2017-08

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今日6月23日は

今日6月23日は、よく知られた沖縄の戦争終結記念日の慰霊の日である。この記念日は、私が小中高生であった日本復帰前からあったようであるが、私はよく覚えていない。復帰前からその日は追悼式典は行われていただろうが、今ほどにはマスコミも大きく扱わなかったのだろう。近年になるにつれ、社会がその日に注目するようになってきたように思える。

 何故、その日が戦争終結記念の日かと言えば、昭和20年のこの日、沖縄戦の日本軍最高司令官・牛島満中将と副司令官の長勇中将が摩文仁の丘の洞窟で自決し、組織としての日本軍の戦いが終わった日だからである。私が言わなくても、こんな事は今は誰でも知っている事であろう。

 私の小中学校の修学旅行の定番コースには、やはり南部戦跡が組み込まれていた。私は戦後数年して、沖縄戦を生き延びた親から生まれているのだが、私の親の家族は犠牲者が一人もいなかったせいもあるが、親やその親、伯父伯母らから戦争の悲惨さを聞かされた事はなかった。犠牲者のある家でも戦争中の話はしてなかっただろうから、南部戦跡を廻る時でも、生徒には悲壮感などなくピクニック気分だった。
だが、私の地元にも住民の戦死者はいたから、小二の時学校の近くの丘に「招魂の塔」という慰霊の塔が立てられて、百人くらいの戦没者の名前が刻まれていた。中一の時には学校近くの断崖の上に「農林健児の塔」という沖縄県立農林学校出身者の慰霊碑が建てられた。15年戦争全体で、在校生・卒業生含めて500名余の戦没者がいたようである。
 昭和30年代には沖縄県内の戦没者慰霊碑建立、県外出身の戦没者の県外団体による慰霊碑が、数多く建てられたのだと思う。

 摩文仁ヶ丘の牛島中将を弔っている慰霊碑は「黎明の塔」と言った。引率の教師だったか、バスガイドだったか、「ここに祀られている方は沖縄戦で戦って、立派に自決された牛島中将であります」とか言っていたように覚えている。黎明の意味も知らなかったが、私らの子供ころの牛島中将はイメージは、とても立派な軍人、というものであった。

 しかし、大人になるに従って、住民だけで10万人前後の戦死者を出したあの戦争の指導者が立派な人間であったのか、という疑問が生じて来るのは自然の流れであった。私の身内の犠牲者は子供の餓死者を除いてはいなかったのだが、沖縄だけが地上戦の戦場にされ、それによって本土は惨禍を免れて、敗戦後さっさと独立した。ひきかえ沖縄は戦後二七年間も、米軍の支配下に置かれ、米軍人犯罪によって、沖縄人は相変わらず殺され続けてきたのであった。

『鉄の暴風』の著者の一人、太田良博は死去後夫人の手によって、遺作集が自費出版されている。太田自身は沖縄戦時インドネシアに従軍していて沖縄には居なかったのだが、従軍経験豊富な事があった。『鉄の暴風』の執筆に係わった後、地元紙に沖縄戦に関する論考を載せている。

s30年代には『豊見城海軍壕』『戦争への反省』を書いている。

 この二つの論考は、牛島司令官を通しての、太田良博の日本軍国主義への痛烈な批判であり、自分の地元「沖縄の住民」の犠牲を悼む痛苦の文章であると思える。
 『鉄の暴風』では粗が多くて、曽野綾子につけ込まれた太田良博であるが、沖縄戦における牛島司令官を頂点とした沖縄軍の戦争のやり方には、沖縄人としての根本的怒りをぶつけているように思える。
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コメント

知念・玉城方面へ

こんにちは。
住民証言では5月末から6月中旬までの間、兵士や警察に「知念・玉城方面へ行け」と言われた証言が散見されます。
しかしながら、そう言われたのはごくごくごく一部の住民であるのと、住民としては兵隊と一緒の方が安全という発想があるのか、それに従った集団は極めて少ないです。
米軍も「知念・玉城方面へ避難せよ」と単伝をばら撒いたようです。
しかし、この単伝に従った話は皆無です。
軍としては、住民も玉砕するのが当然だ、との発想があるので住民保護など考慮しませんでした。
沖縄の住民軽視は今も続いていますね。

断崖の本部壕

牛島司令官が最後に立てこもった摩文仁の本部壕は断崖の中腹にありますね。太田良博は、こんな所は三十二軍の最高指揮本部が居る所ではないと言ってます。

ここへ移動する直前、八重瀬岳での最後の会議で、「島田知事は、「戦闘力のない住民は、全部、知念半島に移し、そこを無防備地帯とし、米軍に通告すること」を、主張したが、軍首脳は、その主張をききいれなかった。」と書いてます。
貞満氏は太田の書いたものを読んだかも知れません。
http://keybow.co/ootaryou/hansei3.html

