2017-08

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

弱者・貧者へのヘイトスピーチ

 久しぶりに曽野綾子話題を書く。
産経新聞二月二十六日朝刊のコラムで、ハイチ地震の被害に関連して、「後進国」の被災者へ義援金・援助金を届ける事の困難さを書いているのであるが、これは巧妙な後進国の民への差別・侮蔑の文書である。つまりヘイトスピーチというものではないか。以下後半部分を引用する。(茶字)



小さな親切


 お巡りさんや軍隊なら、正確に届けてくれるでしょう。教会なら大丈夫ですね。貪しい人に対する援助を盗む人なんていないでしょう、などという善意に満ちた甘い言葉を聞き続けて数十年、私はとまどい続きである。多くの国では、閣僚が一番多額に盗む。貸しい人が貪しい人ヘの支援物資を残酷に奪う。一部ではあろうと、国連の機関もまた現地職員は特権階級で、国連の機能は人件費をまかなうために多く費やされ、「事業仕分け」など見たこともない。  あるとき、途上国に詳しい人と援助金を正確に被災者に渡すには、私たち自身が一㌦、十㌦、百㌦などの紙幣をハラマキに入れて現地に持っていくほかはない、と笑ったことがある。お婆さんが家を失って困っていると訴えたら、その場で百㌦を握らせる。少年が食べていない、と言ったら素早く十㌦紙幣を渡す。それ以外に確実に義援金が届く方法はほとんど考えられない。

 しかしこのやり方にも危険がある。百㌦札をもらった老婆は村の男に強奪される。偽の被災者が続出して、いかにも家族と家を失ったようなうそをつく。私たちが札束を持って現地に乗り込んだのだと分かれば、まず私たちが襲われて金を奪われる。
 義援金を集めるのはむしろ簡単だ。それから先の使い方のほうが至難の業だ。その方法が確立しているとは思われない現実を、日本人はもっと知るべきだろう。



 なるほど、曽野の言っている事には嘘は無さそうである。一般の読者にとっては、貧困にあえぐ被災地域の情況はそういうものだろう、という納得感はあろう。また全く無知である読者にとっては、勉強になる事ではある。そういう事柄にかけては、日本は数少ない規範力ある国柄である事を自己認識させる事にもなるだろう。

 しかし、
「お婆さんが家を失って困っていると訴えたら、その場で百㌦を握らせる。少年が食べていない、と言ったら素早く十㌦紙幣を渡す。」
 この具体的な描写法は、書かれた立場の人間にとっては、それが事実であるとしても、はなはだ屈辱的なものではないだろうか?ハイチでは30万人もの死者が出、怪我人はその何倍も出て25万人が家を失い、まだ復興の目途も付いていないという情況下でこんな文章がよく書けるものだという感じがする。
 膨大な被害を出したハイチの不幸については無関心なのだ。総じて曽野の弱者・貧者に対してのモノの言い方には、極めて冷淡なものがある。ハイチの人はどうせ産経のコラムなんか読まないだろうとこの文章を書いたのだろうが。

 曽野綾子は94年から05年まで9年半、「日本船舶振興会」(日本財団)の会長として、競艇売上金の数%を海外の貧国・弱小国の為に、援助・寄付を行うという仕事をしている。その時の経験から後進国では、その援助金が正常に使われる事が稀であることを知ったのだと思う。しかし、どうなのだろうか。確かに援助金が完全に、それを必要としている末端の民衆に届く事は稀だとしても、今回のコラムに書いているように、貧者の中の強者が弱者の物を奪い取ってしまう事とか、援助者が直接手渡しで紙幣を渡さなければ、末端の者(最終弱者)には援助金が届かない事が、すべての貧国では「通常」な事なのだろうか?

 経験者でなくとも、全てがそうではあるまいと思うのが常人の感覚だろう。そんな酷い事も多々起こるのが貧国の情況なのであるが、そんな情況が全てではないはずだ、という感覚も起こる。
 曽野綾子は、事実だけを的確に報告するような体裁をとって、実は、数ある事実の中から恣意的に取捨選択して、描いた対象に対する読者の侮蔑感を誘発するような文章操作を行う。それは彼女の常套手段である。
 今回の多大な災害となったハイチの震災そのものについては同情心を寄せること無くして、義援金の行方については悲観的な書き方をする事が、彼女の弱者への冷酷さ、そして常に権力の味方、強い者の代理人としての役割を露呈している。
 
 沖縄に対する態度も同様である。60年代初めに初めて沖縄に行く機会を得たが、作家として行き詰っていた曽野は、その時ここに自分の停滞状況を打開できる材料があるとの「直感」を得、「生贄の島」(週刊現代鈴木富夫氏解説文)を手始めとして、総仕上げの「ある神話の背景」に至るまで、「沖縄へのヘイトスピーチ」を開始した。それが大成功を収めて「保守論壇」の重鎮に収まったのである。曽野綾子の耳は悪魔の囁きを捕らえ、それを忠実に実行したのであった。

 曽野綾子は綿密な現地取材と、得られた事実を私情を混じえずに報告する事が、自分のノンフィクションの売りだとしているが、しかし、これまで検証してきたように、その取材と称するものは極めての恣意性に満ちたものである。外部及び貧者・弱者への冷酷な態度と文章的詐術によって、日本(大和)人の「低劣ナショナリズム」に受けたものでしかない。
スポンサーサイト

コメント

開ける視界

大町大佐の泛水中止命令神話(創作)により、朧げに見えかかっていたことが2つはっきりしてきた。
一つは敗戦直後から続いた赤松の心理状態である。

今ひとつは、大城良平が潮[1971年11月号]で語った刳り船発言の原型(曽野綾子が当初[ある神話の背景]に書こうとしたが止めてしまった内容)である。

一気に説明できないので何回かに分けて説明する。

[920]で引用した「3月25日・・・・夜ニ入リ来島ノ船舶隊司令部ヨリ入電アリ「第三戦隊ハ直ニ出撃敵艦線ノ目侵シ那覇港ニ転進スベシ」
この資料の「夜ニ入リ」とは、春分の日付近から考えて7時前後だろう。 あまり遅い時間だと、攻撃に遅れ早すぎる命令は、はやる兵を米軍機などに曝すことになりかねない。 実際、震洋の豊廣隊長の手記(なぜか以前全文が載せられたURLを見つけることができない)で本部から(複数回)出撃命令が出ている時間は日暮れ時である。

赤松は、本島や大町大佐からの出撃命令が遅い時間帯に行われたようにみせかけているが、軍理に反する。結果として沖縄司令部や大町大佐の軍事的資質をおとしめている。

大町大佐の泛水中止命令の創作は、曽野が安里巡査を取材して[(伝令を出したはずだが)伝令が帰ってこないうちに自決が始まった]という証言と似ている。
通常の常識からいえば、どちらもありえないことである。緊迫した戦況の中で大町大佐に自前の、また第二戦隊の無線もありながらマルレが無傷の第三戦隊に何らの指示も与えず、沖縄に帰るというのは事実ならあまりにも無責任極まることであり、日本軍の継戦意志を疑わせるものである。

伝令を出しながら、伝達の届くのを待たずして自決が始まったというのも特定の条件が重ならないと起こりえないことである。金城武則は、松川の兄さんの名前を隠している。 実際には松川の兄さんが命令を受領し、伝達した可能性が強い。 特定の条件はテレビで見ている。9.11倒壊直前のニューヨークのツインビルから飛び降りる多数の人がいた。  これに似た状況は1945/3/28午後6時頃、午後2時前後に自決した渡嘉敷部落の死体を前に軍民共に全滅したと思い込んだ阿波連部落の先行出発組に起きる。留利加波方面から徐々に近づく米軍の迫撃砲の陰に怯え、自決を始めた。 その日の3時頃米軍の迫撃砲が直撃した時、村民は自決場から逃げ出している。

  また、同年3月25日午後10時頃、座間味島の忠魂碑前に集結した座間味島民は艦砲の直撃を受けて四散したのである。 そのとき、座間味島民は少なくとも自決命令が出たと思っていたことは原告でさえ認めている事実だ。それにもかかわらず、四散し逃げ出したのは事実である。

この3日違いの似た事例によっても、人間は突然の恐怖からは逃げだし、徐々に迫る絶体絶命の境地からは[こんな救いのない結末が確実に訪れることから生じる恐怖感の果てに死ぬことは耐えられない。いっそのことその前に自分から死んでしまおう]と考える者も出てくるものなのだ。 曽野綾子は富野を通じて[死ぬのがこわいから死ぬなどということがあるでしょうか]と言わせている。

