2017-10

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伊藤秀美氏の本

 当コメント欄に、直々に著者・伊藤秀美氏から著書2冊の紹介があったので、紹介サイトまえがき目次を覗いてみた。我々の関心事と共通する処が多々あるように思ったので、直ぐに注文し数日後に届いたので通読した。

         検証『ある神話の背景』2
                   検証『ある神話の背景』全表紙

 一回読んだだけであるが、こんなにも緻密に『ある神話の背景』と、それの裏付けとする『谷本版陣中日誌』を追求している研究者が居た事に正直びくっりした。ネット上では、おなじみni0615氏の充実した資料庫があるが、現実に出版されたもので曽野綾子・『ある神話の背景』を本格的に批判した単行本は、今回の2書が初めてではないだろうか。
「検証『ある神話の背景』」は、第1部は1970年8月15日に出版された『谷本版陣中日誌』を分析検討し、第2部は書名どおり『ある神話の背景』の検証である。
 『谷本版陣中日誌』が、谷本小次郎氏が原典であるとしていた正式の赤松隊陣中日誌である『辻版陣中日誌』とは、まったく別物である事は、拙サイトおよびni0615氏の公表されている資料の綿密な照合によって判明していた。
 
 伊藤氏は突き進んで、それに関わる当事者に会ってその裏づけを取っている。私が最も注目する事は、曽野綾子が初めて赤松隊の生き残りに会い『谷本版陣中日誌』を目にしたという、1970(s45)年9月の大阪・千日前の『赤松隊戦友会』出席時における同行者・『週刊朝日』の中西昭雄元記者に問い合わせをして、当時の事情を訊いたことである。
 中西氏は同年5月に、加古川市で赤松氏に面接した後、その足で高松市の谷本氏の所に赴き、その場で公表前のタイプ印刷された製本前の『谷本版陣中日誌』と、その手書きの原典を見せてもらいタイプ印刷の日誌1部を貰ったと語っている。(その年の夏、中西記者は渡嘉敷島を取材し、『週刊朝日』8月21日号に「集団自決」の特集記事を書いているが、その中で谷本版3.28部分の記述を紹介している。)

 赤松嘉次元隊長は、月刊『潮』昭和46(1971)年11月号の手記で、戦時中に辻政弘中尉が記述した正式の陣中日誌に事実が記載されているとして、陣中日誌の表紙および原典となる手書き頁の写真とその引用文を紹介して、戦時中の軍の行為を弁明している。だが、この原典というのが=『辻版陣中日誌』であったのかどうか、という事を伊藤氏は検証している。

     陣中日誌の図
             『潮』1971年11月号に載った『陣中日誌』
 このブログでは細かい説明は出来ないが、綿密な検証を行った結果、写真に写っている手書きの日誌(二冊重ねた下側の見開きになったもの)は、陣中日誌とは別物であり谷本版の原典ではない、原典なるものは存在しないと断定している。
 この伊藤氏の分析によって、赤松元隊長は月刊『潮』の手記で、欺瞞を働いた事が判明したことになる。また谷本氏はこれが原典だとして、自分が手書きした偽の『赤松隊陣中日誌』を週刊誌の記者に見せるという欺瞞を働いた事になる。これらの赤松側の作業は、曽野綾子が『諸君』に『ある神話ー』を連載し始める直前の事である。
 曽野はあたかも1970年頃の「赤松来島騒ぎ」、「『沖縄ノ-ト記述』」、「『週刊朝日』記事」、「戦友会出席」などを切っ掛けとして、自分は渡嘉敷島「集団自決」に興味を持ったとしているが、それは嘘に違いなく、それまでに赤松側と意を通じていた事が、伊藤氏の検証からも容易に推察できる。

 第2部では『ある神話の背景』そのものに綿密な検証を加えているのだが、ここでも曽野綾子及び赤松隊の欺瞞を多数暴きだす分析をしている。この部分ともう1書の『船舶団長の那覇帰還』については、私は一度通読したばかりであり精読する必要あると思うので、今後感想を述べて行きたい。
 私としては、伊藤氏の2書はノンフィクション『ある神話の背景』を全面的に否定した初の刊行物として画期的なものだと思う。新聞や週刊誌等でも取り上げてもらいたいものである。
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コメント

徐々な浸透期待

 沖縄タイムスが伊藤さんの本を紹介したのは、自然な流れだと思います。体制擁護の中央紙が紹介する可能性はかなり低い事でしょうね。

 『ある神話の背景』自体それほど広く読まれているとは思えないので、本書のような本が知られていくのは徐々にでしょう。だが内容充実しているので、確実な事だと思います。

沖縄タイムスで紹介されました

沖縄タイムス2012年7月23日付けの記事です。


「ある神話の背景」 矛盾を暴く本出版
   戦史研究家・伊藤秀美氏

茨城県在住の戦史研究家、伊藤秀美氏がこのほど、沖縄戦時の渡嘉敷島でおきた「集団自決」(強制集団死)に「軍の命令はなかった」とする元戦隊長らを擁護した曽野綾子氏の著書「ある神話の背景」の矛盾点を暴いた「検証『ある神話の背景』」(紫峰出版)を出版した。曽野氏が依拠した「陣中日誌」が1970年に編集・加筆され、事実に反していることや、取材の方法や時間軸を緻密に比較し、問題点を指摘した。
 曽野氏が基礎資料とした「陣中日誌」は、渡嘉敷島の守備隊長で「集団自決」の軍の命令はなかったと主張した赤松嘉次氏率いる部隊の隊員だった谷本小次郎氏が、他の陣中日誌を基に70年に編集した。
 伊藤氏は「谷本版陣中日誌」と沖縄戦の公式発表を比較。「谷本版」が陣中日誌の公式の体裁をとっていないことや、集団自決と住民処刑に関する記事が書き加えられていること、米軍上陸時の状況などが「大きく書き換えられている」ことを指摘。基になった陣中日誌に比べ「改ざんと呼べるレベル」だとした。
 その上で「ある神話の背景」をめぐる曽野氏の言動を分析。「集団自決」を知る上で重要な人物に取材しないなど取材方法の問題点や、雑誌への連載から単行本化への過程での不自然な書き換えを指摘し「ノンフィクションとしては深刻な問題を抱えている」と批判した。また気象に詳しい伊藤氏は、曽野氏が「ある神話の背景」で島の女性4人にインタビューした際の情景描写「北斗七星は…大きく強く夜空に固定されていた」には「秋の北斗七星は沖縄附近では水平線下に沈んでしまう」と切り捨てている。
 伊藤さんは2007年に沖縄で勤務した際「集団自決」をめぐる意見の対立に触れた。沖縄を離れた後「どちらに分があるかを知りたい」と調査を始めた。本の執筆は初めて。「理系の論文しか書いたことがなく、面白みのない文章で気がひける」というが、緻密な論理展開は説得力を持つ。「本当のことをきちんと残したいと思った。今後も書いていきたい」と話した。

