2017-04

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

喜納昌吉の本

                    

 音楽家で民主党参議院議員・喜納昌吉の「沖縄の自己決定権」、5月末に発刊されたばかりなのだが、6月はじめに首相の座に着いた菅直人が、政権交代間もない副総理だった時に、自党の喜納昌吉に対して、「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」、「もう沖縄は独立したほうがいいよ」と言ったと、書かれているので、これが問題視されて、参院選後に内閣の火種になるかもしれないとされている。

 早速本屋で買ってきて読んでみた。全編に喜納昌吉の自己顕示欲がぷんぷん匂っていて、私には気持ちよく読み進める類の本ではない。しかし、その驕慢が彼の個性だから、それを全面否定は出来ない気もする。

 この本は、自分の所属政党であり、政権を取って間もない民主党の内部事情を暴露した書ではないが、普天間移設問題に関して、彼が見ている民主党内の相関関係がチラチラと書かれており、それは我々が想像している内容のものと大差ないもののようだ。政権発足時のトロイカ体制は、自民党政権が維持してきた「対米従属」の国家運営を転換する意欲があったそうだが、党内に多数存在する「対米従属」「官僚利権保護」を指向する勢力からの圧力、また日米安保マフィアからの攻撃、それを応援するマスコミの偏向報道によって、トロイカ体制は追い詰められて行っていると見ている。 
 喜納が自ら筆を取ったものでなく、3月の中旬から下旬に掛けてインタビューに答えたものを編集者がまとめて5月31日に発刊されたものである。まだ鳩山内閣が「日米合意」を決定する前の段階の話であり、喜納はまだ、鳩山内閣に期待を持っている段階である。だが、早くも政権交代間もない頃に、菅直人は喜納に脱落の姿勢を見せていたとの話である。それほど党の内外からの内閣への圧力が凄まじかったという事である。

 それにしても、菅がこんな早い段階で、このような発言をしていたという事は、その程度の政治家でしかなかったという事だろう。菅にとっては自分が総理大臣になることが、国民の幸福より重要な事に違いない。ましてや、沖縄の人間は純粋の日本人ではないと見ているに違いないから、普天間基地の県外・国外移設など、自分を犠牲にしてまで取り組む課題ではなかったのだ。「もう沖縄は独立したほうがいいよ」などと、うそぶくのは沖縄を冷淡に見ている証拠である。

 喜納は、小沢・鳩山は普天間については、真剣に「国外」「県外」移設を探っていると見ているが、党の内外に敵が多く、その実現は難しいものと思っていたようだ。平野・前原・岡田・北澤等は、鳩山・小沢への抵抗勢力であると見ている。だが、喜納は、自分が積極的にそれらの勢力と闘う姿勢は取ってないようだ。
 私は、彼は何のために国会議員に成ったのだろうか、という疑念を振り払えない。自分は宇宙の摂理を理解していて、何もかも見通しているのだという驕慢さが鼻に付く。所詮日本という国で、世俗の頂点に達したいだけではないのか、という疑惑が付いて回る。1ヵ月後には参院選の結果が出るのであるが、おそらく又議席を得るだろう。この本の発刊はその為の運動なのかもしれない。

 選挙後の1週間過ぎても、離党もせず、菅内閣や党幹部に対して、何の異議申し立てもしないのなら、我々沖縄人が彼を糾弾しなければならないのだが、それはあまりに侘しい事である。彼の所属する民主党政権が決定した「普天間の辺野古移設」という「日米合意」=「植民地政策」に対して、沖縄の同党責任者である喜納自身に、説明責任が生じている事に無自覚でいて欲しくないね。
スポンサーサイト

コメント

撹乱する島

先日、社会論評社の方と少しだけ話す機会がありました。集団自決の件が、沖縄・問いを立てる3「撹乱する島 ジェンダー的視点」(社会評論社2008.9.20)にもあると教えてもらいました。
読んでみたら、阿部小涼氏による「「集団自決」をめぐる証言の領域と行為遂行」という論考がありました。
曽野綾子と岡本恵徳氏の「神話」との向き合い方の落差等が書かれています。

発火しない手榴弾

花綵の海辺から(大江志乃夫)1990.3.10第1刷には大江氏による集団自決に利用された手榴弾の論考があります。単に叩くだけではダメで、口金をねじ切ってやらないと発火しない九一式手榴弾であったのではないかとの事です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1290476004.jpg.html

阪神さん。

情報ありがとうございます。

最高裁も、東大を出て司法資格を持つ官僚が支配するお役所でしかないと聞きます。何とか、原告側に勝利させたいというのが、権力組織としての意向だったのでしょう。
だが、海外への体面上、日本国の至宝と言うべきノーベル賞作家「大江健三郎」を、権力の下僕に過ぎない凡庸作家「曽野綾子」の前で、屈辱の泥にまみれさせる訳には行かないのでしょうね。

情報源を

阪神さん。
私のようなものには、最高裁の、大江・岩波裁判の情報が全く入ってきません。
下に書かれた情報のソースはどんな所か、教えて頂ければ在り難いです。差し障りがあれば、「管理者にだけ表示を許可する」をチェックしても良いですが。

最高裁判決間近の予感

大江岩波裁判ですが、主任裁判官の涌井紀夫氏が去年12月17日に死去されたそうなので、今年の1月15日に白木勇氏が担当裁判官になったそうです。
上告棄却の決定は通常3ヶ月以内に決定書が届くそうなので、既に2年も経ている事から、なさそうです。
原判決を棄却するつもりなら、口頭弁論を開くとの通知が来るそうですが、これもまだ来ていません。
よって、上告棄却の判決が口頭弁論を開かずに判決を下すと思われます。

