2017-10

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今の政局

検察と小沢幹事長のせめぎ合い・しのぎ合いは、どちらかが倒れるまで闘うしかないデスマッチの様相かと思われたが、不起訴になる事が決定的となり、一時休戦になった感じである。アメリカからの介入があったのか、それとも首相の指揮権発動の決断を検察が恐れたか、或いは2度の事情聴取で裏取引を行ったのか。
多少の裏取引はやっても構わないと思う。それでも「普天間」をその材料として使う事は、如何なる事があっても止めてもらいたいと思うが、小沢氏がそれをやるとは考えられない。
 
数日前、検察とマスコミが結託した小沢氏の「資金疑惑追及」報道が最高潮に達した頃、「七奉行」と呼ばわれた内の、岡田・前原・枝野・野田の四幹部がマスコミの論調に同調するかのような小沢資金疑惑追及の発言を行った。 政権交代前の鳩山・小沢両氏に対する東京地検特捜部の資金疑惑捜査の発動は、民主党に政権を取らせない為であり、政権交代後のそれは鳩山内閣を崩壊させる為の「国策捜査」である事は、あまりに疑う余地の無いものであって、それを知りながらの小沢資金疑惑への発言は、これら四奉行が検察権力に擦り寄った行為、すなわち鳩山内閣への反逆行為だと言ってよい。

岡田外相は「普天間」について、移設先が結定できない場合は、現状のままもあり得ると発言したが、これは外相としての懸念を表明したものではなく、むしろ彼個人の願望が露呈したものであろう。
四奉行は鳩山・小沢が失脚した後の政権の座を狙っていると考えられるが、万が一彼らがその望みを果たした場合は、「普天間」の辺野古移設案が復活してきて、それが実行されかねない。
このように、民主党の鳩山・小沢体制は外ばかりでなく、内からの反動勢力からも圧力を受けているので、毎日毎日が剣が峰にあると言える。

考えてみれば、戦後60年余「対米追従」「官僚支配」の体制で、日本国はは経済的利益の追求に血道を上げる政策を行ってきたのである。その体制下で、政官財とマスコミ中枢は甘い汁を吸ってきたのであり、その旨味を彼らは簡単には手放したくないはずで、猛烈な反動を仕掛けてくるのが自然の成り行きだろう。アメリカの意向を代弁するような「普天間の辺野古移設合意案」を実行せよとのマスコミの論調も、その反動作用の大きな要素である。

60余年も経った今、旧体制のおかしさに、日本の大衆は気付き始めたから、自民党政権に見切りをつけ、民主党を総選挙で圧勝させて政権を交代させたが、社会体制は未だ変革が為されたのではなく、旧来のままであり、官僚と財界、マスコミは総力を挙げて鳩山政権の追い落としを謀っている。その先鋒に立っているのが旧支配層の頼みの綱である検察である。

日本国民の大半は非インテリ層、つまりB層であるから、今の「資金疑惑シャンペーン」が功を奏して、鳩山内閣はかなり支持率を下げている。しかし、現在の大衆のかなりの部分が、今度の検察の活動は「国策捜査」であり、「対米追従」「官僚支配」からの離脱を政治理念とする鳩山民主政権を崩壊させんが為の「謀略」である事を見抜いている。検察もこれらのA層とも言うべき階層の眼は無視できない。だから、検察も小沢一郎を逮捕・起訴する事を躊躇って、それを断念したものと思われる。

鳩山・小沢の民主党体制が崩壊すれば、その意志を受け継いで、「「対米追従」「官僚支配」からの脱却を図るグループがその座に着くとは思えない。検察に従うだろう四奉行らの反動グループがその座を占めるに違いない。
一時の壮絶戦は小休止したが、まもなくそれは再開されだろう。沖縄の普天間基地の解放を願う人間なら、この検察と鳩山政権とのバトルを「高見の見物」していてはならないと私は思う。鳩山民主党支持者でなくとも今の政局に限っては、検察やマスコミにはきびしい批判の目を向け、鳩山政権に強い支持の思いを持つべきではないか。
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コメント

ni0615さん

表紙はまさにそれです。

阪神さん

石田四郎氏自筆

石田四郎氏自筆の記述をupします。
上下2段に分かれて書かれています。これをまとめたのが「会報特攻」平成2年8月号と思われます。最後のあとがきは会報特攻にはありません。

http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253431.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253446.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253458.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253478.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253487.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253498.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253526.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253541.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272253552.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1272254450.jpg.html

失礼しました

和田さんこんにちは。
>その本は以前紹介しております。
そうでしたか失礼しました。皆本の証言もあいまいなんですね。

我こそは大の虫

阪神さん

その本は以前紹介しております。
皆本はまだこの段階では、大町大佐の命令で二隻のマルレを引き揚げたと語っています。 ところが皆本はその後「沖縄とアイヌの真実」で始めて、大町大佐の命令に反してマルレを引き揚げ大町大佐から褒められたなどと自慢しています。

また、175ページから176ページにかけて、西山の本部予定地に撤退する際、皆本の直属部隊(第二中隊)の1/3が戦死したと受け取れる表現をしています。 事実は勤務隊などが戦死したのであり、この戦闘で皆本中隊はただの一人の戦死者も出していません。

皆本が通常の神経の持ち主であれば、編集者に依頼して「第二中隊の戦隊員が生きて本土に帰ってこられたのは勤務隊などの犠牲のおかげである。そのことはいまも毎日感謝している」趣旨を掲載させるであろう。

そうしないということは、皆本にとって第三戦隊本隊は大の虫だが、勤務隊や防衛隊は小の虫にすぎないということであり、小の虫は喜んで大の虫の犠牲になって当然と考えているからである。

曽野は69年から調査していた?

「特攻 最後の証言(特攻 最後の証言政策委員会 2006年)」という、どの図書館にもありそうな本に皆本氏の証言があります。スキャンしても分厚い本なので真ん中が読み取れませんでした。
泛水方法が下記ページでわかりました。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1271335867.jpg.html
大町大佐の死体が流れ着いた?との記事も。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1271336021.jpg.html
曽野綾子は2年がかりで現地調査したとの記事が。
ということは69年から70年にかけて調査したのでしょうか。それとも70年から71年でしょうか。これが一番気になります。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1271336141.jpg.html

お待ちします

阪神さん

>最後に石田氏のあとがきがあり何の本を参照したかが書かれています。

それは興味深いですね。

>週刊読売の昭和44年8月15日号に山川泰邦氏による

死後に息子さんが一部内容を削除して再版してしまったという方ですね。

>マルレが壕に格納されている写真があり木製の台座に乗せられているように見えました。リアカーには見えませんでした。

震洋も含めると、「レール車輪付き台車」「鉄レール+コロ+台車」「木レール+コロ+台車」「橇道+橇(※)」「リアカー」・・・・場所や地形、壕と海との距離、持ち合わせ資材などで、いろんな泛水方法があったのでしょうね。しかも、空襲で泛水路が壊されれば変更もあったでしょうし。

※第三戦隊(渡嘉敷島赤松部隊)の整備中隊の復員時報告書では、「橇道」とあり。

あとがきあり

ni0615さんおはようございます。
>22~24とは違うものでしょうか?
本文は一見したところ同じと思われますが、最後に石田氏のあとがきがあり何の本を参照したかが書かれています。念の為、入手したら異同チェックをしようと思います。
余談ですが、週刊読売の昭和44年8月15日号に山川泰邦氏による集団自決の記事がありました。マルレが壕に格納されている写真があり木製の台座に乗せられているように見えました。リアカーには見えませんでした。

re石田少尉手記

阪神さん
それは、「会報特攻」平成2年8月
http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf の22~24とは違うものでしょうか?

