2017-05

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6.23をめぐる月刊『潮』の証言

 1971(昭和46)年の月刊『潮』11月号は、「生き残った沖縄県民100人の証言」(沖縄は日本兵に何をされたか)という特別企画がされた。
 この特集には、赤松元大尉の私記『私は自決を命令してない』という弁明記も掲載されている。『諸君』71年10月号からは曽野綾子が、『ある神話の背景』の連載を開始している。半年後に沖縄の日本復帰を控えて、軍国主義復活勢力が蠢動し始めた時期と重なっていた訳である。

 その中で、牛島中将の自決、及び島田知事の最期に関する記述のある、三人の証言を拙HPに転載した。
「私は島田知事の最期を見た」(山本初男)・「島田知事の人柄」(徳田安全)・「牛島中将自決現場にいた私」(新垣隆生)の三篇である。


   三十二軍司令部付の軍属だった新垣隆生氏の証言では、牛島中将から、八原高級参謀と供に、「沖縄の情況を大本営に報告してほしい」と命令されたにも拘わらず、八原高級参謀は「もう大本営には沖縄玉砕の無電を打っていたのを知っている。本土ヘ行く必要はない」と言って、ひそかに司令部壕に戻り、丘の上での牛島・長の両中将の自決の様を暗闇から見ていたという。
 その時刻は「二十三日午前零時半ごろ」だったと言っています。直属の軍属が言う事だから、信憑性が高いと言えるでしょうかな?

 島田知事の秘書だったという徳田安全氏の証言では、知事は牛島司令官に対して「非戦闘員を知念半島に避難させて、いたずらに住民が犠牲にならぬ方策をとるべきだと主張した」と、証言しており、太田良博の記述と一致しています。軍人牛島は住民の命よりも、帝国に対する申し訳なさの気持ちが強かった事は、言うまでもない事だったのです。
 
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コメント

八原氏の手記

阪神さん、何時も情報を有難う。
 
私は、八原氏は戦後世を憚かり1972年の『沖縄決戦』を刊行するまで、沈黙してたのかと思っていました。
戦後十数年くらいには、雑誌に体験記を寄稿してたのですね。それよりもかなり前に、古川成美の代筆で『死生の門』を著していた。

71年映画『沖縄決戦』も、脚本・新藤兼人となっていますが、内容は1年後に刊行された八原氏の原作ですね。
1958年には司令官らの自決は6月22日としていたのが、1964年には23日と訂正している。当事者が訂正しているから、23日が事実という事でしょうかね。

やはり6月22日

八原氏が月刊誌に掲載したものをチェックしました。
1958年6月の丸では八原氏は22日としています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1437050622.jpg.html
しかし1964年9月の文芸朝日では23日になっています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1437050634.jpg.html
これから八原氏は50年代後半は何らかの理由で22日にしていたのではないかと思われます。
慰霊の日が当初22日だったのは、八原氏の意見が反映されたからと思われます。
そのうち慰霊の日が定められた年を調べようと思います。

第2の「偽沖縄人」

惠隆之介は、父親が奄美出身で母親が沖縄人らしいですが、惠が沖縄人というアイデンティティーを持たない事は明らかです。小生の個人的感触と、彼の書いたもので判断すれば、私には判ります。
7年前に『正論』書いた論考を読めば、彼が沖縄への最たる「ヘイトスピーカー」である事が判るのではないでしょうか。

「戦艦「大和」、十五万人分の月経帯を積載して特攻出撃!」
などという反吐の出そうな文言を書いています。百田は惠ほどのバカではないでしょうが、思想的には惠同様ネトウヨレベルです。
http://keybow.co/megumi/ryunosuke.html

ヘイトデマの常習犯

惠隆之介氏がリテラでヘイトデマの常習犯として紹介されています。

http://lite-ra.com/2015/07/post-1268.html

百田氏が言い訳に使ったのが惠隆之介氏のヘイトデマというわけで、救いがたい御仁です。

沖縄決戦、文庫とDVD

アマゾンにて、『沖縄決戦』の文庫本と東宝映画のDVDが販売に掛けられていたので、注文入手しました。何と文庫本(中公)は40数年ぶりに、今年の5月下旬に復刊されているのです。
DVDは明日届く予定ですが、興味ある方はお貸ししますので御一報を。

稲垣本との対比

さんげつさん、詳しいコメントをありがとうございます。
「死生の門」の原作者は八原博通本人だったとは驚きですね。戦後まもなく八原は手記を公開してたという訳ですが、何で自分の名で出版しなかったのかと不思議さが残ります。