和田さん。
朴寿南氏の文章は宮城初枝告発するものですが、私は、朴氏に倣って宮城初枝を追求しようと提案するためにHPにアップした訳でありません。むしろ逆です。
もう、ここでこの件を論議する事は棚上げにしませんか。決定的資料を我々が入手する事が不可能な情況では、堂々巡りにしかなりません。少なくとも朴氏が映画を公開するまで待つが良いでしょう。私の勘では、映画はあの文章に書いているような、強い告発調のものに成らない気がします。

阪神さん。
紹介してくれた下記のコピーは、私が持っている「潮」71.11月号のコピーそのままのものです。
私も数年前に読んだはずですが、タイトルに気を留めてませんでした。
考えてみると、証言のタイトルは編集者が決めるかも知れないですし、偶々曽野本のタイトルと一致したかもしれません。初枝が曽野の本を読んだかどうかという事を、我々が詮索する事は意味が無さそうです。
それにしても、「沖労協」も、安易な出版物を出したのですね。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665326.jpg.html

1972.1.のみ

沖縄県労働組合協議会が発行した「日本軍を告発する」が発刊された日付は「1972.1.」と表紙に書かれているだけでした。印刷所とか発行所などは一切書かれていませんでした。という事は、組合内部の小冊子として配布されたものなのかもしれませんね。ただ、巻頭の「発刊によせて」では「某月刊誌の「沖縄は日本兵に何をされたか」という特別企画から転載した」と1971年12月に書かれています。この某月刊誌とは「潮」1971年11月号だと思われます。よって宮城初枝さんの証言のタイトルは初枝さんが「諸君!」に影響されたかどうかは微妙なところですね。もっとも「潮」1971年11月号に初枝さんの証言が出ているかどうか不明なので、後で調査します。

文献・準備書面から論考したい

キー坊さん
せっかちな断定はやめましょう。 もともと、朴寿と宮里芳和の参考記事を掲載されたのはキー坊さんです。 普通、ホームページに掲載するということは論評してくれという意味になると思います。 ハシゴを外さないで下さい。

朴寿の論拠はわからないので、論評は差し控えます。宮里芳和氏は匿名であることが不満ですが、1945/3/25に梅沢は本部壕にいなかった趣旨の証言を集めたとされ、梅沢本人も(終日とは言っていないが)海岸に居たと語っている。 そして上陸前日等に海岸で作戦を練っていたことは、第一戦隊が小規模ながらも水際上陸阻止作戦を実行していることから確実でしょう。  そうなると、それらの匿名の証言を嘘と決めつけるわけにいかず検討の余地があります。

キー坊さんは【1049】で「資料は無くとも当時は、初枝が3.25の夜宮里盛秀ら供に梅澤隊長に面会した唯一の生存者という事が、村民に知られていたから長老たちは、調査官の前で「隊長の自決命令」を証言せよと初枝に言ったのではないですか?」といわれています。私はそうは思いません。  
梅沢隊長に面会した唯一の生存者として、村民に知られた時期はそう早くないと思います。「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」という趣旨がどのように流布したか、沖縄市町村会発行「地方自治法施行7周年記念誌」http://www.amazon.co.jp/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%B8%83%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%AA%8C-1955%E5%B9%B4-%E6%B2%96%E7%B8%84%E5%B8%82%E7%94%BA%E6%9D%91%E9%95%B7%E4%BC%9A/dp/B000JB0V9A  宮村盛永の「自叙伝」、厚生省へ提出された自治体からの申請書付属書類としての「座間味戦記」、宮城初枝の「家の光投稿文」の作成時期と文書の性格、また南方連絡事務所と厚生省本省職員及び地方自治体との関係、原告と被告の準備書面の比較などから、前記趣旨の最初の出所が宮城初枝でないことは説明できます。


毒婦、曽野綾子の「赤松隊と一人一人個別に会った」、「泛水途中に潮目が干潮に変わった」という嘘の証明のように完全無欠な証明は無理ですが、沖縄県史の知念実質副官証言からわかる「出撃直前先頭である富野のエンジン故障」の嘘、「潮」の大城良平記事と「ある神話の背景」のクリ船記載時期、「青い海」の写真からわかる「大町大佐が沖縄帰路にクリ船を捜した」という嘘の証明程度の確度で説明できます。  3回から5回ほどに分けて説明するつもりです。

まずいえるのは、原告でさえ原告第5準備書面http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/25/
において、「多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられるのです。」 さらに原告第7(口頭弁論としては8回)準備書面 http://minaki1.seesaa.net/article/37375160.html
において、「上記の経過から推測すると、幸延が厚生省に陳情を始めた以降、昭和29年から30年頃には、座間味村においては、自決者遺族が援護法給付を受けるため、村幹部、島の長老ら(琉球政府の関係者も含まれていたかもしれない)が、風説に過ぎなかった《梅澤命令説》を、村として公的に打ち出すことが継続的に検討計画されていたものと思われる。・・・・あるいは、当該実情調査以前にも、既に《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が座間味島及び渡嘉敷島内に流布していたと推測されるから」とあり、(反対解釈から)原告側として実情調査以前に座間味島民が、軍命令が出たと認識していたことを認めている。


この第原告7回準備書面は重要なので折に触れ引用することになります。 

 なお、歴史的事件について論評することは司法も認めていて、論評によって特定故人等の名誉が傷つくことになっても、論評に真実性が認められれば良いとされていることは判例で明らかであり、論評すべき論点を論評することは百人以上の自決者に対する、はなむけであると考えています。