FW3 和田さん

皆本書簡の文章を読む際には、書簡の末尾に添付された推測図も併せてお読みください。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2221.html の図版39

そもそも、和田さんが持ち込んだ「説」は、1号艇の遭難は同艇から無線で知らされたものだ、というものです。

少なくとも「殉国日記」には、その根拠は何もありません。1号艇の遭難は、船舶団本部への到着もなく、戦後に至ってもなお消息不明であることから、そう結論付けたものです。

石田少尉手記

ni0615さんのブログにある「第十一船舶団長 大町茂大佐の洋上戦死」石田四郎著の原本コピーが今月末に入手出来ますので、その時にUPしておきますね。

RE(871)

「進行しつゝありて前島南方にありと進行しつゝありて前島南方にありと」

上記の表現で「ありて」を目視で「ありと」を推定と異なった解釈することは可能ですが、絶対とはいえません。

「推定する」も「目視した」も省略されている言葉を再構築(解釈)しているわけで、どちらかに断定することはむつかしい。

よって、私は推定と断言は出来ません。


なお、当時の日本軍が「ありと」の後に続く言葉として慣用的・頻繁に使用していたのは「認む」である。

「ありと認む」はある程度多義的で、確認した、(特定の情報や根拠から)判断叉は推測したなどの使用例が混在している。一般的にある程度の根拠や理由があることと、断定に近いニュアンスがある場合がほとんどで、単なる憶測として使用される事例は少ないと考えている。

FW2 和田さん

>「第一番艇は事故なく前進、第二番艇故障の時は船尾波を立てて進行しつゝありて前島南方にありと 遺感 (ママ) 乍ら特攻艇は小型にして」

「第二番艇故障の時は、船尾に波を立てて進行していたのを見たので、前島南方には行ってるだろうと(推定した)」 という意味です。夜中に前島南方を目視したなどとは、もともと記述されていません。

Re(867)

その記事は読んでいます。
「第一番艇は事故なく前進、第二番艇故障の時は船尾波を立てて進行しつゝありて前島南方にありと 遺感 (ママ) 乍ら特攻艇は小型にして」

上記の部分について儀志布島と前島の距離が相当あり、真夜中であることから信用できないと思いました。

私には、赤松・曽野等が嘘を多用することがわかってから、疑いの目で見る癖がついているため、眼が曇っていることがありうるとの自覚が必要だと考えさせられました。

FW和田さん

「殉国日記」所収の皆本書信も、確認してくだされば幸いです。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2258.html
図版38右
(一部引用)
異常なく出発せられたる君等の艇は別記要図の如く島を北に迂回那覇に変針し前進せらる第二番艇変針后連日の爆風のため船体に亀裂を発しありたるに進行中之が拡大し遂に浸水故障を生じ渡嘉敷島東岸に難破漂着す 三池少佐以下は茲に於て遊泳により到着す 第一番艇は事故なく前進、第二番艇故障の時は船尾波を立てて進行しつゝありて前島南方にありと 遺感 (ママ) 乍ら特攻艇は小型にして
《p38左》
(一人或は二人乗長さ五、五米突、巾一、八米突)無電の装置之無、爾后に於ける状況判明せざりき然るに陸上無電に依りて船舶団に連絡するに未だ到着せずと再三連絡するも判明せず海上而も完全なる危険海面にして全く状況を知るを得ず、終戦后沖縄本島に至り船舶団及船舶隊各部隊並びに三十二軍司令部につきて大町大佐以下の状況を尋ぬるに杳として判らず、或は全部生存にして南方洋上の離島に在りと、或は敵駆逐艦の攻撃に逢ひ全員壮烈なる戦死なりと言、漠々たる有様にして真〓状況を知るを得ず 先后の状況を判断するに戦死せられたるものならんと判断するに到らざるべからざる様にして内地帰還后復員局に於ては戦死確度〓〓定せられ候 小官直ちにご家族様方に報告申上ぐべきと判断仕候も戦死の状況確認者無く若しも然らざること有るものの如く思ひ数方に連絡中にして甚だ失礼乍ら延引仕候何卒御含み下さるべくお願ひ申上候
(引用おわり)

RE(863)

前後を読めば、nio615さんのいわれるとおりだと思います。 よって、通信を無線機と考えたことは誤りです。     

しかしながら、大町大佐が無線機を携帯していなかったとは思いません。  「ある神話の背景」を最初に読んでおかしいと思った箇所の一つが三池少佐の夜遅く、距離も離れた海上で遭難がすばやく第三戦隊に察知でき、旭沢から西山陣地に移動中で戦隊員は一度も行ったことがない所へ遭難者を速やかに収容できたのか、これは無線機がないと不可能ではないのかというのがそもそもの疑問の出発点です。 その後、石田四郎の手記で大町大佐が多くの通信隊を同行した事実を確認し、心証が深まりました。

ですが、通信の件は早とちり。  無線機を携帯していた証拠としては不十分なことを認めます。

和田さん

図版をお示しの場合は、直リンクではなく掲示してあるページを示すことが常識かと存じます。貴方にはそれがどんな資料であるかわかっていても、読者にはそれが手繰れません。あなたは、無意識のうちにそうした不自由を読者に強いているのです。(このことは前にもご注意申上げましたので「無意識」の不備ではないかもしれません。)

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2221&file=%E5%9B%B3%E7%89%8832.jpg 
これは、弊サイトの
沖縄作戦 殉国日記(2)に図版32として掲載したものです。32頁ではありません。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2221.html#id_b823b8a8

前後をお読みいただけば分かる通り、和田さんが引用した箇所
>「元部隊長殿の通信ニヨリ大町船団長ヲ沖縄本島ニ護送中前島付近ニ於テ敵駆逐艦○ノ水雷艇ニヨリテ砲射連名誉ノ戦死ヲ遂ゲタモノノ如クデアル。」 
これは、赤松から中島中尉の父幸太郎氏にあてた書簡、それを読んでの中島幸太郎氏の感想です。「通信」とはその右ページの赤松からの書簡を指すことは明白です。「通信」をもって無線機の存在を示唆するなど、虚言を弄することは如何なる立場に立とうが、言語道断です。

なお、その赤松書簡の文面を読めば、大町大佐は赤松にとっては「消息不明」なのであって、「前島あたりで・・・(云々)」は、「推察」にすぎないのです。

赤松はこう書いています。
「船舶団長共に消息不明と相成り恐らく前島北方海面に於て名誉の戦死を遂げられたものと推察仕候。」

なお、「前島北方海面」という赤松の推察は、2号艇遭難生還者が自分達の遭難時には1号艇はまだ前方を無事航行中であったと証言したことから、「恐らく前島北方には達したのではないか」と「推察」したものだと思われます。(2号艇遭難生還者の証言については、同「殉国日記」の皆本書簡などをご参照ください)

という訳で今のところ、1号艇から赤松隊に無線連絡があったという和田さんの言説は、「殉国日記」に証拠どころか傍証も見出すことはできません。むしろ、「殉国日記」が証明していることは、まったく手がかり無き「消息不明」だということです。

証拠のない言説を、「某書に書いてある」という虚偽で裏付ける手法は、歴史偽造の右翼の常套手段です。読者による再検証の不自由性を悪利用した詐欺的行為です。同じことを自称曽野綾子批判者までもが行なうとは、驚きました。そして、それを糾す為の徒労たるや、甚だ不本意と言うべき哉。
   

