2017-10

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軍命はあったか、なかったか?

 ちょっと前に、ナイチャーというHNのコメント者から当コメント欄に、「軍命」はなかったのだというしつこい突込みがあった。それに対して、私は言葉による命令は無くとも、「集団自決」は、軍隊に追い込まれた住民の「強制的集団自殺」であり、実質的「軍命」に等しいという意味の反論をした。だが、彼は言葉による狭義の「命令」だけが命令であるとごり押しするだけであった。こういう人間はああ言えばこういうやり方を繰り返すだけのアラシでしかないと判断して、最後の投稿を削除し拒否処置した。
 
 そもそも曽野綾子が、『ある神話の背景』(1971.10月より連載)を書いて沖縄攻撃に乗り出したのは、「住民は自決せよ」との隊長命令が無かったという確信を持ったが故のことであろう。曽野がいう隊長命令とは、言うまでもなく「口頭或いは文書」による明示的な自決の命令のことである。

 曽野は、『生贄の島』の取材に取り掛かった時分(1967~1968)から(あるいはそれ以前からかも)、旧軍隊の人脈(あるいは赤松隊生き残り人脈)と通じ合っていたに違いないと私は見ている。渡嘉敷の第三戦隊において、赤松戦隊長の「自決せよ」との「命令」は出されてなかったという証言を、元赤松隊員らから得ていたと推測できる。また、「援護法」適用を懇願する為、1957年頃、当時の玉井喜八村長が照屋元援護課職員・某と供に赤松隊長を訪ねて、「偽の自決命令書」を作らせたという情報も、赤松隊長もしくは厚生省関係者から得ていたと推測できる。(この件に関しては、厚生労働省はその文書の存在を拒否したが、私はあり得る話だと推測している)。
 曽野は明確な自決命令はなかった事を「切り札」として、渡嘉敷「神話」の破壊、赤松隊長の名誉回復を目論んで、沖縄攻撃に乗り出したと推測するのは容易である。(もっと下世話的に言えば、曽野綾子は持ち前の勘で、この件を利用すれば物書きとしてのし上がる大きなチャンスになると考えた)。

 「戦記」「証言」の類で「隊長の自決命令」を明確に記載しているのは、『鉄の暴風』(1950)の中の「離島の悲劇」と、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要(1953)のニ編である。
 曽野はこの二編を対比して、自決場面の描写が酷似しているから、『概要』は先に書かれた『鉄の暴風』を模写して書いている。『鉄の暴風』は直接体験者ではない人物からの伝聞で書かれているから、両者とも正確な戦記ではないとしている。だが、曽野が著者・太田良博への証言者としている宮平栄治は、曽野に対して証言した覚えはないと否定しているのである。
 1985年の曽野との沖縄タイムス紙上論争で、太田良博は、宮平栄治からは情報の提供を受けただけであり、古波蔵村長宇久小学校長らの直接体験者から証言を得たのだと、明言している。「隊長命令」の証言は古波蔵氏から得たものである。太田良博は村長らから話を聞いて『鉄の暴風』に書き、その後村長ら村の幹部は、太田氏の文章を真似て公式戦記を書いたに過ぎない。この伝聞証拠説は曽野綾子の謀略性の一端である。

 だが、古波蔵村長の証言も、隊長からの直接命令を聞いたという証言ではない。『概要』では〈防衛隊員を通じて自決命令が下された〉と記されているが、赤松デビューの1968年以降は、古波蔵氏は連絡に来たのは安里巡査であることを言っている。戦後は防衛隊員についての証言はないようだ。これに対して、安里巡査は古波蔵氏の証言を否定し続けていた。
 16歳の少年だった吉川勇助氏は北山盆地に集結していた時、一防衛隊員が陣地からやって来て、村長に何か耳打ちして村長は「ウン、ウン、」と頷き、その直後に万歳三唱が始まって手榴弾による玉砕が始まったと、近年証言しているが、吉川氏はその耳打ちを聞いたとは証言してない。
 和田さんが、村長に耳打ちした防衛隊員は「松川の兄さん」という手榴弾暴発で戦死した人物で、この人が隊長の「自決命令」を伝えた可能性が強いとコメントしてくれたが、根拠の提示が必要である。

 結論を言わせてもらえば、直接的な「自決命令」はなかったと考えるほうが妥当であると、私は思わざるを得ない。一見、赤松隊長を免責するかのように思われてしまうかも知れないが、無理に隊長命令があると主張することは敵を利することに成ると思われる。名の売れた軍命在り派の言論人がこのようなことを言えば、体制追随派のジャーナリスト・メディアが大騒ぎするから、言えないのは致し方ないかも知れない。だが、すくなくとも我々のように、匿名のネット言論人は本音を開示して議論を進めていくのが良いと思う。「直接命令」がなくとも、軍の強制であったという点で「軍命」はあった事に違いないと思うからである。(続く)
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コメント

軍行動の標準説提示の意義と新たな又は遺された謎

伊藤さんの大町大佐にかかる著作拝見しました。 泛水開始が午後12時頃であろうとの指摘は意表を突かれた思いです。防衛省保管の陣中日誌の中に、あるいは米軍に没収され、危機が迫り焼却したため、元の陣中日誌を、記憶を辿って再構成したとの表現があるものがあることから、阿嘉島部隊の大町大佐出航時間は記憶違いと考えていました。複数の阿嘉島軍属が出航を午後10時より後というのなら、間違いないでしょう。 伊藤氏の著作は軍の行動は基本的に軍属の証言を基本に検証するという姿勢で、住民証言や戦況その他との整合性はよほどの確証がない限りとりあえず視野の外におくという手堅い手法のようです。 この手法による結論は標準説になりうるもので、阿嘉島から大町大佐に先立って出航した通信兵等のクリ船が2隻という情報は誤りで3隻だったという複数の証言は主背出来る。また、橇船はマルレではなく、クリ船だったという複数の軍人等の証言があるなら私はnio氏のマルレ説に傾いていたが、三転してクリ船という当初の考えに戻りたい。 自説に固執せず、決定的な証拠や整合的判断が出てくれば、こだわりなく乗り換えるのが私の流儀です。

というわけで、伊藤氏の軍行動考察は標準理論的意味を持つが、物理学の標準理論が更新又は別の標準理論に取って変わられることがありうるように、軍の全行動について常に射程距離を確保し、正しいとも限らない。 標準理論の提起によって、謎の多くは解明されるとしても新たな謎、遺された謎が残るというのが世のならいであろう。

