2017-06

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民謡歌手・登川誠仁の言

 沖縄生まれの小生であるが、首都圏の、これまでの人生で経験したことのない猛暑の中で参っている。夏の暑さは、沖縄よりも内地のほうが酷いという事を今になって思い知らされている。
 という訳でブログの更新も久しぶりになった。沖縄語講座も締めを括らなければ成らない。

 前回まで三回沖縄語の拙い講釈をやってきたのだが、拙いながらも敢えて三回もやってきた訳は、前回言ったように、沖縄語と日本語は同系の言語であることを言いたかったからである。
 この程度の知識でも、普通の大和人にとっては、新鮮に思えることかもしれない。大和人のみならず、沖縄語(ウチナーグチ)を使わなくなった若い世代の沖縄人(ウチナーンチュ)にとっても珍しい解説になったのではないかと自負している。

          
               登川誠仁

 沖縄(本島)では、古い世代の人ほど、沖縄語(ウチナーグチ)が上手である事は言うまでもない。宮古・八重山・奄美でも、もちろん年寄りのほうが地元の方言を上手く使えることだろう。同じ年配でも、学校教育を十分に受けなかった人のほうが、私の経験では、沖縄語を上手く使っていると思える。その人たちは共通語・標準語(日本語)は上手く使えないのであるが、その分沖縄語のボキャブラリーは豊富だし、易しい語句を使っての表現が、我々戦後世代で上の学校教育を受けた者に比べて、惚れ惚れするほど上手いと思う。我々の世代はどうしても方言(ウチナーグチ)で会話しているつもりでも、随所に日本語が混じってきてしまう。副詞にそれが多く、「やっぱり」・「既に」・「絶対に」とかの日本語混じりなって、私には聞いてても耳ざわりが良くない。「やっぱり」=「チャーシン」、「既に」=「キッサ」の対応語があるのであるが、それを使う度合いは少なかった気がする。「絶対に」は適当な対応語が思いつかない。「カンナジ」=「必ず」で代用していたかも知れない。

 学校ではウチナーグチを使う事は禁じられて、ウチナーグチは汚い言葉だという観念を刷り込まれてしまっていた。社会全体がそうであったから、ウチナーグチの上手い人に誉めたつもりで、「貴方は共通語は上手くないけど、方言はとても上手いですね」などと言ったら、嫌味を言われた気分になって、たいそう怒ることだろう。それでも、年と供にウチナーグチを惜しむ雰囲気が沖縄社会に広がってきて、ウチナーグチに対する人の感情も変わってきているようだ。ウチナーグチの教室も出てきたという新聞記事もあった。
 それだけ沖縄社会から方言が消えて行きつつあるという事でもある。二年前座間味に行った時、島の70歳台と思しき年寄り同士が話している所を通りがかったので、その言葉に耳を傾けてみたら、日本語だったのでガッカリした記憶がある。だがこの前、朴寿南監督の「アリランの唄」上映会の時の「ぬちがふう」予告編の場面で、座間味の80歳台の戦時経験者同士がウチナーグチでしゃべっていたのを見て、ほっとした気分になった。

 野生生物に「絶滅危惧種」という分類があるが、日本各地の土着言語にもそういう事が言えるだろう。標準語の普及によって土地土地のオリジナル言語がどんどんと消えていったと思える。
 私は40年前、4年間長崎に居た事があるが、長崎市内で使われている方言は、私には解り難いものではなかった。アクセントは標準語からかけ離れていると思ったが、意味は最初から理解でるものだった。九州の方言は標準語とあまり離れてないのかなと思っていたのだが、ある時、郊外の山村へサイクリングしたとき、畑の側でしゃべっていた土地のおばさんたちの言葉を聞いて、それが全然解らないものである事を知って愕然とした記憶がある。長崎市内で使われている長崎弁は、かなり標準語化されたものだったという事である。40年後の今は、おそらく、その郊外でも、余所者が理解できない土地の言葉は消えているのではないかと想像できる。

 野生生物の「絶滅危惧種」なら、朱鷺(トキ)のように、人間が手厚い保護の手を差し伸べれば、何とか復活の可能性が在るものもある。しかし、開発によって自然条件が失われた今の日本では、人間が保護の手を緩めると、再び絶滅への危惧が生じてくるだろう。日本オオカミ日本カワウソのように保護の仕様もなく絶滅した種もある。
 これと同じように、日本各地の土着言語(方言)も社会条件の変化によって、どんどんと絶滅に向かっていると思われる。学校教育による方言撲滅運動(標準語励行)、テレビなどメディアの普及によって、標準語から遠い言語ほど絶滅に近いと想像できる。標準語から最も遠い方言は琉球諸島で使われている言語に違いない。だが、琉球は日本とは違う独立した文化圏であることを考えれば、それは方言というに相応しくなく、独立した言語というべきであり、それ故に他の日本のどの地域に比べても、それは長らく命脈を保ってきたと言えるだろう。
 4・50年前の話だが、私の故郷は宮古・八重山・奄美など、他島から移住居してきた人たちが多かった土地だが、その人たちは3年も住んでいれば、「ウチナーグチ」を自在に使えるようになったものである。一家族だけヤマトゥンチュもいたが、その一家も親子揃って、ウチナーンチュ相手に「ウチナーグチ」を使うようになっていた。それだけ地域社会にウチナーグチが生きていたから、ウチナーグチを使わない土地から移住してきた人たちでも、短期間にそれを会得したのだ。野生生物が絶滅が自然条件に左右されるように、土着言語の命脈がその土地の社会的条件に左右されると言えよう。

