2017-08

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長崎の原爆記念日

昨日8月9日は、言わずとも、今から68年前の1945年に長崎市に原子爆弾が投下された日である。
 私は今から45年前に長崎の学校に入学したのだが、日本復帰前の沖縄の高校を卒業したその年の4月上旬に、那覇港を船で出て鹿児島を経由して長崎に行った。那覇を出て、翌日鹿児島新港に到着、下船して祖国「日本」の地に初めて足を着けた。しかし、特に何の感慨も湧かなかった。

 集団で宿泊した新港近くの大衆旅館に荷を置いて、仲間数人と鹿児島の街を歩いてみようと宿を出た。そしたら、近くの高級旅館の前を数十人の中年の人たちが、日の丸の小旗を手にして取り巻いていた。何かと思えば、皇太子・美智子夫妻がこの旅館に到着するとのことである。ちょっと立ち止まって見ていると、車が到着し、若きご夫妻が降りて、人々に手を振っていたのを遠目に見た事を覚えている。
 この時も何の感慨も湧かなかったのだが、今思えば、とても珍しい偶然だったと言える。初めて沖縄を出国した少年が「日本」に足を踏み入れたその日に、将来天皇になる人物のお姿を拝んだのだから。  今皇居に近い首都圏に長く住んでいても、皇族の姿を偶然に目にする機会などほとんどないと言って良い。45年前はまだ世の中がのんびりしていたのだろうか。国会図書館で、当時の沖縄タイムスを検索してみたら、奄美便りの欄に、その数日前に皇太子夫妻が奄美大島を訪問していた記事を載せている。皇太子の上半身裸の水着写真まで載っている。夫妻は奄美からの帰途にあったようだ。世は高度経済成長期の直前であり、時代はまだまだのどかだったという事だろう。

 翌朝西鹿児島駅から、初めての汽車(ジーゼルカーか?)に乗って10時間ほどで長崎市に着いた。夕方に着いた長崎の街は山々に囲まれた地形で、景色は良いが狭苦しい気分にもなった。だが、那覇など沖縄の街と違って、塵一つない小奇麗な地方都市という感じだった。
 最初に下宿した家の奥さんが、23歳の時原爆投下の際のを見たという被爆者だった。ピカを浴びたのでなく、見たという事は爆心地から遠く離れていたという事である。それを話す時は悲壮感はなく、とても被爆者には見えなかった。だが、字を読む時には5センチほどに目を近づけていた。
 二番目に下宿した家は築60年という古い家であり、爆心地から遠くなかったが、全く焼かれてなかった。爆心地と家の間に高さ300メーターほどの山があり、その山が熱線を防いでくれたのだという。それでも、爆発の時の振動でもって家には衝撃があり、私の六畳の部屋は途中から傾斜が入っていて、ボールなどを置くと転がった。その一家は一人の犠牲者もなく、原爆に対する悲壮感は無いように思えた。

 4年間居た長崎で、私は「原爆」を実感したことはほとんどなかった。その2軒の家以外では「原爆」の事を話す人には逢った事はなかった。無知で探究心が薄かった私は、「原爆」を強く意識すること無しに長崎を離れてしまった。
 考えてみれば、他所から来た学生に、体験者が進んで「原爆」の事を話して聞かせる事は無いことである。沖縄にいても「沖縄戦」のことを進んで話してくれる体験者は少ないものである。私の一家は犠牲者が一人も出なかったので、戦争に対する悲壮感はないとおもえたが、それでも自分の親などから戦争の事を聞かされた記憶は少ない。

 近年になってからの方が、原爆・核・戦禍の悲惨さを描くテレビ番組、映画は増えているような気がする。カメラに向かって語る被爆者・遺族の様子には見るのが辛いものがある。若いうちに、現地にいた時に、それらの事に関心を持って見ておけばよかったなどと、後悔の念がある。
 若い時から「原爆」「戦争」について考察を重ねておけば、例えば昭和天皇の「戦争責任」などにも確固たる考え方持てたと今思っている。
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コメント

小説

>「薩摩のボッケモン」は全然知らないのですが,どのようなことが書かれているんでしょうか.