これこそ、人間が動物的本能と想像能力を併せ持つ存在であることを理解しないあさはかな作家失格であるのか、もしくは(この可能性のほうが強いが)曽野一流の人だましといえよう。

中には、古波蔵村長の万歳音頭を聞かなかったという渡嘉敷島民の証言もある。 しかし、第一自決場を訪れたすべての人が指摘するようにフィジガーは狭く、集まるといっても谷川の両岸2列に長蛇を形成して集まるほかない。ざわついていれば、村長の音頭を聞けなかった者がいて当然なのだ。そのような状況の中で複数の渡嘉敷島民が村長の音頭を聞いたと証言している。 音頭はあった。そのような余裕があったのだ。 

午後2時頃始まった自決は、動物的本能と想像能力に基づいたものではなかった。そこには理性が働く余地があり、当然伝令が帰るのを待って当然なのだ。

阿波連に引き返した住民

「沖縄海軍物語(社団法人沖縄海友会)1985発行」に阿波連住民の証言があります。恩納川まで来てから引き返した住民がいた(何名かは不明)事がわかります。
引き返した後「仕方がない場合は婦女子を中心に輪を作り全員自決」という箇所が引っかかります。
手榴弾で自決するつもりだったのでしょうか。
そうならこの時、村の責任者が手榴弾を所持していた可能性があるのではないでしょうか。
また、地図は東川がイッピーガーラとなっていたり、自決の地、赤松隊陣地がずれていたりします。ただ、今まで知らなかったルリ川が示されています。
なお、阿波連の地で集団自決があったとは書かれていませんので、自決はなかったと考えてよいのではないでしょうか。金城教授も阿波連の方ですが、阿波連で自決があったとは言っていませんからね。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276697964.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276697979.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276697995.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276698018.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276698029.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276698092.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276698117.jpg.html

富山真順氏の従弟の証言

「孫たちへの証言 第20集」(新風書房)に富山真順氏の従弟である兼島秀光氏の証言が掲載されています。兼島氏は富山氏から手榴弾の件を聞いて証言しています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276696907.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276696927.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276696944.jpg.html

梅澤氏の言う週刊誌は実在しない?

下記にスキャンしたものは「太平洋戦史文献解題(井門寛)」(1971年8月新人物往来社)です。
国会図書館に勤務する井門氏がこつこつと戦争に関する本や雑誌を調べて発行したものです。
昭和33年春に梅澤氏が衝撃を受け、かつ周囲にばれて息子がぐれる原因となった集団自決命令の記事があるかな、と思ってみましたがありませんでした。こればかりはいまだに謎の記事です。
余談ですが、某所にて座間味にいた朝鮮人慰安婦6人の写真を見ました。
梅澤氏と一緒にいた池上トミヨがこの6人の中にいるはずです。
まあどうでもいい話ですが、梅澤氏が結婚してあげなかったのはどうしてなのかなと思いながら写真を見つめました。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276679257.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276679270.jpg.html

渡嘉敷島の住民証言

戦時体験記録(北谷町)に大城トミさんの証言がありました。親戚を日本軍に殺されています。それゆえ日本兵は根性が腐っていたと言っています。文中の「メーヤマ(前の山の意?)」は北山の事だと思われます。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276677032.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1276677047.jpg.html

成田龍一の論考

貶めの代価で得られるものとは

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305202
上記赤松の名が記された「第三戦隊記録」6枚目に「大町大佐が座間味島から渡嘉敷へ橇船で向かった」趣旨のことが記載されている。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=1405&file=%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%94%AF%E3%81%88%EF%BC%96.jpg
また、上記「国の支え」で梅沢は、「大町大佐が座間味から直接渡嘉敷へ渡った」ように口述している。

大町大佐が阿嘉島ではなく、座間味から直接渡嘉敷へ渡ったというのは史実ではない。それにもかかわらず、座間味と渡嘉敷の戦隊長2人が揃って史実ではないことを語るのは何故か。 どちらが先に言い出したことなのか。  ちょっと考えると、降伏後、収容所で赤松が梅沢から聞いた可能性が浮かぶ。
しかし、赤松は大町大佐本人ではなくとも、三池少佐、石田四郎から渡海の経緯を聞く長い時間があった。  梅沢は、神戸新聞の中井記者や富村順一の話を潤色する傾向がある。 梅沢は裁判前にまともに「沖縄ノート」を研究することも、戦記を読み直したりして、自分の体験を整理することもなかったようにみえる。 梅沢はおそらく、戦争で記憶障害になっている可能性が高い。2中隊への米軍斬り込み命令を下していないという梅沢の証言は軍規に違反して2中隊が斬り込みをしでかしたということで、ありそうにない。 

私は、可能性としては大町大佐の座間味から渡嘉敷への渡航は赤松が言い出したと思う。 赤松は、他にも安里巡査を島民に仕立てて「島民から軍の近くに行きたい」との要請があったようにみせかけるなど芝居がうまい。


赤松はみせかけと抱き込みの名人である。 皆本から、「某氏」と言われた中隊長のいる第1中隊で赤松の歴史改竄に協力した遠藤幸雄は旭沢撤退の時、第1中隊主力から離れて、赤松と行動を共にしている。それが縁となって遠藤は赤松の側近となり、第1中隊でただ一人赤松の歴史改竄に力を貸した。 

阿波連の約半数の島民には、遅れて出発し、不眠不休の第三戦隊が蛸壺で眠っている時間帯に本部前に到着したと思われる、無傷の一団があった。 これらの集団に属する者は自決現場に居合わせた生き残りの島民とは意識も利害関係も異なる。 援護金・勲章を取り上げることをほのめかし、施設建設等の利権をちらつかせ、島民を分断、抱き込むことは赤松の得意分野だろう。 


いってみれば、赤松は小スターリンだ。 冷酷さと剽窃の皆本は、さしずめスターリン側近、ベリアだろうか。 そして、あばずれ・嘘の巨塊、曽野綾子は赤松・皆本と共にトロイカを形成し、(実質的に日本軍の組織では考えられない破廉恥さで)大町大佐を情勢判断も決断も出来ない無能な司令官であると、ちくり、貶めた。  

彼・彼女らの言い分は「大町大佐には悪いが、緊迫した事態にもかかわらず、無傷の第三戦隊が出撃出来なかったという事実は恥である。恥を隠すには、大町大佐の沖縄からの出航が緊急事態を受けてのものではなく、前々からの計画に基づくスケジュール消化であるようにみせかける必要がある。無線機や通信隊のことは隠す。大町大佐の(無条件)転進命令は隠し、替わりに泛水中止命令を捏造する。そうすれば、沖縄の日本軍全体の無能性を隠せるのだ。私達は決して第三戦隊の無能を隠すために歴史を捏造するのではない。」ということであろう。

大町大佐への一貫した嘘

キー坊さん、エレミヤさん
かの方は、私にプログがあろうが、あるまいが私をプログに引きこまらせることが目的なのです。自分のプログに書き込めば、他のプログで何か発言してもよろしいというのではありません。黙らせようとしているだけです。 

ご本人は、あまり材料もなく狼魔人のプログの「(大町大佐が渡嘉敷から沖縄本島へ渡航する際)日本軍は島民の所有する漁船を使用するにも気を遣っていたのだ」という主張に反対のコメントを入れるなどしています。反論の根拠が薄いので言い合いにしかなっていません。

 私はまだその時は漁船が鰹船であり、とっくに徴用され米軍に破壊されていたこと、また青い海の写真にある曽野綾子と赤松の会合に大城良平が参加していることと大城の「潮1971/11月号」のクリ船発言を結びつけることに気がつかなかったため狼魔人に反論する気にはなりませんでした。

かの方は私を「ロングランになるだろう」と宣言して「橇船・クリ船」論議に巻き込みながら、途中で事実上私に書き込みできないようにしました。(抗議したら最終的に別のコメント欄を用意してくれました。) 

私のクリ船の話の目的は、大町大佐が出撃準備のため慶良間にやってきたことの説明でしかありません。 そのために15人全員が大名行列をしていないことを説明しました。 大町大佐は座間味島から阿嘉島へ移動した時はわずか2隻のクリ船でした。座間味でも阿嘉島でもわずか一日で島民に世界一大きいクリ船を2隻造らせることはできません。 次の布石として大町大佐が来島して泛水中止命令をしたことはありえないことを説明するため無線機の存在が重要なわけです。


http://plaza.rakuten.co.jp/bosc1945/diary/200506270000/
上記原告応援団らしきサイトの最後のほうに「特攻艇の出撃は軍司令官の決定により軍船舶隊長が命令し戦隊長が実行する」とある。