ということで、新たな謎や遺された謎をいくつか示したい。 私は、大町大佐の3/22那覇出航は単なる巡視を超える出撃準備を視野に入れたものであろうと主張し続けた。 理由は戦況の切迫と石田四郎手記による7/15名の通信兵随伴である。
伊藤氏は大町大佐が那覇出航当時、軍の判断は、1九州沖航空戦による米艦戦5隻撃沈の戦果 Ⅱ燃料補給のため米機動部隊は出直すであろう、従って侵攻は遅れるはずということで大町大佐の出航は巡視にとどまるとの、お考えのように思える。 Ⅱは事実であり、補給で何日かを要した。 Ⅰについては、米軍のレーダーを雲が阻み、雲の合間から急降下爆撃が成功したという逆ミッドウェーではあったが、米空母の堅牢さと彼我の爆弾重量の違いから大破はあっても撃沈はなく、誤報だった。 また、21日には、秘密兵器とされた桜花隊の全滅があり海軍部に衝撃が走ったことが従軍記者、山岡荘八の「太平洋戦争」に書かれている。

一方、http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331
上記皆本実話の45頁には、大町大佐が3/22出航した内容に続いて「一般の観測は「敵の侵攻は早くて三月下旬恐らく四月上旬になるだろう」」との記載がある。この観測日付が3/22なのか、一般の観測を話したのは大町大佐か皆本などの問題はあるものの、戦況が切迫しているとの認識である。また
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_095_1.pdf
の解説中に「3/20陸海軍統帥部は敵の来攻を四月初頭に南西諸島方面....連合艦隊の判断は....三月末日または四月一日に南西諸島上陸を決行するだろう」との記載がある。台湾沖航空戦の過大戦果を確認しても、海軍は大本営に報告を怠ったが、この期に及んでも海軍は情報を隠したか、または大町大佐が、大岡昇平がリモン峠激戦合間に米軍が祝日で戦闘を休止したことを根拠に、第一師団下士官が師団長に「米軍と講話することになりおめでとうございます」と祝賀に駆けつけたことを評した、精神防衛上の「絶望下の楽観」に陥っていたのか(阿嘉島で大町大佐が敵は上陸しないと語ったとの証言は、その可能性を示す。

今一つの問題、通信兵のことだが、通信兵が携帯していた(全部か一部か)五号無線の通信距離が10キロということで、「船舶団長の那覇帰還行」54頁の図で説明したいが詳細は次回に回します。 結論として7名と通信距離10キロという二つの数値は大町大佐が慶良間主要三島に囲まれた海域で出撃命令を下すための、必要十分条件を満たしているように思えるのだが。

和田さんへ

伊藤さんのメ・アドは、#1269のコメントの投稿名をクリックすれば出てきます。

防衛隊員の伝令

阪神様には拙著に対して過分なお褒めを頂戴して恐縮です。多くの人に読んでもらって、
曽野氏の誤った見方をする人を少しでも減らすことができたらと考えております。

和田様の防衛隊員の伝令の件ですが、阪神様が推測されているように渡嘉敷村の何人かの
人はそれが誰か分かっているようです。しかし、私のような他所者が知り得るものなのか、
仮に知り得たとしてどう取り扱ったらよいものか、もう少し時間を下さい。

集団自決の絵

鴨野が集団自決の写真を揶揄したので、渡嘉敷島の集団自決の絵を参考までに。
「写真集 沖縄戦(那覇出版社)1990」より。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333759674.jpg.html

蛇足ですが、第62師団は3月20日に敵の進攻が迫っていると判断していたようです。
ただし敵機動部隊の位置は察知出来ていなかったでしょう。
嘉手納町史の戦争体験記録より、第六十二師団戦闘経過の概要(沖台・沖縄・九六)です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333759701.jpg.html

富村は全面信用出来ません

和田さんの想像通り、関根氏と富村順一が関与しています。
「沖縄戦語り歩き 拓殖書房1995」に書かれています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333759592.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333759614.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333759629.jpg.html

なお、渡嘉敷島についても書かれています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333759641.jpg.html

ここで注意を要するのは富村は全面的に信用出来ない事です。
彼の著書「皇軍とアイヌ兵 JCA出版1981」「沖縄戦に散った愛 JCA出版1982」は彼の創作戦記だと思われます。なぜならこの2書の文体が全く同一だからです。また「沖縄戦に散った愛」は書かれている視点が戦時中のものではなく、戦後35年を経ての視点となっており不自然極まりないのです。富村の言う事が全部嘘というわけではなく、嘘の戦記を出すような人物だから、彼の書いた物を全面信用するわけにはいかないという事です。
沖縄の戦記には創作されたものがあります。「沖縄 ひめゆりの花の陰に(金城夏子)1966」は特に悪質なそれです。カストリ雑誌のエロ小説家であった中年男が書いたと思われます。事実に反する絶対にありえない事がいくつも書かれています。
また、「薩摩のボッケモン(大迫亘)1975」もざっと見て10箇所程度のありえない部分があります。あの奥茂治も創作と書いてますよw。
http://www.amazon.co.jp/%E8%96%A9%E6%91%A9%E3%81%AE%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3%E2%80%95%E5%A5%87%E6%83%B3%E5%A4%A9%E5%A4%96%E3%81%AA%E6%9A%B4%E3%82%8C%E8%80%85-%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E3%81%A7%E3%81%AF%E7%89%9B%E5%B3%B6%E3%83%BB%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%81%AE%E5%89%B2%E8%85%B9%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%92%83-1975%E5%B9%B4-%E5%A4%A7%E8%BF%AB-%E4%BA%98/dp/B000J9GMQ8/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1333764712&sr=1-1

また、「プリンセス・リリィ(ノブコ・マーチン)新日本教育図書1985」は著者自身が創作部分があると書いています。
なお、沖縄戦の児童向け絵本には創作箇所があるものが見受けられますが、これは平和読本なので、そうせざるを得ないのかもしれません。

素晴しい書籍です

伊藤秀美さん、はじめましてこんにちは。
この2書籍を読み始めています。
流石、超超一流の研究者の思考は凄いと思いました。
史料批判の模範を示していただいて大感激です。
出版先の柴峰出版がある常陸大曽根の狭い旧街道は5年前まで何十回も通っており、あの古い街並みを思い出しました。
素晴しい書籍に出会えました。感謝申し上げます。



他の事項も知ってることを教えてください

伊藤秀美様
東京にも沖縄も遠くて、情報収集には苦労します。 私は伝令「松川の兄さん」は、当時40歳前後で農林学校出身はとの手がかりから何とか特定できないかと思っています。 阪神さんが、撮影した碑文のうち防衛隊の2又は3名が削られた痕跡(1名分は一般住民との境界に過ぎない可能性)があり、1名は古波蔵名の前にあること、旧姓古波蔵の伊蓉子が気安く「松川の兄さん」と語っていること、座間味に松川という地名があることで、(本土では親戚を地名と○○ちゃんなどという。離島の習慣は個別でしょう)古波蔵に婿入りした座間味島出身者の可能性があると考えたのです。