RE(858)

(849)を再掲します。

ttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2221&file=%E5%9B%B3%E7%89%8832.jpg    左記殉国日記32頁は語る。 「元部隊長殿の通信ニヨリ大町船団長ヲ沖縄本島ニ護送中前島付近ニ於テ敵駆逐艦○ノ水雷艇ニヨリテ砲射連名誉ノ戦死ヲ遂ゲタモノノ如クデアル。」 

かなりの悪文で複数の解釈が可能かもしれない。
私は元部隊長とは赤松のことと考え、赤松隊の保有する通信機により、大町大佐の保有する無線機から発信された米軍による襲撃状況を確認できたとの解釈しました。

通信を郵便物による知らせと解釈し、以下を単なる憶測と推定すればまったく異なった解釈になります。

二番艇が遭難したとする儀志布島と一番艇が遭難したとする前島とは地図で確認すると10キロ以上離れているように思います。 夜中に(おそらく明かりをつけないで)二番艇に乗船遭難し泳いで渡嘉敷に避難(たどり着こうとする反対側(前島方面)を注視する余力があったとは思えない)したとする人たちが一番艇の前島付近での遭難を目視できたとは思えません。

もう一つ、一般に二番艇は船艇に穴が開いて沈没したとされるが、上記の大町大佐の乗船する一番艇にかかる伝聞では何故、穴が開いて遭難した可能性を排除もしくは無視して米軍に襲われたとしているのか、やはり事実だったから、知念が赤松・曽野の意に反し、「富野ではなく、私(知念)が先頭を切って出撃する態勢になっていた」と自白してしまったのと同様の事実開陳になっているのではないかと推測しました。

無線機は当然小型のものになります。  
谷本版陣中日誌に「五月五日晴
 軍司令部船舶団より慶良間列島出身の将兵を以て編成の稲垣少尉以下十一名、沖縄本島よりくり舟三隻を以て渡嘉敷島連絡の任を受け無線機を携行渡嘉敷に到着。」とあります。

クリ船の乗員は4名。マルレは5名まで乗船している。 クリ船は4人で担げたという戦記もあり、クリ船に無線機を携えることが可能ならマルレでも可能でしょう。

無線機

常識的に考えれば、運搬の難儀から最低必要数を残して破壊したのでしょう。無線機とは発電機、アンテナ、受信機、送信機のセットです。とくに94式三号は馬鹿でかいもののようです。

TV映画コンバットにでてくる米通信兵が背中にしょっているようなコンパクトなものではなかったようです。そんなわけで通信兵の員数も多かったのでしょう。

なお、マルレに無線機が標準装備されていたとは読んだことがありませんが、なにか文献でもあるのでしょうか?殉国日記にある皆本義博の書簡には、マルレは無線機非装備と明記されています。

>大町大佐が米軍によって戦死させられたことを示唆する記載は「殉国日記」だけだろう。 無線でわかったというその記事から、大町大佐側も赤松側も無線通話が可能だったことになる。 

無線機で大町大佐の死がわかった という殉国日記の記事も、私には見当たりません。私の見落としなら、どこにあるのか教えてくだされば幸いです。 

無線機の嘘と隠蔽

赤松・曽野は留利加波基地の廃棄提案の理由を泛水に不利だからという。しかしその理由は合理的ではない。留利加波は労力的に泛水に有利。 しかし、軍事的行動について提案する以上、たとえ客観的には間違った前提・近視眼的見方からの提案とみられる場合であっても、軍事的に有利だという理由を赤松は語ったはずである。

 その内容を探る前に米軍上陸前後の赤松隊が携帯する稼働無線について考察したい。


「殉国日記」では、大町大佐が行方不明になったことは無線で赤松は承知していたとされる。 しかし、
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130  には「二十七日未明「通信隊は軍司令部に対し戦隊長敵情報告、電報を打ち五号無線一を残して破壊、本隊に合流 三号無線機一 五号無線機二 破壊」」との記載がある。 後半部は「ある神話の背景」にも記載されている。 

またその前の記事に捜索隊が二番艇の三池少佐の捜索に向かい午後本部に収容したとの記事があるが、大町大佐の記事は掲載されていない。 大町大佐が米軍によって戦死させられたことを示唆する記載は「殉国日記」だけだろう。 無線でわかったというその記事から、大町大佐側も赤松側も無線通話が可能だったことになる。 

未明とは0時から6時までの範囲だろうが不明瞭あいまいな表現で正確な時間を隠したとも考えられる。 現在でも、夜間では、東京湾沖の自衛官と漁船衝突による遭難事故のように小舟から海に遭難した者の捜索活動はむつかしい。 三池少佐が赤松隊と音信不通であるのに、赤松隊が二番艇の遭難を知り、なおかつ、すみやかに救出収容(しかも第三戦隊のほとんどが初めて向かう途中 ?という西山近くの本部壕に)できることはありえないと思う。 速やかな救出の影には三井少佐と赤松隊が無線で連絡出来たからだと考えられる。 

また、敵情報告の内容は記載されていない。 このことと出撃(転進)命令での敵情を略「敵情略」とだけ記載していることは一連の隠蔽と断定する。 当時の日本軍では無線廃棄直前の司令部への報告はこれから全滅覚悟の攻撃をするという訣別宣言のことが多いのだが、何ら説明はされていない。 出撃直前の敵情判断では米軍の沖縄侵攻が極めて近いこと、今出撃の機会を逃すわけにはいかないこと、渡嘉敷で出撃出来なければ、本島で再起を期すことなどの前提が記載されているはずであるが、これらは赤松と皆本にとってどうしても隠さなければならない事項なのだ。


赤松隊は何故早々と無線機を破壊するのであろうか。 無線機を破壊する場面は、全軍斬り込みを決意し実行すれば全滅間違いないという場面が典型的。 阿嘉島の無線機を破壊した第二戦隊は全滅覚悟の斬り込みをしたものの全滅はしなかった。戦記などによると全滅しても不思議ではない斬り込み情況にみえる。赤松隊は全滅覚悟の斬り込みをしていない。 食料略奪の斬り込みを戦術としているから、初めから戦略持久を方針としていると考えた方がよい。 

3月31日には、監視哨を設営している。 山が多い渡嘉敷において無線機がなく、情報を伝令の伝達に頼っていたとすると2,3時間前の情報が伝わることになり、戦略持久の方針に重大な欠陥が生ずる。

  
今ひとつ問題がある。 第三戦隊傘下の部隊が元もと、保有していた無線機の外に渡嘉敷には大町大佐の部隊が持ち込んだ無線機があったのではないか。大町大佐・三池少佐が帰還に際して、携えた無線機や座間味・阿嘉島に持ち込まれた無線機を除き、他に何機か渡嘉敷島に持ち込まれたはずである。   谷本版陣中日誌や「ある神話の背景」には、大町大佐一行に多数の通信兵が加わっていたことを記載しない。 戦局が緊迫していたこと、それに伴い大町大佐が出撃準備の指導をするには今この時しかなかったことを隠すためには、大町大佐と三池少佐が無線機を携えて帰還した事実を隠す必要があった。 もちろん、沖縄本島から新たな無線機が持ち込まれた5月初旬以後は問題ないが、それまで赤松隊が無線機無くして哨戒隊を組織するだけの員数余力と情報的機動性はなく、情報が途絶している孤立部隊が分散・各個撃破される危険が高まる。 通常の軍理からいえば、戦略持久を企図する部隊が無線機を破壊するとは思えない。 