全文の引用は著作権上、問題があるかも知れませんが、新聞掲載から1週間経過しているので大目に見てもらえることを期待して…。

曽野氏はいつ取材を開始したのか

渡嘉敷島の集団自決をあつかった中西記事に興味を示して、中西氏にコンタクトしてきたわけですから、それに関する具体的なやりとりがなかったことは、不自然だと思います。何らかの形で既に取材に着手していて、それを伏せたということは十分有り得ます。実際、富山真順氏の証言では、前年の1969年に曽野氏の取材を受けたとしています。この点に関して、同氏の遺族に確認をとったところ1969年という回答がありました。ただし、物証のないのが難です。
なお、曽野氏は裁判では富山真順氏に会ったことがないと証言しましたが、遺族によれば、取材のお礼として署名つきの「ある神話の背景」一冊を、曽野氏から寄贈されたそうです。残念なことにこれも現在、遺族の手許にありません。

富山証言

 伊藤さん、コメントをどうも。
 私が先のコメントで、「元赤松隊員と曽野綾子がグルになって自分(中西記者)をかついでいた」と言ったのは、確証があるわけでなく憶測に過ぎません。が、曽野は会う前に、中西記者が初めて安里喜順に面接したジャーナリストである事を知っていたのではないかと思います。

 富山真順氏は、1969年に渡嘉敷島で曽野に取材されて、例の手榴弾配布の話もしたと証言してます。(曽野は法廷では否定(偽証)したが、秦郁彦との対談で面会を肯定している)。その取材時、既に安里氏にも取材している可能性大と思います。

『そのとき、曽野さんは沖縄戦をテーマにいろいろ考えており、一回、沖縄に取材・調査に行こうと思っている、と言われたものの、まだ「集団自決」にテーマを絞られてはいないようでしたので、…』
 1970年8月~9頃、曽野はこううそぶいて中西氏に接触してきたのですが、富山証言に見るように、それまでに渡嘉敷島には取材に行っています。また『生贄の島』取材時(1968年11月)にも、渡嘉敷についての情報も集めていたと推測するのは容易です。

 『集団自決』に関する相当の情報を準備した上で、赤松や谷本から創作『陣中日誌』を入手し、その年夏に渡嘉敷や座間味を取材・報道した中西記者を利用したのだと推測するのは、根拠無き事ではないと思っています。かついだというのはもち論、利用したという意味です。
 曽野は戦友会での会合が赤松隊と初対面だったかもしれませんが、第三者を介しての情報交換は頻繁にあったと推測します。

中西記者は曽野氏の取材をどの程度関知していたか

以下の文章は、中西氏の伊藤宛私信(2009/7/27付)の一部で、拙著pp.154-154に採録されているものです。

「週刊朝日」発売後に作家の曽野綾子さんが、朝日の出版局の先輩を通して、「このテーマに関心があるので、話を聞きたい」と言ってきて、お目にかかりました。そのとき、曽野さんは沖縄戦をテーマにいろいろ考えており、一回、沖縄に取材・調査に行こうと思っている、と言われたものの、まだ「集団自決」にテーマを絞られてはいないようでしたので、「渡嘉敷」の具体的な人の話をした記憶はありません。そのときに、私が集めた、先の資料をお貸しし、その後、赤松隊の「戦友会」のこともお知らせした、と記憶しています。会合への参加は、曽野さんが「戦友会」の幹事に直接、連絡したように思います。会合当日、曽野さんとは大阪・梅田のホテルのロビーで待ち合わせ、一緒に会合に出かけました。「戦友会」では、私の記事がやり玉にあがり、つるしあげをくったのですが、そのとき、曽野さんが「記事をよく読んでください。中西さんは公正にみようとしています」とかばってくれたことを覚えています。

これによれば、中西氏に接触したとき、集団自決の取材について、曽野氏は具体的な話をしていないようです(富山真順氏、安里喜順氏などの話はでなかった)。曽野氏は、まだ取材をしていなかったか、していても伏せたということだと思います。

 これ以後の曽野氏の活動については、中西氏は基本的に関知していないと思います(曽野氏が中西氏に報告する義務はないし、中西氏も週刊朝日の記事を書いた後で、一区切りついていますから)。

豊田会合は中間点か、ゴール間近か

中西記者は安里巡査を最初に取材した人物とか。曽野が巡査の住所情報を中西記者から聞き出した可能性もあり、もしそうであれば、おおよその時期もわかるかもしれません。ただ、曽野は巡査の住所を赤松か阿波連住民から聞いた可能性もあります。古波蔵村長の住所については考えられるルートは多数あり、限定不能です。 
  さて、「ある神話の背景」での曽野と巡査の会話は第二玉砕場の話で終わっています。もう一つ、巡査の発言で注目すべきは、恩納河原に島民が避難小屋を作っていたとの指摘です。

時系列で1971年「青い海」6月号に曽野と赤松隊の会合写真あり、赤松の会合はつい先日という言い方からすれば、同年5月前後の可能性が高い。一方、曽野の「切りとられた時間」は同年9月発行、同年10月から「ある神話の背景」の連載が始まる。このことから、「切りとられた時間」執筆後、ほとんど間隔をおかず「ある神話の背景」の執筆を始めたと思われる。「ある神話の背景」との分量比較からして「・・・・時間」は数ヶ月で書き上げたはずで、赤松隊と曽野の会合の直後から「・・・・時間」の執筆が始まったと推測できる。そうすると、曽野の「ある神話の背景」構想上、会合は出発点というより、中間点かゴール間近の可能性が高い。  

検証手続きとして「・・・・時間」にどの程度の内容が書かれているかを見る。 「・・・・時間」には、留利加波基地の嘘と泛水当日の潮位の嘘の記載がある。 私が注目するのは、読売版390~391頁の記事の3つの内容。最初は「彼らは、中央の御嶽の東南にある複廓陣地まで撤退しようとしていた」という記事。複廓陣地であれば当然、ある程度の面を持つが、渡嘉敷ホームページの地図によると、北山=御嶽の真東の谷に本部陣地が描かれている。地図上その谷が、東南に連なっているのも事実。とすれば、「・・・・時間」執筆時曽野が本部陣地の地理情報を把握していた可能性が高い。
次に、「当時、住民はめいめいが、山中のあちこちに穴を掘っていた。・・・・」との記載がある。これは巡査の「恩納河原の避難小屋」情報を入手後に「・・・・時間」が書かれた可能性を示す。

