2017-10

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自画自賛の新聞自伝

 曽野綾子の書くエッセイなどを読むと、巧みな自慢屋であると感じさせられる。ノンフィクションである『ある神話の背景』(改題『集団自決の真実』)には嘘・まやかしが満載されている。だが、今回の新聞掲載自伝では、さりげ無げに自慢話を満載している。

精神的に弱い父親に虐待されながら成長し、精神的に歪んだ性格になってしまったが、「この程度の歪みなら許していただける商売につこうと思った」と、自分はめげずに頑張って作家になったと言っている。

「父の暴力で結婚生活が苦しかった母は、何があっても一人で生きられるようにと私を厳しくしつけました。まき割り、お風呂たき、トイレ掃除、料理、何でもきるようになりました。」とは、自分は柔なお嬢さん作家ではない、という自慢の弁である。

 50歳直前で失明の危機から脱出し、念願のサハラに、アフリカ考古学者・吉村作治らと供に縦断発掘旅行に同行した。この遠征の費用2.000万円は曽野が出したそうである。35日間で8.000㌔を車で走ったが、その運転は彼女が担当したそうである。あの年代の女では運転免許を持っている事さえ珍しいのに、男たちを差し置いて、五十台の女が8.000㌔の砂漠運転をやったのだ。これは自慢しても良いだろう。

 そのサハラ縦断遠征をきっかけに、アフリカに強い関わりを持つようになった。「目の不自由な方を聖地(イスラエル)へ」案内する福祉活動を手始めに、「アフリカの産院へ資金援助する組織」後の「海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)」作って、次々と途上国から来る要望に答えるべく活動が広がったが、ありがたい事に自分たちの活動を理解してくださる篤志家が表れて、たくさんの寄付金が集まっていて、今も援助活動は続けられている。」 

 1995(平成7)年、64歳のとき、日本財団の会長職を初めての就職として引き受けたという。
「当時は誰が会長になってもマスコミの批判にさらされる状況でした。夫の三浦朱門に相談したのですが、『得にならない仕事ならやってもいいだろう』と言われ、受けることにしました。」と、夫婦揃っての清廉潔白さを強調している。
 大変な状況の時に、その職責を引き受けるのだから、それ相当の報酬を貰っても構わないと思うのが常識的な感覚ではないか?百万円単位の給与でも、貰わなくても困らないほどの財力が曽野・三浦一家には有る、という事を誇示しているようにも見える。
 この日本財団でも、自分の組織と同じようなアフリカ・中南米・アジアなどへの福祉的援助活動を行っている。援助を行った場合、曽野はその金が正しく使われたかどうかを厳密に追跡したという。それは当然行われるべき事であるが、やけにそれを強調する曽野の文章は鼻に付く。
 
 22回目の掲載では、「大臣の誘い 迷わず辞退」との見出しである。誰もが憧れる大臣という地位を自分は惜しげもなく断れる無私無欲の人間であると言いたいのであろう。
「大臣の誘いをいただいたこともあるんですけど、私自身は一瞬も迷わず辞退しました。一度は海部首相、もう一度は小渕首相の時でした。海部首相の時は、旅行先のタイに電話をいただきました。即座にお断りするのは失礼なので、一度切って夫の三浦朱門に報告して、それからすぐに伺った番号にかけ直しました。」 
 自分は時の内閣から大臣に誘われるほどの重要な人材なのだよ、それでも人格高潔だから、いとも簡単に辞退する事もできる大きな心を持っているのだよ、と言いたいのだろう。
 23回目では、大学の後輩である美智子皇后とは私的に懇意な関係にある事を言っている。天皇・皇后夫妻は自分たち夫婦の家を訪ねるほどの近しい付き合いをしていると書いている。

