2017-10

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ある本への書評2-垣間見せる悪意

特定の対象の欠点・難点・問題点をあげつらう場合、言ってる者がその対象を良い方向に持っていこうという気持ちが有れば、それはヘイトスピ-チとは言わない。だが、読む者に対象への悪印象を与えようとの目論みを持っているとなれば、当然それはヘイトスピ-チである。

沖縄を詳しく知らない人が、大久保潤の「幻想の島 沖縄」を読んでも、悪意を持っている本かどうかは判断できないだろう。判断できないと言うより、よく知らないからそんな事には頓着せず、単純に「沖縄の現実はそんなものか、驚いた!」と感心するだけになると思う。
書いてある事はデタラメではないし、個々の記述の大方は的を得たものだと思う。毎年毎年多額の補助金が沖縄に与えられてきたのに、沖縄の経済が自立的な方向に進むことはなく、益々日本政府に寄り掛かる沖縄の経済界、及び社会の歪んだ仕組みが強められていく。そんな沖縄のやり方はダメだから補助金に頼る政策を止めて米軍基地をなくし自立しようと、大久保は沖縄に提言するかのようである。まったく言うとおりである。
だが、そういう政策の進め方は日本政府が「強制」したものである事は、新聞記者である彼には十分に分っているはずである。米軍基地を沖縄に押し付けておく為に、自民党政府が採り続けてきた「沖縄愚民化政策」「植民地施策」に他ならない事を知らないはずはない。
そんな状況からの脱却を沖縄に勧めるなら、著者は日本政府のやり方に追及の目を向けなければならない。本には日本政府の沖縄施策を正面から批判する姿勢は見られないのに、沖縄社会の矛盾点・問題点・悲惨状況は延々と述べ立てている。
沖縄のことを詳しく知らない大和人、あるいは自分の土地の事に無関心な沖縄人も、この本が沖縄に対する「悪意」のこもった文書である事に気が付かないだろう。ある程度沖縄を知っている大和人でも問題意識を持ってなければ、この本の記述に感心して高く評価するかもしれない。
私も、今沖縄に住んでないから全てに詳しい事を知っているわけではなく、この本を読んで知った事も多い。だが、自分の故郷の事だから、書いた人物がどういう意図を持って書いたのかは感覚的に判るつもりである。本質論に踏み込まないで、数多い沖縄の問題点を言上げする記述はヘイトスピーチだと判断するしかない。

この本は全編に渡って、悪意があるかどうか判りにくい記述になっているのだが、明らかに悪意があると私が思う記述が2ヶ所ある。
またしても奄美がらみの話になってしまうのだが、1ヶ所は「奄美と沖縄」(p259~p264)という項である。この中で、
「(喜界島の)遺跡からは、古代末から中世の大規模な建物跡が見つかっています。…」と書いた後、「沖縄の一地方と見られていた奄美諸島史が塗り替えられ、奄美はヤマトの最南端…」
と書いている。大久保は何を言いたいのだろうか?
大島・喜界島はより日本に近いのだから、沖縄よりはヤマトに近い文化遺産があっても不思議はない。琉球列島も民族的・文化的に日本とは繋がりのある民の住む地域である事は当然であり、奄美に対して沖縄が文化の中央と言えるものではないだろう。ただ同一文化圏内で、政治勢力的に沖縄が奄美を支配下に置いていたとは言えるのではないか。宮古・八重山を支配下に置いていたことと同列である。
大久保が言うように、喜界島でヤマトと強い繋がりを示す遺跡発見がされたと言っても、奄美地方はヤマトであるというのは短絡的に過ぎるのではないか。たとえ将来、それが学問的に証明されたとしても、1609以後薩摩が苛斂誅求を行ってきた歴史を見れば、奄美がヤマトと同じ民族だと言うことはできまい。薩摩の奄美への植民地支配を正当化したい為にする言説ではなかろうか。
もちろん、沖縄と奄美は同じ民族だとも、簡単に言える事でないが。