末梢的論議

和田さん、重ね重ねのコメントをどうも。

>本当に公知の事実だったか
 とおっしゃっていますが、そう考えるのが自然であることに違いないでしょう?資料は無くとも当時は、初枝が3.25の夜宮里盛秀ら供に梅澤隊長に面会した唯一の生存者という事が、村民に知られていたから長老たちは、調査官の前で「隊長の自決命令」を証言せよと初枝に言ったのではないですか?
 何のために、長老は初枝に「はい」と言えと強いたのでしょうね。それとも、それさえ初枝の作り話とおっしゃるのでしょうか? もし、貴兄が本当にそうだ思われるのなら、その根拠となる「資料」を提示する義務が、貴兄の方にあると私は思うのですが、いかがしょうか?
 初枝の証言には、貴兄が下記におっしゃるように、矛盾点があることは否定できないです。

 (『母の遺したもの』)
○部壕で梅沢隊長に面会時始めて宮里盛秀から自決の話を聞いて「息もつまらんばかりに驚きました」と記載。
○梅沢隊長に「弾薬をください」と助役が言った。

 (本田靖春への証言)
○「これから本部の壕に自決の挨拶に行く。あんたも一緒に来なさい」
○「自決用に爆雷を分けてほしい」と申し出た。
 
 その他に面会の時間的な食い違いもあります。だが、それらが在るからといって、初枝の証言全体が「うそ」だと断定できるモノではないのではないでしょうか?貴方のおっしゃっている事は消極的推量というものではないですか?45.3.25の夜についての宮城初枝の証言が捏造によるものと確信されるなら、もっと積極的な推量をしなればならないと思います。上に記したような末梢的な記述の矛盾を突くのは消極的推量というものです。つまり誰もが納得できるほどの確たる資料、或いは現地を調査して歩いて、決め手になるほどの証言者を得られたというのが無ければなりません。

 もしかしたら、初枝は本部壕での宮里盛秀の言葉を聞く前に、「これから本部の壕に自決の挨拶に行く。あんたも一緒に来なさい」声を掛けられた時点で、「息もつまらんばかりに驚いた」かも知れません。そのくらいの記述の食い違いは、長い年月による記憶違いという程度のもので、証言全体が「捏造」だと決めてしまってよい材料にはなり得ません。

 朴寿南氏は、きっと、確信を得るに足る積極的資料を得たのでしょうね。だから、映画の製作報告に、初枝を告発する文章を書いたのでしょう。
 http://keybow49okinawan.web.fc2.com/ariran/nutigafu.html
来春完成のドキュメンタリー作品でそれを公開すると言ってます。しかし、もし、その内容が衆人を納得させるに足るものでない場合、朴氏の映像作家としての生命は尽きる事になるでしょう。

 同様に、資料がないからといって、或いは前後の証言に食い違いがあるからといって、自分からの「資料」を提示せず、宮城初枝をその腹違いの弟と同じ「誇大妄想狂」だとの憶測をめぐらすことは、匿名と言えども、和田さんの市井のネット言論人としての生命に関わるということを自覚していただきたいと、私は思います。

本当に公知の事実だったか(伏線)

http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html
上記が読みやすいので引用。被告準備書面などと同じ。 

  「宮城初枝の証言「25日に、道すがら助役に会うと、『これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい』と誘われた。この時点で、村人たちは、村幹部の命令によっ て忠魂碑の前に集まっていたが、梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』 と武器提供を断った」(『神戸新聞』1985年7月30日)」

  この部分は被告準備書面http://okinawasen.web5.jp/html/chisai/1_syomen_07.html  のとおり、被告側弁護団が「初枝氏が梅澤隊長のもとを訪れた際に村人たちが忠魂碑の前に集まっていた事実はなく、また、梅澤隊長が上記のように述べた事実がなかったことは、初枝氏の手記(甲B5)から明らかであり、記事に引用された初枝氏の話は記者の取材に対し初枝氏が述べたことを記載したものではないことが明らかである。」と神戸新聞記者の取材が誤りである根拠としている。

しかしながら、宮城初枝が本部壕で梅沢に会う以前にあらかじめ「道すがら助役に会うと、『これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい』と誘われた。」と本部壕に行く目的が自決用の武器をもらうことだったと語っていることは、http://keybow49okinawan.web.fc2.com/honda/sentaityou2.html  の本田靖春の取材で宮城初枝から聞いたとする「これから本部の壕に自決の挨拶に行く。あんたも一緒に来なさい」の延長線上にある。

神戸新聞の宮城初枝に対する取材は電話であるとはいえ、異なる時期と異なる相手に同じようなことを語っているとすれば、本田の取材・神戸新聞の取材とも聞き間違いではないのではないかと考えられる。あらかじめ自決の挨拶に行くとつげられた者が改めて本部壕でそのことを聞いて「息が詰まるほど驚く」ことはないのではなかろうか。

さらに、神戸新聞の前半部部分の取材が誤りでないとするならば、逆説的に神戸新聞中半の「村幹部の命令によって忠魂碑の前に集まっていたが」との宮城初枝証言の信憑性(そのように証言したとの事実であり、まだ事の真偽を詮議しているわけではない)も無碍に否定できないことになる。

この初枝氏が梅澤隊長のもとを訪れた際に村人たちが忠魂碑の前に集まっていたとの証言、実はhttp://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/c51d15bcb87bfd91052b23adc55a9c1d