うろ覚えですが下記のような事が書かれていました。
鹿児島生れの著者が東京へ出て現日本医科歯科大学に入って、無勉強でも卒業させてもらった。
沖縄へ行ってからは歯科医を開業して大繁盛した。
那覇のカフェーではチンピラ気取りで大暴れした。
飛行機で九州に行って長参謀の料理人を連れてきた。
長参謀が自決するまで身近に居続けた。
九州に戻ってから事業に成功したり、無一文になったりしたが、結局、歯科医学者の分野は出来ないが、開業医としてならという条件で歯科医にしてもらった。

著者は果たして沖縄に居たのかどうかさえ疑われます。
内容には10点以上のありえない不審な点があったのですが、出版された1975年当時に既に出版されていた沖縄戦記だけを読んで、それらを纏める形で書けるかどうか微妙な所なので、精読して各所を分析すれば、はっきりとした事が言えるでしょう。
恐らく、編集者により三文小説的な内容が挟み込まれたとも思えます。
一番不審な点は、沖縄戦の語りでは、住民の語りにしろ兵士にしろ「身近な人との関係性」が前面に出てくるのですが、ボッケモンではそれがありません。
いかに長参謀に信頼されていたかを自慢するだけのいんちき臭い小説です。
大迫は戦後、沖縄に行っていないはずです。
歯科医をやっていれば、沢山の知り合いがいたはずですが、いない事がばれるから行かなかったのでしょう。

曽野綾子がネット炎上!?

こんな記事がありました。
曾野はネットで意見を出さないのは、金にならないからでしょう。
曾野は会社員になった事も無いくせに、暴論を吐いているようです。
http://www.j-cast.com/kaisha/2013/09/05183030.html?p=1

「薩摩のボッケモン」

阪神さん,丁寧に回答いただきまして有難うございます.

萩之内憲兵隊長は,米軍による検視に捕虜として立ち会ったんですね.軍司令部のどこか近くにいて,両将軍の自決を聞いて押っ取り刀で駆けつけたのだとばかり思っておりました.

「薩摩のボッケモン」は全然知らないのですが,どのようなことが書かれているんでしょうか.

生と死の岐路

伊藤さん、情報有難うございます。
塩田氏は沖縄本島に着いた後、1月には徳之島憲兵分隊に配属されました。
よって沖縄本島の戦闘は経験していません。
萩之内隊長とは戦後も何度も会うほどの付き合いをしていたようです。
「萩之内憲兵隊長の手記」には5月5日以降、憲兵隊が南部を転進する様が書かれています。6月4日には玉城で投降しています。
萩之内氏は6月25日に牛島・長両将軍の首なし死体を確認しています。
また、両将軍の歯をある下士官から受け取り、遺族に届けたそうです。

塩田氏によると、「薩摩のボッケモン」著者である大迫亘は、にせの遺骨や遺品を遺族に届け、謝礼を受け取るなど、数々の悪事を働いたそうです。
余りにも数々の悪事らしいのですが、死者に鞭を打つ事はしたくないとのことで詳細は書かれていません。
やはり大迫は嘘つきの大馬鹿者、馬鹿右翼、やぶ歯科医でした。
沖縄戦を知っている者が、このボッケモンを読めば各所に嘘がある事がわかるのですが、何も知らない人は、こんなニセ戦記を読んで感心してしまうのでしょうね。

赤松が骨折した件は、塩田氏は当然見ていないので、山中義中氏の著書から引用したものと思われます。巻末の参考文献にはなぜか載っていませんが、屋嘉で「ある中尉」が八原氏に苦言を呈しに行った事が書かれていたので、山中氏の名は何らかの理由で伏せておきたかったのでしょう。
ただ、萩之内氏が目撃して塩田氏に伝えた可能性もあります。

おまけ
戦後までマルレの訓練をしていた、特幹隊員「証言2012(長崎の証言の会)」より
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1378692721.jpg.html


塩田「生と死の岐路」

阪神さん,興味深い資料有難うございます.

・塩田氏は憲兵のようですが,もう少し詳しいことは分かりますでしょうか.
(勤務地とか,萩之内憲兵隊長とどの程度親しかったのかなど).


・「萩之内憲兵隊長の手記」にはどんなことが書かれていますでしょうか?

