2017-08

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マリリンに逢いたい

 記事タイトルは1988(s63)年に公開された映画の題名である。内容は、沖縄慶良間・阿嘉(あか)島の民宿で飼われているシロというオス犬が、隣の座間味島の民宿で飼われているマリリンという名のメス犬に恋をし、この恋人に逢うために、4キロの海峡を毎日泳いで渡るという恋物語である。
 この話は、1986年から87年にかけて「ニュースステーション」で報道されて全国的な話題となり、映画にもなったのであった。このマリリンの飼い主が座間味の民宿「高月」の主人である宮平秀幸氏だった。
   http://keybow.co/honda/zamami1945-1.html

             海峡を泳ぐシロ
                 小説新潮1987年10月号より                 
 今回の座間味行で初めて知ったのだが、秀幸は2年ほど前に死去したそうである。大江・岩波裁判の過程で、明らかに虚言と分かる原告・梅澤元隊長に有利な証言を打ち出して、世の顰蹙を買っていた。私は、その証言の直後、2008年3月下旬に帰省したので、座間味まで行って「高月」を訪ねたのだが、その数日前に秀幸は心臓の具合が悪くなり、急きょ那覇の病院に入院したとのことだった。健康面で問題を抱えながら、嘘証言で原告らに協力していたのだ。

 彼の死など沖縄の新聞が報道するハズはなかっただろうが、狼魔人・江崎孝がブログで記事にして哀悼の意を述べた形跡はない。youtubeにチャンネル「桜」が流した動画にも、彼の死去に関するものは見当たらない。裁判中、彼の証言を散々利用した連中は、裁判が完全敗訴に終わった後は見向きもしなかったということか。もっとも、裁判官から彼の証言は全く信用できないとされたのだから、利用価値は全然なかった事になり、原告支援者連中は忌々しく思ってたのかもしれない。

 秀幸が戦争中の事を多弁に語り始めたのは、マリリンの話が全国的に広まって、彼のところにマスコミの取材が殺到し始めた頃だろう。
ルポ作家・本田靖春はシロとマリリンの恋物語をレポートすると称して1987年夏に阿嘉・座間味に渡り、『小説新潮』10月号から5回にわたってシリーズルポ『犬一匹、海峡を渡る』を連載している。

                  ボート上のシロ                                                        ボート上のシロ        

 本田のルポはシロの飼い主からの取材から始まり、マリリンの飼い主・宮平秀幸への取材と続いているが、連載の途中から急に「集団自決」の話へと転換している。戦時中軍国少年で敗戦によって精神の屈折感を味わわされた本田靖春は、犬の取材をしているうちに、関心が犬よりも戦争の事に向いてきて、どうしても、それを書かざるを得なくなったからと言ってる。本当にそうだったのだろうか?硬派ジャーナリストの本田靖春が、犬の恋物語をルポするためにワザワザ沖縄の離島に行くとは思えない。

 マリリンの話が全国の話題となった1987(s62)年は、3月に梅澤裕による「詫び状捏造事件」があり、これを根拠として、翌月に「神戸新聞」と「東京新聞」に、「集団自決の命令者は兵事主任の宮里盛秀であり、『援護金』を得る為に弟・宮村幸延が隊長命令とした」という内容の記事が載った。この記事を読んだ事が、本田が座間味島に取材に行きたくなった理由だと思える。マリリンの話題が全国的になっていたので、これを本意の記事に入る前の露ばらいとして使ったに違いない。好都合なことにマリリンの飼い主が、「捕虜・第一号」とされていた宮平秀幸だったという事であろう。