京の京太郎さんの入手情報として「日本テレビ制作ドキュメント「戦後なき死ー自決の島1991」でも宮平氏は25日夜の忠魂碑の前での村長の話の内容を証言されていますが、今回の原告側採取の証言内容とは違います。村長が「食料を軍に提供し、足手まといにならないように日本人らしく自決しよう。軍から爆薬を貰える約束ができているから到着をまつように」との話。」と似ている。 

また最近の話ではあるが、藤岡監修宮平秀幸陳述書ではhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1475.html
「主に発言していたのは助役の宮里盛秀でした。盛秀は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と懇願しました。」と、やはり梅沢に会う前にあらかじめ忠魂碑前に人を集めたとの記述になっている。

多弁の宮平秀幸といえども1977/3/26以前に本部壕の話はしていない。 宮平秀幸は宮城初枝が語ったことをいくらか再構成して語った可能性があるのではないか。 宮城初枝は梅沢に対する物言いと他の者に対する証言を使い分けている印象を受けるがどうであろうか。

資料は必須要件でしょうか。

和田さん、重なるコメントを有難く思います。
>まず宮城初枝が最初に自決直前、役場の4人と伴に梅沢と面談していると他人に語ったのはいつなのでしょうか。私は以後と理解していますが、それ以前に自身が語っている資料があるのでしょうか。 <

と、仰るように、1945.3.25の夜の状景、つまり梅澤隊長が「自決命令」を村幹部らに言わなかったという事について語ったのは、1977/3月に娘・晴美に対してのものが最初でしょうね。それ以前の文書等の存否を私は知りません。
 45.3.25夜の出来事そのものについての資料も、文書としては在るかどうか私は不明です。しかし、s31年の調査の時、何ゆえに村の「長老」は宮城初枝に、隊長命令について「ハイ」と言えと、強要したのでしょうか? 初枝と戦時を供に行動した小嶺つるも大城澄江も、また直前に出会った宮平つるもそんな証言を求められたという資料、証言は見たことありません。ということは、3.25の夜、宮城初枝だけが助役らと供に梅澤隊長に面会したという事が、戦後の村民の間では周知の事実だったとされていたからではないでしょうか。だから、厚生省の要求する「隊長命令」に応ずるべく、梅澤隊長に面会した唯一の生存者である宮城初枝にそれを強要したのだ、という状況判断は資料は無くても妥当なもの、と言えるのではないでしょうか?

 ちなみに、座間味村の戦後の歴代村長を挙げておきます。田中登以前の村長が「長老」或いは、その周辺人物と私は推測してます。
          就任期         退任期
知念 繁信 昭和21年 5月 1日 昭和23年 - 月 - 日
松本 忠徳 昭和23年 3月 1日 昭和29年 - 月 - 日
山城 安市   昭和29年 9月21日 昭和37年9月20日
田中 登    昭和37年 9月21日 昭和63年10月3日
宮里正太郎 昭和63年10月30日 平成4年10月29日
與儀 九英 平成 4年10月30日 平成9年5月6日
仲村 三雄 平成 9年6月2日 平成21年5月31日
宮里 哲 平成21年6月1日 平成25年5月31日

追加

一つ抜けていました。宮城初江さんが4度目に証言したのが「これが日本軍だ(沖縄県教職員組合)1972.5.6発行」です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1287025437.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1287025485.jpg.html

基本に帰る

キー坊さん 
ここのところは、重要なので引用させて頂きます。

「村の幹部らの「集団自決」の寸前に、彼らに連れられて梅澤隊長に面会したのは事実に違いないです。だから、戦後、村の長老は唯一の生存者である彼女に「隊長自決命令」を証明させる必要性があるから、調査官の問いに対して、「ハイ」と言うように強要したのでしょう。」


宮城初枝の発言等に関して、分水嶺が3つあります。 厚生省調査時。「家の光」投稿。そして1977/3/26。

まず宮城初枝が最初に自決直前、役場の4人と伴に梅沢と面談していると他人に語ったのはいつなのでしょうか。私は1977/3/26以後と理解していますが、それ以前に自身が語っている資料があるのでしょうか。

そのことと密接に関連しますが、そのことを語っていない時期の宮城初枝に対して島民が「唯一の生存者である彼女」という認識を持つことがありうるのでしょうか。 阪神さんが見つけた「家の光」には、そのような内容はなかったように思いますが。      

村長等が、梅沢に直前に会っていることを認識していなければ、宮城初枝はその他大勢の証言者と何ら異なる意味を持たないわけです。 

  「母の遺したもの」によれば、宮平つる子と一緒にいた時、宮里盛秀その他3人と出会ったということなのですが、宮平つる子もそのように証言しているのでしょうか。 証言があるとして、その時間は午後4時それとも8時前後。  私は、まだそのような説明資料を読んだことはありません。 

もし、そのような資料があるのでしたら是非挙げてください。

初枝の動機

 和田さん、コメントをどうも。
>宮城初枝だけが島の長老から指示されたとか、自分が証言しなければ、島の人達が見殺しにされるとか、まるで自分の証言だけで援護法の適用が決まったかのような態度があったのだとしたら、それは弟の宮平秀幸と同じ誇大妄想の部類に思える。<