最後に、長くなるので引用は控えるが、野波という辻中尉をモデルとしたと思われる人物が石川という防召兵の手榴弾による無理心中の巻き添えで怪我をしたとの記載がある。 そこで石川防召兵の情報だが、15の娘を頭に二男二女との記載がある。  吉川勇助の陳述書では村長へ耳打ちした伝令の年齢は40過ぎとなっていて、辻中尉が巻き添えになった時伝令は家族もろとも死亡したという。
石川の年齢は、伝令の年齢と重なるといって良い。
以上のことから、「・・・・時間」での野波と石川との関係は、辻中尉と松川の兄さんの関係と酷似している。曽野はクライン孝子に出口確という中学生になりすませ、「ある神話の背景」の復刊と聖典化を企んだ。 曽野は、本名ではない可能性が強いが、伝令ゆかりの松川の一字「川」を取って石川を創作し、一人「これだけ虚実をモザイクした小説は他の誰にも書けまい」と悦に入っていたのではないか。 
曽野は「ある神話の背景」で巡査から「いよいよ最後という時に伝令を出したが帰らないうちに」と伝令を出した話を聞いている。第二玉砕場のことまで聞き及ぶ。 
曽野は、実際には巡査から松川の兄さんの一部始終を聞き出していた可能性がある。 その話が島内でタブー視されていたことも同時に知ったかもしれない。

ということで、曽野の巡査への取材は、曽野の神話構築の起点になった可能性がある。
伊藤様、中西記者へ問い合わせよろしくお願いします。

中西元記者

 伊藤さん、コメントを有難うございます。
「ある神話の背景」について、これが大きく依拠している『陣中日誌』を軸にして厳密な検証を加える為には、それを最初に紹介した中西元記者に直接問い合わせをしようと思い立たれた事は自然だったと思います。

 今はni0615氏などの研究によって、(谷本版)陣中日誌は創作物と言ってよいものである事が判っていますが、1970年当時、週刊誌記者が原典なるものとタイプ印刷されたものを見比べて、これを本物だと信じた事は無理からぬ事だったと思われます。それにしても赤松と谷本は、偽の手書き原典を取材記者に見せるという詐欺まがいの行為をしていたのです。
 中西氏はもう高齢の方だと想像しますが、ご健在であった事は幸いでした。伊藤さんの著書を読んで、昔に元赤松隊員と曽野綾子がグルになって自分をかついでいた事に気付かれたのではないかと推測します。

 中西氏からのコメントは、資料提供者として、貴兄の著書を全面的に評価するというものだと解釈しています。 

中西昭雄氏のコメント

 週刊朝日の記者だった中西昭雄氏から拙著 検証『ある神話の背景』について、「このテーマでは貴兄のお仕事が今後の基本になるのでしょう」とのコメントを頂戴しました。谷本版陣中日誌は改竄された陣中日誌で、それに基礎を置く曽野綾子『ある神話の背景』は砂上楼閣であるという拙著の結論を概ね了解されたものと考えております。
 中西氏は谷本版陣中日誌を最初に取り上げた記者ですが、記事に谷本氏から原典となる戦時中の手書き陣中日誌を見せてもらったと書いています。しかし、そのような原典は実は存在せず、中西氏が見たのは1970年時点で新規に作成された陣中日誌でした。

文体整理

[1319]から引用します。
 伊藤さん「この解釈はユニークではなく、1307の3-1)で述べたように、曽野氏が恩納河原を一貫して「集団自決の あった附近」で使っている(この場合村長と食い違っていることに気づかぬままか、或いは無視して会話している)可能性も排除できません。」  

私としても、物的又は数的な根拠がないまま、もっぱら文体に頼った推定をしているわけですが、曽野が発する恩納河原の意味が一貫しているならば違う場合に比べてなおさら、村長と巡査の問答内容はおかしいと感じます。

先に取材したはずの村長との問答は、「誰言うこともなく」を暫定的に承認した言い回しになっている。利害関係から巡査との主張が違ってくる可能性のあるはずの村長の回答が「誰いうこともなくです。」であれば、その回答は、巡査の利害関係と一致するはずである。 実際、巡査と利害関係が合致する赤松はたびたび巡査と村民を同一視し、「村民からの要請で移動命令を出した」と所々で主張する。 巡査が、村民を危険な場所に連れ込んだという非難を避けるには村民が自発的に自決場に辿り着いたという筋書きがベスト又はベターである。  

 ところが、曽野はせっかく曽野が一貫して恩納河原を自決場と意味づけたか、勘違いかはともかく、村長から「自決場には誰言うことなく行った」という回答を引き出したのであれば、また曽野が一貫して赤松や巡査に肩入れしていることを視野に入れれば、曽野は巡査にだめ押し的に「村長は、島民は自決場に誰言うことなく向かった」と語っていますが、間違いないですね、と尋ねることが通常の流れと思われる。

 しかし、現実に「ある神話の背景」に記載された曽野と巡査との問答では、曽野が村民は命令されて一カ所に集まったはずとの先入観で話し、巡査がそれを否定しているように思える。

私としては、伊藤さんが「曽野と村長・巡査との会話は一見、記載された会見順序からすれば矛盾しているとも考えられる。 しかし、これこれ、しかじかの解釈を取ればおかしいことではなく、矛盾のない相応の会話内容と考えられる」、もしくは「確かに会話の流れとして、無理があることは認める。しかし、この会話は曽野が読者をかくかく、しかじかの方向へ誘導するための手段として利用したのである。」と個別具体的に主張されれば検討できるのですが、今のところそこまでの話ではないようなので、私の見解も一つの解釈として成立不可能なものではないということでひとまず、この論点検討は終えておこうと思います。

古波蔵村長と安里巡査の取材順序

・曽野氏の「正論」平成15年9月号の発言
 「村長が「自分は自決命令を聞いていないが、駐在がそれを伝えて来た」と言明したので、私とすれば駐在巡査に
  会えばよかったのである。」

 これは和田さんのおっしゃるように曽野氏の嘘でしょう。「ある神話の背景」には古波蔵元村長の発言として
「玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたん
じゃなくて住民もそうきいたし…」とあります。したがって、正しくは「自分は自決命令を聞いたが、それを伝えた
のは駐在である」とすべきです。しかし、こう書くと、自決命令を伝えたのは防衛隊員という通説との食い違いが目
立ちすぎるのでカモフラージュしたのだろうと思います。
 なお、上記の古波蔵発言の…部分は「防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て……安里巡査も現場にきてますよ」
となっていますから、自決命令を伝えたのが駐在(安里巡査)というのはありそうもない状況です。