私には、無線機が少ないように、また無線機を破壊したようにみせかけなければ、赤松・皆本・曽野の嘘が暴露しやすくなるのでそのようなみせかけを構築したようにと思える。

 嘘をもくろむ結果、全体としての整合性を持たせるために新たな嘘を導入しなければならなかったということだろう。   

留利加波という伏線による一石三鳥

〈849〉にて、「殉国日記」に大町大佐が前島付近で遭難したとき無線を携えていたことがわかることを記した。

曽野綾子は「ある神話の背景」で大町大佐が渡嘉敷から沖縄本島に向かった様子を描いている。そこには、二番艇に乗った三池少佐の遭難が赤松に伝わったことが書かれている。そこでは赤松隊が1944/3/26夜遅く出航した三池少佐が儀志布島付近で遭難したことを察知したとしている。そして翌27日には第三戦隊から捜索隊を出し、二番艇に同乗した5人はその日のうちに本部壕に戻ってきたとされている。

続いて曽野綾子は「勿論、大町大佐の乗った一番艇の方のことはわからない」と記載する。 「殉国日記」の記載では、赤松は大町大佐が前島付近で米艦戦から攻撃を受けたことを無線で知っていたというのであるから、ここでも嘘の塊-曽野綾子は嘘をついたといえる。  問題はそれだけではない。


儀志布島の対岸付近の渡嘉敷には人気がない。 27日、赤松隊は旭沢から西山陣地への移動でおおわらわ。 真夜中の遭難を知ることが出来たのは二番艇にも無線があり、赤松は無線で二番艇の遭難をも知ることが出来たのではないのか。
これには、伏線があり一番艇と二番艇は何があろうと連絡しないことを申し合わせたとある。 この記述からは双方無線を携帯しており、連絡可能だったがあえて連絡しないことにしたと読み取ることも不可能ではない。しかし、「ある神話の背景」の記述から一番艇と二番艇の距離は着かず離れずで、無線が無くとも連絡は可能な距離と錯覚させることが可能である。


「ある神話の背景」では無線の故障や破壊の記事が載っている。 これらはあまり信頼出来ないようだ。


さて、留利加波である。 「ある神話の背景」で曽野が強調したことは、現場の人間(赤松)には、基地設営地決定の権限もなく、一から十まで司令部が拘束し、赤松に自由な裁量はないのだということ。  これは、3月25日に赤松が大町から多大なる規制を受けたため、出撃が出来なかったという赤松・皆本・曽野ラインの基調の伏線であって、赴任挨拶時の基地変更具申ではなく、10月末近辺の基地隊に対する基地変更要求が事実ではなかったか。


そのような記載によって曽野綾子は以下のような効果を読者に与えようと狙ったのだと思われる。 まず、赤松隊には何の権限もなくすべて司令部の命令がないと動けないという予断を持たせること。 実際には3月10日頃の兵棋演習において沖縄防衛の最高責任者牛島大将は震洋隊長豊廣の敵艦の不意打ち出現に対する単独出撃意向を良し、としているのだ。 まさか大町大佐が牛島大将の意向にあらがったとはいえまい。戦場では臨機応変が重要であり危急と好機に対処するには、上部の決済を待たず独断専行しないほうが悪い、というのが日本軍に限らず軍事の常識である。


第二に、赤松・皆本・曽野ラインはそもそも基地隊がむくれたからそのことが遠因で出撃が遅れたという今一つの筋書きを描いた。そのために基地隊とゴタゴタがあったという記事を実際よりも早々と載せたのであろう。   さらに第三の理由があり得る。


波が高いということは、泛水が不利な理由にはならず、ただ出港時にやや不利というにすぎない。 岩壁・岩礁に係留されるモーターボートなどざらに見ることが出来る。 留利加波のように浜辺から海までの距離が短ければ、下りの傾斜角と相俟って泛水時間の大幅な短縮になることは疑いない。 このことは再度検討してみたいが、留利加波から沖縄本島へは他の基地からよりも距離が短い。 泛水出撃の遅れの一員として留利加波基地の放棄があるのは事実であろう。


曽野綾子はここでも、老獪な嘘つきの手口を踏襲した。 重要事項について疑われる前に自ら進んでまるで事実であるかのようなみせかけをさらけ出すことによって焦点を逸らす。注意を逸らす目的の撹乱とか陽動といわれる手法である。
赤松・皆本・曽野ラインは大町大佐を帝国軍人としておとしめ、元基地隊の反感を承知で第三戦隊の泛水遅れその他の原因を押しつけ自らの失策を隠蔽することを図ったものであろう。

根深い隠蔽工作

〈841〉阪神さん、沖縄・Z旗のあがらぬ最後の決戦(吉田俊雄)の紹介ありがとうございます。 http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524448.jpg.html  より

「このとき、もし大町船舶隊長が、軍司令部と連絡をとり、それによって軍司令部と適切な情報交換をしていたら、おそらく、こんな奇妙なことで、三〇〇隻にのぼる精鋭特攻隊を無為に潰してしまうことはなかったであろう。」  

軍人経験があるものであれば、当然浮かぶ素朴な疑問です。  大町大佐が連れていた7人の無線要員全部とはいわないまでもかなりの部分が渡嘉敷に集合していたはずです。 

ttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2221&file=%E5%9B%B3%E7%89%8832.jpg    左記殉国日記32頁は語る。 「元部隊長殿の通信ニヨリ大町船団長ヲ沖縄本島ニ護送中前島付近ニ於テ敵駆逐艦○ノ水雷艇ニヨリテ砲射連名誉ノ戦死ヲ遂ゲタモノノ如クデアル。」 


つまり、大町大佐は、渡嘉敷から沖縄へ向かっている時も無線機を携えていたらしい。 大町大佐に無線機がないので赤松と長時間やりあつたということではなさそうだ。


話は変わりますが
ttp://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130
「九月二十七日○○○○本部渡嘉敷に到着、同日より同島に於いて任務に着く・・・・ 九月九日・・・・約一ケ月余遅れて到着した第二中隊は留利加波基地に入り訓練を開始したが留利加波基地は外洋に近く断崖絶壁が多いため波高く舟艇の泛水揚陸作業は困難を極め秘匿壕の掘進も遅れ作戦に支障を来たす状態となった。戦隊長は急邊基地大隊と協議、留利加波基地を変更し渡嘉志久基地に移駐せしめたが之が為基地大隊と感情的なものがあったが全軍突貫作業を実施。」  

つまり、第二中隊は遅れて10月27日頃渡嘉敷に着いたことになる。

また、殉国日記46ページでは、http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2222&file=%E5%9B%B3%E7%89%8846.jpg 

「十一月十日部隊ハ三部隊ニ分カレ、第1中隊は南方ノ阿波連ニ第二中隊ハ留利加波ニ、第三中隊ハ中央渡嘉志久ニ駐在シテイタ、」ことになっている。

前者の記述は陣中日誌の体裁としては、9月9日の前に9月27日のことを書いたり、将来の事実を書くのはおかしいというより異例なわけだが、事実と仮定しよう。

以上を念頭において曽野綾子の記述を検討しよう。

「ある神話の背景」の記述では、10月初旬赤松等は那覇の司令部に申告に行き留利加波基地の変更を具申したという。10月9日にも那覇に兵棋演習に行ったという。 前者の申告の意味は戦記に頻繁に記載される恒例の赴任挨拶のことであるから、赴任後あまり時間を置かずなされる。

