2017-06

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「米軍上陸日」を巡る曽野のペテン

 曽野綾子の『ある神話の背景』のテーマ(書いた目的)を簡単に言えば、、渡嘉敷島で住民が集団自決したのは赤松隊という日本軍の「命令」に拠るという語りは事実ではなくて、住民が自発的に(勝手に)、お国の為にと自決(自殺)していったのが事実である。それ故、それを書いた三戦記は真実を記述した正しい記録ではないとし、赤松隊長を極悪人風に描いたのは(神話)である、ということにある。
             sinjitu.jpg
 隊長命令の根拠とされる資料は、「命令」があったと明記される沖縄タイムスの『鉄の暴風』、及び渡嘉敷村の公式戦記(遺族会編纂)の『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の二記録があり、隊長命令の明記はないが全体が『概要』に酷似する渡嘉敷村・座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』の、併せての三記録であるとする。

 渡嘉敷村のニ戦記は、『鉄の暴風』の記述を引き写して書かれたことは、刊行時期や、語句と文章の酷似具合から見て明白であるとし、『鉄の暴風』は、執筆者が直接体験ではない人物から取材した「伝聞」によって書かれた記録であるから、この沖縄の三つの戦記は三つとも信用できるものではないと、曽野綾子は強調している。そして、後のほうで、次のように畳み掛けている。

 「それを証拠づけるもう一つの明確なポイントがある。
 それは問題の渡嘉敷島対する米軍上陸の日をこれら三つの資料は一致して、三月二十六日、と間違って記録していることである。
 米軍上陸は琉球政府発行の「沖縄県史」の年表においても、赤松隊側の「陣中日誌」においても、防衛庁防衛研修所戦史室による「沖縄方面陸軍作戦」においても、Chas. S. Nichols.Jr.と Henry I. Shaw Jr. 共著による「OKINAWA, Victory in the Pacific」 おいても、三月二十七日の、正確には午前九時八分から九時四十三分の間となっている。米軍上陸というかなり重大な記録的事実が、まちがったままこのように記載されているということは、この三つの資料が引き写しによって伝えられて行ったことを示すものであろう。もっとはっきり言えば、最初に書かれた「鉄の暴風」にまちがいがあったのを、他の二つが、そのまま、うっかり書き写したものと思われる。それならば、すべての資料のもととなった「鉄の暴風」はどのような経過で出版されたのであろうか。
(後略) (「集団自決の真実」:p61~62)」

 得々と書かれたこの文章を差し挟んだ意図は、三つの記録が『伝聞』で得られた第一の資料から、第二、第三の資料へと引き写されたものであると言いたいのと同時に、記録の内容その物がいい加減で信頼するに足らないものであると、読者に印象付けたい事にある。
 曽野の文体の調子の良さは、基礎的知識のない読者にとっては、乗せられる効果大いにありであろう。昔、私も最初にこれを読んだ時、沖縄の人間として忸怩たるような気分にさせられた記憶がある。

 だが、以前このブログでも書いたとおり、『鉄の暴風』は「伝聞」で得られた情報に基づいた記録ではなく、当時の村長・小学校長など直接体験者からの証言に基づいて記録されたものであることを、執筆者・太田良博が1985年のタイムス論争で明言している。また、渡嘉敷村の公式記録である『概要』・『様相』の2戦記には、ちゃんと、前文で次のように書かれている。

「当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纏めたものでありますが…」
と。
 古波蔵惟好と屋比久孟祥は、渡嘉敷でナマの戦争を体験した村幹部である。曽野はこの前書きを読んだはずなのに、『鉄の暴風』から引き写されたものだから、この2戦記は直接体験者でないものが書いたのだと決め付け得るだろうか?モノカキとしてあまりに杜撰ではないか。「隊長命令」を否定したいが為の強引な論理展開というしかない。 
 執筆者・太田良博は古波蔵元村長らから直接、証言を得て『鉄の暴風』(1950年)を書いたのであり、渡嘉敷村は、『鉄の暴風』の記録が直接体験者の証言に沿うものであったから、古波蔵元村長らの監修を得て、『概要』(1953年)・『様相』(年代不明)を編纂したのである。その際、村の編集者は、プロである太田良博氏が書いた文章を全面的に真似た、ということに過ぎない。どこに、これら三戦記が信頼できないものとする理由が在ろうか?である。