 三段階論ごもっとも。

ところが赤松や曽野綾子の語りでは3工程の内、軍船舶隊長の命令が抜け落ちている。 こんな正面突破のトリックでごまかそうとするのが赤松・曽野だが、船舶隊長の命令がないのであれば、船舶隊長が物理的に命令出来ない、連絡(通信)できない状態にあったことにしないと都合が悪い。


 そのために赤松等の復員局提出文書や「ある神話の背景」には大町大佐一行に多くの通信兵がいた、無線機も携帯していたことを隠していた。 

大町大佐に通信手段がありながら、転進命令(条件付きではない)を下さなかったということであれば、大町大佐は軍事的に無能な軍人ということになる。 普通に考えて任務放棄。 

さすがに、赤松・曽野としてもそのように帝国軍人としての大町大佐を真正面から貶めるわけにはいかなかったので大町大佐の通信手段については隠しとおした。  大町大佐はマルレにて阿嘉島から沖縄本島へ向かった(失敗した)わけだが後に続いたクリ船2隻に乗船した軍人は渡嘉敷から沖縄本島へ向かうマルレに乗船しなかった。 元もと、クリ船は沖縄ではなく渡嘉敷が目的地であった可能性がある。

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130

上記に記された頁数8pから9pにかけて「1945/3/20と21日を休養日とした」旨記載する。
ところが、「ある神話の背景」の記載では「3月21日、22日の両日は、久しぶりの休暇をとることになった。」となっている。 上記「陣中日誌」は「ある神話の背景」の「陣中日誌」(タイプ印刷したもの)のようにみえる。

そうであれば、わずか1日のズレとはいえ、曽野綾子の意図は明らかである。慶留間島で自決命令が出された21日など緊迫した情勢を隠すために慶良間に米軍の爆撃が行われた前日まで、渡嘉敷はのどかな雰囲気であったと事実を改竄したのである。

国立歴史民俗博物館

一橋大学の中野聡先生が撮影された沖縄戦の展示の写真です。全166枚あるので写真の上をクリックすればその他の写真も見れます。
http://picasaweb.google.co.jp/stnakano/Rekishiminpaku20100406?authkey=Gv1sRgCJCl0piV64K5qwE&feat=flashalbum#5459421086254777810

>とう思(漢字変換できませんでした)さん
いや、べつに和田さんに対して私は、批判しようとは思ってないですよ。むしろ、いろいろ調べられている方だと思いますよ。

サバニ特攻隊

「生きとってよかった(語りつぐ戦争体験2)」(日本児童文学者協会)草土文化 に渡嘉敷島での集団自決の話が3件出ています。
新垣ウシさんの証言では、サバニに爆弾を積み、軍人でなく村の人が乗っていたとあります。この戦法は焼け石に水で何の役にもたたなかったそうです。
また徳田きよ氏が「島尻郡誌」や「青い海」の33回忌特集号を参照し、かつ渡嘉敷島の島民への聞き取り調査(島民は何も語らなかった)を元に書いた文章もあります。その中に防衛隊員70人余り、男女青年団員約100人、婦人会員40人でマルレ100隻を退避壕から引き出したと書いてありました。

格納壕の間隔

戦時体験記録(北谷町)にマルレの壕について下記の証言が書かれていました。
・白比川沿いにはマルレを格納する壕が約20m間隔で掘ってあった。
・60~70箇所はあった。
・マルレの移動の為にトロッコが走るような線路が敷設されていた。
・線路は沖のほうまで延びていた。
・マルレには車輪をつけて自力で出せるようにするつもりだったが、作業が間に合わず、防衛隊員が「わっしょい、わっしょい」と大声で掛け声をかけながら海まで出していた。

>エレミヤ 様
あの方がブログを持っていないと断じるのは、些か早計でしょう。
個人的には肯けない点もありますが、沖縄とは若干異なった視点を盛り込まれている点で、新規性があると思います。

>和田さん
一応いっておくと、ブログはアメーバかはてなダイアリーのホームページにアクセスすれば簡単に作れますよ。

来島泛水中止神話

おそらく1年以内に最高裁判決が下され、それから半年ほどすれば原告周辺のネット右翼は他の獲物を求めて「集団自決」の話題は閑散となると思われる。 その間に大きな材料が現れなければなおさらそうなる。 

今少し真実に迫るとともに靖国思想の核心を突きたい。

渡嘉敷から沖縄本島へ渡航中の2船艇に無線があったかどうかは、実は枝葉の問題もしくは、1つの補強材料であり、曽野綾子などが主張する大町大佐の泛水中止命令のせいで第三戦隊の出撃が遅れたということが事実かどうかが問題なのである。

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305192

上記の「海上挺進基地第三大隊戦闘概要」5枚目「3月25日・・・・夜ニ入リ来島ノ船舶隊司令部ヨリ入電アリ「第三戦隊ハ直ニ出撃敵艦線ノ目侵シテ那覇港ニ転進スベシ」ト 転進ノ困難ナルヲ知り止ムナケレバ独断突撃セント出撃準備ヲナス・・・・第二、第三中隊ハ準備完了約六十隻ヲ泛水ス」  

「時ニ船舶団長大町大佐(先ニ慶良間列島ノ視察ニ来ラレ空襲開始ノ為来島、帰還シ得ザリシ者)来リ第三戦隊ノミ出撃スルハ企図ヲ暴露シ他ノ戦隊ノ為ニ影響多キコト、出撃準備ノ遅レタル為天明近キヲ理由ニ艇ノ引揚ゲヲ命ゼラレシモ」

前段の夜に入り来島した人物は大町大佐と考えられる。 第三大隊とは2枚目の記述者記録などから整備隊を含む旧基地隊残存部隊とわかる。入電を受け取ったのが第三戦隊なのか、第三大隊だったのか。 大隊は戦隊の支援業務を任務としているので通信業務も担っていたと思われる。  

事実
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130
上記は1970/8/15谷本小次郎名が記載されていることから、印刷された谷本版陣中日誌と思われる。 そこの8頁には、二月中旬勤務隊が三号無線1、五号無線4を保有していたことが記載されている。この記述の数は14頁の28日の記載で27日未明後無線の現有数と破壊数を足した数より1つ多い。それがどうなっていたのかは別に検討を要する。

 しかし、いずれにしても、沖縄本島や大町大佐・第1、第2戦隊からの通信を受信したのは第三戦隊本隊ではなく、傘下の勤務隊だった。 従って、来島の船舶司令部より入電は赤松からの伝聞ではなく、勤務隊自体の情報であったといえる。

 そこで、「ある神話の背景」などがいう沖縄の司令部からの条件付き転進命令との関係が問題となる。

条件付き転進命令がなかったと考えるのは行き過ぎと思う。本島司令部は第1~第3戦隊からの無線情報及び大町大佐の通信隊からの情報を基に条件付き転進命令を出した可能性が強い。

 次に「情況有利ならざる時」という条件を誰が判断するのかという問題になる。本島司令部では情況を的確に叉機を逸することなく判断することが出来ないため、現地に近い者に判断を委ねているのである。 そうすると、慶良間列島に大町大佐がいる以上、戦隊長ではなく大町大佐が判断すべき事になる。 大町大佐が第三戦隊に(条件付き転進命令ではなく)転進を命令したとする勤務隊の情報は、情報源、蓋然性・整合性すべて揃った情報である。 

阿嘉島から本島へ渡航直前、船艇が無償という第三戦隊の情報を受け、大町大佐が残務の1つとして命令を出したという自然で当然の流れである。

なお、大町大佐が渡嘉敷の第三戦隊に転進命令を発信した時刻は、大町大佐が第二戦隊の船艇泛水準備を見守っている頃となる。従って、仮に大町大佐が自前の無線機をすべて渡嘉敷島に持ち込んでいたような事実があったとしても、大町大佐は第二戦隊の無線機で赤松に転進命令を伝えることが可能であった。第二戦隊の無線機はこの時点で破壊されていない。


後段の記述には逡巡がみられる。曖昧な日本語としても結果を先に記載し、原因を後に書く書き方は調子が変である。 本来は、原因を先に記述するのが普通だろう。つまり、出撃準備が遅れたため、天明近くになり、今出撃するのは企図を暴露し、他の戦隊に影響を与えるため云々となるはずである。

このような表現となったのは、赤松が命令後直ちに全艇の出撃命令を出さず1/3出撃準備に止めたことが出撃失敗の大きな原因ではあるが、泛水を担う勤務隊としても責任の一端があるため、(勤務隊としても気分としては、泛水の遅れを大町大佐にかぶせ、元軍人の復員局に言い訳したい感情を隠せない)このような、ぬえ的表現になったものと思われる。