・和田さん「交通の便は会う順序をきめる判断材料にならない」

少し説明不足だったようです。2人に取材をするとすると、最初の人には2回会わなければならない可能性があると
いうことです。最初の人への取材で論点が決まります。これに基づいて2番目の人への質問を組み立てるわけですが、
論点の枠外の回答があった場合、最初の人にもう一度会わなければならなくなる可能性があります。交通の便のよく
ないところに2回でかけるのは、スケジュール的に避けたいところです。
 もちろん、最初の人に2回会った後、さらに取材のループが続く可能性もありますが、その場合、水掛け論とみて
打ち切ってしまうか、第3の人を探し出してその人の取材を済ませてからその先を考えるか、だろうと思います。

・和田説「安里元巡査→古波蔵元村長の順に取材した」について

和田さんの1316の説明は、私の1307の5)の解釈とほぼ同一と思います。1307でこの解釈でよいかと和田さんに問い
かけたわけですが、1316でほぼイエスの回答をもらったものと解します。
 ただし、この解釈はユニークではなく、1307の3-1)で述べたように、曽野氏が恩納河原を一貫して「集団自決の
あった附近」で使っている(この場合村長と食い違っていることに気づかぬままか、或いは無視して会話している)
可能性も排除できません。「恩納河原へ行くということは、誰いうともなく?」という曽野氏の発言は、仮に恩納
河原を集団自決のあった附近と思っていたとしても、有り得るからです。検事の尋問ではないので、「恩納河原へ
行くということは、命令があったから?」とストレートな重い質問をするのではなく、わざと反対の軽めの質問を
して、相手がしゃべりやすくしたということはインタビューのテクニックとして有り得ます。
 いずれの解釈が妥当かは、この先の2人の会話を見ないとわからないのですが、これに続く会話は
「誰いうともなくです。そこで一日を過してその翌日の晩、大雨降りです」
だけであり、その後、
 安里巡査に集められて人々は寄り集って来た。…
と続くため判断が困難です。



曽野と村長・巡査との問答

伊藤さんと、私の村長等との問答解釈は相当かつ微妙に違うことがわかりました。私は青い海の写真発見後に、ある神話の背景を読み、この箇所に出会い曽野綾子とは稀代の詐欺師であり、必ず後世にこのことを伝えなければならないと思ったものです。 このことが、事実の解釈に微妙な影(バイアス)をもたらしている可能性はあります。 
http://blog.livedoor.jp/taezaki160925/archives/50865642.html
上記正論2003年9月号に「村長が「自分は自決命令を聞いていないが、駐在がそれを伝えて来た(原文-と)言明したので、私とすれば駐在巡査に会えばよかったのである。」との記載がある。 ある神話の背景のどこにそのような記載があるのか。 
 事実・真相に近づくには明らかな事実と不明な部分の仕分けがかかせません。 そこで村長・巡査との問答についてはかなり微細なことも検証したいと思います。 

「c1307」5)の「恩納川原に2つの意味のあることに気づいたはずだから」は「曽野と村長との会話で、曽野は村長のABの意味使い分けに対応して会話が矛盾なく流れており、このことは曽野が村長との問答時点で「鉄の暴風では誤解しているABの同視を誤りであると既に理解していたことを示す。一方、巡査との会話では巡査がABの異同を前提にして会話をしているのに曽野はついていけないところがある」」という意味ならば、私の考えとしてそのとおりです。

交通の便から村長に会ったのが最初という推定は、遠い不便な取材からすまそうという(おいしいものを最初に集中して食べるか、後に集中して食べるか)趣向の人もいるので、判断理由としては中立的としかならないと思います。

[c1304]では、ABについて、地理的位置関係として事実と鉄の暴風記載の異同を記載した上、村長・巡査とも正しい認識を話しているのに曽野の反応は村長の会話を当然としているのに、巡査との会話が不自然で噛み合っていないということでした。 

 今回は、空間的位置関係認識にかかる会話だけでなく、時間的道行きの会話を検討します。 まず、曽野と村長との会話で村長は西山高地へ行く手前の恩納河原へ陣取っていたと語る。次に曽野が恩納河原へ行くということは誰いうともなく?と尋ね、村長は「誰いうともなくです。そこで一日を通してその翌日の晩、大雨降りです」と答えている。この会話で位置関係だけでなく、村民が恩納河原に行ったのは、西山高地へ行くより一日早いことがわかるが、曽野は何の疑問も発しない。曽野は時間的にも具体的な村民の道行きを鉄の暴風の記載を是とせず、事実を正しく把握しているように思う。 

  また、曽野は、誰いうともなく恩納河原へ行ったことを推測し村長に確認を求めている。なお、避難小屋ですが、恩納河原以外にも作られた場所があったとの証言はあります。 しかし、阿波連住民二集団の集結は渡嘉敷部落の集結より遅れたとの複数の記録から、阿波連住民は入会権などの関係か、距離の問題か、恩納河原に集った者は少なくとも多くないかもしくはいなかった可能性があります。

次に曽野と巡査との会話で曽野は「すると恩納河原へ避難せよという場所の指定はなかったんですか ?」、続いて「住民は恩納河原に集まれ、といわれた、ということになっているんですが」と尋ねている。

何故、曽野は時間的に先行して.尋ねたはずの村長に村民は誰いうこともなく恩納河原へ行ったのかと村民自身の意思と正しい事実関係を踏まえたように思える質問をして、時間的に後のはずの巡査への質問では村民以外の意思により、包括的・抽象的な地域へ移動させられたのではないかという質問を繰り返すのであろうか。  


私は、この疑問の解決法として曽野が村長と巡査との会合の先後関係を偽ったと理解するしかなかった。

安里巡査の発言

・キー坊さん、いろいろ手立てを講じてくださって有難うございます。
 渡久地氏のサイトが拙著を取り上げていることを紹介して下さいましたが、目取真俊氏のサイトも
 取りあげて下さいました。
 http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/28aba5625f8e7410b5e898c954edd123