私の手元には、稲垣武の『沖縄悲遇の作戦』しかないのですが、さんげつ式に(Iとして)対比してみると、

1) 新垣氏の身分
 I→伍長(牛島司令官の当番兵)

2) 八原脱出行の同行者
 I→最初は勝山伍長、勝山脱落し、佐藤軍曹指揮する数名の兵と合流。

3) 捕虜になるまでのいきさつ
 I→軍民混在の壕で、新垣・佐藤と北部脱出の策を練っていたが、6月26日米軍に囲まれ万事休す。八原は住民らに「米軍は殺さない」と諭し、英語のできる自分が交渉して投降した。
投降後は民間人を装い、富祖崎村で雑役に従事していた。新垣らと行動を共にしたという記述は無し。7月26日ごろ元沖縄県課長の調査係に素性がばれて、拘束された。

稲垣本が出版された時(84年)には、八原は故人(81年)となっていたのですが、取材は生前本人に直接したに違いないでしょう。この本では両中将自決の場面は、既にあまたの本で描かれたとして省かれてます。

新垣氏の身分については、年月が経っていて八原の記憶違いの可能性があります。同行者については、古川本にも勝山の名が出てますね。
新垣隆生証言の中に、「ピストルの発射音が……闇をツンざいたのです」という部分がありますが、これは佐藤経理部長自決を書いた八原本、古川本に一致します。新垣隆生氏が本部付きの兵士・或いは軍属であったことは、信用できる気が私はします。確信はもちろん無いですが。

71年に映画「沖縄決戦」が発表されたのですが、八原役の仲代達矢が米子の家まで取材に来てたそうです。八原本(72年)の刊行前だから、映画の原作者として八原はクレジットされてません。だが、映画の両中将自決の場面は、八原本と同じのようです。(これを新垣隆生氏は71年「潮」で否定)古川本の原作者は八原博通本人である事が、周知の事実だったからだと思います。

補足

キー坊さん

引き続いて投稿する予定だったのですが、ご質問の件に関して把握している範囲でお答えします。

*同じ場に居合わせているはずなのに証言が食い違うことはよくある話です。どちらがより真実に近いかの判断は容易ではないので、とりあえず対比させてみます。
A:『潮』の新垣手記 Y:八原博通『沖縄決戦』

1) 新垣氏の身分
A: 軍属で牛島中将護衛長
Y: 軍人で上等兵

2) 八原脱出行の同行者
A: 新垣以外の記載なし
Y: 佐藤・新垣の2名

3) 捕虜になるまでのいきさつ
A:民家に隠れているところをつかまり、収容所へ。先にとらまった日本兵が、八原・新垣2名を民間人だといったので、遺体収容の仕事をした。軍司令部に出入りしていた元小学校の女教員が米軍の憲兵隊に2人の身元をばらした。

Y:途中で難民と一緒に保護される。鑑別掛をしていた元日本兵に事情を打ち明けたところ、難民にしてくれ収容所送りを免れた。6月末に富祖崎村に入って、民家にかくまわれる。八原、佐藤、新垣の3名は別々に居住していたようで、会ったという記載なし。7月下旬、CIC(対敵情報隊)から出頭命令が出た(理由として「村が国頭へ移転するに際し、他府県人は調査される」という村人の言葉を引用している)。検査官が沖縄県の課長だった人物なので、協力を得ようと名前を明かしたところ、米軍に通報されて捕虜になった。

* 以前にも述べましたが、「死生の門」と「沖縄決戦」はともに八原戦史ですから、両者が史実に関して一致するのは当然ということになります。

この件に関して、GHQの尋問に対する八原の回答を以下に引用しておきます。

元32A参謀八原大佐に対するGHQ戦史課の質問書並びに回答
1949/4/15付

Q 最近古川成美氏著の名義で発行せられた「死生の門」は八原氏の執筆になるものか。この資料は八原氏の供述として戦史の資料に公式に引用できるか。

A 本書は自分が書き綴って居る回想録を材料として古川氏が編纂したものである。本書の内容中史実に関する件は自分の立場において真実であることを保障し得る。但し、形容の脚色は古川氏の創作である。史実に関する限り戦史の資料として(八原氏供述の)公的に引用せられて差し支えない。