いずれにしても、赤松・皆本・曽野がいうような大町大佐の泛水中止命令などなかった。

 赤松等は出撃失敗の原因が発覚するのを恐れ、大町大佐や三池少佐の死を最大限に利用し、大町大佐の(初期)泛水中止神話を作り上げたのである。

「敵(曽野)の敵は味方」では無いですが

 私がこのブログを立ち上げた目的は、もちろんタイトルにあるように、「ある神話の背景」の曽野綾子を追及する事にあります。
 だが、「普天間移設」という時事的な重大問題に、現時点の私の関心は向けられざるを得ず、詳細な事柄に及ぶ皆さんのコメントに付いて行きがたい情況です。

 「ある神話の背景」の欺瞞性追及に関しては、ni0615さん、和田さん、阪神さん、という三名の研究者が常連の投稿者として、コメント下さっていることは心強く、有りがたいことです。
 私も曽野綾子に対する怨念は人一倍強いものがありますが、私以上に強いものをお持ちの大和人の方が三人も居ることに元気付けらています。

 振り返れば、山崎行太郎ブログで、コメント欄に熱心なコメントを投稿し、お互いが意見や情報を交換し合ったのが、私がブログを立ち上げる切っ掛けだったと思います。 中でも和田さんの、細部に至るまでの細かい検索、分析には敬服しています。
 ですがやはり、前にも勧めましたが、和田さんにはご自分のブログを立ち上げる事をお勧めします。自分で意見の発表場を持つことは多少のエネルギーを必要としますが、和田さん程度の研究資料があれば難しいことでないと思います。最初から立派な体裁のブログを作る必要ないでしょう。スタートしてから徐々に改善して行けばいいのではないですか。それが無いから、ni0615さんは苦言を呈されているのだと思いますが。

 立ち上げて公表すれば、関心を持って見る人は少なくとも3人は居るわけです。この三人からは記事に同調するにしても反論するにしても、確実コメントが期待できます。私のコメント欄に自論を書き込んでも、私が曽野綾子から遠ざかっている現時点では、関心を持って見る人は我々3人だけだと思います。
 ぜひ自主的な自論発表の場を持っていただきたいと思います。いずれ私も曽野綾子批判を再開しますが、和田さんがその場を作ってくだされば、今は助かります。

>阪神さん。
この江崎の昔の本、私は国会図書館などで探していたのですが、見つからなかったのですよ。内容はまともな物ではありそうですね。
 思えば、この本が書かれた当時は、私の町でもつむじ風のようにねずみ講が発生して、地域に荒廃感が広がった時期だったです。

Re909

「その時の通信文は「船舶団長行方不明」だったかもしれません。
仮にそうだとしても、その通信を受けた側が「死亡」の意味に解したでしょう。とうぜん、それによって指揮官は交代します。 」

これは私の意見ではないですね。 これもひとつの推測ではありませんか。 出発して半日足らずの行方不明情報を下部まで流し、ただちに指揮官交代 ?

そうだとすると、古賀連合艦隊長官の場合と全然違うのですが。

行方不明情報はどこからですか。 赤松隊からですか。

沖縄戦で陣中日誌と称するもののほとんどは米軍に没収されたか、焼却したかで後から記憶に頼って旧軍関係者に提出したものです。 それも一時資料ではありません。

私は通信以外にも傍証は示しました。

nio615さんは、何の傍証もなく私が山崎行太郎氏の助手を務めたなどと公然と語りましたが、根も葉もない嘘です。

それについては、非公式に伝えましたが、未だに一片の謝罪もありませんね。

ろーま人は香港にいた?

こんにちは。まーま人がかつて出版した本です。
アメリカから来たいんちきマルチ商法への警告本で、嫌がらせ覚悟で告発したかなりまともな内容でした。
あとがきによると、この当時、ろーま人は香港にいたようです。
「著書、訳書多数」となっていますが、著書はこの本しかみつかりませんでしたw。
今ではすっかりインチキ言論屋に成り下がったのは、ミイラ取りがミイラになったのでしょう。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1273563095.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1273563108.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1273563130.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1273563119.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1273563139.jpg.html

寄生家にして妄想家である和田さんへ

和田さん

(一)
他人のサイトを引用するときは、正しいURLと正しい題名を記してください。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/873.html
野村正起
『沖縄戦負兵日記』
1974年10月15日 第1刷発行
1978年 8月15日 第2刷発行
太平出版社

II 根差部―「優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(引用開始)
三月二七日(火)晴 やや冷たい
昼ごろ、本部通信小隊より船舶団長戦死の報が伝えられてきた。

その報によれば、船舶団長大町大佐は、一昨日の三月二五日、慶良間列島内の渡嘉敷島守備隊(海上挺身第三戦隊および海上挺身基地隊)基地を巡視中、慶良間列島攻略を企図するアメリカ機動部隊の奇襲に遭遇。余儀なく同島守備隊を指揮して、アメリカ機動部隊邀撃の機を待ったが、船舶団司令官としての責務上、本島に帰還して隷下全部隊の指揮をすべく、同夜、特攻○レ艇に身を託して帰島の途次、海上において戦死したもようである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(引用終了)

これは、船舶団本部に到着しないことをもって「戦死」と判断したと思われます。

>二番艇に無線機があったとの心証を得た記事
だなんてことは、和田さんのお一人の牽強付会にすぎません。この記事はそのようなものではありません。「本部通信小隊」とは、那覇にある船舶団本部の通信小隊です。そこから野村上等兵のいる出先の通信隊(那覇近傍)に通信が送られてきた、という記述です。

また野村正起さんのこの本は、1974年上梓という年月を置いての記述であり、一次資料ではなく回想が整理されたものであることを、考慮する必要があります。


(二)
その時の通信文は「船舶団長行方不明」だったかもしれません。

仮にそうだとしても、その通信を受けた側が「死亡」の意味に解したでしょう。とうぜん、それによって指揮官は交代します。

(和田さん)
>ところが、前記の野村正起氏の回想によれば、本部通信小隊から大町大佐が戦死したとの情報を得ている。

和田さん、野村さんは電文を写し取ったわけではありませんよ。

「行方不明」を実質「戦死」と理解して、そのまま戦後20年たって、その理解を訂正する必要がなかった、と考えるべきでしょう。「戦死」という断定が含まれていたかどうかは、定かではありません。軍としては「戦死」扱いにして、指揮官の交代を明確にする必要があったかもしれません。すでに、戦端が開かれているのですから。


和田さんがいうように、2番艇が遭難のありさまを視認現認して直ちに洋上から電信を送ったというなら、なぜ『爆死』とか『浸水による沈没』とか、あるいは場所や時刻の描写が無いのでしょうか?


(三)
和田さん、あなたの妄想x妄想=展開は、もうイイカゲンにしてください。

底の浅い妄想を持って曽野綾子の妄想と闘わんとするは、かえって曽野に免罪符を与えることでしかありません。

ご自分の妄想はご自分の場所でなさる分にはご自由です。
しかし、キー坊さんのブログに寄生して、あなたがこのように汚しつづけるならば、
キー坊さんにまで、曽野への免罪符付与の片棒を担がせることになってしまいます。

キー坊さんとそのブログを尊敬して止まない私としては、
「和田さんという人の妄想は、このサイトとは全く無関係ですよ。もしかすると、このサイトを貶める目的かもしれません」
との警告を、他の読者の方たちに申上げなくてはなりません。

和田さん、
やっぱり貴方は、自分でサイトを立てることすらしない、無責任な根性無しとして、寄生しつづけるお積もりですか?