・まず事実関係として、全員が恩納川原中流の避難小屋に行ったわけではなく、かなりの数の村民が
 最初、自家用もしくは小集団用に作った防空壕や小屋に避難していたようです。
 そこで、安里発言
 「思い思いに避難小屋が作ってあったですよ」
 「いや各々自分の思い思いのままの避難小屋という立派な小屋を作ってあったですよ」
 の解釈です。
 「各々自分の」「思い思いのままの」とあるので、これら自家用の避難施設のあった複数の場所を
 指していることになり、恩納川原中流の避難小屋のあった場所を必ずしも意味しません。

 安里氏の発言は、和田さんのも含めてさまざまに解釈できると思いますが、私が感じたのは次の
 ようなものです。

 被告席にすわらされている安里氏としては、
 「恩納川原へ行けと言う命令があったんですか」
 「ありました」
 「では、あなたがその命令を伝えたんですね」
 というストレートな展開は避けたいところです。そこで
 「皆さん、避難先を自主的に決めるだけの判断力を持っておられたわけで、私のいいなりに行動
 したわけではありません」と矛先をかわそうとしたのではないかというものです。
 この直前にある「場所の指定はないですね」という安里氏の発言は、自家用施設への避難の段階の
 ことを指しているとすれば嘘にはなりません。問題をすり替えて返事をしたように見えます。

古波蔵発言の歪曲

連続コメントで申し訳ないです。直前コメントとの一体性と数日返信できないのでまとめて書くことにしました。

「ある神話の背景」での赤松(軍)からの指令はすべて最初に安里巡査に指令され、巡査から村長に伝えられるとの古波蔵村長と曽野綾子の問答がある。 しかし、その実態は構文上(文章の流れ)からも、村長が軍陣地に一週間拘束された後、恩納河原に戻った時期以降ということになる。 この部分にかかる村長と曽野のやり取りは、最近になって星雅彦が「曽野はある神話の背景で検事のような物言いをしている」との指摘にぴったりあてはまる。  まさに、曽野の描いた構図に古波蔵村長の発言をはめこむための誘導尋問であるから、曽野派である星でさえそのように感じたということだ。

現実に赤松と安里巡査が最初に出会って以後、すべての村民に対する軍命令が巡査から村長というルートでされているであろうか。 事実は異なる。 まず、「ある神話の背景」にさえ、星雅彦の「潮1971年11月号」の引用として「そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。・・・・防衛隊の一人は、古波蔵村長にいち早くほぼ正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。」 一読してわかるとおり、村長に伝えた者は防衛隊の一人である。おそらく、松川の兄さんであろう。 同趣旨の証言は他にも存在している。 このことから、当初は巡査から村長へというルートは確立していないといえる。
 
 さらに、数多くの証言から軍陣地に赴いた住民の代表が新城(富山)兵事主任に具体的な集結場所を尋ねさせると(軍の壕に入るよう願い出たと読める証言も複数存在)フィジガー方面を指定されたことが確認できる。 ここでも巡査から村長へというルートは確立していないことがわかる。 そもそも、安里巡査が赤松に住民の扱いを聞きに行くこと自体、権限に基づくものではなく、おせっかいである。

いずれにしても、曽野のすべての村民に対する軍命令が巡査から村長というルートでされているとの主張は正しくない。

[1307]に

伊藤さんの3-1)、3-2とは、二つの仮説という意味だと解しました。 その上で

『「ある神話の背景」での安里巡査へのインタビューでは、曽野氏は一貫してBの意味で、安里氏も一応  Bの意味で使っています。安里氏も一応 Bの意味で使っています。』 この部分の前半『「ある神話の背景」での安里巡査へのインタビューでは、曽野氏は一貫してBの意味で、・・・・使っています。』はそのとおりだと思います。

後半の『安里氏も一応 Bの意味で使っています。』ですが、まず曽野は、恩納河原の語を絡めて安里巡査に4回連続して質問しており、前半の2回はBの意味で間違いないと考えます。

問題は、後半の2回ですが、曽野「すると恩納河原へ非難せよという場所の指定はなかったんですか。」
それに対して巡査「場所の指定はないですね。思い思いに非難小屋を作ってあったですよ」続いて
曽野「住民は恩納河原に集まれ、といわれた、ということになっているんですが」巡査「いや各々自分の思い思いのままの避難小屋という立派な小屋を作ってあったですよ。・・・・」
避難小屋がある場所は当然Aであり、Bには(少なくとも当初は)避難小屋などないはずです。

そうすると曽野の恩納河原を絡めた質問に対して安里巡査が避難小屋を含めて回答していることの意味は何だろうということになります。 私は、安里巡査が曽野はAとBの区別をわかっていない、
じれったいという感覚で発した言葉と理解しました。

また、曽野と古波蔵村長との会話で村長が「つまり敵は阿波連と渡嘉志久方面から上陸して来ましたですね。それで軍の方も引き上げて西山高地へ行ったんです。今の基地の下側の方です。そこに軍は動いた。我々の方は、そこへ行く手前の恩納河原ですね、そこはずっと川がありましてね、山の際で狭いですから、飛行機の爆撃が来ても、まあ、安全地帯な訳です。そこが砲弾の死角に入るんで安全地帯だと思われていたので、そこに陣取っておった訳です」との記載がある。 

鉄の暴風の記載では北から順に恩納河原-西山陣地-渡嘉敷部落という位置関係と読めるのに対し、村長の説明では同じく北から西山陣地-恩納河原-渡嘉敷部落と読める。(そこへ行く手前の恩納河原という記述に注目) そのような村長の説明に曽野は何らの疑問も呈していないのに、安里巡査との問答では曽野は3つの地区の位置関係を正しく理解していない受け答えのように思えます。

混同を利用した曽野綾子

伊藤さん、コメントをどうも。
貴兄の本は、沖縄の人間に多く読んで貰いたいと思ってます。唯一知り合いの新聞記者に連絡したら、まだ貴書の存在を知りませんでした。何とか新聞で扱って貰えないかと一応頼んでおきました。

>「恩納川原」の多義性
「恩納川原」は、住民が自主的に集合していた比較的安全な避難場所、つまりAであり、軍に強制的に集合させられて、集団自決場になった北山盆地(玉砕場・フィジガー流域)がBであるのが事実です。

最初にこれを混同して記録したのが、「鉄の暴風」でしょう。この誤記が曽野に付けこまれる大元になったと思います。県史10巻で、古波蔵村長より年長のはずの徳平郵便局長が間違っているのは不思議なことです。「鉄の暴風」を読んで錯覚したのでしょうか。

曽野は何度も渡嘉敷に行って現地調査しているのだから、この区別を十分認識していたに違いない。もちろん村長も巡査もA・Bの違いを知らないはずはないです。曽野は「恩納川原」と「玉砕場」の混同を利用して、村長、巡査へのインタビュー部分を構成し、住民が自発的に自決場へ向かったと印象付ける書き方をしたと、私は推測します。