 最後の回の末尾の文章、「文学碑や文学記念館は私の好みじゃない。作品が1冊か2冊、誰かの心に記憶されれば望外の光栄です。死後、きれいに消えることが本当は最高に美しい結末なんです。」
と、最後の最後でも、自分の清廉さを強調する文言で締めくくっている。自慢話のオンパレードを読まされた気がする。
 父親の暴力や、自らの「鬱(うつ)」「不眠症」の告白めいたものも書いているが、作家にとってその程度のことは恥の暴露とは言えない。自分が「鬱(うつ)」であった事を言ったのは、近年女優や知名人が次々告白していて、マイナスのイメージでなくなった世相になった故だろう。20年前だったら公表しただろうか。

 今回の新聞自伝では、決定的に自分のマイナスのイメージに成る事を、曽野は完璧にスルーしている。それは無論沖縄に関係する事を全然書いてない事だ。『生贄の島』『切りとられた時間』『ある神話の背景』は、彼女ののモノ書き人生において決定的に重大な作品だったはずである。それらの作品の事、舞台となった沖縄の事、そして自分が理論的黒幕となった「集団自決裁判」の事を全く書いてないのは不可解といって良いのではないか?つまりは沖縄の事は、彼女の作家人生において、もう触れたくない事なのだ。
 秦郁彦との対談で曽野は次のように本音を漏らしている。「私はもう沖縄問題から足を洗いたいんです。今は「エボラ出血熱」の勉強に凝ってるときでもありますし。…」 

 『生贄の島』『切りとられた時間』『ある神話の背景』を書いて食い物にした沖縄は、「集団自決裁判」で敗訴した以後は触れたくない事柄であり、それは隅に置いてアフリカなど途上国の福祉援助をして、きれいな顔をしていたいのである。
スポンサーサイト

コメント

あの写真の真ん中の少年?

座間味で生き残った松本忠芳さんのお孫さんが2007年の慰霊の日に詠んだ詩を見てハッとしました。
http://blog.goo.ne.jp/ns3082/e/fd2f3fd2c904e17b3aa027a3b68fc257
座間味での集団自決しなかった住民の写真といえば、宮平秀幸氏とされるあの写真を思い浮かべたからです。
(ni0615さんのHPより写真を引用)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=757&file=p326-2.jpg
しかも詩の内容を見て、ますますあの写真ではないかと思うようになりました。
http://sun.ap.teacup.com/ueharanaohiko/34.html
今まで、沖縄戦の市販写真集は全て見てきましたが、座間味で米軍に保護された怯える住民が写っている写真は上記の写真以外には見た事がありません。
秀幸氏は写真の右にいますね。松本忠芳さんは真ん中よりやや左あたりにいますね。
なお、上記の詩は今月発刊された「沖縄 空白の一年 1945-1946(川平成雄)吉川弘文館」に出ていたので偶然気がつきました。

阿波連の軍属女性

「沖縄戦の傷跡(1981年頃発行、沖縄県戦争障害者の会、福地曠昭)」に阿波連で軍属として負傷した方の証言がありました。阿波連で負傷し、北山陣地に移動後も負傷しています。
負傷していたから、或いは軍属だから集団自決に巻き込まれなかったのかは不明です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1297299772.jpg.html

余談ですが、最近刊行された集団自決に関する論考が出ている本として「現代沖縄の歴史経験―希望、あるいは未決性について 青弓社(冨山 一郎 )」があります。複数の著者が書いていますが、集団自決の論考(女性著者名失念)は、著者が沖縄戦については初心者らしく、住民が日本軍を懐かしがっている事に驚いたみたいな事を書いていました。学術書に載せるような思索を深めた論考ではありませんが、この若い研究者が今後、どのような論考を発表するか期待したいものです。

>沖縄の實相

阪神さん。コメントをどうも。
リンクいただいた映像は、「米軍が中国でまいたと思われるビラ」その物の映像なのでしょうね。

確かに、米軍は「慶良間の集団自決」を日本軍が強制したものと見ていたのでしょう。だが、上原正稔は、「パンドラの箱をあける時」(タイムス連載)かなんかで、自決現場に居た日本兵とは、現地人の防招兵であって、日本兵ではないと言っていましたね。同じ軍服を着ていたから米兵には判らなかっただけだと。