 秀幸は取材に来た有名そうな作家に、シロやマリリンの事よりも戦争中の事を話したがっている様子だった。この本田への戦争についての語りが、多弁な語り部になる切っ掛けであったと思える。この後、91年に日本テレビ系の報道特集「戦後なき死」92年記録社の「戦争を教えて下さい」に映像でインタビュー出演している。2008年の第一審の判決直前の証言では、本部壕で「隊長は自決するでない」と、宮里盛秀らに自決を禁止したと証言したのだが、本田への語りと二つの映像では、共にそんな証言はしていない。この頃は、秀幸は軍国的皇民化教育を批判して、軍隊の責任を追及するような発言をしている。作り話をしている可能性は薄いのではないかと私には思われる。

 1945年3月25日夜については、本田には「夜(10時頃)は家族と供に壕にいて、伝令から自決するから忠魂碑前に集まれ、軍から爆雷を貰うので一瞬で苦しまないで死ねると言われた」と言っている。
 91年の映像では「忠魂碑前に行ったら、村長が皆に軍から間もなく爆薬が到着するから皆さん覚悟を決めてくれ、との訓示を受けた」と語っている。
 92年の映像では「軍から玉砕命令出ているから、村民もこれから自決するから遅れる者は死に損ねる。早めに集まるようにとの指示があった」と語っている。

 この3つの証言から分かることは、忠魂碑前で爆雷でもって自決する事になっていた事である。92年の映像では爆雷という言葉はないが、「遅れる者は死に損ねる」と言われたと言っているから、爆雷による瞬時の全員自決が想像できる。
 秀幸の証言だからどこまでが本当かという疑いは拭えないが、彼が家族と供に忠魂碑前に3月25日深夜に行っていたことは確かだろう。また、爆雷の話も彼の作り話ではないと思う。宮城初枝が手記に書いたとおりに、助役盛秀以下5名が本部壕を訪ねて、梅澤隊長に爆雷の下与を申し出た事の状況証拠になると思う。朴壽南監督は、これらの状況証拠を付き崩せるだけの裏付けをもって、今度の「ぬちがふう2部」を公開するのだろうか?
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コメント

秀幸氏が発見?

伊藤さん
>遺骨が出たなら遺族に戻すという話がもちあがると思いますがどうなったんでしょうか。

私も気になっているのですが、村の中心人物が知っている事なので、特幹隊だった人に連絡して遺族の元へ帰ったのではないかと思っています。

キー坊さん
>それにしても遺骨発掘まで何故時間かかったのでしょうね。

私は5年前、山崎先生のブログにチシの浜に2名の帝大出の兵が埋められており、梅澤が遺族の面倒を一生見ると約束した血判状があると書きました。
もしかして、その書き込みを見て誰かが発掘したのかもしれません。
一応、ウミガメの卵をとる為(保護調査と思われる)に砂を掘っていたら偶然発見されたということになっています。
そのウミガメ保護の第一人者が宮平秀幸氏だったというのも、因縁めいていますね。
当然、彼も遺骨が出た事を知っていたでしょう。
もしや秀幸氏自身が発見したのではないかとも思えてきます。
また、裁判中だったので、人殺し梅澤を追及しようとする怨念が発掘させた、なんて言い方も出来ますね。

私が気になる遺骨は、首里城近くでスパイ容疑で殺された上原トミさんの遺骨がまだありそうな事、
与那国島の久部良港付近のどこかに強制連行された従軍慰安婦47名程の遺骨が埋められたままな事です。
それ以外にも、本島某所にはまだ3万柱の遺骨が収められたままなのではないかと考えています。

二人の処刑

伊藤さん、コメントをどうも。
関根清の本にもその処刑に関する記載があります。彼らとは親しく話す仲だったそうです。直前まで一緒に居たそうで、呼び出されてすぐに銃声がしたと書いてますが、詳しい事は分からないそうです。
それにしても遺骨発掘まで何故時間かかったのでしょうね。

砂川回顧録

手元に海上挺進第一戦隊の本部隊員だった砂川勝美氏が1993年にまとめた「座間味戦回顧日」があります。

・この昭和20年4月初旬の項にある「チシ海岸で兵2名が住民の食料を奪取し、敵前逃亡を企てたとして処刑された。二人は大学出の召集兵だったとのことである」が該当するものかと思います。