 翻って、今の沖縄社会の言語状況は如何なるものに成っているかと言えば、大雑把な観測であるが、50歳以下の者はウチナーグチを聞く事はできても、話す事は出来なくなっている。40歳以下の者は聞くことさえ出来なくなっていると思える。今子育ての段階にあるウチナーンチュは、自分の子供相手に「ウチナーグチ」を使うことは無いという事である。時々沖縄に帰省しても、街角で「ウチナーグチ」を聞く事は少なくなった。また、相手が年配者でも、初対面の人にウチナーグチで話しかける雰囲気が沖縄社会から消えている。巷で時には、ウチナーグチを聞く事があるが、それは工事関係者の年配者同士である場合が多い。今沖縄で一番聞く事が多い言葉は、若い世代が使う「ウチナーヤマトゥグチ」と呼ばれる、日本語の中に所々ウチナーグチの単語が混じった沖縄以外では通用しない聞くに堪えないものである。

 この沖縄社会の言語状況を見れば、「ウチナーグチ」は「絶滅危惧種」どころではなく、「絶滅確定種」と言うしかない。もちろんこれは沖縄だけの事でなく、長崎市内では標準語化された長崎弁しか残ってないように、各地の純粋方言は絶滅が確定していると言えるだろう。しかし、沖縄は日本と同系列の言語を有しているのだが独立した文化圏であり、沖縄語は日本語と方言の関係にあるとは言えない。純粋長崎弁が長崎県から消えるのとは、意味が違うのである。
 ウチナーグチで育った私は、これが消え行く運命にしかないと思うと、何ともやるせない気持ちに成る。今沖縄で、「ウチナーグチ」を知らなくても、生活に何の不自由もしない。だから、消え行く「ウチナーグチ」に対して、何の感慨も湧かないウチナーンチュがほとんどであろう。しかし、やはり、ウチナーンチュらしいウチナーンチュである民謡歌手・セイグァーこと登川誠仁は的確なことを言っている。彼の自伝の中で、次のように「ウチナーグチ」と「ウチナー唄」との関係ついて語っている。

「何か、目に見えない大切なものがなくなりつつある。その寂しさ、私は今の沖縄の歌を耳にしながら、焦りのようなものを感じています。
 その大きな一つが、先にも書いた沖縄の言葉「ウチナーロ」の衰退です。ウチナーロなくしてウチナーの歌はありえない。にもかかわらず沖縄の言葉を語りうたえる人が、日に日に少なくなっているのが現実です。
 標準語というのは、意味さえわかればいい。民謡とまるで関係がありません。
 面白いことに民謡をうたっている人でも、ふだん標準語を使い馴れている方の場合、とても沖縄の歌に聞こえないことがあります。形だけのクチナーロしかできないからです。古典音楽でも同じです。沖縄の歌が本当に上手な人は、みなさんおしなべて標準語がへタだと私は思います。」


 沖縄に限らず「民謡」というものは、唄う者の土着の味わいというものが肝心である。
 登川は「ふだん標準語を使い馴れている方の場合、とても沖縄の歌に聞こえないことがある」と、言っている。日常的にクチナーロを使っていない者が沖縄民謡を歌っても、沖縄的味わいが感じられないというのだ。これは民謡に関しては致命的である。民謡だけの問題ではなく、クチナーロをしゃべらないウチナーンチュはウチナーンチュとしての味わいが薄いという事に他ならないと、私も思う。
 近年、大和人でも沖縄民謡に打ち込み、三線の技術では本場の専門家を感心させるほどの修行者がたくさん出ている。しかし、沖縄民謡は「うた」の味わいが肝心要である。登川誠仁も嘉手苅林昌も三線の技術ではなく、唄の味わいで高い評価をされているのである。ウチナーグチを知らないヤマトゥンチュ修行者がコンクールで最高賞を取っても、沖縄的味わいが無いのであるから、価値は低いものと言わざるを得ない。同様にウチナーグチを使わない沖縄人の若手がどんなに上手く三線を弾いて歌っても価値は低いのだ。

 民謡に関してだけでなく、あらゆる沖縄の文化に関して、ウチナーグチの衰退は影響を及ぼしているのである。これはある意味で沖縄の植民地化が進行していて不可逆的な状況とも言ってよい。
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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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