると思います。

阪神さんのお話で、「マタイ・16.26」の命について、「永遠」と解釈する事も稀ではないと解りましたが、金城牧師の言う「命は世界より思い」言葉も間違いではないのではないでしょうか。

こんにちは。
>学校では、「プシュケー」と「ゾーエー」について語句の講釈はなかったですか。
聖書の授業が週1回あったのですが、あったかどうかはおぼえていません。御免なさい。
ただ、キリスト教にとって「永遠の命」を得る事は何よりも重要なことです。ですからマタイ・16.26の命は2000年前から永遠の命を意味していた事は間違いないことだと信じております。
もし気になるようでしたらお近くのキリスト教会で質問されると詳しく教えていただけると思います。ただし、エホバの証人、統一教会、末日聖徒イエス・キリスト教会はニセモノですから近づかないで下さい。
日本キリスト教協議会の団体ならよろしいかと思います。
http://ncc-j.org/link.html

ni0615さん。アドバイスをどうも。

愛・蔵太のブログを以前、連続的に覗いていた時期もありましたが、記述内容はとても信用できるものでないと思っていました。

ただ、曽野が金城氏をやり込めた件に関しては珍しくまともな論評をしているように思えたので、リンクされたサイトを見てみて、やはり、曽野はハッタリかましたのだと確信して、あの日記をリンクしたのです。

が、意外や、阪神さんの母校であるクリスチャンスクールでは、当該の聖句は曽野の言ったとおりの教え方をしていたという事ですね。
聖書の「命」については、もう少し調べる必要ありそうです。
聖書「いのち」に関する論考を掲載しました。

 http://keybow49okinawan.web.fc2.com/siryou.html#inochi

お二人のお話の腰を折るようで申し訳ありません。
  キー坊さんが引用したサイトの主、愛クラタには気をつけてください。この人物がいろいろと資料を集めてくるのは、資料が世間で読まれる前に手垢をつけておこう、というコンタンです(マネーロンダリングの反対で、史料を無効化する)。集団自決問題でも長いこといろいろと画策していました。恣意的なトリミングなどは朝飯前です。
  特にこの男が執着していたのは、富山真順証言の無効化でした。兵事主任なんて係長より低い村役場の事務員に過ぎないとか、兵器軍曹なんて陸軍の役職名にないとか・・・この男の手にかかると、トリミングにトリミングを重ねた資料、webで拾ってきた書き捨ての羅列で、10回ぐらいにわたって、デマ発信をつづけるのです。
  県史からの引用をいくらコメント欄に書き込んでも、沖縄戦で日本兵が赤ん坊を殺したなんて、WEBを探してもないから怪しいんだと、いつまでも嘯いていたのです。わたしも相当バトルしました。http://d.hatena.ne.jp/ni0615/20080409
  ウヨクデマの有名な発信源でしたが、ミエミエになって最近は少しおとなしくなっています。
  史料を探すと、この男のサイトがよくヒットしますが、それを使う場合は必ず、大元のソースに必ずあたってくださるよう、ご注意願います。

HP・資料に、聖書の「命」解釈に関する論考を数編、掲載しました。

>阪神さん
学校では、マタイ・16.26 の命については「永遠の命」と教えられたのですね。すると、あながち塚本虎二氏の解釈は異説というほどのものではないかもしれないですね。
前節との関係では、「永遠の命」と解釈する事に不自然さはありません。

でも、愛・蔵太ブログにリンクされていた3編の論考を読んでみると、マタイ・16.26 の節に関しての言及は無いですが、3編とも「プシュケー」は「限りある命」、「今現に生きている『いのち』」、「肉体的な命、生物学的な命」としていますね。
学校では、「プシュケー」と「ゾーエー」について語句の講釈はなかったですか。

こんばんは。聖書が成立する過程は勉強していないのでよくわからないのですが、マタイ福音書16章26節の命については「永遠の命」と教えられてきました。それだから金城先生は訂正されたのでしょう。うっかりしていたのでしょうね。
しかし、曽野の言いがかりはキリスト教徒とは思えませんね。靖国神社の神々にも頭を下げに行くウルトラ馬鹿夫婦かつ偽信者です。単なる自称キリスト教徒なのでしょう。
私の学校は戦時中に軍事教練を受け入れてしまったので、95年にその事を反省する戦争責任告白をしました。立派な学校だと誇りに思っております。

阪神さん、コメントどうも。
>私が教わってきたこの命とは、永遠の命です。

私はキリスト教とは縁のない生活をしてきましたが、より重きを置いて説かれる「命」とは「永遠の命」であろう事は、想像できる事です。でも、聖書の成立当初から「プシュケー=現実の命」「ゾーエー=永遠の命」の使い分けはされていたのですよね。

阪神さんの学校では、マタイ福音書16章26節の「命・プシュケー」は「永遠の命」であると、教えられていたという事なのでしょうか?

私は、「プシュケー」を「永遠の命」と解釈して金城氏をやっつけた曽野の論は、インチキなやり方と思いますが。

永遠の命

こんにちは。僕は中学高校とキリスト教主義学校で毎日礼拝にあずかっていました。ここの部分についての神学的解釈は私は学者ではないので出来ません。私が教わってきたこの命とは、永遠の命です。この世の名誉や金にとらわれてイエス・キリストを救い主と信じないで入ると永遠の命を得る事が出来ないということだと思います。
もっとも、この聖句は異常な名誉欲を剥き出しにしている曽野が心して読むべき箇所ですが。
4月8日の講演会を聴こうと年休を申し込んでいたのですが、無視されて仕事を入れられました。楽しみにしていたのに悔しいです。

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Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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