これに続いて、
「佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』には、奄美出身者が沖縄で受けたすさまじい差別の証言がいろいろと書かれてあり、読んでいてやりきれなくなります。」「(奄美は)1953年に本土復帰しましたが、それにより沖縄で生活していた奄美出身者は『外国人』となり、選挙権がなくなったり、公職から追放されたりしました。奄美の人の沖縄に対する恨みは根深いものがあります。」
と、事も無げに書いている。佐野眞一の言ってる事をオーム返しに言っているのだ。大久保はジャーナリストとしての批判の目を持ってないのだろうか。佐野の「沖縄の奄美差別」の章を読めば、その取材は誰から取ったのか判るはずである。大久保は「惠忠久」「奥茂治」の二人の奄美人を知っているはずである。2008年の2月まで日経支局長として沖縄に居たから、その時期に起こった米兵の女子中学生暴行事件に絡んで、惠忠久が「産経」「世界日報」の2紙にいかがわしいビラを折り込んで、被害少女の人権を害した人物である事を知っているはずである。奥茂治についてもどんな人間だか知っているはずである。知ってながら、佐野眞一の歪曲・誇張した「奄美差別」の記述に何の検討も加えず、当然な事のごとくに自分の文章に引用している。この部分は明白な「ヘイトスピーチ」というしかない。

もう1つの明らかな「ヘイトスピーチ」だと思うのは「議論ではなく糾弾に」(p174~p187)という項である。これは2005年に発覚した「青学高校入試問題」についての事だが、修学旅行の生徒が姫百合の塔で、語り部である従軍学徒の生き残り女性の話を、入試問題に「退屈」だと書いた英語の文章が沖縄側から批判された事を大久保は弁護して、沖縄側の告発姿勢を批判している。

「青学の入試問題は全文を読めばよくわかるのですが、『戦争を伝えることの厳しさ』そのものを題材にしており、まさに沖縄にとって切実なテーマです。沖縄側の被害者感情を我々も十分理解しなくてはいけませんが、若い記者まで一緒になって『青山叩き』をする姿には寒々としたものを感じました。」
と書いている。私はその当時断片的な報道を読んで、沖縄の語り部もマンネリに成っているかもしれない。この件については沖縄ももっと語り口を退屈させないように工夫しなければならないかも知れない、と思っていた。だが、大久保の言うように全文を読んでみたら、かえってこの青学の入試問題文は沖縄への「ヘイトスピーチ」であると思った。
和訳されたものをHPに転載した。問題文は語り部の話は「退屈」だと述べた後に、

「言葉の持つ力は強い。でも問題はどのようにそれを受け手が理解するかである。もし聞き手が話し手の思想を理解しなければよい話もただの言葉の羅列になってしまう。またもうひとつの問題は話し手の意見が強すぎる時であり、それはその話自体に違った意味を与えてしまうことがある。
 この夏中国で行われたサッカーの試合を覚えているだろうか?多くの中国人が日本チームにブーイングをした。多分その中の多くの人が親から戦争の話を聞き日本に対する考えを作り上げたのであろう。もちろん彼等が親から聞いた情報が間違っているとはいうべきではない、しかし親たちは彼等にまさに何をどのように伝えたのだろうか?」


という文章が続いている。沖縄の戦争への語りを、同時期にあった中国でのサッカー試合における、中国観衆の日本チームへの無粋なブーイングに擬(なぞら)えている。あのサッカー試合での中国人観衆の態度はひんしゅくモノだと誰しも思う。次元の違う事柄をスポーツの試合に持ち込む事は、スポーツを見る態度としては褒められたものでない。
青学の問題文は沖縄の戦争への語りを、あのサッカーにおける観衆の態度と同列に置いているのである。問題英文は明白な「ヘイトスピーチ」でしかない。学校当局が謝罪したのは当然だと言える。

若い記者まで一緒になって『青山叩き』をする姿には寒々としたものを感じました。」と沖縄の記者を貶す大久保のモノ言いもまた、沖縄への明白な「ヘイトスピーチ」である。3年間日経新聞の沖縄支局長だった大久保潤は、その滞在中沖縄全体にある日本(ヤマト)へのモノ言いに、うざったい思いを持ちながら過ごしたのではないか?「幻想の島 沖縄」はその憂さ晴らしに書いたのではないかという気がする。
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コメント