1971年の『潮』特集に、「私は島田知事の最期を見た」という元兵士の証言があります。これは近いうちアップしましょう。

貞満先生の模擬授業

さんげつさん

>孫の貞満氏がこの旨の発言をしていると聞いたことがあります(確認していませんが)。

5年位前、練馬で貞満先生の模擬授業というのがあり、お話を伺いました。
砲弾のかけらを持たせてもらい、その重さを実感させてもらいました。
あれが時速300キロで飛んできたら首が千切れますね。
先生は、南部へ撤退、知念・玉城方面へ撤退、首里に留まるの3つの案を提示し、首里に留まるべきだったというような説明をしていた記憶があります。
うろ覚えですが、住民を巻き込むべきでなかったという主張でした。

自決の日

阪神さん

記事のアップ有難うございます。22日と23日の双方の可能性があり、矛盾があると言うことですね。写真の件があるので、60年前のオリジナルがどうなっているか確認できるとよいですね。

なお、古川成美「死生の門」(1949/1)は、23日になっています。この本は、八原氏に取材した古川氏の手になるものですが、実体は八原戦史といえるものです(このことはGHQが八原を尋問して確認しています)。

キー坊さん

20日とは、ずいぶん早いですね。18日に大本営に訣別電を打って、21日に参謀総長と陸軍大臣からの訣別の返電が来ています。20日に自決したとすると、死人に訣別電報を打ったことになり、奇妙と言うかひどい話です。

ただし、この日付は八原証言に基づいているので、八原の記憶が1日ずれているとすると、訣別の返電は20日になります。この日をもって死亡と判定したとすると、一応説明はつくかもしれません。

>首里の本部から撤退を決めた時点で、自決すべきだったという孫の思いではないでしょうか?

孫の貞満氏がこの旨の発言をしていると聞いたことがあります(確認していませんが)。

訂正

はやとちりしました。
「それは写真の説明文には23日と書かれている事でもわかります。 」と書きましたが、この写真は60年前の「日本陸海軍の総決算」には掲載されていない可能性が大です。
つまり後付けの写真。
60年前に、これら写真をアメリカに行って探し出す日本人研究者がいたとは思えませんし、アメリカが自ら提供するとも思えませんので。

60年前の本を確めないと・・・

さんげつさん

こちら↓になります。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435404786.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435404153.jpg.html
184頁の22日の状況は22日の日中の出来事のはずなので、186頁の22日4時30分との記述は「?」ですね。
記述の流れからして23日4時30分だと思うのですが。
それは写真の説明文には23日と書かれている事でもわかります。
なお「日本陸海軍の総決算」は佐賀県立図書館にあるので、これを見ないと当時、22日と印字されていたかどうか確定出来ません。

おまけ「沖縄決戦(中公文庫)2015」より
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1435405563.jpg.html

60年前の八原証言

阪神さん
60年ほど前に八原参謀が文芸春秋に語った件は知りませんでした。当該部分のアップをお願いできますでしょうか。

NHKが罵声部分をカットして放送したことを批判されていますが、新聞を調べて見ました。読売のスルーは予想されたことですが、朝日の読売化が著しいですね。

朝日:首相が挨拶に立つと「帰れ」のヤジが飛んだ。県政野党の自民県議は「政治色が強すぎる。穏やかな追悼の場にそぐわない内容だ」と顔をしかめた。

毎日:(首相のスピーチに対して)拍手は移設を容認する自民党県議からちらほらあった程度。何度も「帰れ!」「戦争屋!」といった怒号が浴びせられ、首相は足早に車に乗り込んで会場を後にした。

読売:なし

日経:「今後も沖縄の負担軽減に全力をつくしたい」と訴える首相に会場から「帰れ」などと罵声が飛んだ。

産経:時折、「さっさと帰れ」「嘘を言うな」と罵声が飛んだが、挨拶を終えると大きな拍手がわいた。

東京:翁長氏の発言には参加者から大きな拍手が湧く一方、安倍首相のあいさつには「帰れ」などとヤジが飛び交った。

牛島孫の考え

牛島満中将の孫・貞満さんが沖縄タイムス電子版で、戸籍簿には中将の死去日が6.20と記載されていると言ってます。
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=121323&f=i

「貞満さんは3番目の日付の登場に驚くが、沖縄戦を伝える上で司令官が自決した日を重視していない。沖縄戦の本質を伝える日があると考えるからだ。5月22日、32軍が南部撤退を決め、住民の死者が急増した。6月18日、司令官が「悠久の大義に生くべし」と命令。軍は遊撃戦に転じ、終わらない戦争がつくられた」

親族として、命日を特定したい一方で、それを重要視しないと言ってます。
「5月22日、32軍が南部撤退を決め、住民の死者が急増した」と言うように、首里の本部から撤退を決めた時点で、自決すべきだったという孫の思いではないでしょうか?