自信は必ずしもありません。

次に、座間味島で宮城初恵が梅沢と接触するきっかけは、衛生兵の関根氏と富村順一が関与していると考えているのですが、時系列の手がかりが少なく母の遺したものを検証する手がかりを掴んでおりません。

何か糸口・検証法などお気づきでしたら教えてください。

予約します。

伊藤秀美さん、ようこそ拙ブログへ。

曽野綾子・「ある神話の背景」を深く追求している研究者が居られたとは意外であり、同じ研究の末席に居るものとして心強く思います。
早速予約注文させていただきました。期待を込めて読ませていただきます。

新刊のご案内

皆様

伊藤秀美と申します。初めて投稿します。
このたび

1)検証『ある神話の背景』
2)船舶団長の那覇帰還行

を上梓いたしました。
ご一読いただければ幸いです。

概要および申し込みは

紫峰出版のサイト
http://www.shiho-shuppan.com

若しくは
アマゾンのサイト
http://www.amazon.co.jp


1)曽野綾子著『ある神話の背景』を実証的に検証。
・依拠した第3戦隊陣中日誌が改竄されたものであること
・取材対象の選択、インタビューなど基本手順に問題があること。
・論理の展開に問題があること
・『ある神話の背景』の神話的エピソードは事実でないこと
などを実証的に示します。

2)太平洋戦争末期、米軍の沖縄侵攻直前に渡嘉敷島を訪れた
第11船舶団長大町茂大佐。
曽野綾子著『ある神話の背景』の描く無能な大町団長像が誤り
であることを、軍の史実資料および新たな証言により示します。
このほか特攻艇マルレの部隊に関して、軍資料および関係者の
手記を元にその実態を詳述。

記録・沖縄「集団自決」裁判

和田さん、書名は新刊の「記録・沖縄「集団自決」裁判(岩波書店)」です。
http://www.amazon.co.jp/%E8%A8%98%E9%8C%B2%E3%83%BB%E6%B2%96%E7%B8%84%E3%80%8C%E9%9B%86%E5%9B%A3%E8%87%AA%E6%B1%BA%E3%80%8D%E8%A3%81%E5%88%A4-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%9B%B8%E5%BA%97/dp/4000225901/ref=sr_1_7?s=books&ie=UTF8&qid=1333606037&sr=1-7

先ほど書店で雑誌willを立ち読みしました。勿論こんな本に金など払いません。
内容は、スクープどころでなく、あまりにも幼稚な言いがかりであり、新しい知見など全く無く、ただ単に大田昌秀氏を非難する為の駄文です。
よって立ち読みする値打ちもありません。
はっきり言います。鴨野守は馬鹿です。
立ち読みしていて恥ずかしかったです。こんな本を手にしていると思考を深める事の出来ない馬鹿だと思われてしまうからです。

http://www.amazon.co.jp/WiLL-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB-2012%E5%B9%B4-05%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B007IV4RNK/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1333606037&sr=1-3

転進命令は事実

「1264」の情報ありがとうございます。
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301063
同じ資料の121ページも興味深いものです。
「三月十九日 休養 丙号戦備下命のタメ外出取り止メ」  どうやら、3/19には中隊レベルまで沖縄戦切迫の情報が流れていた。 そうすると「ある神話の背景」の3/20,21休養日との記述は、たとえ以前からの予定は休養であっても、休養できるわけがない。 そんな軍隊はありえない。石田四郎手記により、元基地隊隊長鈴木常良は、大町大佐一行の15人には含まれず、単独で3/22渡嘉敷渡航したことがわかっている。 この時期に、曽野綾子が「ある神話の背景」で描いた泛水路完成祝いというのんびりした目的のために渡嘉敷島を訪れるわけがない。 鈴木は、泛水出撃を指導し、しかる後に沖縄に帰還する任務を帯びていたはずである。

3/25の慶良間部隊が大発にて本島に引き上げるかもという上記126ページの記載は戦後かなり経過して記載されたものとはいえ、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/873.html
上記3/27記載「昼ごろ、本部通信小隊より船舶団長戦死の報が伝えられてきた。」記事の信憑性を高めるものである。つまり、大町大佐の通信隊の一部は失踪時まで生きていたと判断される。 大町大佐の沖縄本島との通信員一名が本島通信隊に死ぬ間際に戦死必至を伝えたと考えられる。 また、89連隊所属の中隊レベルまでマルレ転進情報が伝えられていた意味を考えなければいけない。
概記事「慶良間島の我部隊が今夜大発にて本島に引き上げるかも知れぬその場合には電灯を点滅して通過する 線路 嘉手納-慶良間島-摩文仁沖-与那原ニ上陸」の私の解釈は以下のようになる。 慶良間島という島はなく、慶良間諸島の誤り。 嘉手納を冒頭に掲げるのは慶良間諸島が起点になることからすればおかしい。 大町大佐は諸情報(西方の座間味・阿嘉島のマルレはほとんど米軍に破壊された)から、渡嘉敷のマルレのみ転進させようとした。沖縄本島にも米軍船が多数遊戈しているので同士討ちを避けるために電灯を点滅するので砲撃しないでもらいたい、米船を避けるため大きく嘉手納に迂回し摩文仁沖を回り、第27戦隊がある沖縄本島の裏側に集結させる。米軍は西方面から攻撃しているので米軍からみて、本島の裏側の与那原に集結し、奇襲出撃の機会を待つ。

実に明快、すっきりした大町大佐の戦局判断といってよい。

よって、赤松が主張する、那覇又は糸満への転進命令の記述は真実を歪めた内容といえよう。
89連隊は首里防衛の一翼を担う部隊だが、那覇への誘導命令ではない。25日の夜、通過すると語られている。 転進命令は予想以上に早く出ているはずだ。赤松は西山陣地で壕堀りをしている軍夫を早めに召喚することもなく、独断で3/1泛水をしたなどと途方もない嘘をつく。  皇道派を自認する一部の右翼諸君、直ちに、理想的な帝国軍人-大町大佐を貶め汚した赤松の擁護を止めよ。

曽野綾子と谷本は松川の兄さんをどう描いたか

阪神さん、  吉川勇助陳述書公開ありがとうございます。 書名を教えていただけますか。

キー坊さん、「松川の兄さんが自分の判断で、後輩の古波蔵村長に「もうこの辺で玉砕しようではないか」と勧告した可能性」ですが、まさに死人に口なしでそのように解釈する一部の島民の存在も松川の兄さんが埋もれた一つの原因と考えるものです。これは一コマでは書ききれない種々の状況があると判断しています。

さて、松川の兄さんが自爆したことは「ある神話の背景」に書かれている。また、「切りとられた時間」には、防衛隊の石川という者が特幹兵士との確執から、山ではなく自宅にて一家心中を遂げたという挿話がある。 この挿話は明らかに松川の兄さんを意識して、住民は勝手に自決したというモザイクを創作する練習作である。