他の2書に新垣の名

阪神さん、さんげつさん、資料紹介ありがとうございます。

八原高級参謀自著・『沖縄決戦』では、牛島・長両中将の自決は6月23日の午前3時~に、壕の外で行われたとされているので、これが事実なのでしょうね。

だが、司令部が大本営に打った電報は、玉砕電報ではなく訣別電報であった、ので、『潮』の新垣隆生証言にある〈八原高級参謀は「もう大本営には沖縄玉砕の無電を打っていたのを知っている。本土ヘ行く必要はない」〉という文言は信用できないという事ですね。
6月23日の未明、壕の外で両将軍の自決が行われたのは、間違いない事のように私には思われます。

さんげつさんが、古川成美『死生の門』での八原の6月23日の様子を書いた頁を紹介してます。これはs24(1949)年に出版されたものらしいですが、これが阪神さんが紹介している、八原元高級参謀が1972年に書いた『沖縄決戦』の記述に酷似している事に、釈然としないものを感じます。古川氏は八原から聞き取りして書いたと推測されますが、八原自身が23年後に自著を出版するにあたって、自己の体験記を、他者が書いた文章を真似て書いたことに不思議さを覚えるのです。

(渡嘉敷の体験者が太田良博の文章を真似たように)無学な人がそうするのは頷けますが、八原のように米留学もしたようなインテリが、こんなに他者の文章を真似るものでしょうか。だから、八原が事実をそのままに書いたのかという事には、全面的には信用できない気分も残ります。
ところで、『死生の門』の3頁目の項が変わったところに、新垣の名が出ています。
また、元朝日記者・稲垣武が1984年に出版した『沖縄悲遇の作戦』という八原博通の伝記があります。これも八原に直接取材して書いたものと思われますが、6.23場面記述は前二書に酷似してます。三書ともネタ元は八原博通でしょうが、稲垣の記述にも牛島司令官の当番兵として、新垣の名が出てます。故に新垣隆生の証言も、一蹴できない気がします。

八原手記の追加

阪神さんが八原博通「沖縄決戦」をアップされたようですので、3ページ目にでてくる最後の電文報告についてコメントしておきます。

http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435999475.jpg.html

電文は「沖縄作戦で特攻機による攻撃を三ヶ月にわたり続行してくれたことに対する感謝」です。なお、暗号班長の大野少佐は摩文仁で戦死しています。(保坂廣志「沖縄戦下の日米インテリジェンス」)

ついでに古川成美「死生の門」を参考までに。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435999550.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435999591.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435999617.jpg.html

キー坊さん、自決数時間前は山頂は危険でしたが、自決する直前は静寂だったようです。
しかしながら山頂に身を晒す事は危険ですね。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435967604.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435967616.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435967626.jpg.html
6月22日の月の入りは3時3分頃ですから、自決準備に相当手間取っていたのではないでしょうか。
或は、照明弾の灯りを月が出ていたと思い込んでいただけなのかもしれませんが。

肩書が不明瞭

新垣氏の戦時・証言時の身分が明確でないですね。
自決は崖の上の台地で行われたと言うのは、米軍が馬乗り攻撃をしていた状況からして、夜でも壕の外に出るのは不可能だったと推測できます。依って、氏の証言には信憑性がないという事ですね。
八原博通の自著『沖縄決戦』では、どんな記述になっているのでしょうか?どなたかご存知の方は…。

あやしい

私も新垣氏の話は怪しいと思います。

新垣氏の説明とは異なり、第32軍は訣別電は打っていますが、玉砕電は打っていませんし、最後の突撃もなかったと見られます。

このほか、話に具体性がありません。ストーリーはあるけれども、当事者だけに可能な、生き生きとした描写がありません。

牛島軍司令官の護衛長(そもそも軍属が護衛長というのが?)で、杯を交わし恩賜のタバコをもらったといっています。その際に何か言葉をかけてもらったはずです。雲上人からの別れの言葉に感激して手記に書くと思います。

また、捕虜として受けた尋問に全く触れていません。八原大佐と一緒につかまったのですから、相方が、八原かどうか当然尋問されたはずです。どう応対したのか?「知らぬ存ぜぬで押し通した」といった具体的記述があってしかるべきです。また、八原の身元がばれたのですから、「嘘をついたな」と今度は新垣氏が米軍からつるしあげを食って、冷や汗かいたはずです。そうしたいきさつ抜きで「私は処刑を覚悟していました」というクールな書き方は普通しないでしょう。

司令官の最後は謎だらけ

こんにちは。
司令官の最後については諸説あり謎だらけです。
頂点に立つ司令官の「そばにいた私」という人の証言はいくつもありますが、威光を利用して自分を高く売ろうとする人物の証言は話半分、いや嘘だと見ておいた方がいいです。
新垣氏はどんな人物か不明なのでなんとも言えませんね。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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