 宮城初枝は、村の幹部らの「集団自決」の寸前に、彼らに連れられて梅澤隊長に面会したのは事実に違いないです。だから、戦後、村の長老は唯一の生存者である彼女に「隊長自決命令」を証明させる必要性があるから、調査官の問いに対して、「ハイ」と言うように強要したのでしょう。(長老とは、田中登・山城安次郎だと、秀幸が言っていました。)
 初枝が自分で言う様に、それは自分で進んで行ったのではないでしょう。77年以降、娘・晴美に告白し、梅澤本人にも直接会って「事実」を打ち明けた動機は、弟・秀幸のような誇大妄想癖に拠るものとは思えません。あくまで、本人の素朴な誠実さの為せる業だと私は信じますね。ただ、梅澤と彼を取り巻く人脈には狡猾な軍国主義復活勢力がトグロを巻いていて、宮城親子はあまりに素朴すぎた嫌いがあり翻弄されてしまったという事ではないでしょうか。

 尚、援護法適用審査における要件としての「自決命令」の有無は、当時の厚生省においては、形式上のものに過ぎなかったと私は推測しています。

曽野綾子の嘘と宮城初枝

キー坊さん。 『その「神話」の背景』に挙げられた
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/harumi/yuigon.html
この中にも違和感を覚える記述があります。引用すると「 話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。
 沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから三年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。 -中略- その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。 母はいったん、証言方きない(ママ)と-断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。 それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決の個所にくると、いつも背中に「援護法」の"目"を意識せざるを得なかった。」
 

宮城初枝は1960年代の「家の光」投稿前に、座間味島島民はじめ一般人から座間味島唯一叉は最大の生き証人として認められていたわけではない。厚生省の調査団に対して宮城初枝は「島民の多くは隊長命令で自決したと言うがそうか」との趣旨に「はい」と答えたにすぎない。「家の光」の投稿でも梅沢隊長と本部壕で宮里盛秀等と会合した話は書いていない。  宮城初枝が家の光投稿以前に座間味の唯一の生き証人と自認していたとしてもそれは内心の問題に止まり、誰も認めてはいない。厚生省の調査時では、宮城初枝はその他大勢の証言者の一部に過ぎないはずである。   
それにしては、宮城初枝だけが島の長老から指示されたとか、自分が証言しなければ、島の人達が見殺しにされるとか、まるで自分の証言だけで援護法の適用が決まったかのような態度があったのだとしたら、それは弟の宮平秀幸と同じ誇大妄想の部類に思える。

1977年といえば「ある神話の背景」は発行済み。 正確に曽野綾子の「神話」導入部と援護法の関連を検証すると曽野綾子は援護法のために隊長命令を創作したなどと記載していないことがわかる。 

「戦争の様相」は、「戦闘概要」と同様、古波蔵元村長が中心になって編集されたことがわかっている。 そして、1968年週刊新潮により、「戦争の様相」が再発見された当時、「戦争の様相」はガリ版刷りで年代物と思われている。 「戦闘概要」は1953年発行とわかっている。 週刊新潮は無造作に(当時古波蔵村長とインタビューすればすぐ返答されたはず)戦争の様相を1950年発行と記し、星雅彦は「概要」より、「様相」が古いと考えた。 

にもかかわらず、曽野は「様相」は「概要」より後に書かれたと主張した。
その論理は、「鉄の暴風」が赤松の自決命令を記してそれを踏襲したのが「戦闘概要」であり、その後島民の意志により「戦争の様相」では赤松命令は削除された。よって、「鉄の暴風」の風説を根拠として赤松命令説が創作されたのであり、「鉄の暴風」が神話の根元だと「ある神話の背景」冒頭で主張し続けている。 これは動かすことの出来ない事実。


そうすると、最近の金魚の糞のような輩が援護法の適用を受けるために赤松命令説が創作されたと主張しているのとは違って、「ある神話の背景」では援護法適用が赤松命令説の根拠とはされていないことがわかる。  何故なら、渡嘉敷島民等の「戦闘概要」が編集された1953年は援護法適用の動きが出始めた頃で、援護法の適用が赤松命令説創作の動機で「戦闘概要」がその結果であるなら、その後1960年までに赤松命令説を撤回できる、するわけがない。  少なくも「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」が決定された1957年までは、さらにもっと強く赤松命令説を唱え続けなければならず、1960年代前半もとうてい削除できるものではないだろう。

 曽野の戦闘概要先行説は、実に「鉄の暴風」神話説を補強するための捏造であって、曽野自身、援護法適用過程と「様相」との関連性など考えることもなかった。   実際、「ある神話の背景」の中で曽野は赤松の部下である連下と谷本小次郎の回答として「軍が命令を出していないということをあらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです」と記載している。 援護金を動機とする軍命令神話など35年後の後出しジャンケンにすぎない。 実際には、曽野と赤松は大城良平などと図り、援護金と勲章を人質にして1980年代まで生きた古波藏が「様相」のほうが古いとしゃべることまで禁じたと思われる。援護金・勲章は島民を沈黙させるカードにすきなかった。 古波藏は1970/3/26前後の赤松等の言う「本当のこと」には何ら懸念を感じていない。(ある神話の背景記載)


話を元にもどす。  いずれにしても早い段階で援護金の拡大適用は決まっていた。 宮城初枝が援護金について多弁になるのは、「ある神話の背景」以後。  

宮城初枝には、弟同様、ものごとを針小棒大に語る癖があるように思える。   

初枝証言のズレ

 和田さん、コメントをどうも。

 宮城初枝の本田靖春への証言では、三月二十五日の午後四時くらいに宮里盛秀助役に呼び止められて、「これから本部の壕に自決の挨拶に行く。あんたも一緒に来なさい」と言われて、そのまま本部壕へ付いて行った、としています。
 私はこれを読んでいるので、初枝証言は宮里芳和氏コメントとは矛盾しないと思っていたのですが、やはり、「母の遺したもの」掲載の初枝手記とは時間帯が食い違っているのは確かです。そこでは「夜になって空襲がやんで」から、宮平つる子と会い、その後助役に呼び止められたと書いているので、宮里氏コメントと矛盾します。後、他の指摘された記述の食い違いも気になるところです。だが、どっちが事実なのか、本人が他界している現在では、我々には確かめにくい状況です。