谷本版陣中日誌には3月28日の記事に「昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊道案内の現地防衛招集の一部支給しありたる手榴弾を以て家族と共に自決す。本朝二、三件の模様なり。」との記載がある。 夜明けと共に帰隊した部隊の報告として本朝と記載されているが、フィジガ-での第一次自決は午後1時+-2時間と考えられる理由がある。 従ってこの記事も松川の兄さんを意識した創作である。   ついでに翌29日の日誌「昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決、後判明)」記事は後になって知り得た情報を基にした推測、又は創作記事といえる。 夜の自決者が多いという情報は正しいがそれはフィジガーに止まった阿波連住民のことで、他に阿波連住民(多数)の自決場所があるわけではない。 沖縄ショーダウンは、ウフガーで多数の阿波連住民の自決があったように記載するが物証も他の証言もない。

 ここが混同されやすいところであるが、渡嘉敷部落の住民の多くは機関銃をもらってこいという古波蔵村長の意を受けて先駆けした富山兵事主任(このことで村長との確執が生じることはいずれ説明する)と共に陣地に移動し、その後ヒータティヤーと呼ばれる地域(島民は第二自決場と呼んだ)に移動した。 ところが、フィジガーに居た阿波連の(28日に遅れて移動し、陣地付近に止まった阿波連住民を除く)住民はそのまま止まり、夕暮れから翌朝にかけて75%程度の自決者を出す。 
 その遠因は27日深夜第1戦隊梅沢の2個中隊が切り込み(夜襲)を敢行し、全滅に近い戦死者を出し、米軍の機関銃手などにも戦死者が出たとの報告を渡嘉敷の米軍が受けたためと考えられる。 つまり28日渡嘉敷米軍による、夕刻の陣地攻撃と大規模な砲撃は日本軍の夜襲を思いとどまらせる目的で行われたと考えられる。 従って、平らなヒータティヤーに居た渡嘉敷部落住民の多くは迫撃砲で死亡したと考えられる。 また、フィジーガーという狭い谷に封じられた阿波連住民は、日本軍の最後と勘違いして自決を始めたものだろう。 もちろん、米軍から虐殺されるという偽宣伝と、捕虜になるよりは自決せよ、投稿しようとする者は斬る(実際、6人とか9人ともいわれる島民を赤松隊は斬った)との軍方針でそうすることを余儀なくされたのだが。  

吉川陳述で気になる文章は、伝令が命令を伝えた後、家族と一緒に自決しようとしたのは文面からフィジガーであり、失敗後陣地に舞い戻った、手榴弾誤操作により陣地内で家族と亡くなったと読めること。 約800人の渡嘉敷部落民が狭い小川の谷から、陣地に移動したのであれば、松川兄さんとその家族が彼らに混じって移動する場合、すぐ近くに居ることは物理的にむつかしい。しかも、「ある神話の背景」その他の記述は松川の兄さんは陣地内で島民を待ち構えていたと読める記述だ。陣地内で陣地外の島民を阻んでいたとされる。 そうすると家族が自決したのであれば、伝令の家族のみ陣地内に入っていたことになる。もしかして、松川の兄さんは、フィジガーで自決失敗後、家族と一緒に(集団から離れて単独で)陣地に移動したのではないか。 そうであれば、後に松川の兄さんの家族だけは自決せず、軍に保護されるのかという疑惑や不信を招くことになろう。

屋号

渡嘉敷の屋号については、今後、機会があれば調査します。
5年前の屋号マップが残っていればいいのですが・・・
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-22582-storytopic-5.html
嘉手納町史の戦争体験記録には戦時中の字マップがあり、屋号も書かれています。
渡嘉敷村史にはそのようなものはありませんでした。
松川の兄さんの件ですが、特定の一人を指すのであれば、普段から、松川の兄さんと呼ばれていたかもしれません。

慶良間から本島へ転進の連絡

嘉手納町史の資料編5は戦争体験記です。後半には嘉手納に関連する防衛庁史料があります。
その中に、歩兵第八十九連隊第二中隊の陣中日誌があります。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1333122592.jpg.html
3月25日の連絡事項に、隊が慶良間から本島に引き上げるかもしれないとあります。
マルレではなく大発になっていますが、これは本島への転進の可能性があるという連絡ではないでしょうか。

3月19日12時頃に甲号戦備下達

「沖縄戦記(飯田邦光)」によると3月19日に「ウルシー、レイテ方面より敵輸送船団、沖縄に迫る」の情報が公開され、甲号戦備が下達されたとあります。
また、「珊瑚礁を朱に染めて(仁位顕)」によると12時頃に全軍に甲号戦備の下令があったとの事です。
その他に「悲涙戦記(大橋正一)」や「沖縄戦敗兵日記(野村正起)」にも3月19日に下達されたとあります。
恐らく、この下達によって米軍接近と知らされ、各地で19日から22日にかけて慌しい動きがあったのでしょう。

松川姓は無し

私的な雑事が続き、記事の更新を怠っていてスミマセン。

マチガーヌニーサン(松川の兄さん)のマチガー(松川)は、戸籍名でなく屋号でしょうね。
赤松嘉次が二十五周年記念慰霊祭出席のため来沖した際の、1970年3月28日の沖縄タイムスに、偶々か、戦没者叙勲の公報が載っています。
『ある神話の背景』の中で、富山真順が、慰霊祭で来島した谷本小次郎元隊員に、子供まで含まれた渡嘉敷の叙勲者の多さを得意げに話したという部分(『集団自決の真実』p197)はその事でしょう。
隣の座間味村が4名に対し、渡嘉敷村は二百名くらいが記載されています。その中に松川姓は一人も居ません。よって「松川」は屋号でしょう。古波蔵元村長やその他自決体験者が実名を明かさないのかは気になります。この辺も調査の必要がありそうです。
渡嘉敷村の叙勲者数は、激戦地であった本島南部の糸満町や東風平村に近い人数です。おそらく、当時の玉井喜八村長や、村幹部であった富山氏らが厚生省に働き掛けた故だと思われます。

松川の兄さんが村長に「伝令」を告げた事が、玉砕の契機になっているには違いないですが、その伝令が赤松隊長からの「命令」である事は確定できない事と思います。軍国主義に凝り固まっていた松川の兄さんが自分の判断で、後輩の古波蔵村長に「もうこの辺で玉砕しようではないか」と勧告した可能性もあります。
私は無論、赤松隊長の免責を言いたいのではないです。逆で、直接命令は無くても、比較的安全な各自の壕などに避難していた全村民に、北山への集結を命じて米軍の砲撃に晒した事は、事実上の「玉砕命令」、即ち「軍命」だと思うからです。
「集結命令」がなければ、村民の「集団的自殺」はかなり少ないものになったとの推測は当を得たものだと思います。

