2017-11

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『うらそえ文藝』、正稔の論文

 『うらそえ文藝』を3年ぶりに入手した。
 沖縄は自由にものが言えない「言論封殺」社会だと、この文芸誌を主宰している星雅彦及び当号に論文を載せている上原正稔はかねがね言い募っている。
 しかし、この文芸誌は年一回の発行であるが、編集長の星雅彦は、「大江岩波裁判」原告側の筆頭弁護人であり上原正稔の「言論封殺」訴訟の弁護人でもあった「靖国応援団」徳永信一との40ページを越える対談を載せている。

           urasoe20.jpg
                        20号目次の一部

 上原正稔は6ページ分の友よ聴け、天の声を、心の声をという格好つけた題の論文を載せ、谷川健一、赤松嘉次、梅澤裕の逝去している3人の人物の私信を披露して、「軍命」が無かったことへの強調材料としている。また、ヒジャイ・マテーシこと又吉康隆の小説まで載せている。又吉はこれが初めての掲載だとしたら、狼魔人グループを通じての情実掲載であろう。
 このように、かれらは自分が運営している出版元では自由&気ままな言論を為しているのである。「新報」や「タイムス」などの新聞社系のメディアには載せて貰えないだけである。もし、本当に沖縄が「言論封殺」の社会なら、こんな『うらそえ文藝』は発行できないだろう。
 自分らで自由になる誌上では、自由な言論はできるのであり、それが通常の言論空間ではないのか?でも、星雅彦・上原正稔は『うらそえ文藝』を離れたら、その思想内容によって、まともな出版社には相手にされない存在だろうね。

 谷川健一氏が『うらそえ文藝』14号(2009年)を読んだ後に、星雅彦に「詫び」の手紙を送って来た事を、正稔が披露しているのだが、本当の話だろうか。『沖縄の証言』で星の原稿を勝手に書き換えた事を反省しているからだと、正稔は言っている。この時点で88才の谷川氏は、星に対する長年のやましさがったのだろうか。それにしても星は、当時は自分の本音を出さずにいて、30年以上も沈黙してから、突如「軍命」を否定する言論を始めたのには胡散臭さを感じる。

 梅澤裕に、正稔が琉球新報訴訟の勝利を報告したら、大喜びで祝福の手紙を送って来たという。その中で、第一戦隊基地隊の将校にスパイがいて、それの通報でマルレが爆撃破壊されて出撃不可能になったのは、特幹隊の命を救いたいそのスパイの、日本人としての思いやりであったと、感謝するような述懐をしている。
 マルレ戦隊員は決死の覚悟で座間味に乗り込んだのではなかったのか?多数の住民を自決に追い込んでおいて、今頃梅澤はそんなこと言うとは何という了見だと言いたいね。 

 さて、赤松嘉次が比嘉(安里)喜順元巡査に宛てた手紙である。1970(s45)年3月28日の25周年記念慰霊祭に、玉井村長に招待されて訪沖した赤松であったが、反戦・民主団体の激しい抗議の前に渡嘉敷渡航を断念して、翌29日に関西に帰ったようであるが、その4日後の4月2日に赤松は、沖縄で面会したであろう比嘉喜順へ手紙を出して、沖縄で世話になったと感謝の手紙を送っている。
 (余談だが、沖縄は狭いもので、小生の地元の近所に住んでいた一家の父親は喜順の兄弟に違いない。苗字はアサトで、出身地は喜順の集落と同じで顔はそっくりだった。)

 さらに赤松は、その15日後の4月17日に、もう一便出したのだと私は思ったのだが、文中に「(曽野が)現在渡嘉敷島を取材して居られるのは文藝春秋に八月より一年連載の由」の記述があるから、それは1年後1971年の4月17日であるようだ。文春発行『諸君!』に『ある神話の背景』連載が71年10月号(9月発刊)から始まっているからだ。
 正稔の記述が「その後間もなく四月二日と十七日に赤松さんから安里喜順さんへ出された手紙…」となっているので、同じ年の4月かと勘違いさせられた。
 だから、私は、既に「赤松来島騒動」の時点で、赤松と曽野は通じ合っていたのかと早とちりしてしまった。さんげつさんの言う通り、「青い海」1971年6月号に載ったあの会合写真は、1971年4月10日名古屋での大城良平を含む旧赤松隊員7名と、曽野綾子との私的な会合の場面に違いない。
 (注:さんげつさんのご指摘のように、『ある神話の背景』8章(wac版219P)に「昭和46年4月10日豊田市で赤松嘉次を囲む会合…」との記載がある。)

               1970年4月10日
右側の白っぽい背広の人物が大城良平、左側の白ワイシャツが赤松元隊長と思われる。

 17日の手紙に、赤松が曽野綾子の近々の訪沖を比嘉に伝えているのは、既に比嘉と曽野は面識があり、今度もよろしくとの伝達であろう。さんげつさんが言うように、私的な会合にわざわざ名古屋まで曽野が出向いて参加する事は、旧赤松隊との関係が「ズブズブ」としか言いようがなく、『ある神話の背景』に賭ける曽野の意欲の強さを感じさせられる。

 今回の上原正稔の論稿も、調子のよい浮薄な文章に過ぎないが、彼らの陣営の舞台裏の一端を暴露してくれたという意味で、面白い所はある。手紙を書いた3人が皆死去したので公開しても良いと思ったと言うが、手紙の主ではないが御大である曽野綾子はまだまだ存命だという事を、正稔は忘れてはいけないだろうね。(笑)
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コメント

事務局長

和田さん
米田惟好氏は事務局長です。
72年8月31日時点でも、78年5月20日時点でも事務局長です。
いつまでやっていたかは不明です。
その後、86年8月14日時点では協会嘱託です。
これ以外の情報は得られませんでした。
よって絞込みは出来ません。

名古屋と豊田の間

http://www.chukyo-u.ac.jp/information/about/a4.html
上記によると1971年中京大学の豊田キャンパスが完成、体育学部が移転。また1971/4/10は土曜日。
おそらく、8日もしくは9日が入学式ではあるまいか。豊田に赤松が行ったかどうかは五分五分か。

赤松は戦友会のついでと偽り、曽野は豊田市と偽った。計画的な謀議であることを隠したかったからだろう。
「ある神話の背景」によると、1971/7/11に曽野綾子は知念と会っている。名古屋の会合で念入りに知念取材の質問内容が軍命令否定という目的に従って吟味されたはずだ。その際、将校会議が3月ではなく、4月だったことは最大限利用されたに違いない。勤務隊の壕は少なくとも朝鮮人軍夫を主力として一週間程度前から掘られていたはずだが、第三戦隊の壕は着手したばかりだった。このことが鉄の暴風記事を貶めるため最大限利用された。

http://okiryokyo.or.jp/about.html
予想どおり、曽野綾子と安里巡査の接触は早いようだ。赤松との会合以前ということははっきりしたが特定はむつかしい。
一方古波蔵元村長は曽野と会った時点で琉球定期船協会会長だったということから、曽野の取材は1972年7月までにされている。ただいつまで元村長が会長をしていたかがわかれば絞り込める可能性も少ないがある。
曽野にしてみれば、4/10の時点で「ある神話の背景」の記載シナリオは出来ているはずだ。後は謀略を交えて肉付けするだけ。

曾野大先生お怒りですか

こんにちは。
こんな手紙を公開して、曾野大先生はお怒りでしょう。
曾野大先生宅に手紙を出して、確認しておきますね。
お返事必ず下さいね、曾野大先生!!

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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