防衛省戦史研究所に「32A牛島満・長勇両中将の自決状況 32A憲兵大尉 萩之内清」という資料があるのですが,中味は表紙と全く関係のない1945/3/25日前後の大本営戦況手簿の抜書きです.

・赤松戦隊長が捕虜収容所でリンチにあった話は,阪神さんが以前引用されていたと思いますが,山中義中「沖縄戦に生きて」にあります.ただこれは伝聞です.塩田氏は直接見たのでしょうか?



なお,1944年12月に慶良間諸島に上陸した海上挺進戦隊は,第4戦隊(座間味島に12/13上陸,最終駐屯地:宮古島)か第26戦隊(渡嘉敷島に12/14上陸,最終駐屯地:沖縄本島糸満)です.

第26戦隊は渡嘉敷と阿波連に駐屯しました.戦後編まれた同隊の追悼記では,上陸に際して渡嘉敷島の第3戦隊(赤松隊)の世話になったことが書かれています.しかし,第3戦隊の谷本小次郎氏が1970年に編纂した第3戦隊陣中日誌には,第26戦隊のことは全く出てきません.このことは谷本氏の手になる陣中日誌が本来の陣中日誌でなく1970年頃に捏造されたものであることのひとつの傍証になります.

バックナーの死と謎の少年兵

「生と死の岐路(塩田甚志)1992」は興味深い内容でした。
バックナー中将は小野一等兵による狙撃で死んだのではないかと言う説がありましたがhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-155666-storytopic-212.html
二世兵の証言からも裏付けられています。
よって砲撃による死の可能性は低くなりました。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1377644903.jpg.html

マルレ(著者は震洋と誤記している)の特幹隊員と同船した著者が隊員から「絶対生きて還れる」と言われたと書いています。憲兵であった著者に向かって言うのですから、「突っ込んで立派に死んで見せます」と言いたいところですが、そんな言い方をしていません。
よって必死攻撃ではなく反転攻撃で戦果をあげる訓練がされていた事がわかります。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1377644922.jpg.html

この船上での出来事は44年12月であり、慶良間に上陸した隊員がどこの島なのかは不明ですが、遅れてきた、或いは追加配備されてきた特幹隊員と思われます。
陣中日誌を確認していないのでどの戦隊かは不明です。

おまけとして、赤松が骨折させられた件も出ていました。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1377644942.jpg.html

犬に徹するマテーシ

 沖縄で日本国家権力に付き従う言論を展開するとしたら、徹底してそれをやらなければならないでしょう。中途半端にやったら、飼い主から捨てられるだろうし、沖縄の人間からは、村八分に会います。
上原正稔、星雅彦の二人は認知症故に、ためらい無くそれに徹しているのでしょうが、ヒジャイ・マテーシは持ち前の厚顔無恥さでもって、それに賭けてると思います。

 マテーシと同級の知花昌一氏の友人・下嶋哲朗氏は30年ほど前、「消えた沖縄女工」というノンフィクションを出版してます、大正半ばくらいに、氏の地元・長野県の製糸工場に行った明治生まれの沖縄女工十数名の消息を追った内容です。。
下嶋氏は女工たちの悲惨な成り行きを書きたかったのでしょうが、読んでみた感じでは、中には幸薄い一生を終わった人もいますが、大半の女工が無事に勤めをやり終えて沖縄に帰り、普通の主婦になっています。
私は偶々、その中の一人のおばあさんと逢ったのですが、特に女工時代の事を悲しい表情で話してなかったです。

私の母親も終戦まで4年間、和歌山県の紡績工場に行ってます。その頃の話をする事は少なかったのですが、辛い表情で話す事はなかったです。八つ年上の長姉、2つ年上の次姉も紡績に行ってます。母の実家が特に赤貧農家だったという事もないです。

しかし、女工が恵まれた環境にいたという事でもないと思います。それだけ、大正末期から昭和にかけての沖縄全体の状況は悲惨だったのです。

マテーシは学問的素養ゼロ

マテーシのブログで「女工の悲惨な実態を書かない沖縄」と題して全く説得力のない自説を展開しています。
読んでいる人間に納得させるためには、少なくとも

沖縄の貧困がどのように推移したかを数十年のスパンで様々な指標を用いて説明
する。
女工に行った人数の推移も示す。
女工の仕事内容の推移も示す。
女工の経験年数、賃金推移、帰沖後の生活