そうすると、第二中隊の演習もなく、赴任早々簡単な視察〈というより知見〉のみでいきなり基地の変更を参謀に具申したことになる。
これが事実であったなら、いくらなんでもひどすぎるので参謀が怒るのがもっともということになる。  

赤松が留利加波基地の変更を具申したのは「ある神話の背景」のとおり、10月初旬か、「殉国日記」が示唆する11月10日以降か。

追記

吉田氏手元の慶良間戦執筆参考文献として
・戦史叢書沖縄方面陸軍作戦など(公刊資料)
・山岡荘八「小説太平洋戦争」(公刊資料)
・『戦史叢書』のための各部隊幹部供述(未公開資料)
・慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要(渡嘉敷村遺族会)
・赤松嘉次や皆本義博との往復書簡
・第32軍高級参謀八原博通資料(未公開資料)
などが考えられるかも。

吉田俊雄さんの本

吉田俊雄氏とは海軍軍令部少佐だったのですね。戦後は防衛庁に勤務。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E4%BF%8A%E9%9B%84

抜文拝見しましたが、かなり詳しく書いていますね。『戦史叢書』のために聴取した未公開資料も読んだのでしょうか。文章は、記録というよりも創作小説ですが。

玉井喜八氏は村長として、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会、一九五三・三・六)と、赤松命令説を紹介したのではないでしょうか。吉田氏はそれを疑いなく書いていますね。玉井喜八氏は昭和20年の戦闘時は渡嘉敷島には居なかったから、体験を提供する立場ではありません。提供したのは、吉田氏の取材時に島で定説となって居たことがらでしょう。

吉田俊雄氏の本・続き

この本では玉井喜八氏の発言がどの部分に反映されているのか不明なのが残念です。
曽野綾子の取材した前年発行なので曽野がこの本を見たかどうか気になりますね。
*追記 ある神話の背景の巻末にある参考文献にはこの本はありません。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524477.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524506.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524526.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524536.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524567.jpg.html

吉田俊雄氏の本

沖縄・Z旗のあがらぬ最後の決戦(吉田俊雄)は69年10月30日に初版が発行されました。同氏は中村仁勇氏、玉井喜八氏に現地取材しています。参考図書には渡嘉敷島の戦闘概要もあります。吉田氏の本は下記の通りですがマルレはコロにのせて運んだ事になっています。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524394.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524420.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524434.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524448.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1269524464.jpg.html

地名と屋号

潮1971年11月号、百人の証言の中に松川に住む古波藏さんという女性を発見して少しドキッとした。那覇市に松川という地名があり、あまり離れていない地区に古波蔵という地名もあるようだ。 しかし、沖縄本島から離れている渡嘉敷島に関係はない可能性が強い。

ttp://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/d31d73c6da511ef14794cd77d777851c
上記に「ところが、同時に、捕虜となったものについては日本軍の目は厳しく、米軍と接触した人は容赦しなかった。マチガー小の上原武造がその一人である。」とある。   次に


ttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1007.html
「このスパイ容疑による住民の処刑は阿佐部落でも起こった。上原武造(阿佐・マチガー小)が米軍に保護された後、食糧がたくさんあるからと、大勢の住民が避難していたヌンルルーガマに呼びにきたため、スパイだということになったのである。」つまり、沖縄では、松川はマチガーと読む。東川をフィジガーと呼称するのと似ている。また阿佐部落付近の地形をグーグル地図で拡大すると川は存在するようだ。 

松川が地名だとすると真っ先に推測出来るのは自爆し、辻中尉を負傷させた「松川のにいさん」は隣島の座間味島阿佐から婿入りでもしたのかということ。  しかし、そう簡単に断定は出来ない。

一つには、沖縄の屋号との関連性がよくわからない。日本でも屋号という表現はあり、現在最も使用されるのは飲食店の名前。  しかし(同族と信じられた一族を)本家・新屋など区分のための呼称が屋号の元の使用法。

ttp://www.beerbreak.jp/special1.htmlということで沖縄の屋号の実際の使用例は
http://mamo.huu.cc/seitoyago.htm
のように、地名を元にしたもの、家屋の形状、方角などさまざまである。  つまり、松川が地名だけであるのか、屋号だけであるのか、どちらにも該当するのかはっきりしない。 

 屋号の意味だけであれば、同姓の親戚を「新家の○○ちゃん」と呼称しているのと同様であり、古波蔵蓉子のいう「松川のにいさん」は古波蔵姓である可能性が高まる。  座間味から婿養子で来た(沖縄に婿養子という文化があるのか不知)者を本土では実家をつけて実家名・義兄と呼称することもありうる。

というわけで、松川のにいさんの姓を古波蔵ではないと否定はできないが、断定するにもまだまだ証拠が少なすぎる。

分かれる3つの集団の運命

まず、nio615さんに少しだけ返答しておきましょう。 (1)ですが、http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/840.htmlでは、写真の左にある赤松の会合説明が読みにくい為、拡大した部分だけを引用しました。 
私は、青い海での「私を信じてほしい」という赤松の弁明を検討しているわけではなく、会合が戦友会と関連があるかどうかを検討しているためです。 
 (2)も同じことで私も、豊田市の投稿者と同じように最近まで会合が戦友会と関連があるように考えていたことを示すためです。 

 (3)については、(情報量の少ない読者に対して)ある程度nio615さんの言い分には理を認めます。 ただし、あれだけ証言などを集められたあなたは、いろいろ引用しなくとも自決に際して身内や一族が固まりとなった話が複数存在することは充分承知しているはずと考えております。  後、推測は推測として記述しているので、訂正までする必要性は感じません。


さて、書店で「沖縄/暴力論」を立ち読みしました。  うろ覚えで正確な引用ではないことを断っておきますが2つほど参考になることがありました。  「それは島」の再収録ですが、島の青年が「軍も年長の島民も、何かを隠している。そのことは将来に禍根を残すので真実を知りたい」という趣旨だったと思う。 これらの青年達の言葉にたいへん共感を覚えた次第です。


同じく「それは島」の再収録のようですが、匿名氏が「自決が(一区切りついた-このような表現ではない)あった後、米軍に突撃する話があり、本部付近にたどり着くと、別の島民の一隊が集まっていてびっくりした」という話である。

 この話は〈775〉に引用したhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1444.html
「阿波連からオンナガーラに行くには、右と左の二つの谷間の道、道ともいえない道で、薪とりなどに通う細い道です。阿波連の人たぢは、そこで二つのグループに別れて行動し、私たちは、こちら側の谷間にいて、運よく助かったが、もう一つの谷間をたどって行った人たちは、玉砕場に行き、ほとんどが亡くなった。」という証言と関連があると思われる。 

 金城牧師の証言にも軍民とも全滅したと思っていたのに、島民がいてびっくりした話がある。
恩納河原は阿波連より本部に近い。恩納河原に陣取っていた渡嘉敷部落の人達と阿波連の人達には伝令が伝わる時間が異なる。さらに阿波連の人達であっても、隠れていた場所の関係か本部付近に向かって、出発時間の異なる2つの集団があった。  当然、渡嘉敷部落の住民は早く本部壕に着き、北山盆地に移動するよう命令された。 これまでの情報から3つの集団について可能性が高いと思われる経緯を記述する。 

最初に出発した集団はそこ(フィジガー)で、村長か、巡査もしくは両方が伝令を出すことを決定し〈ある神話の背景〉、何らかの情報に基因して自決が始まったと考えられる。(1944/3/28日13時+-2時間) その後渡嘉敷の島民は第2自決場に移動した。  


