2017-04

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元梅澤隊・衛生兵の証言

 座間味島に駐屯した海上挺進第一戦隊・基地隊(梅澤隊)の衛生兵だった関根清氏(当時27歳)が、1980(s55)年頃に書いた『血塗られた珊瑚礁』という従軍記を5年前に入手して、1度だけザッと読んでそのままにしていた。この「血塗られた」という形容詞は宮城初枝『血塗られた座間味島』から取り入れたものと思われる。千葉県出身で戦時中、初枝らと最期まで行動を供にした下谷兵長の遺族が編集した「悲劇の座間味島」に初枝の手記も収められており、同じ関東出身の関根氏は初枝の手記を読んでいたに違いないからである。
 5年ぶりに、関根氏の本を1945年3月25日夜に意識を置いて、改めて読んでみると、やはり、米軍の猛攻撃の始まった3月23日からは、梅澤隊長以下の戦隊本部は高又という所にある本部用壕に移動していた事が分かる。

血塗られた珊瑚礁
    『血塗られた珊瑚礁』表紙

 関根氏の著書は、冒頭から3月23日の情況から書き出している。攻撃の始まった時、軍医や衛生班の人員は医務室にいたが、直ぐに丘陵沿いの医務室壕に移動した。そこから所在確認のため他の衛生兵2名を「本部壕」に走らせた、と書いている。それまでの戦隊本部は村役場の中に置かれていたが、素早く軍幹部は本部壕に移動したのである。戻ってきた2名から、少し離れた基地隊の壕に移動して待機せよとの本部命令を受けて、そこに移動し夜になるのを待って、医務班は本部壕に合流したとある。

 本部壕には、の二つの壕があって、上は戦隊長や将校達がいて指揮壕とされ、下の壕は医務班が詰め、慰安婦らも補助看護婦として同行していて、池山とみ枝(池上トミヨか?)もいた、と書いている。梅澤隊長ら戦隊本部は3月26日の朝の米軍上陸を確認した後、壕を出て番所山へ撤退、移動したのである。
 上の壕には空襲で深傷を負った森井少尉が収容されていた。森井少尉は番所山への移動を拒否し、慰安婦のえい子と壕に残り、のちに自決(心中)したようである。(この話が、梅澤隊長が慰安婦と自決したという住民の風評となって、それを聞きとった太田良博による「U少佐のごときは、朝鮮人慰安婦らしきものと不明死を…」という『鉄の暴風』の誤記となったようである。

 3月25日夜に、宮里盛秀以下5名が本部壕を訪ねて、梅澤隊長に爆薬下与の申し出をしたという宮城初枝の手記を疑問視する根拠として、座間味の郷土史家・宮里芳和氏は、当時17歳の伝令だった宮平敏勝氏の「3月25日の夕方から翌朝まで、自分は一人で本部壕にいたが、他に誰も来なかった」という証言をあげている。だが、関根清氏は当時27歳の兵士であり、衛生兵という立場上戦隊幹部に近い位置におり、著書には3月23日攻撃開始から3月26日米軍上陸までの模様を細かく記述しているのである。17歳の中学生であった宮平敏勝の証言の信憑性に疑問が出てくる事は防ぎようがない。

「国の支え」で、梅澤自身が「敵が上陸する前の晩に僕たちはもうボロボロに壊れた海岸近くの家におって、…」と言ったのは、梅澤の頭が何かのせいで混乱していたのではないだろうか。25日は昼から艦砲が始まり、慶良間海峡には敵戦艦が集結していたから、海岸近くの家に戦隊幹部がいられるはずなかったのではないか。
 今年5月に宮里米子に面談した時、初枝から3月25日夜高又の本部壕を訪ねた事を聞かされていた、と米子は話していた。3月25日夜に、梅澤隊長が本部壕に居た事は疑いのない事である。宮平春子や小嶺つる子の証言で、25日午後10時頃には盛秀ら5名は本部壕にいなかったに違いないが、それより早い時間帯に行っている事は、状況証拠的に充分可能性のあることである。

 朴壽南監督が、『母の遺したもの』によって座間味の「集団自決」に対する軍命が否定されたと、宮城親子を告発しようとしているが、「軍命」に関することは、「大江・岩波裁判」で社会的にはケリが付いている事になっていると言える。原告が敗訴した事は、「軍命」が否定されなかったことである。ただ、宮城初枝が手記に書いた事を認めて、梅澤隊長の「自決せよ」との号令的な命令は認めなかっただけである。
 初枝の3月25日夜の話が「捏造」であるとの証拠を示せる可能性は、朴壽南氏にはないだろう。もうこれ以上、朴氏の「ぬちがふう第2部」にかかずりあっている事に虚しさを覚えるので、これで終わりにしたい。
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コメント