週刊誌記事はすべて信用出来ないか

nio615さんは、週刊誌に書かれていることは信用出来ず、1968年の週刊新潮に「戦争の様相」が1950年に書かれたとの記載は資料的価値がないとした。 

週刊誌の記事は百%信用出来ないのか。 週刊誌とは限らないが、最近話題となった3件の捏造情報を検討しよう。 永田元議員が暴露した偽メール、自分が赤報隊の諸事件の犯人だと名乗り出た週刊誌記事、八百長相撲があったとする週刊誌記事。 これら3件は骨格部分が否定されている。 嘘の情報を提供した側の動機・需要は金が主目的で相撲取りには怨恨もあるだろう。 情報を受け取りその情報を流した議員や週刊誌側の動機は、政敵に打撃を与えられると思った、センセーショナルなあること、ないことを前宣伝することで発行部数を稼ぎ、金にしようと思った。 そうに違いない。


骨格部分が捏造である事案は筋が悪く、細部に至るまでほとんど嘘である可能性が高いのは当然だ。 しかし、事実として存在したこと、また骨格部分について正しいかどうか不明な場合については、細部についてある程度正しいことも(細部についてある程度の信憑性がなければ真偽不明とはならない)、誤りも混在しているということになりはしないか。    要するに、骨格部分が捏造である情報以外の細部にかかる情報にはいかほどかの真実が含まれていることが多いのではないか。 一概に週刊誌情報だからというだけの理由で否定することは誤りである。


さて、渡嘉敷の集団自決自体は厳として存在した事実だ。  週刊誌の記事に「戦争の様相」が引用されているが週刊誌側がその本に書かれている内容を歪曲しているようには思えない。 新発見の本に赤松が悪者として描かれていると宣伝することは発行部数を稼ぐことになるかもしれない。 

しかし、その記事が1950年に書かれようが、1957年に書かれようが週刊誌の売れ行きに関係しない。 また、当時の週刊新潮には「戦闘概要」の記載が無く、「様相」と「概要」の記事内容や執筆時期を比較しているわけでもない。  そして、さらりと「様相」が1950年にまとめられたとしている。 どうも週刊誌側にまとめられた時期を捏造し、叉は知ったかぶりをする動機はなさそうである。 

 そうだとすると、週刊誌情報以外にはっきりと執筆記事についての情報がない以上、一応、該当記事を執筆時期の有力候補とするのが常道であろう。

もともと「様相」は執筆時期が不明になるような秘密文書ではない。「様相」と「概要」の内容はほとんどが重なっている。
http://okinawaheiwa.net/project/data/brief3.pdf
上記により、「戦争の様相」作成に関与した当時の古波蔵村長、屋比久孟祥元防衛隊長ということから、週刊新潮の様相1950年執筆説は古波蔵元村長、叉は屋比久孟祥元防衛隊長から聞いた情報であると考えるのが順当であろう。

  むしろ、どう考えても不可解なのは古波蔵元村長が存命であるにもかかわらず、また「様相」と「概要」の執筆時期の先後について関心があったはずの!!曽野綾子が何故古波蔵氏から情報を引き出さなかったのか、それとも曽野綾子は情報を引き出したにもかかわらず隠したのか、その後古波蔵氏が存命であったにもかかわらず、どうして誰も古波蔵氏から「様相」と「概要」の先後関係を問いただすことが出来ず不明となったのか。  これは、尋常なことではない。 曽野綾子は最近になって、、星雅彦が潮1971年11月潮以外の論考で曽野綾子の概要先行説に先立って様相先行説を打ちていたことを明かしている。曽野綾子が「ある神話の背景」連載時に週刊新潮の1950年「様相」成立説を知っていたかどうかは確認できないが、少なくとも星雅彦の様相先行説を知りつつ、概要先行説を打ち出したわけである。
さらに伊敷氏が曽野説を否定するなど曽野説一色とはいえない。   それにもかかわらず、誰にも「ある神話の背景」発行後十数年存命であった古波蔵氏から「様相」の執筆時期を問うことが出来なかった。
これはどう考えれば良いのか。