補足とまとめ

「ある神話の背景」によると、1945/3/22渡嘉敷から座間味にカノン砲を受け取るよう船舶が出航したという。似た内容として「戦史叢書」に、3月下旬座間味島に大発で運んだ海軍砲が米軍の爆撃で荷揚げ不可能になったという記事がある。 比較すると「ある神話の背景」の記述はおかしい。 空襲が始まっていない3/22なら座間味から渡嘉敷へ持ち帰ることが出来たはずである。 沖縄本島からの砲をわざわざ座間味から渡嘉敷へ転送することはない。直送でよい。  おそらく曽野綾子の意図は、「ある神話の背景」の読者に次のような思い込みを植え付けることにある。

空襲の始まる前は軍民とも近いうちに、米軍の沖縄方面への攻撃があることを予想だにしていなかった。粛々と大町大佐が通常の巡視をし、座間味中継で渡嘉敷にカノン砲を運ぶほど心理的に余裕があったというのである。

実際には、座間味への海軍砲の持ち込みも米軍来寇近しという情報への泥縄的対応のひとつであろう。しかし、最近まで船舶特攻出撃が近い、その時点で海軍砲を送り込む意義を見出せなかった。奇襲を終えた島に力点をおくのは戦力を分散させるという観念に囚われたからである。

いわば点としてものごとを見たからで、赤松の上田城への東軍引きつけ強調から、この場合も皆本のいつもの剽窃と富村順一・神戸新聞の中井記者からの断片的情報を都合良くまとめあげる梅沢の手法とを連想させる。 

大町大佐にとって都合の良すぎる作戦計画ではあるが、艦砲と爆撃でたちまち沈黙させられる海軍砲も船舶奇襲が成功すれば、米軍の日本の過大な戦力評価→米軍の過大な戦力投入に繋がると考えたとすれば、説明がつく。 大町大佐の多数の通信兵随行と基地隊責任者クラスの派遣、海軍砲搬送計画を統合して説明するには大佐の一斉出撃に続く米軍引きつけ構想以外では説明しがたい。


さて、赤松・皆本は大町大佐が、転進を「逃げ」と否定し、その泛水中止命令により、泛水が時間切れになったと主張する。その主張のためには、大町大佐と沖縄司令部、大町大佐と第三戦隊との無線交信が行われたことがわかっては都合が悪い。 
米軍に先手をとられた慶良間の戦隊が糸満に転進し、再起を期すべきは当然すぎることであり、沖縄司令部・大町大佐・第三戦隊ともそれ以外の方策は考えられない情況ではないか。転進命令のとき、赤松は1/3の泛水ではなくただちに全艇を泛水すべきであったし、大町大佐もそれを望んだだろう。 


http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305192
「第三戦隊戦闘概要」上記5枚目には、「3月25日・・・・夜ニ入リ来島ノ船舶隊司令部ヨリ入電アリ」とあり、さらに「大町大佐・・・・空襲開始ノ為本島帰還シ得ザリシ者」と記載する。  

赤松隊は明らかに大町大佐から入電を受けており、赤松大町大佐が本来沖縄本島帰還を目指していたことを知っていた。
 
食料などで赤松に世話になった石田四郎とて、既に「戦史叢書」に描かれた嘘と隠蔽を表に出そうとは思わなかった。 しかし、「戦史叢書」以上に嘘と隠蔽を付け加える意志に欠けるので仔細に書くべきかどうかを検討しない。

 そのために、何の疑問も持たずに阿嘉島から向かったのは渡嘉敷ではなく、沖縄本島であったこと、大町大佐が多数の通信兵を同行していた事実を書いてしまった。

赤松・皆本等は泛水の遅れた原因を大町大佐になすりつけることを厭わなかった。  これは帝国陸軍の上下関係からは卑劣で許されないことに違いない。

しかしながら、私はこのなすりつけ行為に靖国カルトの意識構造に必然的に潜む個の弱さを見る。 
曽野・赤松・皆本等の改竄手口の分析から彼らの意識構造を探ることは重要である。

曽野神話の記述と事実

http://saigosan2007.cocolog-nifty.com/kazupiro2007/2010/04/post-1a7e.html

二番艇が遭難したとする1時間程後、隣の阿嘉島では泳ぎがうまい篠崎伍長が伝令として慶留間島に渡り、第1中隊に出撃命令を伝えた。200メートルほどの距離だがかなり大変だったと伝えられる。 この点からも二番艇全員が泳いで助かったということに疑問符が付く。

さて、曽野綾子は「ある神話の背景」で集団自決の序章として以下のような背景を記述している。(1)1945/3/21頃まで沖縄の軍民は近いうちに米軍の来襲があるとは予想せず、鈴木常良元基地隊長が第三戦隊の泛水路完成を祝いに渡嘉敷に来島するほど牧歌的な雰囲気に包まれていた。 (2)(1)の前提の元、大町大佐は慶良間のマルレ戦隊に対して通常の巡察を行った。 (3)大町大佐一行には、(通信手段がないため)沖縄司令部の赤松隊に対する転進命令が伝わっていなかった。 (4)そのため、大町大佐は1/3泛水していた赤松隊にとりあえず泛水中止を命じた。このことが、赤松隊が出撃出来なかった遠因である。


事実はどうか。サイパン失陥後、大本営の東アジア方面への米軍侵攻予想はフィリピンの後、中国・台湾・沖縄の3つの候補地を想定していた。中国が候補の1つとなっていたのは、九州などに飛来可能なアメリカ軍爆撃機を擁する飛行場の破壊を目的の一とする大陸打通作戦の進展を阻止するため、中国軍の援軍として米軍の上陸を予想したからだが、この線はサイパンをはじめとするマリアナ諸島飛行場の整備により消える。  台湾と沖縄は候補地として残るが、1945/3/20日、大本営は台湾への陽動爆撃が止んだことを機に4月初旬沖縄本島への米軍上陸を予想するに至る。 その情報を受けて沖縄方面軍は、3/21軍の再編を行い、工兵隊、輜重部隊などをも実戦部隊の戦略予備軍として再編する。 さらに情報は軍から沖縄周辺の住民へも伝わり(伝えられ)21日には慶留間島で日本軍から住民へ自決命令が出される。


以上の事実を踏まえれば、大町大佐が行うべき軍事的に合理的な行動は、自ずから、定まる。 今、出撃準備をせずいつするのか。ピンチ(危機)をチャンス(好機)に変えることが出来るのは今をおいて他にない。速やかに出撃準備をしなければならない。 あまりにも当然すぎることである。 大町大佐一行に通信隊と基地隊関係者が多かった(鈴木常良等別働隊もいた)ことから、大町大佐の構想を以下のように推定する。

上策は、慶良間・沖縄本島一体となった同時出撃。 中策は慶良間だけの同時出撃。 下策でも1戦隊の同時出撃。

どれか1つでも成功していたら、米軍は(まだ船舶特攻艇が残っているかもしれないとの)疑心暗鬼にかられ、慶良間諸島に過大な人員を上陸させる。うまくいけば、本島への攻撃を遅らせ、あるいはかなりの数の米軍をもはや日本軍に価値のなくなった慶良間に何日か引きつけておくことが出来るかもしれない。 私は先日まで、三池・鈴木少佐が渡嘉敷から大町大佐と共に引き揚げようとしたことから基地隊の責任者が慶良間に進出したのは泛水・出撃を過誤無く敏速に実現するための要員とのみ考えていた。 

しかし、旧基地隊が再編成され別の部隊の戦略予備軍となったということは、別部隊指揮官にとって隊長が慶良間に転進してくれることは予備軍の指導・機動性から好ましいともいえる。  しかし、その構想は、その後の状況変化(もはや慶良間からの出撃は良くて小規模なものでしかありえぬか、悪くすると不可能となった。よって米軍の大規模報復攻撃はあり得ず、基地隊指導者を残しても仕方がない)により潰え、基地隊隊長の働き所は元の沖縄本島と再変更されたものであろう。


赤松は、自分を関ヶ原前夜、上田城に立て籠もった真田父子に例えていた。 しかし、これも三池少佐・石田四郎などから聞いた大町大佐の構想を剽窃したものと考える。 また、三池少佐等が儀志布島から泳いで渡嘉敷に渡ったという話も、阿嘉島から慶留間島に渡った篠崎伍長の実話を剽窃したものと考える。 

 実は、3/27当日の0037分つまり、二番艇が沈没したと称する時刻に近い時点で那覇は干潮だった。 二番艇が渡嘉敷の影で米軍の目を逃れるために島伝いに航行し、沈没直前に救援を無線機で依頼したか、沈没前に上陸し無線で救援を依頼したのではなかろうか。 

それを深夜、泳いで渡嘉敷に渡ったように勇壮にみせかけることは、自分たちの名誉のために、大町大佐の帝国軍人としての素質をさんざん賤しめ、改竄した赤松・皆本にとって、せめてもの贖罪(手向け)と考えたのではなかろうか。

その他無線機と大佐戦死情報関連

大町大佐の戦死情報と同時に慶良間の戦隊全滅情報がもたらされているから、大町大佐の戦死情報も単なる誤報にすぎないのではないかという疑問が完全に消えるわけではない。だが、他の情報と照合すると大町大佐の戦死情報に何らかの根拠があったのではないかと思われる。 戦隊の全滅情報の根拠は司令部との無線が通じなくなったことであろう。 

 日本軍の「これから全滅する。」という時に訣別宣言が発せられる場合、三点セットがある。
軍旗の焼却、書類の焼却、無線の破壊である。軍旗だけは実利に関係なく、恥の意識によるものだが、書類と無線は敵に情報を盗まれないため、味方に迷惑をかけないためである。 阿嘉島の第二戦隊は米軍上陸後、斬り込みの前に無線機を全部破壊した。 座間味の無線状況はよくわからないが、第一戦隊は米軍上陸後、2つの中隊が斬り込みほとんど全滅に近い(病死や餓死ではなく純粋の)戦死者を出している。