座間味のその方

ハトさん、隊長の慰霊碑とはまさか梅澤戦隊長のものではないでしょうね。

ハトさんにそれを証言したおじいさんの名前はなんというのですか。管理人だけに教えてくれないですか。

また嘘をつく馬鹿ウヨが出て来た

ハトの言い分は歴史学として一切採用出来ない。よってスルーw

もう何年も前だが、座間味に行った時、島のおじいさんから、「自決命令」は出ていないって聞いたぞ。
直接、この耳で。
しかも、「いろいろあるから大きな声では言えないんだ」とも言ってた。
「実は、隊長の慰霊碑があって、毎年慰霊祭を開いている」ってさ。「恩人」だからだって。
慰霊碑は、民家の庭にひっそりとあるんだと。
拝ませてほしいと頼んだが、「ばれると困るから、島の人間以外には絶対教えられない」と言われ、あきらめたよ。
これ、どうよ。

関根氏、訪問を認識

伊藤さん、コメントを有難うございます。
関根氏は3月23日の夜には、本部壕(下の壕)に到着していたわけですので、25日夜、盛秀ら5人が(上の壕に)来ていたのを見た可能性は否定できないと思います。
おっしゃるように、この証言からは、梅澤戦隊長が自決命令を下した事を排除は出来ないです。でも、初枝の告白では、その時には梅澤は命令を出さなかった。つまり爆薬下与の申し出を断ったという事ですね。85年の証言だから、関根氏は後知恵で言っている可能性無きにしもあらずですが、事実を言っている可能性も否定できませんね。
朴壽南監督は、初枝の話は全くの捏造であると断定しているので、私は関根氏の話は事実を言っていると思いたいです。

関根証言

パソコンの中にファイルが残っていました。

関根氏に関する記事は次の通りです(神戸新聞1985/7/30)。

「梅沢少佐の部下だった関根清さん(六七)=埼玉県大宮市在住 前夜に部隊に村人たちが来られたことはよく覚えている。敵の艦隊が目の前にいるわけだから、部隊としても武器を提供するわけにも行かず、部隊長の梅沢少佐が忠魂碑まで出かけて集団自決命令を下す余裕などなかった。」


関根氏は壕の中で梅沢戦隊長が宮里助役に自決命令を下した可能性を排除していません。関根氏は戦隊長の壕に居なかったわけですから何かを証言できるわけはなく、常識的な感想を述べただけという印象です。

神戸新聞

和田さん、私は江東区民なのですが、その記事は持っていないので、図書館に行く機会があれば探してきます。

とにかく収集

思惑云々ではなく、何事についてもとにかく情報収集を徹底して行うのことが私のやり方です。30資料を集めて1しかまともに使えない資料しかない場合も無論あります。

資料を出来るだけ集めて、関連性や整合性その他さまざまなフィルターをかけて真実に少しでも近づこうとするのが私のやり方です。
よって、狼魔人が拡散する資料なども検討対象です。  狼魔人の資料に真実の一端が隠されていたことも結構ありました。

私は、大城曽野論争で実は曽野と赤松は何回か会っていると思いましたが、1年かけて証拠を見つけました。  その間収集した資料は数百はあったと思いますが、証明に値するものは2つしかなかったです。

国や自治体相手に監査請求や裁判を起こすノウハウと経験の応用でもあります。

神戸新聞記事

和田さん、私は4・5年ほど前、国会図書館でその60年7月の記事をコピーしましたが、散失してしまいました。誰の証言が載っていたかも覚えてません。
同じ神戸新聞が61年6月6日に載せた記事について、大城将保氏は神戸新聞のインタビューを受けた覚えはなく、自分の証言は捏造されたものと明言してます。よって、記事は両方とも、与太記事であるといってよいでしょう。

60年の記事で、関根氏がどんな言い方をしていたかを知りたいとおっしゃることは、関根と初枝が記事に関して意を通じ合ってないかどうかを探りたいためでしょうか?数行の記事でそんなことが出来る事ないと思いますが。