 曽野綾子が(当然関心があるはずにもかかわらず)古波藏元村長に様相と概要の先後関係を尋ねなかった理由は、概要が先に書かれたとする曽野説が、曽野の企んだ筋書き(構図)によるもので、古波藏氏に確認する必要する必要がないからではあるまいか。また、曽野には記載後、古波藏氏に真相を話させない自信があったのではないか。  「ある神話の背景」には渡嘉敷島の島民から見て当然わかる数々の嘘が散りばめられている。 曽野は連載中も、書籍発行後も島民から嘘を指摘される恐れがなかったように思える。  たとえば、26日に安里巡査と赤松が会ったという嘘、留利加波基地が変更されなかったような記載、安里巡査が3月に赴任したようにしか思えない記載、橇とコロ、ロープを使った泛水作業にマルレ一隻当たり30人を要したという記載、26日夜半からの泛水作業の過程で満潮から干潮へと潮目が転換したという嘘、防衛隊員や富山(新城)兵事主任も軍との連絡役をしているにもかかわらず、安里巡査が軍との唯一の連絡役だったという嘘などは泛水を手伝った島民にもわかる嘘であるが、曽野綾子は何の恐れも感じないで嘘を書くことができたように思える。

空間と時間を隔てた差異と変化

赤松の自決命令に対する自決命令の有無を巡る見解(叉は赤松に対する好意度)が当時島に居住した島民の居住空間(地理的叉その後の)の相違により差異があるか、また時間的の経過により何らかの変化があるかを検討する。

まず、最初に渡嘉敷部落と阿波連部落を比較すると明らかに人口の少ない阿波連の人達に赤松に同調する者が多いことがわかる。具体的には、大城良平・金城武徳・古波蔵蓉子など。

  その原因についてはある程度説明がつく。  まず、以前検討したことだが、阿波連には家族全滅の世帯と無傷の世帯が多い。 これは、自決現場に行ったグループと行かなかったグループに分かれるからであろうと推測した。 

その推測を裏付ける証言があった。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1444.html
上記から引用   「阿波連からオンナガーラに行くには、右と左の二つの谷間の道、道ともいえない道で、薪とりなどに通う細い道です。阿波連の人たぢは、そこで二つのグループに別れて行動し、私たちは、こちら側の谷間にいて、運よく助かったが、もう一つの谷間をたどって行った人たちは、玉砕場に行き、ほとんどが亡くなった。」

自決場への道でない道を辿り、助かった人達の自決に対する関心はただでさえ低いであろう。 その上死んだ人達と薄い親戚関係ということで援護金をもらっていたとすると、援護金攻撃に沈黙するのは目に見えている。
   さらに何人かは確認されているが、第三戦隊の隊員を寄宿させた人達が存在する。  阿波連と渡嘉敷の人口比率と渡嘉敷も第三戦隊隊員が宿泊していた事実があるか、もしあれば渡嘉敷と阿波連の比率はどうかが確認出来ないと確定出来ないが、阿波連の人達に第三戦隊の隊員を寄宿させていたことが赤松等に好意を寄せる一員となっていたことは、石田記者のレポートhttp://keybow49okinawan.web.fc2.com/siryou.html
参照のこと。


次に戦後も渡嘉敷島に居住した人達と沖縄本島その他に移住した人達を比較すると、渡嘉敷から他の地域に移住した人達のほうが赤松に対する態度は相対的に厳しいと思われる。 たとえば、古波藏元村長・金城牧師・吉川勇助など。
この理由はあとで考えたい。

最後の三番目、時間の経緯による赤松命令説と島民の態度だが1960年代と1970年代では顕著な変化がみられる。1960年代では古波蔵元村長は週刊誌の質問に対して、赤松命令説を主張しているが、70年代になると煮え切らない曖昧な態度に変化してしまう。 60年代では、島民は石田記者などにわりと率直に取材に応じている。  昨年どこかのホームページで70年代の早い時期に渡嘉敷の映画撮影隊が島を訪れた際島の老人が撮影隊に自決のことを「絶対しゃべらんぞ(注:話さんぞ、だったかもしれない」と語っているのをみて強烈な印象を受けたのを記憶しているが、今サイトを見つけるのがむつかしい。 

 
以上の3つの差異と変化をどのように考えるか。その前に曽野綾子が「戦争の様相」が「戦争概要」の後に書かれたと主張することの意味を考えてみたい。

 「ある神話の背景」では、戦争概要に書かれた自決命令が戦争の様相に書かれていないことをもって、当初戦争の概要で自決命令が渡嘉敷住民上層部の独断で(「鉄の暴風」の記載以外に何の根拠もなく)主張されたが、根拠がなかったが故にその後に書かれた「様相」で取り消されたとの論理構造になっている。