沖縄の實相

「沖縄は訴える(大田昌秀1996かもがわ出版)」に米軍が中国でまいたと思われるビラが掲載されていました。
「彼らの憤怒は一緒にゐて自殺を強ひた日本兵に燃え上がつた」とあり、集団自決は日本軍の強制であったという認識が戦時中からあった事がわかります。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1295187992.jpg.html

谷本版陣中日誌の謀略性証明

現在も策動を続ける皆本一派と星雅彦の情報交換からはからずも谷本版陣中日誌の謀略性が証明されることとなった。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/hosi/hosighq.html
上記には皆本・谷本・知念その他の証言から「鉄の暴風」記載の虚偽記載を非常に細かく記載している。 

このような微細部分に至る指摘は曽野綾子と赤松の会合のように充分な時間と対面性(即時的質疑応答可能性)がなければ出来ないことである。 つまるところ、星雅彦は自身、臣民の命は鴻毛よりも軽く、天皇制は日本と同様に重いという靖国思想を信奉していることをベースに皆本一派に洗脳されたということが出来る。

上記に次の記述がある。 「《特攻艇》米軍の斥候がみとめられた日の朝まだき(三月十五日)赤松隊は渡嘉敷五〇隻、阿波連三〇隻にエンジンを取り付ける → 渡嘉敷に特攻艇は無い。渡嘉志久に六九雙、阿波連三〇隻が出撃準備を整えたが、エンジンは取り外しするものではなく、もともと設置されていた ―MとT」

一方、谷本版陣中日誌ではhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1436.html#id_b7608bfe
「3月25日晴れ・・・・ 第一中隊より阿波連湾内に敵駆逐艦進入第一中隊の泛水作業不可能との連絡を受く。 ・・・・3月26日晴れ・・・・ 茲に於いて遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命令す。阿波連基地第一中隊は阿波連湾内に敵駆逐艦侵入、洞窟より舟艇を引き出しエンジン始動せばたちまち砲撃を受け炎上、泛水作業全く不可能となる。」

(注:上記の三月十五日はキー坊さんの誤記と思われる。)

曽野綾子の「ある神話の背景」の記述も同様であり、第1中隊そもそも泛水作業が実行できなかったことになっている。ところが、星雅彦が皆本と知念から聞き出したことでは、阿波連三十隻-即ち第1中隊-も出撃準備を整えたことになっている。 
何も不思議なことはない。 「鉄の暴風」「戦争の様相」「戦争概要」の他、純然たる赤松派の大城良平回想でも第1中隊はいち早く出撃準備を終えたことになっており、さらに皆本義博その人の「特攻 最後の証言」の地図も第1中隊が出撃準備を整えていたことを示唆していた。  

こういうことであろう。皆本・谷本・知念等は「鉄の暴風」のあら探しを必死に時間をかけて行った。 ところが、皆本等は出撃命令から出撃失敗まであまりにも数々の虚偽を創作しすぎたため、嘘の記述を忘れてしまったのだ。 
とんまなことに鉄の暴風の記載誤りに気を取られるあまり、自分たちの嘘と事実とを勘案し、嘘と「鉄の暴風」とを照合させなければならないことを忘れてしまった。 単純に鉄の暴風の記載-第1中隊も出撃準備を整えた-これは正しく問題ないと判断してしまった。

 谷本版陣中日誌と「ある神話の背景」の謀略性がバレルことも知らずに。

さて、既に皆本が第1中隊長中村を「某」呼ばわりしていることは指摘した。 赤松・皆本等は上司の大町大佐を賤しめるのみならず、第1中隊をも自分たちの出撃失敗を隠すために賤しめたと強く推定できる。 第1中隊はいち早く爆雷装着に成功していたのではあるまいか。 また、大町大佐から第三戦隊全部でなくとも1中隊だけでも出撃せよとの命令を赤松の不手際で逃したことが考えられる。 いずれにしても中村第1中隊長は赤松等の歴史改竄の策動に加わらなかった。 ただ、出撃準備時、第1中隊から赤松近辺に付き添うこととなる遠藤幸雄のみ赤松に取り込まれ、歴史改竄に一役買うことになった。