6.23

阪神さん、さんげつさん。司令官の自決について、お二人とも詳細にお調べです。
私はろくに調べもせずに、両中将は6月22日の夜に自決したと思われていたが、6月23日の未明に自決した事が後年に判った、と合点してました。22日か23日かは、歴史的事実としては重要なことですね。

>澤地久枝氏
翁長知事の裏切りの可能性について、今なお懸念を持っている知識人は居るようです。その事について、澤地氏は重要な情報を持っているのでしょうかね?
ともかく、来月中に知事が「埋め立て承認取り消し」を出すかどうかが、キーポイントになります。

宮城晴美『母の遺したもの』(2000年)旧版あとがきによると、澤地氏は、著書に関して重要なアドバイザーであり、「人生の師」であると書いてます。だが、澤地氏は「集団自決」について、何かを言及した事はなかったように思います。

24日のラジオの午前ワイド番組をたまたま聴いていたら、ニッポン放送の垣花正という宮古島出身の43歳のアナウンサーが、「23日の追悼式典で、安倍首相に対して、帰れコールを発したのは、一国の首相に対して失礼だ」というような事を言っていた。

私は、おとなしい沖縄の人間がよくぞ「帰れコール」を言ってくれたと感心していたので、この垣花という体制従属タレントの故郷批判に強い違和感を持った。そんな事を言わなければ、中央放送界のはみ出し者になって、干される事になるのだろうなと思った。
復帰前後に生まれた「若い」沖縄人の保守化傾向をみると、沖縄人はオール沖縄でなく、パート沖縄でしかないと思った。

「慰霊の日の戦後史」と題した論文書けますね

さんげつさん

八原参謀が復員直後に提出したものは23日ということですね。
しかし、今年3月に発刊された「太平洋戦争の肉声 3」(文藝春秋)には60年程前に八原参謀が「文藝春秋」で語った沖縄戦が掲載されています。
そこでは22日でした。
誤植の可能性もありますが、事実、50年以上前は22日が慰霊の日だったのですがら、何かを根拠に22日にしていたはずです。
戦後初の慰霊の日を調べれば何か手がかりがあるかもしれません。
初の慰霊の日はどんなものだったのでしょうね。
広島みたいに花電車や仮装行列のあるお祭りみたいなものだとは到底思えませんが・・・

慰霊の日

辺野古移設は「不可能です」と言い切ったほうがよかったかも知れませんが、慰霊の式典ということを考えると「困難です」がぎりぎりの表現かなという気がします。

ところで今回、安倍首相が参列者の罵声を浴びました。出席していたケネディ大使は、スピーチはともかく、これには驚いたのではないでしょうか。安倍首相を軽蔑しつつも、「金は出します、人も出します、何でもやります」と言うので使っているだけでしょうが、「こいつで大丈夫か」とだんだん疑心暗鬼になって来ていると思います。

慰霊の日は6月22日か23日か?

阪神さんによると、高級参謀だった八原大佐が軍司令官と参謀長の自決日を6月23日に変更したと言うことですが、私の知っている範囲では、一貫して6月23日だったと思います。

八原の23日説は、八原が第32軍残務整理部長として編集した「沖縄作戦における第32軍史実資料」(1947/3/25)が一番早いものです。その後の「沖縄決戦」(1972)もこれを変えていません。

一方、22日説の有力な根拠は第32軍の最終電報の発信日時です。電信第36連隊の通信兵だった合志剛によると発信は21日22時03分過ぎ、暗号班長が送信完了を自決直前の軍司令官に報告したとされています。したがって、早朝(4時半頃)とされている自決は、22日ということになります。

Wikipediaによると、6/22から6/23に変更したのは1965年で、八原証言を基礎にした公刊戦史「沖縄方面陸軍作戦」(1968)の発刊前です。阪神さんが推測されているように、八原証言が基礎なのかもしれませんが、役所的には公的な資料がない段階でなかなかやりづらい気もします。

言葉のあやか?

こんにちは。
ずっと昔は22日だったのに、23日になりました。
恐らく、八原参謀の意見で23日になったのでしょう。
しかし八原氏は、それまでは22日としていたので、何らかの理由で23日にしたのでしょう。
その理由が分かりません。
何か都合の悪い隠蔽したい事があったのでしょうか、謎です。

国会周辺で安倍退陣と叫んできました。
3万人いて身動き出来ませんでした。
デモでは澤地久枝氏が『翁長知事は「辺野古に基地を作ることは不可能」と言っていたのが23日は「困難」と言い、後退した』と懸念を表明していました。
辺野古に基地が出来たら沖縄の希望が消え、将来の日本の破滅に巻き込まれてしまいます。
沖縄はもう日本から離れる事を考える時だと思いますね。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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