遺骨が出たなら遺族に戻すという話がもちあがると思いますがどうなったんでしょうか。

・3月25日の記事について

砂川氏は本部壕の近く(と思われる)壕に米軍空襲第一日(3/23)に入ります。

3/25 早朝より空爆、午後から(夜間も)艦砲射撃 民家の大部分破壊消失

  14時    阿真海岸に米軍上陸の誤報
19時過ぎ 本部副官大泊中尉が本部隊員に集合命令
         訓示「舟艇の出撃は不能、陸戦に備え、最後まで戦え」
         砂川への指示「今夜はこの壕で過ごし、明朝本部壕に来い」
  20時頃   握り飯と甘味品の配給
  23時頃   島民が20名程壕に入る
        「外は大砲の弾が飛んでいるので危ない。休ませてほしい。
        役場からの連絡で24時頃頃忠魂碑の前で自決する」
  24時頃  島民壕の外へ出る。
       「お世話になりました。兵隊さんがんばって下さい」


以上が事実だとして何か言えることは余りなさそうですが、空襲と艦砲の情況から梅沢戦隊長が民家にいたというのは考えにくいように思いますが…

新聞には出ていないかと

伊藤さん、恐らく新聞には出ていないでしょう。
ただ、地元の人は殆ど知っているはずです。
地元の名士が知っていますから、あっという間にひろがった事でしょう。
「あの時、壕から引っ張り出された、あの若者の骨なんだね」と言った話で流布されていると思われます。

遺骨の発見

阪神さん

銃殺された2人の兵士の遺骨が発見された件は新聞記事か何かになっているのでしょうか?

風に立つ

キー坊さん、出典は「風に立つ(玉井向一郎)岩波ブックセンター1983」です。
米軍に斬り込みをかけた時、芋畑に隠れて逃げ帰り、住民の壕に隠れていた所を引きずり出された挙句、銃殺された2人の兵士の遺族の面倒を生涯みるという誓約書に豊中市の住所と名前をサインしています。
しかし、玉井氏は77年にこの豊中市の住所に手紙を送ったが、転居先不明で帰ってきたそうです。
陸軍士官学校卒業生の名簿を調べても住所が空白のままだったと書かれています。
これは77年までは戦友会に出れなかった「人望のない」隊長だったからでしょう。
初枝さんに会ってから「反撃出来る」と喜んだ梅澤は、一連の行動に出ますが、その行動を通して「自分に反抗しない」人達だけの戦友会に顔を出せるようになったのではないでしょうか。
人殺し梅澤は座間味のチシの浜で土下座すべきです。
2人の遺骨が発見されたのは、ウミガメが産卵に来る5年前の今頃です。

血判状の出典

 阪神さん、コメントをどうも。
 血判状の件はどんな本に書かれていたか紹介して頂きたいです。
「血判状」などと、格好つけたものを作っても、人格低劣な梅澤が誠実に実行したはずはないと思います。梅澤隊の副官だった人は、その奥様によると、戦後電話で、梅澤に「貴様!」などと怒鳴っていたそうです。人望も無かったに違いないです。

軍命は戦時中から言われていた

こんにちは。
ローマ人が今日のブログでデタラメをほざいています。
今更ここで言うほどの事はありませんが「軍から玉砕命令が出た」とは戦時中から人々の間に言い伝えられ、
戦後も本島でさえ、慶良間の人は軍から玉砕命令が出たと言い伝えられていました。
決して援護法でお金欲しさに捏造したわけではありません。
映画は編集しなおして、初枝さんを責めるような事はしないほうがいいでしょう。
それより梅澤が血判状の約束(殺した部下の遺族の面倒を一生見る)を反故にし、その2人の部下の遺骨が裁判中に発見された件を映画のナレーションに入れておくといいかもしれません。
秀幸氏は亡くなっていたのですね。
どんどん戦争体験者がいなくなっていきますね。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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