さらに忘れてはならないことが一つある。 第1中隊の出撃予定地は阿波連であつた。 既に明らかになったように、阿波連住民の内、金城牧師の一団はほとんど集団死する一方で、違う道を辿った阿波連住民はほとんど無傷だった。

狼魔人がさかんに囃す死亡者に縁の薄い住民が援護金をもらうという実態が生き残った阿波連の住民にあることは否定できない。  しかし、ここでも狼魔人が誘導しようとすることは事実と異なる。  縁の薄い死者にかかる援護金をもらったことで赤松等が脅せば、第1中隊の出撃の事実すら表に出なくなるという状況だったというのが真相だ。

赤松命令が援護金受領の条件だという認識は曽野綾子にはない。認識していたとすれば、「戦争の様相」が「戦闘概要」より後に発刊されたとの捏造をわざわざするわけがない。 もし認識しているとすれば、(赤松への肩入れからして)まだ援護金がそれほど叫ばれていない1953年の「戦闘概要」に記載された赤松命令がその後発刊された「戦争の様相」で消えることなど不可解だからだ。 条件と村民が認識しているならば、村民は援護金要求が強まる中で軍命令の記述をもっと増やすはずだからだ。 曽野綾子が当時条件と考えるなら「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が発刊され援護金受領の条件として赤松命令を挿入したと単純に考えるはずだからである。

村民も曽野綾子でさえも、赤松の命令が援護金受領の条件とは考えていなかった。

梅澤手記の疑問

「座間味島集団自決に関する隊長手記」には所持していた武器に手榴弾が書かれていません。梅澤氏はわざと省略したのでしょうかね。
ni0615さんの日記「土俵をまちがえた方々」より
http://d.hatena.ne.jp/ni0615/20080120

また、同手記には「私は戦斗間村民が数多く亡くなったと報告を受けたがこんなことが行われたとは知らなかった。昭和三十三年頃マスコミの沖縄報道が盛になり始めて知った。」とありますが、これはおかしい。
軍→役場(防衛隊)→民間人と確固とした命令系統があったのだから、軍命を伝える重要な役場の人間が産業組合の壕で集団死していた事が兵からの報告でもたらされたはずなのに。

罪の巨塊と事実の改変

清少納言「枕草子」にこんな記載がある。ある人が「東北の人は正直でよい。京都の人は心にもないお上手を言って信用できない」と語るが、清少納言自身だったか「それは違う。京都の人は他人を、気遣いおもんばかってつい嘘になることを言うのだ」という趣旨の反論をしている。

私はそうではないと思った。 上手に「遊びに来て下さい」と言われて行ったら何しに来たといわんばかりの態度を取られたことがしばしばある。 十年ほど前、「平気で嘘をつく人たち」という書籍がベストセラーになった。そこには、世間体のために、家族を傷つける嘘を言う親などの類型が載せてある。

世間体を思いやりのようにみせかけるのが、ザーマスおばさんの特徴だ。
さて、will2008年1月に曽野綾子は谷本版陣中日誌を入手してまもなく大江に電話をかけ、集団自決を見直すよう促したという。 つまり、曽野は谷本版陣中日誌を入手後、ほとんど時間をおかず(あまり実証的検証を行うこともなく)赤松の肩を持つことにしたということになる。  また、沖縄ノートの罪の巨塊という表現に気を留めたことが語られている。

曽野綾子は「ある神話の背景」執筆後しばらくして「真偽はまだ確定していない。真偽は命令書が発見されたらかわるかもしれない」という趣旨の発言をした。 これは真意ではなく、「今はまだ、将来的に嘘と隠蔽が露見しない保証がないから、世間に中立的に思わせることが得策だ」との思惑から出た発言である。

私は、曽野綾子は沖縄ノートの罪の巨塊表現より、その直後の「つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。」との表現を強く意識したと考えている。 辻版陣中日誌の検討を拒絶した大江への復讐として「私が過去の事実の改変に力を尽くして復讐してやろう」と思ったのだ。