 遅れてきた阿波連の島民のうち、早く到着した人達は、数十人の死体を見、日米の交戦を確認し、軍民の全滅と思い込み、かねてから軍に吹き込まれた自決に及んだものと推測される。  そして、この人達の死亡率は3つの集団の中で群を抜いていたことが渡嘉敷島のホームページから予想される。


しかし、阿波連の、遅れて出発した島民はどういう理由からか交戦のタイミングと、時間帯も1つの理由になるのであろうが、本部に近い場所に集まることになり、難を逃れた恰好になる。   この集団は自決全般について、その他の集団とは異なる見解を持ちやすくなる。 また、自決の経緯についてあまり知識がないだろう。 曽野綾子が経緯について知識の乏しい第3の集団の証言を多く集め、再構築し住民が自然に自決場に向かったように記述した可能性が高い。

引用は適正に

和田さんへ

私のサイトから引用した部分についてだけ、デタラメや無意味な誇張を指摘しておきます。

(1)
>青い海に投稿した写真について赤松は第三戦隊の旧隊員がほとんどとしている。

写真が赤松の提供によるものかはわかりませんが、(赤松提供なら赤松の説明にもとづいて)そのキャプションは雑誌「青い海」編集部がつけたものでしょう。それは、

「つい先頃、名古屋で沖縄の召集兵も交えて旧隊員が旧交をあたためた。取材中の作家・曽野綾子さんの姿も見える」
となっています。和田さんの記述のようにはなっていません。

なお和田さんは雑誌記事本文のURLを示していません。まったくマナーに欠けるこのような引用の仕方には、抗議せざるをえません。こういうときは、記事全文が読めるこちらのURLを示すべきです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/840.html

赤松寄稿文を読みますと、その中では名古屋での会合には何も触れていません。誤解を招かせる和田さんの記述にも、強く注意を喚起したいと思います。


(2)
>ttp://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php
>上記豊田市の方によると

これは私のサイトの掲示板のURLですが、全く引用の体をなしていません。いったい、読者にどこを読めというのでしょうか? 無責任なURL記載は削除してください。

(3)
>ttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/794.html
和田さんは何の説明もしませんが、沖縄タイムス連載「命語い」(9)の転載です。
吉川勇助さんからの聞き取り証言の記事です。

>「役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。」

記者の聞き取りは、吉川勇助氏が<役場職員だから>古波蔵村長のそばにいた、と記しています。しかるに和田さんは、<旧姓が同じだから>傍にいたという全く異なる解釈を無理やり押し付けています。それはこの記事から引き出せるものではありません。スリカエ手品でしょうか?詐欺行為です。

和田さんが記事に書かれてない因果関係を展開するためには、この記事とは別の独自の典拠を示さねばなりません。

その上、狼魔人の力まで借りて、

>離島の渡嘉敷で古波蔵一族には「犬神家」ばりの、狼魔人が隠しているどろどろした何かがあったのではないか。

といったフザケた妄想を結論とするに至っては、開いた口がふさがりません。歴史修正主義者、ネトウヨでもここまでの牽強付会は致さぬでしょう。

ttp://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu01.pdf
上記によると、防衛隊戦没者42名のうち、援護法の適用を受けなかった者が4名いるようである。 遺族からの申請がない場合は適用がなかったのか、たとえば6親等までの親族がいない場合は申請できる者がいないのか、また申告により刻銘した者という意味がわからないのでその他の事情があるのか不明です。

ttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=840&file=aoiumi-akamatsu.jpg
青い海に投稿した写真について赤松は第三戦隊の旧隊員がほとんどとしている。 「ある神話の背景」で曽野綾子は同じ時期に豊田市で「赤松氏を囲む会」が開かれたと記載している。 普通会員が50才程度で開かれる戦友会の出席率は非常に高い。高校なら20%くらいだろうが、(寝食ばかりか生死を共にしたせいか)戦友会の出席率は60%を超えることが多い。実際、1968年の第三戦隊の同窓会には62人が出席したという。当時死者を除けば母数は80人程度。 大阪の会合は目的を持った会合だったので多くない。 


ttp://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php
上記豊田市の方によると、当時豊田市では大規模な隊友会は開きにくかったようだ。とすると、名古屋で戦友会を開き、一部の者が豊田に移動したとも考えられる。 しかし、今の私は名古屋での戦友会や会合はなかったと考えている。
「青い海」の会合写真を見ると、当時50歳が平均的である第三戦隊の隊員より年上、年下と見られる者が何人かいる。


大城良平と考えられる人物の後ろの若くみえる人物は35年以上経過した写真だけの推測だが阿波連赤松派として知られるK氏にみえる。後頭部と横顔の一部しかみえない人物は頭髪などから50歳よりは上にみえる。

 おそらく、遠藤等第三戦隊の者もいるのだが、島民で積極的な赤松派及び集団自決は島の地域振興にとって有害無益、早く記憶を消し去り、国立青年の家の誘致など島の利益を図りたいと考える島民が会合に加わっている。 赤松が名古屋とぼかし、戦友会のようにみせたのはやはり、新聞記者や「青い海」編集者から会合の謀略性を隠すためではないか。 

 曽野綾子は、「ある神話の背景」の後半でほとぼりがさめた、と判断し、豊田市の地名を明かしたのであろう。

ttp://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/6bfbc8d8013cc397415e0eb0f674feb8
狼魔人によれば、渡嘉敷島の住民で、戦後古波蔵姓を改正した者が非常に多い。しかも、最も注目されることとして、驚いたことに自決当時島にいなかった戦後の玉井村長も元古波蔵姓という。

狼魔人には非常に多くの情報が集まる。  情報通の狼魔人には元第三戦隊員や渡嘉敷の赤松派とコネクションがあると見るべきだろう。

 既に指摘したが、狼魔人は土民とクリ船について恣意的な誘導を試みたが、土民は本土兵の沖縄蔑視であり、クリ船は赤松・曽野の事実撹乱工作であったことがわかっている。 

上記の件も狼魔人が誘導しようとしている楼閣と事実は異なるのだろう。 古波蔵→吉川(嘉勝)と書いているが兄の吉川勇助は抜け落ちている。


ttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/794.html
上記によれば「役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。」   

    他の多くの証言からも自決当時、一族が固まっていたという。 吉川勇助が古波蔵姓であれば、吉川勇助が村長の近くにいた蓋然性は高まり、証言の真実性が強まる。 

 狼魔人はここではあえて、集団自決に関して、より有名な兄の吉川勇助の名前を外した。   狼魔人は他の所で自らの楼閣を真実に見せるためその材料として吉川勇助が村長の親戚であることを明かしている。 

 古波蔵姓が全員親戚とは限らないが、血縁擬制観念により、古波蔵一族という同族観念はあったと思われる。

離島の渡嘉敷で古波蔵一族には「犬神家」ばりの、狼魔人が隠しているどろどろした何かがあったのではないか。

疑問2点

梅澤氏が昭和33年頃に週刊朝日とサンデー毎日で自決命令の記事を見たとの事ですが、なぜ2誌に取り上げられていたのでしょう。何かの事象があったから2誌が取材したのではないでしょうか。その事象が何であるかは雑誌が見つからないので不明です。
梅澤氏が座間味を訪れなかったのは、70年の赤松騒動があったから同様な騒ぎになるのを恐れていたとの事ですが、座間味の住民に事前に知らせないで行けば誰にも気がつかれないのだから恐れる必要は無いはずです。そんな事さえわからなかったのでしょうか。富村順一に嗅ぎつかれる前に座間味に行って住民に謝っておけば、現在のような混乱状態にならなかったのではないでしょうか。