神戸新聞記事の関根清証言

http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/251_300/k_hanketu/17.htm
上記に引用された高裁判決159頁によれば「昭和60年7月30日付け神戸新聞は、「絶望の島民悲劇の決断」との大見出し、「日本軍の命令はなかった 関係者の証言」との小見出しの下、 関係者らが生き残った島民や日本軍関係者に尋ねた結果として、「助役ら とともに自決の前夜梅沢少佐を訪れた宮城初枝」「軍とともに生き延びた 上津幸子」「梅沢少佐の部下だった関根清」らの控訴人による自決命 令はなかったとする証言を掲載し、「これまで『駐留していた日本軍の命 令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、 絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選ん だものとわかった。」と報道し、初枝らのコメントを掲載した。」とある。

問題の神戸新聞に記載されたという関根清証言だが、私の居住地の効率図書館では古い神戸新聞は保管されていない。

関根証言は「軍命の有無は不明だったが、初枝証言で軍命がなかったことがわかった」というニュアンスなのか「今まで黙っていたが、私も軍命がなかったことは知っていた。具体的には・・・・」というニュアンスとどちらに近いものなのでしょうか。

阪神さんが阪神地域に居住されているなら閲覧して紹介してください。 また読者の中で阪神地域におられる方がいましたら新聞記事をそのまま紹介してください。

関根清から神戸新聞へ

時系列から、関根清が宮城初枝に会い、関根清が富村に宮城初枝に梅沢を慰める情報を提供するよう依頼したように思えます。 気になるのは
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/56/
に「宮平秀幸が軍の伝令であったことについては、宮平秀幸の陳述書、中村尚弘の陳述書、梅澤と関根清の現認証明書で完全に論証されています。」とあることで、関根清が原告側に立ち、宮平秀幸が軍の伝令であったと虚偽(証明済み)の陳述書 ?を、提出したと読めることです。

関根清は座間味について、1976年から手法としては、二番煎じの渡嘉敷として、目立たないように軍命否定を世間に流布することを意図していたのではないか。

以前指摘したことがあるが
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/655.html
「被告らは、自決の日の梅澤と宮里盛秀助役らの会談の時点で、住民らが忠魂碑前集合をしていた事実はないので、神戸新聞昭和60年記事(甲B9)の宮城初枝名のコメントは、初枝の行ったものではないと主張する(被告準備書面(7)11、12頁)。」

このコメントについて、神戸新聞の中井記者は宮城初枝に電話で何度か確認し確かに宮城初枝がそうコメントしたと主張する。 私は、神戸新聞が最初に取り上げた記事について、宮城初枝本人に電話連絡すらしなかったというメディアにとって致命的な不手際はありえないと思う。  コメントの内容自体は事実ではないか。

よって、宮城初枝証言には、信頼が置けない部分もあると判断せざるをえない。 一つの説明に過ぎず、証明は今のところ出来ないが、梅沢との会合は夕方であり、(事前に軍命令か自発的かを問わず、玉砕の話を聞いていない)初枝が梅沢の「不足している武器を民間に渡すことなど出来ない」との盛秀等とのやり取りを聞いていたという事実の原型があり、関根清等の懇請により私的に梅沢の家族向けに(梅沢が自決命令をしていないことを臭わす形の)潤色を加え、手紙のやり取りをした。 
ところが、梅沢が神戸新聞に働きかけて記事になり、初枝にも電話取材が及んだ。 初枝は梅沢との手紙と神戸新聞への電話取材の内容がくびきとなり、その後自分で最も整合的になるように物語を整備した。 戦後投稿した事項を否定する内容が新聞報道で一人歩きすることになった。

 初枝にとって、3度事実関係を変更することは、かなり重荷だったのではなかろうか。

一つの仮説を提供したに過ぎず、さまざまな可能性を考慮中。 

富村順一の言った事

和田さん、久しぶりようこそ。コメント文が長すぎるとスパムと判定されるのかもしれないです。

富村順一の言う事は、どこまでが本当なのか、全く信頼が置けないものです。
富村は何時、初めて座間味に行ったかですが、「隠された沖縄戦記」記述の限りではでは、1979(s54)年4月となります。その時、宮城初枝は冨村から梅澤が生きている事を知らされて、「しゃがみ込んで泣いてました」などと、言っています。これは信用できません。