1971年上半期、名古屋での赤松隊との会合で曽野は次のように語ったのではないか。
「私は、集団自決でまだあまり注目されている存在ではない。あなたがたは、ここで作り話の独り言をつぶやいてほしい。私は聞かぬふりをして、創意工夫を加えて著作にまとめます。あなた方の上司の大町大佐を賤しめる企てが露見する盾にもなります。万が一、嘘が露見した場合にはすべて私が泥をかぶりますから安心して下さい。・・・・まかしとき。」

百人斬り実行者、ネッソス向井・野田は百人斬りを現毎日新聞の元記者の創作だと言い張り、死刑を免れようとした。いくらなんでも元記者はその企てに荷担するわけにはいかない。 ネッソス向井・野田と同質の殺人鬼(少なくとも6名以上の斬殺を命じ、いくら少なく見積もっても未必の故意としての自決命令はあった)、赤松の前に突然彗星のように曽野綾子という事実改変の加担者・助っ人が現れた。

赤松・皆本・曽野のトリオは共に過去の事実の改変に力を尽くした同志であった。

我執の女

「曽野は勝気や見栄に囚われる人間だが、勝ち気や見栄を見透かされないように振る舞うみせかけで飾ることを身につけたのである。」  

和田さん、上のお言葉全く同感です。曽野のような執着心の強い女が、「勝気」や「見栄」から脱却できるはずありません。

本質はザアマスおばさん

重い病気や怪我、さらに年齢などの原因で完治しない徐々に悪化する病や障害と共存しなければならない場合、なかなか嘆き・悲しみから抜け出せないのが普通の人間。  しかし、中にはフランクリン・ルーズベルトのように歩けなくなって傲慢さが消えたといわれる人物がいる。 また、ベートーベンは鉛グラスでワインを飲み続けそれが命取りになるが、苦しみに抗して、人類の至宝ともいうべき作品番号131初め数曲の清冽な弦楽四重奏曲を生んだ。

曽野綾子はルーズベルトやベートーベンとはまったく異なる。曽野の「うつを見つめる言葉」にはうつに直接言及していない。 また、曽野は当然計算して嘘をつく。  しかし、計算も考慮しながら曽野の考えの一端を知ることは可能であろう。
まず、まえがきである。「瞬間的に思ったことを口に出す醜い軽率さも失っていないが、人工的にネアカにふるまうことを覚えたので・・・・」とある。  また、「他人と比べるから、自分が辛くなるのである。そう思った頃から、私は過度の努力、律儀さ、負けず嫌い、白黒をはっきりつけること、などから遠ざかった。他人から非難を受けた時は、少し反省し、直すことができなかったらカメのように首を竦めて嵐をやり過ごすことにした。」という。   曽野には、自分は能ある鷹ではないという自覚はある。 しかし、その自覚にもかかわらず咄嗟に自慢や嘘をする癖があるということだ。  そして、後から指弾されなどして、能ある鷹でなかったことがわかっても後悔を見せず、(周囲の非難に対しては)気丈にふるまうことにしたということだろう。

他人と比べる!曽野は自分と大江健三郎と比べてみたのだろう。  負けず嫌い、白黒をはっきりつけることから遠ざかったつもりだが、精魂を傾けた「ある神話の背景」への愛着捨てがたく、元気なうちに元軍人と共闘して大江を叩き「ある神話の背景」の聖典化を図ることを決意したのだろう。

裁判の旗色が悪くなり、「ある神話の背景」の無数の嘘が暴かれても抗弁もせず、ただ藤岡信勝等、自決改竄の残党のプロパガンダ力に期待するだけなのだ。
しかし、それだけでは曽野の自我は鬱屈するばかりだ。  そこで曽野の精神から擡げてくるものが自慢話ということになる。 自分を癒すものは自慢であることは、世の多くのザアマスおばさんと軌を一にする。 だが曽野にとって、露骨にザアマスおばさんであることを悟られては、いけないはずだった。 最近の曽野が内心のザアマスおばさんの見栄を隠すことを忘れているのは足の傷の後遺症と裁判、ひいては「ある神話の背景」の評価が時間と共に悪化することと無関係ではないだろう。