墓碑銘の検討

和田さんこんにちは。渡嘉敷の刻銘方法については不明ですが、参考までに「死者たちの戦後誌(北村毅)」によると、摩文仁にある平和の礎は1993年4月から7回にわたって平和の礎刻銘検討委員会が石原昌家氏を座長として開催されたそうです。
沖縄県庁の平和・男女共同参画課に刻銘の基本方針が出ています。
http://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=11&id=7791&page=1

早とちり

阪神さん
指摘有難うございます。

また早とちりですね。確かに、大城徳安と読めます。 同じ姓の者を固まりにしいるように思ったのですが最後まできちんと確認していませんでした。

他に例外があるかを含めて再検討する必要があります。

規則に例外があつたということなので、またその原因を詰めていかないといけない。  いろんな可能性があり1 集計者がゆるいまとめかたをして集計していたため追加分は後に残った。 2 複数の規則(たとえば、渡嘉敷島出身と他島出身を分ける規則とか、ある時期より遅い戦没者を後ろに持っていく)がある。 3 集計者に戦没者に入れるかどうか、迷いがあり結局入れることになった。  

もとより、他にも考え方はありえます。

確認

大城徳安さんの碑銘は転載ページでも確認できました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2598.html

掘り込み

和田さんこんにちは。文字は浮き彫りではなく、石に彫り込んでいるだけです。消された名前は、上から硬いもので削られただけのものと、セメントみたいなものを上から塗ったものがありました。ちなみに摩摩文仁の丘の場合はもっと丁寧で名前の削除は長方形に掘り込んで、そこに長方形の石を詰めるようにしています。
大城徳安氏の名前はあります。
http://b4.spline.tv/chopper/?command=GRPVIEW&num=446

氏名削除の謎と大城徳安

処刑された、訓導かつ防衛隊員であった大城徳安の名前が防衛隊戦没者名簿に当初から記載されていないようだ。 同じ姓の者を並べているので後から削除されたものではないようだ。  

大城訓導が渡嘉敷出身ではないにしても、渡嘉敷出身でない大町茂の名が碑文に記載されていることと対照的である。 記載されなかった理由はよそ者でかつ地位が低いからなのか、スパイ容疑で処刑されたことを理由に名簿から外れたのか。 いずれにしても現段階では、名簿記載の権限のある人物が靖国思想に染まっていた証拠ではないかと考えている。


さて、2名の名簿が削除された理由を直接知るのはむつかしいだろう。  碑を建立した側が削除したのか、それとも記載された者の親族が削除を希望したのか。 もちろん、死んだはずの人物が実は生きていたということもありえないわけではないがその確率は非常に低いだろう。 

 碑を見られた阪神さんが確認出来たかどうか、名簿は浮き彫りか、ペンキなどで描かれているだけか、削除されたように見えるのは浮き彫りが削られているのか、ペンキの上にペンキを塗っているのか。ずっと昔に削除されているのか、最近削除されているかの判断もむつかしいだろう。
それらのことがわからなければ、削除理由の解明はむつかしいだろうがいろんな可能性を考えておきたい。


1 死んだはずの人物が生きていた。  
  2 削除された人物の親族が、名簿に記載されることを拒否し削除を希望した。
 3 碑文作成側が、その後削除者を載せているのは適当でないと判断して削除した。
 4 何者かが、削除者を削除する必要があると考え削除した。その場合、動機は恨みや何らかの事実を隠蔽する目的などが考えられる。

たびたび

阪神さん
ご足労をおかけしました。しつこい質問にお応えくださって、本当にありがとうございます。

当該ページには、このコメント欄へのリンクも付けて置きます。

滝つぼは西

ni0615さんこんにちは。
>私が推測した「自決の地」碑の位置が間違っているのでしょうか?
位置は正しいです。

>貯水場に先に下りてから沢筋を遡ったのですか?
貯水場までは自決の碑の付近にある破線の道を歩いて下っていきました。貯水場に辿りついてから沢を50mほど上っていきましたが、上までかなりの距離があるし時間が無いので諦めました。時間があれば沢登をしたかったのですが今回は仕方がありません。いつか渡嘉敷に宿泊して実行しようと思います。ただ、自決の碑の周囲はハブが入り込まないように壁で囲まれていますので、沢登りをしても壁に阻まれるでしょう。
>東と西の2本の川の、どちらを踏査したのですか?(「滝壷」の位置)
西側です。滝壺は西側にあり水源から30mほど下の所にあります。今考えたら、川を辿れば東側の川にも行けたのに、と後悔しています。次回の課題にしておきます。

Re:フィジガー

阪神さん
小生の考察図をチェックしてくださりありがとうございました。

>合流点はもう少し手前でした。赤線で引いてみました。

なにぶん私は一度も現地を踏んでいないので、地形図で等高線の凹部をトレースしただけです。それが違っているとすると、地形図自身が現実とかけ離れているのかもしれませんね。それとも、私が推測した「自決の地」碑の位置が間違っているのでしょうか?

>貯水場までの道は地図の破線で示されています。

阪神さんは、貯水場に先に下りてから沢筋を遡ったのですか? また、東と西の2本の川の、どちらを踏査したのですか?(「滝壷」の位置)

http://b4.spline.tv/chopper/?command=GRPVIEW&num=445

フィジガー

ni0615さんこんにちは。
合流点はもう少し手前でした。赤線で引いてみました。貯水場までの道は地図の破線で示されています。何年か後に再度この場を訪れて、捨てられた台座に何が書かれているか、また、もう一方の川の源流も見てこようと思います。
http://b4.spline.tv/chopper/?command=GRPVIEW&num=445

2本の川

阪神さん
→考察図「玉砕場の川」
をリンクしましたので、
阪神さんが歩いた行程や滝の位置などを、チェック願えませんか。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2598.html

中飛行場です

キー坊さん、こんにちは。
>民間人の立ち入りも自由な中飛行場だと思います。
そうです。中飛行場です。米軍のいる西飛行場を見に行ったら施設の周りは木で目隠しされており、中は見れませんでした。

伊江島補助飛行場

 阪神さんが以前リンクしてくれた伊江島補助飛行場の写真は、今米軍が使っている一番西側にある滑走路のものでしょうか?(日本軍が造った三本の滑走路のうちの西飛行場)
東は今民間空港になっていて、上空写真で見れば中もまだ在るようですが。
http://www4.himitsukichi.info/panther_pc_viwer.php?category=scenery&bname=1233844511&fname=1263512537&extnt=.jpg

写真はおそらく、ほとんど整備されてなく、民間人の立ち入りも自由な中飛行場だと思います。ここを普天間移設地として改造すると、「重大な施設建造」になって受け入れ難いものです。しかし、西飛行場は今、海兵隊が使用しているから整備されているはずで、「重大な建造」をしなくても普天間の移設は可能な感じがします。
これは最近気が付いたことなので、もう少し調べてから意見を述べようと思います。

アップしました

「阪神さんの写真記録」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2598.html

>2本の川(Y字型になっていて100m位で合流しています)は不連続ではなく普通の川で、工事したような跡も感じられませんでした。自決地の碑文がある所を平に均したのだろう事はわかるのですが、裏側の林の中は特に工事したようには感じられませんでした。

私が申上げたのは、2本の川のそれぞれの源流部分が基地建設工事によって喪失(不連続化)されたのではないか、ということです。阪神さんの観察ともいまのところ矛盾しないかと思います。