「恩納川原」の多義性について

1)恩納川原は少なくとも2つの意味で使われています。
 A 恩納川原中流の避難小屋のあるところ 
 B 集団自決のあった附近

2)Aは沖縄県史10巻にある古波蔵元村長の手記、Bは同じく徳平元郵便局長の手記に見られます。

3)「ある神話の背景」での古波蔵氏へのインタビューでは、古波蔵氏が一貫してAの意味で使用しているのに対し、曽野氏は微妙です。
  3-1)一貫してBの意味で使っている
    村長と食い違っていることに気づかぬままか、或いは無視して会話している
  3-2)最初Bの意味で使い、途中からそれをやめた。

4)「ある神話の背景」での安里巡査へのインタビューでは、曽野氏は一貫してBの意味で、安里氏も一応
 Bの意味で使っています。
 (拙著でも指摘したことですが、単行本には雑誌諸君版と比べて不自然な書き換えがあり、安里氏とど
  ういうやり取りがあったのか本当の所は不明だと思います。)

5) 3-2)の場合、恩納川原に2つの意味のあることに気づいたはずだから、その後の安里氏へのインタビューは不自然であり、インタビューの順序は実は安里元巡査→古波蔵元村長ではないか。
これが和田さんの説ではないかと推察します。
(和田さんの論理が追いきれていないので、間違っていたら御指摘ください)

6)ただし仮説の域を脱するには、傍証が必要だろうと思います。その理由をあげると
・3)4)の解釈に微妙なところがあること
・常識的にも、また交通の便から見ても村長→巡査の順に会ったと考えるのが自然なこと。
 古波蔵氏の職場がある泊(そこでインタビューしている)は那覇市の中心に出るのも、渡嘉敷島に渡る にも便利なところであるのに対し、安里氏の中城はそうでない

大町大佐は出撃指揮のために慶良間に出かけたか

大町大佐は、慶良間諸島の3個戦隊だけでなく、沖縄本島の4個戦隊、宮古島の1個戦隊
を指揮する立場にあります。マルレ用兵の基本は、一挙投入ですから、十分な情報が集ま
ること、指揮下部隊に命令を伝える十分な通信施設を持っていることが必須となります。
従って出撃の指揮を前提とすれば、沖縄本島の船舶団司令部に陣取るのが至当と思います。
情報の集まらない離島に出掛けて、5号無線機という貧弱な通信装置しかなくては満足な
指揮を執ることは困難と思います。実際に、25日の夕刻には、大町大佐が居た阿嘉島は、
島内しか電波が届かない状況になりました。この後、引き連れた通信隊を渡嘉敷島に移し、
自らは那覇帰還を目指します。
仮に、特殊な命令を慶良間の部隊に下すつもりなら、しかるべき部下を派遣したろうと思
います。

恩納河原と倭人伝の邪馬台(一)国記述

伊藤氏の検証『ある神話の背景』記述は妥当と思われる。一つだけ私の見解とは異なっていた。伊藤氏は、曽野綾子と安里巡査との問答で曽野綾子が「恩納河原」を恣意的に使い分け(多義性)、実際の問答を改変して、何らかの刷り込みを読者に与えようとしていると推測されているようだ。 多義性の中身である恩納河原とフィジガーの各地点は指摘のとおり、渡嘉敷川と東川という異なる水系に属しているので地理的には別物であるから、読者に誤解させるため、意図的に多義性を使ったとの見解は単独としてもあり得るもので、その場合曽野の意図は「きりとられた時間」で集団自決をまるで集団自殺ネズミのように描いた手法と通底する「住民達は各々勝手に自決場に向かった」と印象づけることであろう。

あらかじめ簡単に私の元の推測を述べる。 曽野綾子が集団自決の軍命令を否定する論拠は曽野の取材は現地取材で実証的なものである。→個別取材でも軍関係者を個別取材するなどあらかじめ恣意性を排除している→古波藏村長が軍命令はすべて安里巡査から古波藏村長に伝えられると証言したが、安里巡査は軍命令を否定したというもの。 この三段論法は曽野が右翼雑誌である神話の背景を語る際に常に使われてきた。 曽野は、論理的な正統性ばかりでなく、ある神話の背景記載上も古波藏村長を取材後村長の発言を受けて安里巡査を取材したという時間的先後をも主張している。

 ところで私は、ある神話の背景の中で曽野と安里巡査・古波藏村長の恩納河原にかかる問答を三度読み返して納得できなかった経験を持つ。巡査との問答では曽野は恩納河原について間違った知識を持っており、巡査がそのことにいらだった否定語を2度繰り返している印象だが、村長の西山高地と恩納河原の(正確な)位置関係の説明について曽野は疑問を提出しない。このことから、かつて(4年前)私はnio615氏の掲示板に「曽野は村長と巡査の取材順序について虚偽を記載した。これは曽野綾子一世一代の大芝居であったろう」との趣旨を論評した。

恩納河原の位置について、秦郁彦は文部省への提出資料及び曽野との対談本において、渡嘉敷島の北端に置き、その南に西山陣地などを配置した。 実はこの位置関係は「鉄の暴風」の記載と同じである。秦は、ある神話の背景を鵜呑みにした記述もしているが信用できないとする鉄の暴風の位置関係をも鵜呑みにした。その誤った位置関係を基に秦は「軍は米軍の主要な上陸地点から離れている安全な恩納河原に住民保護の観点から移動させた」と論評した。

 私などは、時間的に先に原告・被告の準備書面要約をホームページで閲覧し、その後「ある神話の背景」を読み、だいぶ後で「鉄の暴風」を読んだ。 しかし、1971年頃までは、一部の研究家を除いて(渡嘉敷島集団自決に関し)最もポピュラーな文献は「鉄の暴風」だったはずである。

 例をあげる。周知の「魏志倭人伝」の記述の方角だけを信じれば、邪馬台国は南つまり九州方面とならざるをえない。 「鉄の暴風」には「渡嘉敷島の西北端、恩納河原付近の西山A高地」、また「住民は・・・・軍陣地付近に集合した。・・・・住民達はすごすごと高地の麓の恩納河原に下り、」との記載がある。 軍陣地から西山盆地・フィジガー方面ではなく、軍陣地から恩納河原へ移動したとの誤った記載である。今日では通信交通事情その他の理由で鉄の暴風に事実誤認の記載が多いことは広く知られ、渡嘉敷集団自決についての基本資料として読まれることは少ないと考えられるが、それでも秦郁彦のようなミスを誘発している。 