 手記は亡くなる半年前の90年半ば頃に、娘の晴美に託したとしています。これらの矛盾点について、宮城晴美に問い合わせしてみたい処ですが、連絡先が今のところ調べられません。これから連絡先を探してから晴美に訊いてみたいと思います。何方か知っている方はお知らせください。

宮城初枝の本田靖春への証言

キー坊さん。本田靖春の「第一戦隊長の証言」挙げていたのですね。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/honda/sentaityou2.html

1988年付近で宮城初枝が本田靖春に証言しているので、宮城初枝の証言が梅沢にのみ向けられていたように書いたことは誤りであり、撤回します。
しかし、本田靖春への証言と宮城初枝の死後発表された「母の遺したもの」とは少なくとも3点ほど食い違いがあります。 食い違いの中身は微々たるものとは言い難いものです。
まず、「母の遺したもの」では、宮城初枝が本部壕に向かう宮里盛秀等に会った時刻は正確には記述されていないが、「夕刻、野村正次郎村長から、部落民にお米の配給があるとの連絡が、役場の伝令によって伝えられました。・・・・夜になって空襲は止みましたが、艦砲射撃は間断なく続いています。・・・・」という描写の後宮平つる子と会い、その後宮里盛秀に呼び止められたことになっている。 その場所が平和の塔付近だとすれば、本部壕との距離は1キロもないとみられる。そして伝令の宮平恵達が忠魂碑に集まるよう伝えるために走り回ったという情報は他の村民の証言では午後9時とか、10時である。 忠魂碑への集合時刻は午後10時から翌未明までの諸説がある。

「母の遺したもの」を読んだ限りでは、宮城初枝が宮里盛秀等に会った時刻を午後8時前後と判断することになる。ところが、本田康晴が宮城初枝から聞いた話では「初枝さんの記憶によれば、昭和二十年三月二十五日の午後四時くらいのことであったという。農業会の壕のあるところから下った、現在、平和の塔が建っている場所のもうちょっと下あたりで、宮里盛秀さんに呼びとめられた。」 午後4時は「母の遺したもの」に記載された情報、村民の伝令が回った情報、忠魂碑への集合時刻情報と比較して早すぎる。


次に「母の遺したもの」では宮城初枝は本部壕で梅沢隊長に面会時始めて宮里盛秀から自決の話を聞いて「息もつまらんばかりに驚きました」と記載している。   ところが、本田靖春との会話では「盛秀さんは、宮平正次郎収入役、玉城盛介座間味国民学校長、宮平恵達村役場書記の三人を伴っていて、初枝さんにこういった。
「これから本部の壕に自決の挨拶に行く。あんたも一緒に来なさい」」ということになっている。
これでは、息もつまらんばかりに驚いたという臨場感あふれる表現の信憑性が疑われるといわざるをえない。


最後に「母の遺したもの」では宮里盛秀は梅沢隊長に「弾薬をください」と語ったということだが、本田靖春との会話ではまず「自決用に爆雷を分けてほしい、と申し出た。」ことになっている。
爆雷を分けてほしいとは条件が揃わないと言い難いと思われる。  その条件とは、宮里盛秀等がその時点でマルレ出撃の見込みが無いことを知っており、実際不可能であったこと、爆雷を地雷等として戦闘用に使わないことを確信し、さらに爆雷が軽く浜から4人で1キロ以上容易に運べると誤信し、爆雷の扱いも簡単だと思っていることなど。

こうしてみると、「母の遺したもの」と宮城初枝の本田康晴への証言には大きな食い違いがあると判断せざるをえない。 細部ではなく、かなり重要な部分で言っていることが矛盾している。 
 
宮里芳和氏の調査と朴寿南氏の推論を無碍に否定することが出来なくなったと感じる。

72年1月

キー坊さんこんにちは。
>この証言集が発刊された年月日を知る事できないでしょうか?
本が手元に無いので日にちまではわかりませんが、沖縄県立図書館で検索したら72年1月でした。
原稿を募集してから編集作業を経て出版する事を考えると、宮城初枝さんが「ある神話の背景」を読む前に書いたかどうかは今のところ判別不能です。今度、本を再チェックしてみます。

自決神話の背景

 阪神さん。
 宮城初枝の72年の「日本軍を告発する(沖労協)」における証言のタイトルは「自決神話の背景」となっています。
 これは曽野の本とほぼ同じタイトルになっているのですが、この証言集が発刊された年月日を知る事できないでしょうか?『ある神話の背景』は『諸君!』に71'10月~72'9月掲載ですが。

初枝証言の契機

和田です。
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/hifun/news/20100816ddm001040060000c.html
今年8/16日付けの毎日新聞に上記の記事があります。
引用すると
「77年3月中旬。帰還して東京の会社に勤めていた野村さんに意外な招待状が届いた。「これで最後かもしれないので、仲間の兵隊さんを連れて来て下さい」。差出人は座間味村長。村が主催する三十三回忌の慰霊祭が迫っていた。「いつかは慰霊に行かねば」とずっと気にかけていたが、「島の人に恨まれているかも」と思うと足を運べないでいた。


「気の毒なことをしたよ」。元日本兵の野村盛明さんは、その言葉を繰り返した=埼玉県蕨市で、長谷川直亮撮影
 不安な気持ちを抱えながら、戦友約20人と32年ぶりに訪れた座間味。」
1977年3月26日の座間味慰霊の日に第一戦隊隊員約20名が出席した。