が必要です。
マテーシは一方的に赤貧を強調しているだけです。
チルーが「いつまでも親元だとふんでー(甘えん坊)だと言われるし、イジをだすため」に女工に行ったのはという説明が嘘であるなどと言っています。
私は嘘だとは思いません。
マテーシは「貧困」だと強調しています。

私は女工史について社会学的に説明出来るだけの知識は全くありませんが、マテーシの自説は短絡過ぎて我慢なりません。
戦時証言では、1930年代後半から戦前にかけて女工に行った人の話を沢山読んできました。
女工に行った人の話だと、沖縄は子守り奉公か農業位しか仕事がないからという理由が目に付きます。
だから赤貧が女工に行く理由であると結論付けるわけにはいきません。
それは「親に結婚相手を勝手に決められてしまう」からという理由で、『親に黙って』女工に行った人の証言が多数見られるからです。
これは何を意味しているでしょうか。
当時の若い女性達の間で、親に黙って女工に行く手立てが流布されていたのではないかという仮説が成り立ちます。
今でいう中学生の年齢の女性が一人で近畿地方に行く決意など、当時の社会では出来る訳がありません。
行くにしても費用が必要です。
勝手に女工に行った人の証言では、近畿地方に行ってから、何をしていいのかわからずオロオロした人の話は皆無です。
意地を出しているな、と思わせる証言なのです。

私の仮説を実証するためには膨大な資料にあたっていくしかありません。
私はそこまでやる気はありません。

そこでマテーシの今後の人生を豊かにする為に提言したい。
『沖縄女工の歴史社会学』という修士論文を書きなさい!!
論文完成後は、過去の自分がみっともなくて、ブログなど閉鎖するでしょうw

レールの図

キー坊さんこんにちは。
>仲里効氏がこの映像をテキスト化したのでしょうか。
西谷修氏か仲里氏のどちらかと思います。

>どこか観られる所や機会をご存知ないですか。
この映画はDVD化されていないので観れません。
同じ時期に山谷哲夫氏がつくった『生きる――沖縄渡嘉敷集団自決より25年』なら多摩図書館で借りられますが、個人には貸し出していないので、映画を観る会のような団体が借りて上映するしかありません。
ただ、両映画とも、今後、沖縄戦の事実を歪曲しようとする事件が発生した場合に、改めて上映される機会があるかもしれません。

「ああ運玉(川崎敬二)」に第27基地大隊が造ったマルレのレールの図がありました。
当初、具志川に造っていたのを、与那原に変更したようです。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1377330684.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1377330697.jpg.html

川崎氏は2月に米軍が4月1日に上陸すると隊長から訓示されています。
慶良間の戦隊にも伝えられていたかもしれません。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1377330669.jpg.html

「それは島」

「それは島」とは、ドキュメンタリー映画作家の誰かが1970年ごろ、渡嘉敷島を取材して作った作品で、4・5年前阪神さんが東中野ポレポレで見たというものですね。仲里効氏がこの映像をテキスト化したのでしょうか。
渡嘉敷に限らず、40年前の沖縄の習俗場面は貴重なものとなっている気がします。この映画を観てみたいのですが、どこか観られる所や機会をご存知ないですか。

それは島

沖縄/暴力論(仲里効)に映画「それは島」の採録シナリオが抜粋されていましたので紹介します。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979866.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979887.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979907.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979920.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979973.jpg.html
以下、書き込み制限につき、頭にhをつけて下さい。
 ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979935.jpg.html
 ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376979989.jpg.html
 ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376980004.jpg.html
 ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1376980023.jpg.html

45年前の春

45年前の春に、そのような運動が開始されたという事は、もちろん私は知る由もなかったです。それを知っている阪神さんは、長崎(県)の出自なのでしょうね。
もう一回長崎に住んでみたい気分になります。

証言記録開始の時

こんにちは。
45年前の春、長崎では、その後の長崎の証言の会になっていく原爆証言の採取が開始された年です。
今でこそ、夏になると学校で戦争体験教育なるものがありますが、当時はありませんでした。
75年頃から全国で始まったのではないでしょうか。
戦争体験者がいなくなる近い将来、戦争がどのように語られるかに関心を寄せています。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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