そうすると、曽野綾子についても恩納河原の位置関係について、一定の取材(それは巡査に対するものと思われるが)、を終えるまで鉄の暴風の位置関係を信用していたものと思われる。

事実として恩納河原は現在ダムのある渡嘉敷川の中流。これが本来の意味であり、位置である。 ところが鉄の暴風の事実誤認が原因で恩納河原の位置について、「島の北端である」との記載が一人歩きを始め、渡嘉敷住民以外の門外者にそのような共同主観が信じられてきた時期があった。 曽野綾子が恩納河原に関し、多義性を持たせたとすれば、事実誤認を原因とするものではなくて、読者に誤った印象・心像をもたらすことを目的としている。

松川姓、通信兵の数

阪神さん  私は松川の兄さんが松川姓と思ったことはありません。以前も書きましたが、狼魔人のサイトで伊蓉子・渡嘉敷村長・吉川勇助のいずれもが元、古波蔵姓でその他にも古波蔵姓で改姓した者が多いことを、いわくありげに語っていることを刷りこまれてしまったのです。狼魔人は原告と情報のやり取りが多いと思われ、改姓自体は事実で、狼魔人が誘導しようとする方向とは限らないが、何らかのいわくはあるだろうと。 そこで、吉川勇助の伝令情報を知った際、これは松川の兄さんで古波蔵姓の娘婿の可能性が高いとの考えから抜け出せなくなりました。  慶良間等の戦隊員には、大町大佐の15名のうち9名が通信兵との複数の情報があるようです。 しかし、石田手記には15名の名前か、兵種少なくともどちらかは記載され7名が通信兵とわかります。 当番兵2名を足さないと9名にならない。 で7名という人数が慶良間3戦隊の対と対沖縄本島用の1名と考えるとそれぞれの専従者が別の暗号と周波数で対応していると考えました。 そして、射程10㎞の無線であれば、慶良間諸島は海上の外輪山のような地形をなしており、(山のある島は当然遮蔽物となり)米軍がその外に侵攻した場合、大町大佐傘下の無線は米軍の射程外となります。

そのような状況と大本営の米軍動向認識などから、大町大佐の那覇出航は、単なる視察ではなく、状況次第で出撃命令もありうるものだったと思います。

お久しぶりです

ni0615田島直樹さん、お久しぶりです。
伊藤さんの著書2冊の存在に曽野綾子が気が付く日も近いでしょう。
というより、既にこっそり読んでいるかもしれませんw。
私は曽野綾子を絶対に許しません。
5月15日がお誕生日なんですね。
私は15日に佐藤優氏の講演を聴いてきます。動員でw。

40年前

 ni0615田島直樹さん。こちらこそご無沙汰してます。
 我が日本復帰日の前日がお誕生日のようで、お目出とうございます。曽野綾子『ある神話の背景』追及者はアラ団塊世代が多いようですね。

 40年前あの日の沖縄は、雨がショボ降って浮かない雰囲気だったのを覚えています。

 仰るように、曽野綾子が鬼籍に入る前に、伊藤さんが充実した批判書を刊行された事は嬉しいことです。この2書を沖縄の地元二紙が紹介してくれないかと思っていますが。
 曽野綾子はもういい年ですが、今でも鬼女と言って良く、鬼籍に入るのはまだまだ先の事と思われるので、告発の手は緩めたくないです。  

 小生もアマゾンなどに伊藤さんの本の書評を投稿してみたいと思ってます。

御無沙汰おわびします

ni0615田島直樹です。
キー坊様皆さま、御無沙汰しています。
こちらを訪れるのも何十カ月ぶりでしょうか。

昨日9日に「陽気な女房さん」にお会いしました。
伊藤さまと、東大生協文学部地下食堂で生ビール大ジョッキ2杯ずつ、真昼間飲み交わしました。
東大正門を出るときに、「関係者以外の入場を禁ず」という警告板を見つけましたが、後の祭りです。

2冊の本を無償でいただきました。
アマゾンとグーグルに書評を書くことを仰せつかりました。私からは『季刊 戦争責任研究』に書評を投稿することを志願しました。
http://www.jca.apc.org/JWRC/index-j.html

そうして、キー坊さんや阪神さんと語らって、出版記念伊藤秀美講演会を必ず実現したいと思います。

大ジョッキ2杯ずつの結論は、
ひとえに、曽野綾子女史が鬼籍に入る前に批判を公にできた、という喜びです。
出版のついでの伊藤秀美さんの講演会も、曽野女史鬼堺入籍まえに是非とも実現しましょう。




PS
よかったら皆さま
次の勉強会においで下さい。
http://blogs.shiminkagaku.org/shiminkagaku/2012/04/520icrp.html

ありがとうございます

伊藤さん、お調べ下さり有難うございます。
やはり人から人への口頭での伝達だと、伝言ゲームのように内容が崩れてしまうものなのですね。

真喜屋前村長 [1289]関連

ガイドの説明「M氏という方はもともと沖縄本島の首里にいたが、学校の教員として渡嘉敷島に赴任し
て渡嘉敷島の村長を経験した方だった。このM氏も日本軍からスパイ容疑をかけられて殺されていると
いう。」にあるM氏は古波蔵村長の一代前の真喜屋実意氏ではないかという阪神さんの推測について

渡嘉敷村の方に問い合わせてみました。

真喜屋氏は首里の出身で教師の経験があるが、集団自決場で亡くなった。
スパイ容疑の件は、大城徳安教頭と混同したのではないか。大城氏も首里出身である。

ということのようです。
なお、「ある神話の背景」は大城教頭の出身地を豊見城村としています。

集合命令は、自決への軍命

>阪神さん
>軍命ではなく「村長から北山に集合するよう命令が出ていますよ」だったとしたら、700名もの住民が集合する事はなかったでしょう。

仰るとおりでしょう。集合命令が軍からの命令だから、住民は従ったのです。村長自身の命令だったら、住民はわざわざ自分らの身を危険に晒す事を拒否したに違いないです。絶対権力の軍の命令だから、逆らえなかったのです。

曽野綾子は知っていながら、恩納河原と北山盆地を混同させる書き方を、してますが、軍は恩納河原など比較的安全な場所に避難していた住民を、砲弾を遮る地形ではない北山盆地に移動させたのが実際です。