一方、阪神さん〈947〉によると、「「母の遺したもの」で77年3月26日に晴美さんが初枝さんから「命令は梅澤隊長ではなかった」と言われた事を裏付けるものは、77年の「青い海 第62号」です。これには晴美さんの記事が掲載されており、初枝さんから隊長命令の件を聞かされていたことがわかります。」とのことです。

つまり、第1戦隊戦隊員が始めて座間味の慰霊祭に参加した日の直後に命令は梅澤隊長ではなかったと語ったことになります。 宮城初枝の証言の契機が戦隊員の慰霊祭参加であることは間違いないと思います。 梅沢は来島しなかったが、初枝は隊員から、梅沢は生きているという情報を得たのではないでしょうか。


それはともかく、梅沢の本部壕の話には、不思議な点がいくつか存在する。第1に梅沢は赤松が1970年自決命令を否定して華々しく活動していた頃、それに乗じて自身の自決命令を否定する活動をしていないように思えること。 第2に梅沢と宮城初枝は再会までにやりとりがあったはずなのに、再会に同席した娘、晴美によればぎこちない再会としかいえない状態。 相手の身元がわからない状態で大阪からわざわざ沖縄まで来島するものなのか。  第3に、宮城初枝は本部壕の話を島民、とりわけ宮里盛秀の親族などに内密に私的に梅沢に話していること。(梅沢の神戸新聞や宮里盛秀の弟である宮村幸延等への働きかけにより、公然化してゆくが) そして、「母の遺したもの」は宮城初枝の死後、(宮城初枝の意志であるが)出版されること。 

 つまり、既に島民にも宮城初枝による本部壕の話が伝わっているのに、宮城初枝は島民に対して説明しようとする意志がないように感じられる。 

これらのことを整合的に説明できるに至っていないが、初枝証言の契機ははっきりしたようです。

初枝さんの証言

こんにちは。初枝さんの初証言の登場は63年4月号「家の光」です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665194.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665054.jpg.html

2度目は68年「悲劇の座間味島」です。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665236.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665250.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665263.jpg.html
以下、制限上頭にhを付けられないのでコピペしてみて下さい。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665275.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665286.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665299.jpg.html

3度目は72年「日本軍を告発する(沖労協)」です。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665326.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665344.jpg.html
ちなみに同書には大城良平氏の証言も出ています。それにしても、和田さんが言われるとおり、曽野綾子と赤松氏との会合写真にある赤松氏の正面に座っている人と似ていますね。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665368.jpg.html

以上までが初枝さんが自決命令が梅澤隊長から下されたと書いた証言です。
「母の遺したもの」で77年3月26日に晴美さんが初枝さんから「命令は梅澤隊長ではなかった」と言われた事を裏付けるものは、77年の「青い海 第62号」です。これには晴美さんの記事が掲載されており、初枝さんから隊長命令の件を聞かされていたことがわかります。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665397.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1278665413.jpg.html

ひとつの可能性

キー坊さん、阪神さん

宮城初枝に関する「事実」(宮城初枝が語ったとして宮城晴美が記録したことを含む)を整理します。

1 戦後しばらく、宮城初枝は1945/3/25に宮里盛秀と共に梅沢の壕に赴いたことを語っていない。 一方早くから梅沢自決命令説は一般に流布している。文献としても、「鉄の暴風」の他、1954年の「地方自治七周年」もある。

2 1950年代中盤、援護金に関し厚生省の係官が座間味島に調査に来島した時、宮城初枝は係官の「(他の)島民は軍の命令で自決が行われたと言っているが事実か。はいか、いいえで答えるように」という趣旨に対して「はい」とだけ答えたとされる。

3 1963年になって、宮城初枝は自分の意志で「家の光」に投稿し、「宮里盛秀と共に梅沢の壕に赴いたことを記載し、さらに梅沢の自決命令があった」と記載した。 自決命令の内容は、地方自治七周年記念誌や「鉄の暴風」に記載された内容とほとんど同じである。 一方この時期までに1と3に対して梅沢は反論しているのかどうか不明である。

4 いつの頃からか宮城初枝は、娘に梅沢の自決命令は聞いていないとの示唆を示すようになり、1982年「梅沢回想では別の年」になって宮城初枝は娘と共に梅沢に会い、「自分は会談の際、梅沢さんが自決命令を出したのを聞いていない」趣旨を話したとされる。  

  3、4までの時期において考慮すべきことがある。一つは、宮城初枝は自分を含め特定の三人だけに伝えている。いわば私的な告白の体裁であり、宮城初枝が他の島民に打ち分けたとか、マスコミに発表したという情報はない。

  もう一つは、宮城初枝の弟で話し好きとされ、自分も梅沢の壕の入り口に伝令として潜んでいたとされる宮平秀幸がこの時期までに宮城初枝に先立って概「事実」を語った形跡がなく、島民にも宮城初枝の告白が知れ渡ってからしゃべりだしたように思える(全面的な自信はない)こと。

5 1987年に梅沢は、宮里盛秀の弟である宮村幸延から詫び状を受け取ったとされる
この頃(4から5の間)までに座間味の島民は、梅沢・富村順一・神戸新聞などの情報源から宮城初枝の告白が知れ渡るようになったはずである。