実は現在の原告側主張の力点は、援護金をもらうために軍命令をでっちあげたということに置かれている。 そうすると、現在の原告の主張からすれば、戦争の様相が先に書かれ、軍命令の記述がなかったものが1953年に発行されたことがはっきりしている「戦闘概要」に軍命令の記述があるのは援護金をもらうための方便であったという主張をするほうがそれなりに整合的である。

そのことから赤松に肩入れするために嘘を尽くし、奔走した曽野綾子(赤松等及び原告応援団を含め)にとって、「ある神話の背景」執筆時の援護金の位置付けと現在の援護金の位置付けが異なるのではないかという疑念が生じる。

和田さんへ

>以上はかなり強引な推理である。妄説かもしれない。

でしたらご自分の足で図書館にいくなり、手紙で照会するなり、ご自分の調査で煮詰めたうえで意見を述べてください。その上で他人様の協力を求めるなら分かります。(煮詰め=推論のコアとなる事実の確証を掴んだ上で)

妄説かもしれないものを議論の対象にするのは御免蒙ります。また当地の皆さんも、あなたのあやふやパズルの対象、おもちゃとされるのは、さぞかし迷惑でしょう。

仮に私が調査の場に近いところにいたとしたら、和田さんが「農林学校出の防衛隊員」とコミット(責任をもった関係)する人でない限り、知りえた個人情報を貴方には決して提供しないでしょう。

古波藏姓

この件に関しては一気に続けたほうが良いので連投しました。

○○の兄さんという言い方で名前を特定していない場合、確率が高いのは次のような場合であろう。 今でも親戚が点在する田舎では、年長の従兄弟などをそのように呼ぶことがある。 姓を特定せずとも自分の姓と同じだと語っているケースだ。○○が姓でなく地名の場合はそのような可能性が強いだろう。


http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/64/から引用。
「また、同女は『沖縄県史第10巻』所収の渡嘉敷女子青年団匿名座談会において、次の通り証言している(乙9p788。女子成年団長「K」が伊礼(古波蔵)である。)。 」   

 なお、「ある神話の背景」の初段にも赤松に近い人物で古波藏蓉子が登場している。彼女は離島ではめずらしく、上級学校へ進学している。 自爆した防衛隊の人物も島では珍しく進学したという。元村長一族は渡嘉敷島の富裕層だったのかもしれない。 妄想か事実かは、後述のように検証可能なので悪しからず。

そうすると、自爆した防衛隊員の名前(姓)は松川か、古波藏の可能性が強いということになる。古波藏なら自決当時の村長の姓と一致する。

http://park14.wakwak.com/~myj/lanking/47.html
沖縄県で松川姓は128番目に多いが、古波藏は渡嘉敷島に集中しているのかもしれない。  推理小説の域を出ない推測で申し訳ないが、金城武徳が「名前をいわないほうがいい」と語るのは何故か。 
私は、古波藏元村長が1968年週刊新潮に「確かに赤松が自決命令を出した」旨の証言をしているのに1970年頃からその点に関して曖昧な表現になっていることについて単に1970年には赤松から元村長などに援護金と勲章に関して脅しが行われているからと解釈していた。


それに加えて、ひょっとすれば(間違いは調査でわかる可能性が高い)元村長と伝令が親戚・株内などである可能性があるのかもしれない。   もしそうだとして、赤松が自分は自決命令などしていないと言い続ければどうなるか。  村長が自決前に万歳の音頭をとったことは多数の証言があるようだ。  

村長の親戚以外の村民の中には、「村長と親戚の自作自演」と考える人が出てくるかもしれない。また、自爆した親戚に近い者の中には「元村長は死人を利用して自分の責任を逃れている」という声が挙がるかもしれない。

 援護金と勲章に加えてそのような中傷が耳に入れば相当堪えるだろう。  以上はかなり強引な推理である。妄説かもしれない。 しかし、黒白が検証できる可能性が強いのであえて書いた。

渡嘉敷の顕彰碑には、自決者や戦死者の氏名が記載されているはずだ。日付が書かれている可能性もある。  そうすると3月28日戦死叉は自決となっている住民の中に古波藏姓か、松川姓かどちらかの記載があればその人物が自爆した人物である可能性が強まる。  渡嘉敷島公式サイトの自決者数から住民出身の防衛隊死亡者のほとんどが自決扱いされていることが窺われ(実際には相当の戦死者がいることが谷本版陣中日誌などからも推測出来る。むしろ、村の防衛隊自決扱いを赤松が逆手にとって無理心中説を考案した可能性があるとみている)。