マチガーヌ〇〇さん

下記URLは吉川勇助さんの陳述書です。吉川さんは村長から1,2メートルの傍にいたそうです。
松川の兄さんは中年男性で帯剣を所持していた事から在郷軍人だった可能性が高いですね。ゴリゴリの軍人でしょう。
で、松川の兄さんという表現ですが、これは沖縄戦を語る人は屋号で人を表現するのが殆どですから、屋号と考えるのが妥当です。地名の可能性は低いです。
しかも屋号の後には幼名や名前を付けて言いいますから、松川の兄さんというのは、意図的に人物を特定させないように言ったのではないでしょうか。
つまり、渡嘉敷では誰の事か皆知っているが、よそには教えたくないということでしょう。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1332431737.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1332431747.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1332431761.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1332431773.jpg.html

今までは説明失敗 一般論と一般原則

米軍資料の絡みから、自決命令についてこれまで説明に失敗していることに気づく。
あまりむつかしく考える必要はなかった。 歴史的事実に対して包括的で抽象的な一般論は不毛であるが、個別具体的な資料・証拠・証言等に関して古い時代のそれにアドバンテージを与えるという一般原則がある。 これは、時代が下るほど原資料に尾びれがつき、政治的あるいは庶民の願望(悪人の国定忠治・清水次郎長・ネズミ小僧の善人化伝説)などにより情報が、変質改竄捏造される可能性が高まり、信頼性が低くなるという確率論に基づく。 昨年、新聞等で織田信長等が平氏の落人(平清盛のひ孫)を忌部氏が養子にしたことが織田家のルーツと自称していた説は、当該人物の墓の碑文から年代的に成立しがたいことが報道された。より古い時代の金石文のほうが、より確実ということだ。これにより、織田家平氏起源説は否定された。
 
自決命令に即して考察すると「赤松隊から防衛隊を通じて自決命令が伝えられた」という記録や存在は古くから複数存在していた。 しかし、この情報のなかの防衛隊情報について個別具体性が乏しく、その防衛隊員の事績や名前などの個人情報が見えなかった。このことから、防衛隊ルートの自決命令は単なる風評にすぎないという反論が可能であった。

しかし、新たな吉川勇助の証言と金城武則・伊蓉子・曽野綾子の指摘する防衛隊員を検証すると、その防衛隊員は同一人物であることがわかる。 即ち、いずれの証言又は記述も西山陣地への移動命令を伝えていたこと、手榴弾操作を誤り自爆したこと(類似内容として死亡、玉砕の日に亡くなる)、防衛隊員であるとの三項目の内、何項目かが共通項としてあてはまる。 そうすると、四者の指摘する防衛隊員は同一人物であり、さらに、他にも多くの証言や記録に西山盆地への移動命令を伝えた防衛隊員の存在を伝えたものがあることから、曽野綾子が語る安里巡査が赴任当時から島民と赤松隊との連絡を専任していたというのは嘘であることが改めて確認できる。 同時に「赤松隊から防衛隊を通じて自決命令が伝えられた」とされる防衛隊員の通称「松川の兄さん」という(固有名詞そのものではないが)、それに次ぐ特定性も確認されることから、赤松命令説が単なる風評に過ぎないとする見方は否定され、赤松命令説の信頼性が高まることになる。 

「松川の兄さん」は、安里巡査や富山(新城)兵事主任よりも早くから頻繁かつ専従的に軍民の伝令役を果たしていたことが窺える。 安里巡査や富山兵事主任は伝令役として臨時的・従属的な役割と考えざるを得ない事実が数多く存在する。
安里巡査と古波蔵村長の証言は、どちらも自決前に伝令を出したことで一致する。フィジガーと西山陣地は山道とはいえ、300メートル程の距離であり、往復30分はかかるまい。

吉川氏も旧姓古波蔵で古波蔵村長の近くにいたと考えられる。 さまざまな事情が、松川の兄さんの存在を隠していた。 これは金城武則も語っていたし、この間の事情は別途詳しく検討しなければならない。

説明失敗の原因は、「松川の兄さん」が埋もれた存在となった数々の理由を先にしようとして、簡単な結論を浮き彫りにしなかったことにある。

コロかも

白梅の碑・野戦病院編(新里堅進)という漫画にマルレの絵がありました。前部が震洋に見えるのですが漫画ですから気にしないとして、このような木のコロではん水作業をしていた可能性も考えられます。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1332341974.jpg.html

>大場久美子朗読劇

アイドル人気絶頂後、さまざまな苦労、災難を
乗り越えてきた大場さんだからこそ人の心の
痛みがわかるのでしょうね。
ずいぶん前ですが、沖縄で撮影された映画「ひめゆりの塔」にご出演されていました。

大場久美子朗読劇

集団自決を扱った朗読劇があるそうです。参考までに。
http://ameblo.jp/kikokiko0164/

情報が悪い

座間味村史の戦争体験記に、阿嘉島で炊事班で働いていた女性の証言(137頁)があります。
22日の晩に、兵隊から「明日は情報が悪いから、食事を作れるだけ作るように」と言われたそうです。
この「情報が悪い」という表現は座間味の住民証言にも散見されます。
それは23日の空襲が始まった後に「今日は情報が悪い」と兵隊に言われた事です。
想像するに「情報が悪い」という意味は、「敵の大規模な攻撃がありそうだ」という事ではないでしょうか。
住民証言から、阿嘉島では遅くとも22日夕方には米機動部隊の接近を知らされていた可能性があります。
ここで、第三戦隊について、疑問が2つ浮かび上がります。
(1)渡嘉敷島への大町大佐の来島を何日何時に知らされたのか。
(2)米機動部隊の接近を何日何時に知らされたのか。
阿嘉島では21日、22日はマルレはん水の猛特訓をしており、その理由が大町大佐の来島に備えてだとの住民証言がありました。もっとも、大町大佐の来島を事前に住民には知らせていなかったでしょうから、大佐来島後に猛特訓の理由がわかったのだろうと思われますが。
第三戦隊は20日、21日は休日をとった事になっており、大町大佐来島と米機動部隊接近情報も知らされていなかったのでしょうか。のん気に軍民で宴会をしている場合ではありません。また、はん水訓練は22日しかしていなかったのでしょうか。格納壕を1つ作り、そこで先行して訓練を行うべきだろうと思うのですが、渡嘉敷島の住民証言が集団自決に偏っているので判然としません。
なお、阿嘉島では秘匿壕にはレールが敷かれていた(145頁)そうです。

予定変更-慶留間島人口から米軍資料の検討

どの資料でも同じ内容だが、たとえば下記に
http://www14.plala.or.jp/KONISHI/TK/2005~2007okinawasen/syuudanjiketu/syuudanjiketukaisetubun.html
「慶留間島では総人口約100名の内53名が自決し」との記載がある。