 もう一つ、「米軍上陸日時」を三戦記とも間違っていることを指摘している。こんな重要な記録を間違うとは、これら戦記はいい加減な記録であると、曽野は印象付けたいのだろう。だが、この指摘も多分に欺瞞性を含んだ記述である。
 この文章のペテン性を、既にni0615氏が自身のブログで暴いて見せている。これは氏による見事な解析だと私は敬服したので、(決してパクリでなく)拙ブログでも紹介の意味で記事にしたいと思う。
 http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1223838

 ni0615氏の記述によると、米軍の「渡嘉敷島上陸」の日時は、現在のあらゆる公式記録で1945.3.27となっていることは事実である。拙HPにアップした「日米最後の戦闘」(日本語訳出:1968年)でも
、「三月二十七日の午前九時十一分、渡嘉敷島西岸に上陸し、さらに数分後には、第二大隊が第一大隊の南方地点に上陸した」
となっている。
 それでも、氏の調べによると、曽野が挙げた4記録出版年月日は以下の通りである。

 (い)琉球政府発行の『沖縄県史』の年表=沖縄県史. 第8巻 1971 (昭和46)年
 (ろ)赤松隊側の「陣中日誌」=改造版の部内配布1970(昭和45)年3月9月於ホテルちくば
 (は)防衡庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』=発行1968(昭和43)
 (に)Chas.S.Nichols.Jr. と Henry I.Show Jr. 共著による『 OKINAWA. Victory in the Pacific 』=原語版初版1955(昭和30

 いずれも、3戦記発行のずっと後から出てきた書籍・文書ばかりである。では、3戦記が発行された1950年代前半当時には、内外の公式戦記で「上陸日時」は如何になっていたかというと、赤松隊の辻中尉記載の『陣中日誌』原本では3月27日の記載では、
 「○四:○○約一ケ中隊ノ各敵ハ渡嘉敷、留利加波ノ茶畑付近ニ進出 部隊ハ速ニ警戒配備ニ着ク…」
となっており、3月27日の○四:○○は明けて28日の未明の4時だと思われるが、その時点で日本軍が、既に上陸している敵(米兵)を認識したということであり、何時上陸したのかは赤松隊も判らなかったのである。谷本小次郎による改造版『陣中日誌』は3.27 〇六:〇〇と明記している。当然、後知恵であるが、それにもかかわらず不正確な書き換えである。

 戦後最初の公式戦史である、―1946(昭和21)年8月第一復員局編―『第32軍沖縄作戦記録』では、ナント米軍の渡嘉敷島を含む慶良間列島への上陸は、「3月25日○七三○」となっていたそうである。その後3年経って、1949(昭和24)年11月復員局編纂―『第32軍沖縄作戦記録(改訂版)』―では、
「三月二十六日慶良間群島中の座間味、阿嘉、渡嘉敷の三島に上陸…」
と改められたが、相変わらず渡嘉敷については間違いのままであったという。
 ゆえに、『鉄の暴風』が取材された1949年当時は、米軍の渡嘉敷島上陸は1945年3月26日が公式の記録とされていたのである。後になって正しい記録が明らかになったのに、なぜ『鉄の暴風』以下の三戦記は改定されなかったのだという追求も出来ようが、それは別の問題でしかない。
 
 ところで、座間味など隣の島々の米軍上陸については、3月26日であるとする日本軍兵士、住民らの証言があるのだが、なぜ、渡嘉敷については明確な証言がなかったのであろうか?それには、米軍の激しい攻撃に遭って、住民・兵士らは避難することに必死の状況で米軍の上陸を確認する余裕がなかったこともあるが、島の地形の違いが大きく作用したと思われる。

 座間味など他の島々は、渡嘉敷に比べて島幅が狭く、その上海岸から急に傾斜があって、避難した高台(山)から海岸(波打ち際)が容易に見渡せる地形をしている。(高月山からの景観を参照あれ)

  takatukiyamayori.jpg

 それに比べて、26~28日にかけて兵士・住民が移動した北山(にしやま)一帯は、高地ではあるが、軍の陣地が設営できるほどの広がりを持っていた(東西約2キロ)。現在は国立の青少年センターが設置されているほどである。さらに、住民はその高地から一段下がった盆地に集結せられていた。そこは鬱蒼とした樹林であった。こういう地形だと、高台からは遠くの海原は見渡せるが、下方の波打ち際は見ることが出来ない。盆地の住民は何も見えなかっただろう。おまけに激しい砲撃の中であり、米軍の上陸を目視できたものはほとんど居なかったと想像できる。

    Fukukaku-4.jpg  

fukukaku.jpg
 現在の北山高地

 曽野綾子は、調子の良い文章でB級読者をドライブする「天才」であると思う。あの小泉劇場に通ずるものがある。曽野綾子が日本人作家最大級の売れっ子に君臨し続けているという事は、この国の思想レベルを象徴しているともいえる。ともあれ、「ある神話の背景」(「集団自決の真実」)を読み込めば読み込むほど、この書のペテン性が露わになってくる。
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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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