冨村に梅澤の情報を与えた関根清氏は、戦後1976(s51)年に座間味を初訪問したと言ってます。その時初枝に逢って、それを伝えなかったのでしょうか?関根氏は自分が初枝に手榴弾をくれたと、冨村に言ってたわけです。戦時中そこまでの間柄にあった住民に逢わないはずないと思いますが。
関根氏は隊長の自決命令はなかったと言いますが、それは号令的な命令がなかったと言ってるに過ぎないです。彼は戦後、梅澤と親しくしていたのだから、梅澤のことを悪くは言いたくなかったのでしょう。

富村(西平)は嘘つき

和田さん、
>単純に裁判にもなったので、なんでもありと出鱈目な話を後から考案し、拡散させて定説化を図ったとの推理も可能性としては、ある。 

私も可能性はあると思います。
それは富村の著書を読めば、嘘つき男である事が行間から滲み出ていているのがわかるからです。
特に「皇軍とアイヌ兵」「沖縄戦に散った愛」は彼が創作した小説であるのに、実際にあった話としています。
富村の言う事や著書は出鱈目ばかりと疑っておくべきです。
富村の沖縄戦に関する話は、歴史学では採用出来ません。
よって「血塗られた珊瑚礁」の内容が採用される事になります。

関根清と富村順一

キー坊さん
スパムとみなされ送信できない状態が続いていました。 送れるかどうかわかりませんが、本田靖春と朴壽南が再掲されていることに関連したことを書きます。 その前に阪神さんへ。 私は数年松川の兄さんと金城武則が玉砕の時亡くなった防衛隊を同一人物と予想していましたが、伊藤さんによると別人とのこと。何か証言があるようです。 よって、松川の兄さんは農林学校出身ではなさそうです。

私は以前、本田ルポの宮木初枝が盛秀とあった時間と、道すがらあらかじめ自決を知らされていたことは、娘が最終的に口述を綴った内容と異なると指摘しました。 キー坊さんも、ここ数年蓄積された証言等によると、午後10時頃初枝と梅沢が本部壕で会合したことは疑わしいとのことです。
10時前後は伝令宮平恵達が走り回った時間、忠魂碑前集合時間(10時から12時説まであるようだ)、そして集合時間に間に合った人数が少ないとの複数の証言からすれば、順序・経過とも整合性のある時間である。初枝証言で、本部壕を出た後、盛秀が恵達を伝令に出すのを目撃したことが整合性の核心となっている。
4時ならば、もっと伝令が早く走り回ることが可能で、集合時間に間に合う人数が多いはずである。
そうだとすると、10時頃の会合がなかったということは、やはり小さな問題ではない。

キー坊さんは直接電話で、小嶺つる子から「3.25は夕方からずっと初枝さんと一緒だった。夕方住民達に逢った時、初枝さんは日本人らしく玉砕しましょうと訓示していた。」との証言を得たという。

この記事を見て次のサイトを思い出しました。
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/201105080001/
右派が富村順一を招いた学習会で富村が関根清から聞いた話として「自決命令は出てない。実は自決に関係しているのはこの私なんだ。村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。その衛生兵が私です。」
語ったという。
最近狼魔人も世界日報の引用としてほとんど同じ内容を書く。http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/e651459cc5d0edcc5b83386ce0b5aba4

ところで、関根清の「血塗られた珊瑚礁」にはそのような記述はなく、175頁の「集団自決が命令されたとなっていますが、そうだと断定するものもなく、また出されてはいないというものもありません。それだけの.重大な事を確かめるには、これからも長い月日を費やさなくてはならないでしょう。」
と比べ富村証言は、自決命令有無の判断に落差がありすぎる。 

これをどう考えるかであるが、単純に裁判にもなったので、なんでもありと出鱈目な話を後から考案し、拡散させて定説化を図ったとの推理も可能性としては、ある。 しかし、私は富村順一を、錯誤が多いものの単純な人間と考えるので単に関根清から口止めされていたことをもう時間が経ったこととして、又は口止め自体を忘れてしゃべったと考えている。 
こう推測するからといって私は富村に拠って、語られた関根証言を全面的に信用し、自決命令がなかったと即断しているわけではない。
そのことは、不透明であるが、宮城初枝が何らかの形で手榴弾を入手し、玉砕を慫慂していたのは事実ではないか、手榴弾を入手したとすれば、それは4時頃の可能性があるととりあえず考えているだけである。

「母の遺したもの」で初枝が米兵から村人から憎まれていると言われたが自身は心当たりがなかったこと、富村順一の「隠された沖縄戦記」33頁からの宮城初枝は勲章ものという記述などから当時初枝は生きることを視野の外に置き、玉砕にのめり込んでいたのではないか。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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