第三戦隊も27日未明に多数の無線機を破壊したと主張しているが、大規模な斬り込みをしていないので無線機を破壊する理由に乏しい。 ともかく、司令部の戦隊全滅判断には、無線が通じなくなったという根拠があったはずである。  赤松・皆本等は自分たちが大の虫だと思っていたであろうが、日本軍は差別的組織であるから司令部にとっては、赤松等は小の虫にすぎない。 

日本軍戦闘参加者が1万人を超える大きな戦闘で米軍と比較して死傷率では、硫黄島に次ぐ戦果を挙げているといわれたベリリュー等の防衛責任者、中川は大町と同じ大佐であった。司令部にとって、戦隊の全滅はズンゲンのように志気を引き締める材料になりえてもマルレ責任者の戦死はそうはなりえない。 司令部は海上で行方不明になって数時間しか経過しないのに戦死と断定しないだろう。

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0304111
上記は1944/10/10空襲に関連して軍に徴用された鰹船が空襲され、軍関係者に死者が出た報告書である。新城(富山)兵事主任も命からがら那覇に辿り着いたという。 統計によるとの那覇の平均気温は11月と4月にあまり差がない。
つまり10/10は3/26より海水の気温が高い確率が高い。 10/10では傷病兵も含まれるとはいえ、昼間の海難事故でありながら溺死した少なからぬ軍人がいた。 軍は数日間行方不明者を捜索している。 3/26真夜中に二番艇の乗務員が全員助かったのは何故か。そもそも遭難したという儀志布島は無人。
  旭沢の渡嘉敷部隊と儀志布島とは山を隔てて反対方向。本部陣地予定地は谷間。部隊は連日の睡眠不足に加え、本部予定地に移動中叉は壕堀りのはずである。  そんな状態で第三戦隊員が二番艇の遭難状況をどうして知ることが出来、捜索隊を出せたのか不思議である。 そして全員が助かったという。はたしてそんなことが無線機なしに可能なのだろうか。


さて、沖縄方面にかかる戦史叢書231頁「大町大佐の沖縄本島転進経過図」によれば、「一番艇27日0100ころ二番艇の前方役800Mを東進中を二番艇乗員確認」とあり、さらに本文には「一番艇は二番艇の遭難時前島の南方を東進しているのが二番艇から見受けられた」との記載がある。 本文の記載は石田四郎手記・殉国日記とほぼ同じ。二番艇の三池少佐その他第三戦隊の客人はすべて死亡した。従って証言は赤松・皆本のものとみてよい。 


1945/3/27は月齢13日だが、住民によれば夜半は大雨。 現代の東京湾のように陸地が煌々として、灯火設備の良い船舶が頻繁に往来しているのならいざしらず、真夜中に儀志布島や前島を航行する小舟の視認距離は800Mが限度だろう。

儀志布島と前島は地図上10キロほど離れている。 一番艇は儀志布島付近から一足飛びに前島まで移動出来るのであろうか。 三池少佐等は渡嘉敷方面に泳ぐ方向と反対側の一番艇が遠く離れた前島南方を移動するのを確認する余裕と視力があるのだろうか。 私には、とうてい信じられない。 赤松・皆本・曽野は無線の存在を知られたくなかったのではないか。  


http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331
上記「殉国日記」43枚目、皆本の記述がおもしろい。  「第1中隊陸軍中尉 某氏」とある。皆本は約1年渡嘉敷で生死を共にしたはずの同僚の中隊長「中村彰」を某氏と記述する。名前を忘れることはありえない。皆本と中村彰との間には相当の確執があったのであろう。  
 実際、第1中隊からは木村幸雄以外、赤松の歴史改竄に同調する者が少なかった。 第1中隊では中隊長・郡長が一人も赤松の歴史改竄に同調しなかった。そのためか。「ある神話の背景」にも第1中隊隊員の発言の多くは伝聞である。

行方不明と死の間

まず登山における遭難事故から考察する。そちらのほうが一般性があり、軍事には軍事特有の事情と日本軍特有の体質の影響を受けることを勘案しなければならないからである。

山の日没は早い。暗くなると道に迷いやすく不安も募る。事故も多くなる。従って季節にもよるが、日本アルプスクラスでは遅くとも午後5時までに下山の計画を立てるのが普通である。 下山地で電話連絡が可能となり、連絡を待つ人がいるとして、何時になれば遭難届けを出すだろうか。 やはり午後8時くらいまでは遭難届けは出さないだろう。 色々な事情でそのくらい遅れても珍しいことではないから。 

遭難届けを出したとして何時頃まで行方不明状態と考えるだろうか。 登山者は山小屋・テント・岩陰などで風雨を凌ぎ夜明けを待って昼までに下山することは珍しくないから、死に繋がる視認等よほどの情報がない限り翌日昼までに死亡したと判断することはないだろう。

登山の場合でも、情報がなければ予定より都合17時間は軽々に死亡したなどと判断しない。


 次に古賀長官の行方不明だが、一般的に軍隊では日本軍に限らず士気低下を恐れ、軍幹部の戦死を確認もしないで早々と発表するような組織ではない。そのようなことは、避ける。確かに、沖縄司令部への慶良間諸島への米軍上陸情報は当初誤って早く伝えられた。 しかし、戦機を早く掴むことが組織の命運にかかわる軍事においては何をおいても敵状把握は優先される。 敵状についてはやまった情報を発表する勇み足はありえても、初戦において軍幹部が行方不明になり時間があまり経過せず、はっきりした戦死の証拠もないのに、早々と戦死と発表することは日本軍に限らずあまり例はない。機先をそがれることはなはだしいからである。

 実際、二番機が行方不明になってかなり経過して帰還した古賀長官も行方不明となってもなかなか戦死と判断されなかったようである。
http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/37877865.html
結局、1944/4/1に行方不明となった古賀長官の捜索は4月17日に打ち切られ、その後さらに日時を経過して次期長官が就任する。 いったい、海難事故に比べて航空事故は格段に死亡確率が高い。 それなのに、飛行機で遭難した古賀長官は比較的長期間行方不明とされ、戦死と判断されなかった。

 大町大佐の戦死情報を受けた野村正起氏の感想も「この司令官戦死の報は、慶良間列島守備隊全滅直後のこととて、余計にわれわれの気持ちを暗いものにした。」であり志気に影響があったのである。初戦における軍幹部の戦死を傘下の兵に伝えると、そうなることは争えない。 守備隊全滅は誤情報だが、全滅情報を早期に出して気を引き締めることは、日本軍はニューブリテン島ズンゲンなど各地でよくやっていたことである。

大町大佐の場合の諸状況はどうか。 既に沖縄本島は米軍の艦砲射撃を受けている。 このような状態では大町大佐は夜間米軍の目を盗んで低速度で沖縄本島に向かうほかない。 しかも、状況によっては友軍のいない辺鄙な地点に上陸せざるを得ず、しばらく山野をさまようことも充分ありうることである。戦争体験の情報に詳しい司令部がそのような事情を考慮しないはずがない。 しかも、赤松や曽野は嘘をついているが、少なくとも石田四郎手記と阿嘉島の第二戦隊陣中日誌の2つの文献により、25日、阿嘉島を出発した大町大佐は渡嘉敷島ではなく沖縄本島を目指していたのであり、しかも米軍の襲撃を受けてやむなく渡嘉敷島へ漂着したという直前の前例もある。


午後11時半に出発したマルレは順調に航行しても低速なので、(午前1時儀志布島付近航行という)午前4時前後に那覇・糸満に到達する。 米軍を避けて迂回したり、海に迷って山野をさまよう可能性を考えると通信施設のある友軍に発見され、司令部に報告される時間が相当遅れることも充分ありうる。実際、午前1時渡嘉敷島に近い時点で遭難した二番艇の乗務員が北山本部に収容されたのは午後だという。

沖縄本島を目指した一番艇の具体的な遭難事故状況について何らの情報もないとするならば、27日いっぱいは、大町大佐を行方不明扱いするのが妥当だろう。  ところが、前記の野村正起氏の回想によれば、本部通信小隊から大町大佐が戦死したとの情報を得ている。通信小隊は大町大佐の死体を発見したのでもなければ司令部の情報なしに単独で大町大佐の戦死を伝えることはありえない。 従ってそれ以前に司令部は大町大佐の戦死を断定したと考えざるを得ない。 その情報源は赤松隊、二番艇、一番艇以外には考えにくい。