一方、念のため狼魔人の引用によってさえ
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/e39d7a846f55ab154d59a01555e2eb8f
「「約百人の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もう一つは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、三月二十一日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたと繰り返し語っている」(乙35の2)」

米軍の報告日は4/3日。 百人の内50人程度が死亡したら残りは50人程度ということは小学生でもわかる。ということは、慶留間島に収用された日本の民間人の中には、慶留間島島民以外の民間人が収容されていたと考える他はない。 他方でニューヨークタイムズ記者によれば
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-146.html
渡嘉敷の自決未遂者数十人が3/30日米軍に収用されている。 この集団は渡嘉敷部落の住民が3/29日午後3蒔頃北山陣地に移動し、さらにヒータティヤに再移動した後もフィジガーに残留した阿波連住民の一半であることは、各種証言を照合・検証すれば確認できる。
(今回長文を避けるため、略)  そうすると、収用された阿波連住民は4/3日慶留間島に移送された証言者の一部の可能性がある。  
つまり、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じられた住民とは慶留間島住民、阿波連住民、両者の3つの可能性があるといえる。

いずれにしても、慶良間諸島の住民が自決するよう言われていたことは間違いがない。なお、富山兵事主任の3/20日に兵器軍曹から少年に手榴弾が配られたとの証言との関連性を述べる。 http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061016/jiketu
「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。」 
 3/20日が一人歩きしているが富山は3/20と断定していない。 3/20は大本営が19日に台湾陽動爆撃が終了したことを根拠に米軍の沖縄指向を確信した日であり、沖縄軍の再編成の動向などをみても、富山証言が事実であるなら21日でなければならない。 日本軍や住民が長らく米軍上陸日を3/26と一日早く記憶していたことからも、3/21の可能性が強い。 そして、富山証言によれば、その時、阿波連住民には手榴弾が配布されていない。 この事は、4/3の住民証言に手榴弾配布の話がないこと、3/28午後8時から当日手榴弾を配布された阿波連住民の手榴弾が、前夜大雨の中を西山陣地へ移動した渡嘉敷部落の手榴弾が濡れていたため多くが不発となったのに対して7発ほど爆発した(米軍従軍記者証言)こととと一致する。 このことは、富山証言の信憑性を強めることになる。

なお、南京屠殺が日本人にも一般に知られるようになった頃、B級戦犯として処刑された松井石根の助命運動や南京屠殺がないとする声は田中正明の他ほとんどなかった。 フィリピンの虐殺では助命運動があった。(虐殺もあった)南京屠殺に関与した第一師団はレイテで全滅したが南京屠殺が知られる頃生き残り兵士は多かった。 25年経過した1971年百人斬りのネッソス向井野田の遺書から南京屠殺否定論が現れたのであり、完全な後出しじゃんけんである。 赤松の命令否定も赤松等の後出しじゃんけんであり、照屋昇雄など臨時職員に過ぎなかった者が援護局審査委員にサシで談判できたなど途方もない嘘も最近のことである。 軍命がなかったとする赤松・皆本・曽野等が何故あれほど多くの嘘をばらまく必要があるのか。 

証言・資料を検証すれば赤松より防衛隊を通じて自決命令が出されたという命題は当初から存在しており、これを覆す資料はない。 島民との専属的な防衛隊伝令が存在していたことも明らかである。

敵の術中に

和田さん、やはり簡潔な説明はできないようですね。
>「慶留間島島は住民に自決命令が出された。(後述するが、この自決命令は渡嘉敷島住民に対するものであった可能性がある)」
1945/3/21後に、上のような命令があったとのことですが、これにはどういう根拠があるのでしょうか?

貴兄の長文の論理的ご解説、それなりの説得力無い事もないですが、それは推理の域を出ず、「(直接的)軍命」が在ったとする証拠にはなり得ません。
「軍命」があったという事に多言は要しないと思います。1945/3月、軍から「住民は自決せよ」との命令があった、その証拠はこれこれである、との数行の記述で良いと思います。

しかしながら、研究家らの長年の研究、調査によってもそれは出て来ないから、それを提示出来ません。無理に在ったと言い続けることは、曽野綾子らの術中にはまることに成ります。
日本の主要メディアは大方権力の味方なので、名の売れた沖縄の研究家は本音を言うことが出来ないのです。でも、我々のような市井の匿名研究者はそれを認めた上で、赤松隊の責任及び曽野綾子の罪業を追及していくのが良いと思います。

軍命を伝達した松川の兄さん

Ⅰ1945/3/20大本営は米軍の指向が沖縄であると判断し、現地軍にも伝達し現地軍は21日沖縄軍の編成替えをした。慶留間島島は住民に自決命令が出された。(後述するが、この自決命令は渡嘉敷島住民に対するものであった可能性がある)よって、慶良間諸島で軍の自決命令が出されたことは動かない。大町大佐の出馬は、スケジュール視察などではなく、出撃準備である。石田手記によると大町大佐の大発には7人の通信兵がいた。座間味・渡嘉敷・阿嘉島に3人派遣し、船内の3人と個別対応にて専属的に通信させ、一人は沖縄本島と専属的に交信させた。6人未満や8人以上ではない7人に意味がある。

Ⅱ 富山(新城)兵事主任の兵器軍曹が渡嘉敷部落の年少少年に手榴弾を配ったことは事実と認められる。(ただし1945/3/21)その理由はhttp://www.amazon.co.jp/product-reviews/4569706401/ref=dp_top_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1 に記載したとおりである。

Ⅲ 「ある神話の背景」には、安里巡査の証言として「もう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性はありましたからね。・・・・」との記載がある。また複数の証言から安里巡査が住民をサーベルで駆り立て、手榴弾の発火方を教え、あるいは遺書を書かせたことが認められる。よって、赤松隊長と安里巡査に住民を集団自決させる未必の故意の共謀があったことが認められる。住民が避難していた、より安全な恩納河原から何の居住設備も食料もない北山盆地に移動させたのは、住民が米軍によって保護されるよりは自決させるためである。

Ⅳ 住民を北山盆地に移動させるに当たり、住民に伝えた者として安里巡査と富山兵事主任の名前はよく知られている。その他に防衛隊の一人が伝えたとする証言が複数存在するが名前が出ていない。この人物は金城武則が「玉砕で亡くなった人で名前はいわないほうが良いだろう」と語る。吉川勇助の証言で自決直前に古波蔵村長に耳打ちした40過ぎの人物がいてこの人物は陣地付近の手榴弾の暴発で死亡したという。さらに伊蓉子によればこの人物は通称「松川の兄さん」であり、やはり死亡したという。玉砕-手榴弾暴発-防衛隊という、キイワードから3人の証言に出てくる人物は同一人物と考えられる。 この人物は「ある神話の背景」にも出てくるが、生死は不明。 これらの証言から、曽野のいうように安里巡査が軍と住民の専属伝令ではなく、防衛隊の「松川の兄さん」が本来、軍と住民の連絡役だったはずである。そして、少なくとも「戦闘概要」と石田郁夫「・・・・真実の間」には「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が下された」趣旨が書かれている。よって、吉川勇助の証言は後出しじゃんけんとはいえず、真実の一部と考えられる。