曽野綾子の「うつを見つめる言葉」101ページには「しかし人間は、ある部分は隠せても、全部を隠しおおすことはできない。むしろ、自分の中にある醜い部分、嫌らしい部分をはっきりと意識して、そのことに悲しみを持つ時、自然、その人の精神は解放され、精神の姿勢もよくなる、と私は思うのである。」と記されている。
一般的にはそのとおりだが、曽野にはそのようなことは出来ない。 ここに書かれていることは「私はザアマスおばさんではありません。」というみせかけの残骸にすぎない。 

 同書172ページ「本当の意味で強くなるにはどうしたらいいのか。それは一つだけしか方法がない。それは勝気や、見栄を捨てることである。」も曽野の素顔と同じような関係にある。  曽野は勝気や見栄に囚われる人間だが、勝ち気や見栄を見透かされないように振る舞うみせかけで飾ることを身につけたのである。  しかし、順調な境遇ではそれが出来ても、根本が腐った人間だから苦境に立てば地が出てしまう。

同書159ページ「辛い目に会いそうになったら、まず嵐を避ける。縮こまり、逃げまどい、顔を伏せ、聞こえないふりや眠ったふりをし、言葉を濁す。 このように卑怯に逃げまくる姿勢と、正面切って問題にぶつかる勇気と、両方がないと人生は自然に生きられない、と私は思うようになったのである。」 
これも、字義どおり受け取れば普通の処世術だが、「強きを助け、弱きを挫く」曽野の行き方に沿えば卑怯が主で、正面ではなく搦め手から相手を攻める手法をごまかしたものである。

エスカレートする自慢話

今回は宮城初枝関係の検証を延期しておきましょう。

ただ、阪神さんが収集された資料のうち、1977/3/26以前の「悲劇の座間味島」
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665286.jpg.html
上記の「玉砕は部隊長と村長の到着を待って決行されることになっていました。梅沢部隊長の到着がいま一足早かったら村人たちは全滅していたに違いありません」との記述は宮平秀幸の村長演説に繋がっているのかもしれません。

さて、下記ホームページ
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/5123ac27fa4a13fed8c3eee97200a646
を見ても、劣女、曽野綾子の自慢話はエスカレートしているようです。 このホームページのオーナーは、かって、「ある神話の背景」の記事を信用していたようですが、曽野の嘘にかかる記事をどこからか見つけて曽野批判に転じた体育会系の素直な性格の方のようです。

最近の曽野綾子の傲慢さの原因はどこから生じているのであろうか。
「ある神話の背景」と曽野の鬱の関連を考察した山崎行太郎の見解は卓見だと思う。
2003年1月、曽野は盟友クライン孝子に中学生、出口確に成りすまさせ、(おそらく裁判を見越して)「ある神話の背景」の聖典化を企てた。  

 「正論」2003年9月号「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」で曽野は沖縄ノートの「人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐ろしい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく、ということに注意を向けるべきであろう。その人間が可能な限り早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる『沖縄戦記』のたぐいを満たしていることか」
「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。」との記載を非難し(事実を記載したに過ぎないのであるが)、「軍側の人たちは、飢えと危険の中で生きていたのだから、必ずや赤松元隊長に対して批判的な人もいたであろう。そのような恨みを持つ人が「真相」を話しやすいようにするには、大勢の中ではなく、一人ずつ会うようにする。」との嘘を記載した。


ユングは、オカルトに凝り、フロイドと袂を分かった非科学的な似非心理学者であるが、ユング派心理学から箱庭療法と呼ばれる鬱治療法が生まれた。 呪術は似非科学ではあるが、錬金術という中間項を経て近代科学の系譜に繋がる。レヴィ・ストロースは呪術の要素は言葉・道具・動作であるとした。動作と道具が合目的であれば、充分科学的になりうる。 しかし、共同主観の楼閣だけを積み上げる求心的な祭祀行動はプレゼンテーションにはなっても、科学にはなりえない。 象徴に過大な価値を見出すユングは祭祀優位の発想である。