大体、大町大佐の出発情報自体、三者いずれかの無線機で司令部に伝えられないと伝達出来ないはずである。

戦死の報

nio615さん
「これは状況証拠などではなく、こねくり回しの「幼稚な陰謀論」ですよ。典型的な歴史修正主義者の論法です。」

このような言い方には、根深い問題が横たわっているのでいつかそのことを考察してみたい。

さて、3日前に数ヶ月忘れていたが、2,3年私の脳の引き出しの奥に滞留していて、二番艇に無線機があったとの心証を得た記事を思い出した。

こちらのほうが読みやすいので引用。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/873.html?guid=on

「三月二七日(火)晴 やや冷たい
昼ごろ、本部通信小隊より船舶団長戦死の報が伝えられてきた。
その報によれば、船舶団長大町大佐は、一昨日の三月二五日、慶良間列島内の渡嘉敷島守備隊(海上挺身第三戦隊および海上挺身基地隊)基地を巡視中、慶良間列島攻略を企図するアメリカ機動部隊の奇襲に遭遇。余儀なく同島守備隊を指揮して、アメリカ機動部隊邀撃の機を待ったが、船舶団司令官としての責務上、本島に帰還して隷下全部隊の指揮をすべく、同夜、特攻○レ艇に身を託して帰島の途次、海上において戦死したもようである。」

もちろん日付の年は1945年である。著者野村正起氏は元船舶工兵隊の通信小隊に所属していたという。

さて、大町大佐などの一番艇・二番艇が渡嘉敷から沖縄本島へ出発した日は1945/3/26だが、出発時間については2説ある。 戦史叢書や赤松などが関与した陣中日誌では午後11時半となっている。 

一方、曽野綾子の「ある神話の背景」と石田四郎手記では午後10時となっている。 どちらが正しいか。二番艇遭難場所と時間については儀志布島付近翌1時頃とする文献が、ほとんである。
確かに、沖縄本島まで艦砲射撃される状態ではマルレはエンジン音を消し、最大速度を遙かに下回る速度で航行しなければならないことは理解出来る。 しかし渡嘉志久から儀志布島まで3時間もかかるようでは那覇・糸満どちらが上陸予定地であったとしても10時間程度かかりそうだ。 それは、暗いうちに米軍の目を逃れ出発する意味がなくなる。 


さらにいうならば、曽野綾子は赤松が大町大佐を見送った後、旭沢本部で待機していた安里巡査と会合したとしているが、安里巡査を含め、26日に赤松と安里巡査が会合したとする証言や文献はない。

 日にちがおかしいだけでなく、安里巡査の証言を聞いたとする星雅彦などによっても赤松と安里巡査の会合は夕刻を少しすぎたくらいだという。

実際、午後10時に赤松と安里が会談したという設定では時間的に、各壕や小屋に分散している住民に集合命令を伝え老人子供を含め生活必需品を携えた住民が西山本部に夜中に辿り着くことはむつかしい。 

 曽野綾子が最初に唱えたと思われる10時説は、住民から軍の近くに行きたいと要請があったなどとする赤松の都合のいい主張に会わせるための曽野綾子一流の嘘であろう。 食料などで世話になった石田四郎もそれは心得て、曽野綾子の10時説を嘘と知りつつ援用したのであろう。

 入り口(11時半出発)と出口(少なくとも翌昼までに下部の者にまで大町大佐の戦死の情報が無線で伝えられた)を前提にその間の情報を整理することになる。

考慮しなければならないのは、沖縄司令部上層部はほとんど戦死し、二番艇の三池少佐も沖縄本島に舞い戻り戦死したこと。 赤松隊がこの件に関して嘘を語ったとしても石田四郎初め、真相を知っていても注意する者はいないだろう。


海軍乙号事件といって、大町大佐の行方不明に似て、連合艦隊古賀長官の一番機と二番機が行方不明となり、二番機乗員が帰還出来た事件がある。 その事件と登山遭難の事例を比較して、一般に行方不明となったまま何の情報もない者について、どのくらい時間が経過すれば死亡と判断するものなのか考察してみたい。
                                           

和田さん

>以上、状況証拠では一番艇・二番艇共、無線機を携帯していたと推測する理由はあると思っている。

これは状況証拠などではなく、こねくり回しの「幼稚な陰謀論」ですよ。

貴方のやり方では、ガス室はなかった、911は爆破陰謀だ、大東亜戦争はコミンテルンに操られた、いかようにも自分がしたい様に歴史を成り立たせることができます。典型的な歴史修正主義者の論法です。和田さんの心持が一寸替わるだけで、赤松・曽野を礼賛する事だってできます。

通信機

マルレに通信機を積んだ話は他にもあります。留魂の碑(龍譚同窓会)によると、桜挺身隊は4月27日に馬天港から4隻のマルレに15名が分乗して国頭を目指したそうです。その中に通信兵がいたそうです。最も、この通信機で司令部との通信は出来ず、久志岳ではハワイからの日本語放送を受信しただけとの事です。

殉国日記の記載

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331
上記の43枚めの左側地図周辺の書き込みによると、二番艇は26日24時二番艇は遭難から泳いで(渡嘉敷島)に到着。   そして27日1時二番艇○○員が一番艇の最後の位置を望見とあります。 望見の記載は推測ではなく見たと主張していることになりませんか。

RE「880」

たぶんもう少し書き込むと「今の政局」容量を超えると思います。 よって、関連性が薄いのだがここに移動しました。

殉国日記の地図はだいぶ以前、一瞬しか見てなかったが、よくよく観ると疑問点が多い。 1 儀志布島と那覇はgoogle地図だとほとんど同じ緯度だが、殉国日記では随分北に描かれている。
 2 儀志布島は遠浅で渡嘉敷との距離も短く二番艇の5人全員が生還出来て不思議でないが殉国日記の地図では儀志布島の東を遭難場所としている。前年10/10に軍隊に徴用された鰹漁船の遭難と比べると5人生還は奇跡的かもしれない。 


3 司令部の転進命令の転進場所は、那覇説と糸満説があり、糸満説が正しいとされていたように思う。 大町大佐の任務からみて慶良間の一斉出撃がむつかしくなり、沖縄での出撃に注力する情況。 司令部と上陸予想地点に近い那覇より糸満は軍略上、理解出来る。 殉国日記では那覇を上陸目標としているが理解出来ない。 

4 一番艇が前島付近を航海していたと推定でも判断でもいいのだが、そうすると前島を含みそれ以東を予想戦死海面とすべきところ、前島から離れた所から那覇付近を外した狭すぎる海域を予想戦死海面としているように思える。

 5 那覇が目的地なら儀志布島と前島の北を航行するのが最短距離だが殉国日記の図ではいずれも南を航行したようになっている。 これは現在の那覇・渡嘉敷村役場の航路と同じである。


さて、私は一番艇も二番艇も無線機を携帯していたと推測した。 今のところ、直接の証拠はなく、状況証拠ばかりだが整理しよう。  

まず、無線機の必要性だが、大町大佐は阿嘉島から沖縄本島に航行中米軍に襲われ、渡嘉敷島に漂着した。 してみると、渡嘉敷から沖縄本島に航行中も絶壁のような場所に漂着せざるをえない情況もありうる。 上陸後、司令部に到着場所の地理的情況を知らせ、救援を求めるため無線機を携帯する必要性はあったのではないか。 

次に物理的に稼働の無線機があり、携帯可能かどうかというと、大町大佐一行が携えた無線機と渡嘉敷島の勤務隊が使用中の無線機があったであろう。マルレより運搬能力の低いクリ船が無線機運搬可能だからマルレでも携帯可能。

 次に確かに、赤松・曽野等は大町大佐等が無線機を携帯していたと語らない。 事実は携帯していたとして、赤松等に隠蔽する動機があるかどうか。
これは、はっきりあります。

 赤松等は1945/3/20に米軍の台湾陽動爆撃が中断され、米軍の沖縄侵攻が確実となり、沖縄本島で慌ただしく軍の再編成が行われ、慶留間島では翌21日自決命令が出されるという緊迫した局面を隠し、まるで大町大佐が以前から計画していた日程で(緊急出動ではなく)予定どおりの視察をしたようにみせかけた。 また、赤松・曽野等は大町大佐が那覇出航後、(大町大佐一行に無線設備があるのに、そのこと自体を隠し)赤松隊と大町大佐との無線連絡について何も語らずまるで大町大佐に無線設備がないために沖縄本島の軍司令部からの命令さえ大町大佐は知らないようにみせかけている。 

つまり、赤松・曽野等にとって、那覇出航後、初めから大町大佐が無線機を使用可能だったことが世間に知られては困るのだ。 何しろ、赤松等は、大町大佐が旭沢到着後泛水中止命令をしたために、第三戦隊の泛水が遅れたことにしたのであるから。