安里巡査は「ある神話の背景」のなかで前記(A)(B)(C)の証言をしている。このうち、(C)は、谷本版陣中日誌の記載「二○○○頃二中隊正面軽機関銃座に敵襲を受く」を受けた阿波連フィジガー居残り民の自決に該当する。 古波蔵村長の(D)証言は曖昧な表現ながら金城牧師の証言と同じ。 松川の兄さんが伝令に出て、「捕虜になるくらいなら自決せよ」との命令を伝えたものと考える。 新城(富山)兵事主任が赤松から軍務を解かれた(狼魔人情報)のは、松川の兄さんの死と、安里巡査の突出により安里巡査を伝令扱いとし、新城を恩納河原に戻った渡嘉敷部落の監視者とする赤松の構想による。

Ⅴ 「鉄の暴風」が出版される頃までは、島民は赤松の命令を話していた。老人が「絶対に何も話さんぞ」などと叫ぶのは1970年赤松沖縄訪問以降。これには、赤松と曽野の遺族年金不支給と、勲章撤回の脅しが効いている。 その他に重要なことは阿波連滞在の住民に赤松につく複数の理由があり、伝令が古波蔵村長の姻族らしいことが、事態を複雑にし、島民を黙らせた原因と考える。

以上、骨格のみ記述した。 各項目について、ゆっくり説明を加えたい。

新刊

先月、岩波書店から、『記録・沖縄「集団自決」裁判』が発売されました。そのうち読んでみます。

住民虐殺・慰安婦は実在

読谷村在住の渡久山朝章氏が、首里司令部壕での虐殺場面を目撃との記事があります。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-02-25_30265/
渡久山氏は私の高校同級生の父親で、学校の先生でしたが、特に左翼運動をしていたという印象はありません。
「処刑された女性は師範学校の田んぼ付近の電柱に縛られていた」と証言してます。

太田良博・『戦争への反省』にも目撃者からの聴き取りとして、その首里本部壕付近での処刑場面を記述しています。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/883.html(ni0615氏資料)
「女は、田んぼの近くの電柱にしばられ、そこに集まった連中に突かれることになった。まず、最初に突かせたのは、朝鮮人慰安婦である。」と、同じ場面状況です。引用として、高級参謀・八原博通大佐もその時報告を受けたという記述も在ります。

元通産官僚で沖電社長だった仲井真知事は、この件でその体質を露呈させたのです。

曽野綾子コード

タヴィンチコードという映画があった。
レオナルド・ダブィンチの真の(隠された)メッセージをテーマとしている。 曽野綾子の「ある神話の背景」には、隠されたメッセージがある。 内容はさまざまで、軍命説を侮り、赤松にエールを送るザレ歌(ざまあみやがれ、まかしとき)、知念に将校会議の日付間違いを理由に「・・・・戦闘の様相」等の内容を全否定し、知念を仲間に引き入れ嘘を完成させたことを記念する日付の記述、随所に嘘と事実を散りばめ神話作りの過程と人を騙す快感に浸る記述。 それらを鏤めたからこそ、曽野には「ある神話の背景」に思い入れがある。

松川の兄さんの軍命伝達も一部が「ある神話の背景」に記述されている。それは集団自決にかかる虚と実を鏤めて人を欺き快感に浸るためであった。 そのための仕掛けは曽野が安里に会った後、古波藏村長に会っているのに古波蔵村長に先に会ったように記載したこと。
かつて、nio615さんのサイトにこう書いた。『安里巡査に対する取材での曽野発言をみてみよう。 『恩納河原へ行く前に、分散していた村民をお集めになったのは、どういう理由だったんですか』『すると恩納河原へ避難せよという避難せよという場所の指定はなかったんですか ?』そして極め付きの発言が出る。『住民は恩納河原に集まれということになっているんですが』 いかかでしょうか。
古波藏に対する取材の後であるはずの安里巡査に対しては曽野は「住民は恩納河原に集まれということになっている」と思い込んでいる。ところが古波藏の取材で古波藏氏ら村民があらかじめ軍命令がある前あらかじめ、恩納河原に陣取っていたという説明に対して当然のこととして何ら疑問を感じていないようである。』

「ある神話の背景」の記述を引用する。まず安里巡査の証言とされる部分。 「自決しようという、部隊が最後だという○○(一語不明)を受けて死のうという。(A)・・・・部隊がもう最後という時に、一人は舞台の連絡に出た筈ですよ。(B)その時に、敵の手榴弾、艦砲と共に手榴弾投げた音があつたですよ。それをもう友軍の最後だ、切り込み総攻撃だと思って、ああなってしまったわけですよ(C)」
次に古波蔵村長の証言「それから敵に殺されるよりは、じゅうみんの方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけれど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て・・・・安里巡査も現場にきていますよ(D)」   そして、「・・・・軍と民との連絡はすべて安里さんですよ」「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」「ありません」「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」「そうです」「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」「私へ来るんです」「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」「はい、ずっとです」(E)
Eは事実と突き合わしてみると、安里が陣地を居住地にして以来、陣地外に居住する民に赤松の命令を伝えたことが明らかだが、曽野綾子はまるで安里巡査が1月に赴任してからずっと会ったことさえない赤松の命令を唯一伝えた者であるかのように順序などを改竄している。
次回、ABCDEを片隅に記憶しながら、事実関係を簡単に記すつもりです。

渡嘉敷

集団自決の場で唯一、気になっていた滝つぼのある川の反対側に転がっていた白玉の塔の台座です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494953.jpg.html
1951年3月28日となっていました。
川は2本あり、Y字になって合流しています。その合流点です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494936.jpg.html
更に川はその下へ続き、この先に、2年前に見てきた貯水池があります。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494878.jpg.html
この川沿いは、V字の峡谷であり、年寄りなど転げ落ちるほどです。
よって、700名程の住民の大半が川が合流する所よりも上の平らな場所にいたのではないでしょうか。
第2玉砕場は野球場になっており、富士大学野球部が毎年キャンプしているそうです。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494707.jpg.html
アリランの碑は綺麗に手入れされておりました。荒れてなどいません。地元の方の心尽くしでしょう。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494689.jpg.html
船着場のおばさんによると、渡嘉志久には年寄りはいないそうです。行ってみたらホテルの従業員用住宅と、村民アパート、漁師の民家が3件でした。民家は開け放たれていましたが、中を見ても誰も見えませんでした。