 ところが、詫び状の存在が島民に知られるまで座間味の島民の間ではいぜんとして、梅沢命令説は揺るがなく宮城初枝の情報は無視されているようであった。

さらに、詫び状の存在が知られるようになっても座間味島の幹部を中心に梅沢等への反発は大きく、梅沢命令説が静まることはなかった。

この点、渡嘉敷で曽野綾子・赤松等が援護金と勲章の脅しにより、赤松命令説が沈静化したのと対照的である。

私は以上の経緯を不自然に感じていた。

私はこれまで渡嘉敷島では、伝令である松川の兄さんから「捕虜になるくらいなら自決せよ」との条件付き命令が伝わったと推定しているが、座間味の真相は不明というほかなかった。

さらに、山崎行太郎のサイトに伊礼蓉子の赤松に対する家主的好意と宮城初枝の梅沢に対する戦友的好意に通ずるものがあるという以下の指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080219/1203371786

少なくとも宮城初枝が4の時点までは、梅沢を憎んでいなかったことは、娘の著作からも感じられる。

もう一つ引っかかっているのが、宮城初枝自身が米軍に収容された際、宮城初枝が複数の島民から憎まれているとして、米軍に理由を問われ、別に隔離されたと語っていること。 自分には覚えがないと言うが、その後他の島民に問い合わせるようなこともないように思える。

以上のことに加え、今回の映画監督の発言は他国(在日?)の人であることから、的外れか、正鵠か、思考が飛躍している可能性があるものの、(確証はないものの)梅沢シンパだった宮城初枝が私的に梅沢を癒し助けた可能性も捨てきれないのではと思うようになった次第です。

ますますわからない

キー坊さん、そういう展開になっていたんですね。益々わからなくなってきました。

ぬちがふう(命の果報)

「アリランのうた」の続編と言うべき「ぬちがふう(命の果報)」が20年も前から制作に取り掛かっているそうです。
その予告編が上映されていたのですが、何とこれは、宮城親子への告発の映像となるかも知れません。朴寿南監督のメッセージをHPにアップしました。

http://keybow49okinawan.web.fc2.com/ariran/nutigafu.html

書籍も

キー坊さんこんにちは。
DVDがあったんですね。僕は山形のフィルムライブラリーでVHSで観ました。アリランのうたは本のほうがわかりやすいと思いますよ。私は慶良間の証言を今後も探し続けます。

DVD即買

 阪神さん。情報有難うございました。
 「アリランのうたーオキナワからの証言」上映会、何とか行けたので見てきました。
在日の映画監督が制作したドキュメンタリー映像なので、沖縄戦における韓国・朝鮮人(軍夫・慰安婦)体験者の生の言葉を見聞きできたという点で、価値ある作品だと思いました。
 でも、この映像は20年前のものなのですね。出演者の多くは、今はこの余を去っているかもしれませんね。もう20年も前から評判になっていることを私は知らず、少しばかり恥ずかしいです。

 「慶良間集団自決」の研究者の端くれとして、このDVDをゲットしたいと思って、休み時間に購買の申し込みをしに受け付けに行って、そこに居た品の良さそうな年配の女性に申し込みの旨を言ったら、1枚だけ直ぐ売っても良いのがあるといわれたので、即購入しました。(3.990円也) この値段での最初の販売らしい。後で判ったが、その年配女性が監督の朴寿南さんだったのです。少しばかり恐縮しました。

6月23日に貴重な映画

こんにちは。違う話題で御免なさい。
6月23日水曜日に下記映画が上映されます。
「アリランのうたーオキナワからの証言」は2年前に山形で観たのですが慶良間の戦闘に関係する人が複数インタビューに応じている映画です。僕は23日夜は仕事中なのでいけません。気付くのが遅かった、残念。
この映画は朝鮮人慰安婦に関する映画ということになっていますが、知らない人が観たら何の映画なのか、話があちこちに飛んでいるのでわからないでしょう。座間味で戦った梅澤少佐、岩橋少尉が出ていたり、「朝鮮人軍夫の沖縄日記」著者の金元栄(キム・ウォニョン)さん(本島の戦闘体験者)が出ていたり、渡嘉敷で慰安婦だったペ・ポンギさんが歩いている映像のみ数秒間映っていたり、渡嘉敷の知念朝睦氏が出ていたりします。慶良間の戦闘に興味のある人にとっては貴重な映画ですが、23日に明大に来る人達の殆どが「よくわからない」と思うのではないでしょうか。この映画は膨大なフィルムの中から編集しているそうなので、本には掲載されていても映画には出ていない宮城初枝さんの映像が保存されているかもしれませんね。しかし座間味で取材したのに、宮平秀幸氏が本にも映画にも出ていないのが不思議です。カットされたのかなw。

「沖縄敗戦65周年・映画と講演の夕べ」
沖縄・朝鮮・日本 ~従軍慰安婦・集団自決から辺野古へ

1,映画上映「アリランのうたーオキナワからの証言」

2,映画上映「ぬちがふう」(準予告編) 

3,講演 映画監督 朴寿南(パク・スナム)

会場 明治大学御茶ノ水校舎リバティタワー 地下1階1001教室
日時 2010年6月23日(木)午後6時開場 開演6時半 9時15分終了予定
資料代 1000円(学生:500円)
共催「ぬちがふう」製作上映事務局+現代史研究会
連絡先090-3216-0033

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://keybowokinawan.blog54.fc2.com/tb.php/174-ab8558fd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (2)
関連著作の紹介 (73)
渡嘉敷島関連 (19)
座間味・阿嘉関連 (19)
奄美その他 (38)
曽野綾子論 (35)
基地 (55)
政局 (45)
自論 (40)
STAP問題 (17)
慶良間全般 (1)

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。