曽野綾子とユングには親近性がある。曽野綾子にとって「ある神話の背景」は「えらいやっちゃ」のように人生をリセットする祭りだったのだろう。
それに対して最近の曽野の自慢話の内的原因はなにか。  

もちろん、成功したと自認する「ある神話の背景」を高みに持ち上げたいという動機だったことは間違いない。

しかし、途中から別の動機が加わった。will2008年1月号には曽野が足の手術後、自身の不始末で足を悪化させたと告白している。 鬱同様、怪我の悪化を心理的に克服することが求められるようになったのではないか。

しかし、曽野が期待していたような「沖縄ノート」の廃刊、ある神話の背景の聖典化には裁判は進まなかった。

沖縄を材料に自己を癒すことを試みた曽野の目論見は頓挫した。 このこと-足の怪我と裁判が自分の思う方向へ進展しないこと-が曽野の自慢話のエスカレートに繋がっているのではないか。 

新刊

下記URLにある書籍の中に吉浜日記の一部が掲載されています。吉浜日記は沖縄県立図書館に「久米島戦争記 : −乙酉年日記− 」として存在しています。また岩波書店の「世界(307号)1971年」にも収められているようです。
私はこの日誌は回想ではないと思います。というのは回想なら毎日、日付をつけることは出来ないと思うからです。まだ吉浜日記を全部読んではいないので断言は出来ませんが、数ヶ月に渡って、その日ごとに記録している事でもあるし、また私が読んできた沖縄戦記では日記を付けていた人でない限り、1日毎に戦記を書いている人はいないので、回想ではないと思うのです。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-168925-storytopic-90.html

阪神さん。
「吉浜日記」は何かの証言集に収録されているのでしょうか。それとも単独に刊行されているのでしょうか。
また、それは戦後になってからの「回想録」の可能性はないでしょうか?別部隊の下士官が、特攻秘密基地である慶良間の部隊の任務を知っていて、その島の住民も知っていたとは想像しにくいですが。

慶良間の特攻隊は知られていたか?

久米島農業会会長だった吉浜智改氏が戦時中に記録した「吉浜日記」には3月26日の記述中に「それにしても慶良間の特攻隊はどうしたことだろう。いまかいまかとまちし吉報も空襲二日目、もろくも敵上陸を許したとは信じがたい。」と書かれています。一村民だった吉浜氏が何故、慶良間の特攻隊について知っていたのでしょうか。また、慶良間に特攻隊がいる事を本島で知っていた住民はいたのでしょうか。鹿山は長話好き(偉そうに訓話する)だったので、うっかり話してしまったかもしれないし、そうでなければ慶良間から漁師がやってきて話をしていたのかもしれませんが、とても気になる事ですね。

テレビに山崎氏が

 記事本文とは関係ないことだが、本文を書きながら、10チャンネルテレビのワイドショウを見ていたら、作家としてナントカ文芸賞を取った水島ヒロというタレント(斉藤某)についてのコメント者として、山崎行太郎氏が出演していた。
 氏のブログを見てみると、やはり出演の予告記事が出ている。テレビで話していた事はブログに書いている事とほぼ同じ内容であった。
 平生テレビ等の偏向報道を強く批判している山崎氏であるが、メディアに出現して正論を述べる事は良いことだろう。テレビに出たから「文芸評論家」としての山崎氏の価値が高まったとは、無論思わないが、これで活動の幅が広がっていけば、多少の関わりを持った者としては嬉しく思う。私は、「大江・岩波裁判」に関連して、曽野綾子を完璧に批判している文章を読んで以来、氏の文芸評論家としての力量は敬服すべきものと思っている。

ニセ沖縄人・狼魔人やその取り巻き達のように、山崎氏を「売れない評論家」とからかっていたクズ供にはザマ見ろと言いたい。(笑)

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://keybowokinawan.blog54.fc2.com/tb.php/196-f6f10c65
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (2)
関連著作の紹介 (73)
渡嘉敷島関連 (19)
座間味・阿嘉関連 (19)
奄美その他 (38)
曽野綾子論 (35)
基地 (55)
政局 (45)
自論 (40)
STAP問題 (17)
慶良間全般 (1)

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。