沖縄にて

沖縄は全くダンプ地獄でした。那覇から名護へ行く58号線で100台以上のダンプとすれ違いました。これは58号線以外でも同じです。10年前はノーマルの外観のダンプが過半数でしたが、最近はダンプ仕事でまとまった資金を手に出来たからなのか、黒く気味の悪い本土の改造の真似をしたものが過半数でした。お金は人の心も黒くするのかも。
嘉手納の町内は一戸建ての家が殆どでした。住宅地域は道路が狭いので360ccの軽自動車サイズが最適だと思いました。人口が横ばいで世帯数が増えているから、私が行かなかった所にマンションとかが出来ているのかもしれませんね。
嘉手納ロータリープラザ入口には岡本行夫、梶山静六、島田晴雄のレリーフがあり、異様な感じを醸し出しています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494749.jpg.html
プラザ内から外を眺める。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494720.jpg.html
平日のせいかプラザ内は人が殆どいませんでした。図書館も同様です。
地域の人達が日常的に集まる場所ではなさそうです。

読谷村役場周辺は開発一直線でユンボが20台位フル稼働していました。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494771.jpg.html
滑走路跡は今も残っていますが、近いうちになくなってしまうのでしょうね。
また、ショックだったのは嘉手納の東にある東南植物楽園が閉演になっていた事です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494965.jpg.html
那覇市歴史博物館ではじゅり展が開催されており、その中で着物が展示されていました。展示内容から、集団自決の時に庶民が着た晴れ着というものは、柄が華やかなものなのではなく、生地が上等なものだとわかりました。下記写真の左端のおばあさんの着物は晴れ着だと思われます。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=757&file=p326-2.jpg
おまけ、今も地域によっては存続しているらしい親子ラジオと斎場御嶽にあった艦砲穴。頭にhを着けて下さい。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494800.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1330494889.jpg.html

阿嘉島の証言

沖縄県立図書館で、去年発刊された『戦時下の学童たち-那覇高六期生「戦争」体験記』を立ち読みしていたら、阿嘉島での体験が書かれていました。
3月21日、22日は大町大佐の来島に備えてマルレの猛訓練をしていたそうです。
B29の白い航跡が見える中、秘匿上まずいのではと思ったとのこと。
儀同保氏、深沢敬次郎氏の戦記では21日、22日は特訓したとは記述されていないので、はん水の訓練だったのかもしれません。或いは、両氏とも記憶に残っていないだけのかもしれませんが。
また、25日の夕方に、水陸両用車数台が浜から引き上げ、LSTに収容されるのを目撃しています。
これは翌日の上陸に備えた状況視察だったのでしょう。この斥候行為を上陸と誤報したのかもしれません。
また、証言者は防衛隊から手榴弾を渡されてもいます。

曽野綾子の「ある神話の背景」では渡嘉敷島では21日、22日は休暇をとったと書かれています。
21日夜は軍民合同宴会だったと。
しかし第三戦隊陣中日誌では20日、21日が休養となっており、22日は特攻訓練になっています。
曽野の記載ミスでしょう。あるいは何か意図的に間違えたのかもしれませんが。
沖縄県平和祈念資料館の証言ビデオコーナーでは阿嘉島の通信隊長だった柴田収ニ氏のビデオがありました。
渡嘉敷島との通信は25日の20時頃に途絶えたと言っていました。

首里での住民虐殺は事実である!!

仲井真知事は第32軍司令部壕に設置予定の説明板文案から慰安婦、住民虐殺の文言削除を自分で決めたとの事。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2012-02-25_30269/
高級将校達には、身の回りの世話をする良家の子女(崎山嗣朝の娘など)が複数いた事は事実です。
これらの女性が慰安婦だったかどうかは、今の私にはよくわかりません。
ただ、当時の「常識」として、単なる筆生ではない事は皆知っていたはずです。
それはともかく、住民虐殺は首里で確かにありました。八原高級参謀の戦記にも書かれていますし、物凄い虐殺シーンを目撃した方の証言もあります。
もしかしたら、まだ遺骨が埋まったままかもしれません。
というのは、琉球新報(92年6月24日)に殺された女性(上原トミあるいはキク19歳)の遺骨が埋まったままかもしれないとの記事があったからです。
浅く埋めたら砲弾に掘り返されてしまうので、残っている可能性は半々ですが、場所もはっきりしているので、この際、掘ってみたらいいと思います。

しかし仲井真知事は丸出駄目男ですね。

また出かけるので、阿嘉、嘉手納の件は数日経ってから書きます。

小汚い人格

阪神さん。部下を処刑した話は始めて聞きました。
梅澤の品格からすれば、遺族の面倒を見るという約束を実行したはずないと思います。

梅澤は昭和33年頃、「週刊朝日」や「サンデー毎日」に書かれて家族崩壊したのは、濡れ衣のせいだとしましたが、これは嘘であることが判っています。
捕虜になった後は、早速米軍の使者となって、第二戦隊の野田隊長に降伏説得に行くという変わり身の早さを見せました。兵士を無駄死にさせたくなかったという理屈です。それなのに、軍隊が追い込んだ住民の「集団自決」については、軍は「責任は無い」と言ったのです。
こんな男に事実を打ち明け、謝罪をした宮城親子は不運だったと言うしかありません。

梅澤隊長!!殺した部下の怨念を知れ!!

2008年の夏、座間味島のチシの浜で遺骨が見つかったそうである。
この遺骨は、梅澤隊長が殺した部下2人の遺骨である。
この時期は大江・岩波裁判で原告側が大阪地裁で敗訴した後の事であり、大阪高裁へ向けて原告側が嘘で塗り固めた意見書を作っていた頃である。何か因縁めいているように思われる。
殺された隊員は東京帝大で学び、将来を期待された優秀な人物。
住民の中に隠れていた所を見つけられ、引きずり出されていったそうだが、さぞ無念であったろう。
よもや梅澤隊長はこの2人の遺族のめんどうを一生見ると約束した血判状の事を忘れてはいまい。
遺骨が発見されたという事は、遺族の面倒を見るどころか、面会にも行っていなかった可能性がある。
戦後、初めて座間味を訪れた梅澤隊長は各所で死んだ部下を思い泣いたそうだか、チシの浜では泣いていないだろう。殺した部下と血判状の事は誰も知らないだろうと思い、うやむやにしてしまったのだろう。
だが今は違う。奥崎謙三の言葉を借りて言わせてもらおう。「知らぬ存ぜぬは許しません!」
さあ、遺族の元へ報告に行きなさい。
このまま、だんまりを決め込むのは人間として卑怯だぞ!

阿嘉、渡嘉敷、その他は明日以降書き込みます。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
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