そして、真夜中に島の反対側にいる(旭沢からみて)遭難した二番艇全員の遭難を赤松等が速やかに知り、捜索隊が西山本部に速やかに案内した。 このようなことが、人気のない島の東北海岸で住民は壕に非難している中で、無線機なしで可能なのかという疑問は「ある神話の背景」を最初に読んだ時からの疑問の一つ。 

 
以上、状況証拠では一番艇・二番艇共、無線機を携帯していたと推測する理由はあると思っている。

誤植かどうか

和田さん、コメントをどうも。

先ず私自身の誤植に関してですが、「・・・最南端の海岸線に音ぎ立てず上陸した。」 は、「・・・最南端の海岸線に音を立てず上陸した。」の誤りです。

 次に、「島の南端の要塞(さい)陣地に立てこもり、防衛することにしたらしい。」に付いてですが、前後の文章の連関から考えて、「島の南端」とは渡嘉敷島でなく、沖縄本島の南端の事に思われます。つまり摩文仁のことでしょう。
 ショウダウンの著者がどこに上陸したか私らには検証の仕様がないですが、南部で上陸し早い時間で北山に進んだ事も考えられます。

 著者が渡嘉敷島の南部(阿波連ウフガー)で見たという集団自決は、北山のフィジガーで見たことを混同した可能性が強いと思います。それが偶々陣中日誌の記述と一致したのだと思います。上原正稔自身が現地調査をしたと言いながら、それを検証してないですからね。

誤植ではないか

キー坊さん
沖縄ショーダウンの記事引用についてお尋ねします。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown1.html
上記引用より引用「A中隊は渡嘉敷島の最南端の海岸線に音ぎ立てず上陸した。」

次にhttp://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown2.html
上記に「四月一日、イースター(復活祭)の日曜日、おれたちは渡嘉敷の山頂に座り、沖縄本島上陸作戦を見守った。凄(すさ)まじい艦砲射撃の音が島まで響き、噴煙がもくも<上がった。味方がたくさん死んだだろうと思われたが、後で無血上陸だと知らされた。日本軍はわが軍の上陸に抵抗しないことに決め、島の南端の要塞(さい)陣地に立てこもり、防衛することにしたらしい。」とあります。

これらの記事は、アメリカ軍の一兵士の渡嘉敷島での体験を記述したものとされています。  後半の島の南端の要塞とは西山の日本軍陣地としか考えられませんが、西山は島の南端というより北端に近いことはあきらかです。

従って、南端の記述が誤植でないとすると、前半の米軍の一隊が南端に上陸したという記述も単なる米軍兵士の記憶違いであって、北端が正しいことになりませんか。

もともと、北端に近い留利加波に最初に米軍が上陸したという情報を第三戦隊は得ています。   後に時間的に誤報とされていますが、誤報ではなかった可能性が出てきます。 留利加波への小規模な上陸は米軍の記録に記載されているところです。

また、渡嘉敷島南端の大規模な集団自決との記述も単に地理的に北端に近いフィジガーの自決を南端と勘違いしている可能性があります。

もしそうであれば、上原正稔の赤松隊の後日再構成された辻版陣中日誌に「阿波連方面においても自決があった」旨の記述と米軍兵士の記述が一致するとの主張は誤りであることになりませんか。

性悪女

http://drss.exblog.jp/11816250/
上記曽野が語る有能な力の順序は曽野の性格を推し量る上で大変興味深い。 徳よりは腕力・戦力・金力ということだ。

そして、生活ぶり/装い/外観(はったりも含まれる)が徳よりも大事。  これが曽野の本音・行動原理だろう。  どおりで弱きを挫き、強きを、助ける暴力団的思想と行動が板に付いているわけだ。


http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tokasyikijima.html
上記の方は曽野綾子を冷徹とみている。 私はその判断は間違いだと思う。 冷酷なのだ。 辛い味には、塩味と香辛料の味があり、両者は似ているが違う。 曽野綾子は「ある神話の背景」の後のほうで「青い海」に掲載された写真にかかる会合が豊田市で行われたように記載している。その会合には、遠藤幸雄という元第三戦隊兵士の名前も載っている。

 そうでありながら、曽野は法制審議会・諸君・willなどで元兵士と個別に一人一人会ったと言い張っている。 図々しすぎる。 冷徹だとはとうていいえない。


曽野が後進国で援助物資が強い者に流出していることを語る記事には、未来がない。夢・希望・理想を語り、はい上がる力を与えるようなニュアンスではまったくない。  
江戸時代のように現在不満を持っている人に対して、もっと下の後進国があるぞ、お前達はまだましだとの語り口をしているとしか思えない。

 以前、狼魔人と沖縄と土民について論争したことがある。 1年経たないうちに原告応援団達は土民では満足しきれなくなったようである。沖縄と土民で検索しても彼らはあまり出てこない。 今では、彼ら曽野綾子を信奉する者達は沖縄土人と侮っている。沖縄土人と検索すると彼らは出てくる。 狼魔人でさえ、現代では土人は明らかな差別語と認めている。 原告周辺応援団は排外的なネオナチに純化しつつある。 王化が遅れた沖縄の住民はたとえ少なからず右翼的な主張をする者がいたとしても、劣等民だというわけだ。 


曽野の文学表現は軽薄短小で深みがない。 ローマの統治原理はパンとサーカスというがまさに軽薄なサーカスだ。サーカスの絵を多数描いたシャガールは「放蕩を尽くし破産する成金と、理想を忘れた革命はサーカスに似ている」と語った。 まさにそのとおりと思う。  感心とは良い意味とは限らない。 良いこととは無関係な滑稽あるいは諧謔・醜悪なテレビ・催しにある種あきれた意味を含んで感心することはある。
 しかし、曽野は軽薄なサーカスを演じながら、見た者が良い意味で一時的に感心したような感覚を持たせる(錯覚だが)ように心得ており、そのようなテクニックにも長けている。 騙される者もいる。 感情的に感心より、上位のものとして感激がある。曽野綾子の常套手段は不幸な人達を切り捨てた後、落ちとして日本の国家主義に感謝感激せよと誘導することである。


 人は、夢・希望・理想を語られ、今日以降這い上がる気力・行動をもたらすような事項(芸術でも教訓でも成功譚等)に出会った時、感動する。 曽野綾子はどうか。 封建時代のように下の者を見て忍従せよ、下を差別せよ。 それ以外に何があるというのか。 


これほどの性悪女だからこそ、嘘を武器に自由を奪い、前近代的心情を強要する側の寵児となったのである。

60年代の状況

こんにちは。60年代には既に沖縄観光バスツアーがありましたが、曽野がこのバスツアーに参加したかどうかは不明です。ただ、このバスツアーのバスガイドの殉国美談(軍人の活躍とひめゆり学徒の死)は観光客を何とかして泣かせる(満足させる)為に過剰な語り口だった事は多くの人が体験しています。この語りを聞いた人は「沖縄をなんとかしてあげなければ」といった思いを抱くようになるそうです。当時の沖縄病と言われていたものです。そのような状況を曽野はどう感じていたのでしょうね。恐らく曽野は、彼女特有の腹黒い意地悪さがむくむくと湧き上ってきた事でしょうね。「皆と違う私は、沖縄を蹴落としてやる」と。東京オリンピック前後に摩文仁の丘に各都道府県の碑が競い合って、摩文仁グスクをぶち壊しながら乱立しました。これはかつての戦争による敗北という惨めな思いを経済成長した自信により払拭させたかったからなのでしょう。その頃から「戦争で犠牲になった方々のおかげで現在の繁栄がある」と言われ始めたのだと思います。犠牲という言葉は被害者なのか加害者なのかを問う事無く、単に空から何かが降ってきてそれに当たって死んでしまったかのような印象を抱きます。曽野は、ひめゆり学徒を「生贄」という犠牲者にしたかったのでしょう。つまり経済成長の為には彼女らの犠牲が必要だったのだという印象操作をしたのだと思います。
その次に沖縄返還が見えてきた段階で「ある神話の背景」で、沖縄側の言う事は正しくないのだと本土側の人間に思い込ませる印象操作を試みたのだと思います。
なんとも汚らしい女ですね。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://keybowokinawan.blog54.fc2.com/tb.php/143-a032241b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | ホーム |  »

プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (2)
関連著作の紹介 (73)
渡嘉敷島関連 (19)
座間味・阿嘉関連 (19)
奄美その他 (38)
曽野綾子論 (35)
基地 (55)
政局 (45)
自論 (40)
STAP問題 (17)
慶良間全般 (1)

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。