赤松隊長は住民の命など、わずかも顧慮する事はない絶対権力者だったのです。「集合命令=軍命」です。

赤松が住民を死に追いやった

4月27日に投稿(1287)した、渡嘉敷島の集団自決で犠牲になられた伊芸岩松さんには第二高女4年生の娘さんがいました。
その娘さんが「平和への道しるべ(白梅同窓会)1995」にお母様から聞いた集団自決の話を書かれています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1336440417.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1336440434.jpg.html

砲弾雨の中、一ヶ所に住民を軍命で集合させた赤松は、住民を死に追いやるつもりがあったといわれても仕方がないでしょう。住民の命を守る気があるのであれば、壕や避難小屋にそのまま避難させておくべきです。わざわざ危険極まりない一ヶ所への集合かつ身を隠せない山の頂上。「住民が死ぬよう仕組んだ」と思われても仕方がありません。
北山陣地へ集合するように「軍命」があった事が悲劇を大きくしてしまいました。もし、軍命ではなく「村長から北山に集合するよう命令が出ていますよ」だったとしたら、700名もの住民が集合する事はなかったでしょう。それは、「あいつの言う事は聞く訳にはいかない」と政敵側の反発があったり、武器を所有しない役場の人間の言う事は強制力が弱いからです。
もっとも、北山に集合させようと考えたのは赤松であり、村長なら住民を危険な場所に移動させる事はしないでしょう。

一次史料を読まないとなぁ

恵泉女学院の大学生が集団自決の取材報告をしています。
この学生さんは、Aさんというガイドの方から集団自決の話を聞いています。
Aさんは村人から戦争体験を聞いているらしいのですが、戦時体験集にある住民証言との著しい乖離が随所に散見されるので、何とも残念です。
例えば、
赤松が村長の隣にいて耳打ちした。
午前3時頃に自決があった。
集団自決直後に逃げようとした住民を虐殺している。
また、「一般住民は赤間山を降りることができず、山から山へ転々と移動していた。」という表現では渡嘉敷島全体が赤間山になってしまいます。
なお、殺されたM氏というのは真喜屋実意氏ではないかと思われますが、渡嘉敷島で住民虐殺に関して、この方の名前は初出と思われます。
また、赤間山に行かなかった200人が足の悪い人や高齢だった人というのは、200人全てがそうではないでしょうが、過半数はそうでしょう。
というのは、沖縄本島の住民証言には、北部疎開しなかった年寄りの話が沢山出てくるからです。
歩けたとしても、「どうせ死ぬなら墓で」と言い張る年寄りも沢山いたようです。
だとすれば、渡嘉敷部落の年寄りの中には、北山に向かわず、恩名河原の避難小屋にとどまった方も沢山いたと思われます。阿波連でも近所に掘った防空壕に留まった年寄りが沢山いたのでしょう。
また「沖縄海軍物語(社団法人沖縄海友会)」には恩納川まで来てから阿波連に引き返した住民がいた事が書かれています。

見るためには、左下の移動欄に338と入れて「移動」をクリックすると該当頁に移動します。http://www.keisen.ac.jp/campuslife/artandscience/actibook/academia16/_SWF_Window.html?mode=1062

赤松隊長は集団自決に気づかなかったか

・『ある神話の背景』での関連箇所は次の通りです。

 なぜ、少し離れたところで、住民が一せいに、手榴弾を抜いて自決をし始めたことがわ
からなかったか、ということについて、初め私は疑念を持っていたが、安里喜順氏の話を
きいて状況が少しわかるようになった。つまり玉砕の引き金になったのは、米軍の攻撃で
あり、日本軍の応戦であった。それを村の人々は友軍の最後の反撃と見たのである。

・一読して、赤松隊長が集団自決に気づかなかったことの説明になっていないことがわか
ります。可能な説明としては
「迫撃砲弾の炸裂音により、万歳も手榴弾の爆発音もかき消された。」
が考えられます。

・この説明が有効であるためには、ある程度まとまった数の迫撃砲弾が住民の居る場所附
近に落下する必要があります。しかし、安里巡査の回想はそうはなっていません。
集団自決場にいた安座間豊子氏(当時12歳)は「村長の演説、万歳三唱を経て集団自決」
と言っていますが、迫撃砲弾には触れていません。また、同じく吉川勇助氏(当時16歳)
は防衛隊員が村長に耳打ちした内容が砲弾や爆弾の音で聞き取れなかったとしていますが、
自己の移動や万歳三唱に迫撃砲弾で支障があったとは書いていません。

・一方、阪神さんがとりあげた喜友名氏の回想は、「天皇陛下万歳」、手榴弾の爆発音、
米軍の迫撃砲音を聞き分けています。

・これらのことから阪神さんが推定するように、赤松隊長は集団自決の始まりを準リアル
タイムで知った可能性が高いと思います。
ただし、赤松隊長がパニック状態で外からの情報を受け付けなかった可能性はあると思い
ます(指揮官失格ですが)。

赤松は集団自決に気付いていたはず

宜野座村誌第二巻によると、パラオでは「慶良間の方も全滅」と投降呼びかけがあったそうです。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1335507773.jpg.html

同誌には渡嘉敷島へ働きに行っていた方の証言がありました。
渡嘉志久の一部住民は喜友名さんの助言で助かったようです。
喜友名さんは北山陣地の近くにいたようですが、その場所は不明です。
しかし、米軍の陣地造りの伐採があった付近のようなので、住民集合地の西側と思われます。
なおかつ、「天皇陛下万歳」の声を聞いている事から数百メートル以内でしょう。
万歳と叫んだ人の数が1人しかいなかったと仮定すると、せいぜい200M以内でしょうが、30人が叫んだとすれば、叫んだ言葉が明瞭でなくても500M先でも聞こえるのではないでしょうか。

なお、赤松陣地と住民集合地は500M余りですから、当然、赤松陣地では手榴弾の爆発音は聞こえるはずですし、「天皇陛下万歳」と叫んだ声も聞こえたのではないかと思うのです。
「天皇陛下万歳」の声が聞こえなかったとしても、手榴弾爆発音は聞こえるはずです。
歩哨は当然気付くはずですし、それを報告しなければならないのです。
赤松は集団自決に気付かないはずがありません。

集団自決後に渡嘉志久で自決した方もいたようですね。阿波連ではどうだったのでしょうか。
また、白玉之塔には宜野座出身の2名の名前は、2年前に撮影した写真を確認したらやはりありませんでした。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1335510831.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1335507799.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1335507821.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1335507840.jpg.html

渡嘉敷、座間味に松川姓なし

電話帳に限りますが、渡嘉敷、座間味には松川姓はないようです。
首里のサムレーの姓ですから、本島各地にはおられるようです。
マチガーは屋号でしょう。
http://namaeranking.com/

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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