古波藏・松川どちらの姓も記載が無い場合には、松川という地名の近くに住む古波藏蓉子に近い知人ということになろだろう。

幸い、キー坊さんのプログは隣島-座間味のタカマサさんなど自決研究者の読者もおられるようで渡嘉敷で検分する機会もあるのではないかと期待しています。  名前が特定出来れば、農林学校の同窓会名簿と照合できるかどうか。

農林学校は一つ

和田さん、こんにちは。沖縄県立図書館で農林学校同窓会の資料が見れます。来月、南風原文化センター、渡嘉敷、阿嘉に行きます。図書館に行っている時間が無さそうなのが残念です。農林学校は1つで引率したのは元王族の尚謙氏です。戦没者は130名でうち、学徒隊が23名、現地入隊64名、その他37名、教職員他6名です。松川さんが卒業生なら同窓会名簿を見ないといけませんが、学生だとしたら松川寛市さんかもしれません。

伝令の名前

昨日、投稿したはずの記事載っていません。
容量を超えた可能性があるのでまだコメントのないここに載せます。

キー坊さん  読者の皆さん
私は東京・沖縄から離れており、情報収集能力は低いです。 体験者から証言を聞く時間はあまり残されていません。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1442.html
沖縄県史での金城武徳の証言「僕らが、オンナガーラに降りていったら、伝令がきて、この人は農林学校出身で、玉砕で亡くなった人で、名前はいわないほうがよいと思う。」


沖縄タイムズ吉川勇助証言 「不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。 しかし、村長は、防衛隊員の言葉に「うん、うん」と何度もうなずいた。おもむろに立ち上がり「天皇陛下万歳」と叫んだ。....勇助たちも陣地になだれ込んだ。「それを見た、隊長はものすごい勢いで怒った」。村長に伝令した防衛隊員も、本部に来ていた。住民が殺到する混乱の中で、腰に下げた、銃剣用の剣が手榴弾に当たり、「しまった」という言葉と同時に爆死した。」


http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/c69ae488d47abce9a3e9dadeeae2deb6
沖縄県史 女子青年団匿名座談会より引用K 「どうしたわけか、松川の兄さんの手榴弾が爆発して、その破片が、白刃の西村大尉に当たって倒れていました 。」     西村大尉は辻中尉の誤りだろうが、Kは赤松派で名前もわかっている。吉川氏の証言から死んだ防衛隊員は松川姓である可能性がある。

村民を西山の近くに集合させた伝令に、少なくとも安里巡査・富山兵事主任・防衛隊少なくとも1名が含まれていることは複数の資料から確認出来る。 金城武徳のいう伝令と松川という防衛隊員が一致し、なお吉川氏の耳打ち証言が正しいか2段階で考える必要があるが確認材料は「農林学校出身」しか見あたらない。 

沖縄本島に戦前何校の農林学校が存在したのかわからないが、防衛隊の年齢範囲で渡嘉敷出身者の名前で同窓会名簿を沖縄図書館等で閲覧可能な人はいるだろうか。

谷本版陣中日誌によると3/28防衛隊戦死(自決者含む)は8人。1名は小嶺姓。  農林学校出身の伝令が本部で死んだ人物とすれば、可能性が高まることが2つある。一つは、1945/3/27から3/28にかけては、場面・場面でその都度防衛隊の伝令役が変わるのではなく、特定の人物が伝令役を務めた可能性が強まることになる。 

 次に、曽野綾子や赤松サイドはさかんに「防衛隊は勝手な行動をした。自決命令はなく、防衛隊と家族の心中だ」と宣伝するわけだが、防衛隊の伝令が、住民が集合した地点に止まることなく、本部壕(工事中)へ帰還した可能性が高まる。

もちろん、吉川勇助の証言は非常に遅い。 しかし、実は1953年発行の住民版「戦闘概要」では防衛隊を通じて自決命令が伝えられたとの記述が存在する。 ただ、松川が姓ではなく、地名表記に過ぎないかもしれない。 松川に住む兄さんの可能性もいくらかあろう。  なお、以上については推定部分が多いが、点が線に繋がるような情報を期待したい。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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