掲載お願いします

ni0615さんこんにちは。
>もし差し支えなかったら、私のサイト(資料庫)に掲載させていただきたいと思います。いかがでしょうか。
掲載のほど宜しくお願い致します。レイアウトはよくわかりやすくていいと思います。
2本の川(Y字型になっていて100m位で合流しています)は不連続ではなく普通の川で、工事したような跡も感じられませんでした。自決地の碑文がある所を平に均したのだろう事はわかるのですが、裏側の林の中は特に工事したようには感じられませんでした。ぶんなげられた台座のようなものは米軍のユンボで谷間に捨てられたのでしょうね。

試作です

阪神さん

試作品です。
(ページ化したhttp://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2598.htmlため URL削除変更)
PCにダウンロード(右クリックで「対象をファイルとして保存」)してから、ファイルを開いてください。

改良点やご注文がありましたらどうぞ。
WEBにアップしない方がよいならそうします。その場合は私家版としてご利用になれます。

写真ありがとうございました

阪神さん
たくさんの写真見せてくださって、ありがとうございました。
もし差し支えなかったら、私のサイト(資料庫)に掲載させていただきたいと思います。いかがでしょうか。

なお、玉砕場の2本の沢ですが、その頂上部分へいく斜面は、米軍基地化の際の整地作業によって大きく変形し、沢も不連続になっているのではないかと予想してましたが、阪神さんの報告は、そうであるようなそうでないような。

防衛隊2人消えている

阪神さん
御苦労様です。

写真による防衛隊死者名簿合計40人であることを確認致しました。
ところで
http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu01.pdf
上記によると防衛隊戦没者数は42名です。

そして、碑文で古波藏○氏の前と富里政吉氏の前、各1名が削除された形跡(空白と白い塗痕)が写真からも確認出来ます。

住民については、大町茂の前に空白があり他最下段新垣政吉の前に1名削除の痕があります。 
大町茂は軍人大町大佐であり、沖縄本島の軍人病院で死亡した第三戦隊員を削除した可能性があります。

そうすると、防衛隊の2名削除の理由がはっきりしません。  新たな謎といえそうです。 

松川は地名の可能性が高まったといえます。 

意外に広い玉砕場

金城武徳もユーチューブ映像で、自決跡地の碑のあたりを指し、この辺に人が輪を作っていた、と言っていました。
曽野は、「ある神話ー」を発表した当時、なるべく自決者の数を少なく印象付けたかったのでしょう。それは多分、援護金を多く貰いたいが為に自決者の数を水増ししたのだと、暗に言いたかったと思います。

碑のある場所で自決した家族も

こんにちは。「狙われた「集団自決」(栗原佳子)・社会評論社」によると吉川嘉勝さん家族は谷間ではなく集団自決跡地の碑がある平場で家族と円陣を組んだそうです。ということは頂上の平地から川に沿って人々がひしめいていたのでしょう。

玉砕場

キー坊さんこんにちは。
玉砕場で村長がいた場所が、碑が建っている場所だとしたら、そこは平らな所ですから数百人でも集まれます。もし滝つぼがあった所に村長がいたとしたら、そこは傾斜地であり数百人(700人程度?)が集まるとしたら川沿いに人がいることになり、川の下流に向けて200m程度の縦長の状態で人が集まっていたのではないでしょうか。村民証言によると傾斜地にいたようですから、川沿いに縦長に人がいたのでしょうね。下のほうにいた人の多くは、上の方で手榴弾が爆発するのを見て逃げ出したのではないでしょうか。死にたくない家族は、自決する決意満々である村長らの傍にはいたくないでしょうから、下のほうにいたのではないかと私は推測します。
滝つぼが戦前からあったものなのかどうか不明ですが、もしかしたら砲撃で穴が開いた所なのかもしれませんね。

玉砕場の広さはどの位?

阪神さん。お疲れ様です。
写真有難うございます。玉砕場まで降りたのですね。
曽野綾子は、そこは傾斜地でとても数百人の住民が集合できる場所でない、と書いてますが、やはりそうでしたか?

尚、上原正稔訳の「沖縄戦ショウダウン」によれば、慶留間島が米軍が最初に上陸した地だそうです。(45.3.26満潮の朝)
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/masatosi/showdown1.html

渡嘉敷

こんにちは。
渡嘉敷島、阿嘉島、慶留間島に行ってきましたので写真を紹介します。
渡嘉敷島の資料館には曽野綾子の戦跡碑文原稿、第三戦隊陣中日誌、渡嘉敷島の戦闘概要(写)、渡嘉敷島における降伏調印文書、谷本小次郎氏の従軍証明書が展示されていました。写真は公表不可との事なのであしからず。
白玉の塔に死者数内訳がありました。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265420766.jpg.html
因みに、この塔の近くに自衛隊のヘリが発着訓練する場所があり煩かったです。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265420867.jpg.html
死者の名簿には松川姓は見つかりませんでした。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421092.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421119.jpg.html
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421135.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421147.jpg.html
自決の地の裏側には川が2本ある事がわかりました。
去年見た川には大きな(2t位か)台座のようなものがぶんなげられていました。
台座には何か字が刻まれていましたが、ロープがないと台座のある場所まで降りていけないので判読するのは諦めました。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265420928.jpg.html
この急斜面の反対側にある川は普通に辿りつけました。
そしてついに見つけました! 曽野綾子が降り立った滝つぼを。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421187.jpg.html
一口水を飲んでみましたが特に味は感じませんでした。
滝つぼから下の風景です。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421200.jpg.html
滝つぼの上流にある水源です。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421222.jpg.html
2本の川は滝つぼから100m位下流で合流していました。
東川が海に注ぐ所に行けるかと思い、去年断念した草ぼうぼうの道を歩いて降りていきました。
この道は旧型ジムニーでなければ走破出来ないでしょう。
道は小さなダムの所で途切れていました。よって海までの道はありませんでした。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421267.jpg.html
これは自決地から本部陣地方面の景色です。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421323.jpg.html
恩納河原下流は二期作の米の産地です。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421361.jpg.html
このあたりは道端でやぎを飼っています。ドラム缶をねぐらにしています。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421380.jpg.html
教育委員会の方に尋ねたところ、本島から買いに来る人がいるとの事でした。
レンタルバイク屋の御主人によると、ヤギ汁は動物園の臭いがするとの事です。今度食べてみようと思います。
渡嘉志久の秘匿壕前50mから海を見るとこんな眺めです。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421425.jpg.html
同じ地点から壕を眺めました。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421439.jpg.html
渡嘉志久ビーチです。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421488.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421501.jpg.html
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421513.jpg.html
壕をじっくりと見た所、去年見た時の記憶より高さ、幅が狭かったです。高さは1.8m、幅は2mといったところでしょうか。とてもバスは入れませんね。せいぜいエスティマ2台でしょう。この壕の中ででは爆雷の装着はかなり難しいでしょうね。他の壕を道なりに探しましたが見つかりませんでした。教育委員会の方によると、埋めたのだろうという事です。確かに、崩落等で危険ですから、埋めるのが妥当でしょうね。
慶留間島には第一中隊舟艇壕がありましたが、掘っている最中のもので軽自動車1台さえ入れないような浅いものでした。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421550.jpg.html
慶留間島は米軍上陸が一番早かった地なのでしょうか、記念碑がありました。
ttp://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1265421574.jpg.html

「URLの数が超過しています」となってしまうので、hを削除しました。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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