2017-05

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佐野批判の書評

 惠忠久、奥茂治を主たる取材源とした佐野眞一「沖縄 だれも書かなかった戦後史」の中のルポ・「空白の琉球弧ー奄美群島」おける沖縄誹謗の記述に対して、私は強い憤りを覚えてその批判文をブログに何度も書いた。しかし、ネットで検索してみても、この本への批評は好意的なものばかりしか見当たらない。前回書いたように、琉球新報の重鎮が好意的な書評を二度も書いてやった上に、この本の出版記念講演会まで開いてやっている。ウチナーンチュとしての誇りはどこへ行ったのだ抗議したくなる。

 その他市井のブロガーの書評にも、この本を批判したものは見当たらない。わずかに、「奄美自立論」を書いた与論島出身の喜山荘一氏が、自身のブログの書評で次のように述べている。
《奄美の日本復帰に伴って「非琉球人」として位置付けられ、「外人登録」が義務づけられ、公職から追放され、参政権、土地所有権、公務員試験受験資格等々が剥奪されたのは、ユースカー(琉球列島米国民政府)がしたことであって、沖縄がしたことではない。》
と、奄美復帰後に在った「奄美差別」の本質を述べて、
《奄美は当初、沖縄を含めた「完全復帰」を主張していたのに、復帰の可能性が見えるや否や「実質復帰」に傾斜していく。奄美は沖縄をおいて復帰へと邁進したのである。》
と、その差別の契機を、沖縄を取り残しての奄美単独復帰に見ている。  当時の奄美『差別』について、沖縄を悪し様に言う奄美人が多い中で、冷静に検証を加えた喜山氏の考察には、私は沖縄人として感謝の念を抱く。それでも、佐野の「沖縄の凄まじい奄美差別」という言い方に対しての「沖縄弁護」に留まっている内容であり、「だれにも書かれたくなかっ――」の本全体に対する批判ではない。

 昨日、「だれにも書かれたくなかっ――」だけでなく、佐野眞一の作家としての資質にまで及ぶ批判を行っているブログ「書評」を見つけて、私は、わが意を得たりと嬉しい気持ちになった。
 それは、国語研究家で国語教育者の中井浩一氏のブログにおける「「だれにも書かれたくなかっ――」への書評である。 書評のタイトルは「売れるルポの秘密-佐野眞一著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』-というものである。この書評は、私が佐野のこの本を「通俗」だと断定した事を、裏付けてくれているようで嬉しい気分になった。

 中井氏は冒頭で、
「なぜ、それほど多くの読者に支持されているのか。面白いからだろう。読者サービスに徹している。面白く読める工夫に満ちている。」と、
佐野眞一の本はすべて、読者に「面白く」読ませる事が主義であるとしているのである。佐野自身が言う「アドレナリン」を分泌させるような書き方である。
「また、テーマの描き方だが、歴史や政治状況などの一般的な説明はほとんどない。あくまでも人物たちの人生を描くことで、大状況を語ろうとする。」とも言う。
 佐野はこの本に、沢山の人物を登場させ、そのキャラクターを面白く描き、そしてそれら人物同士の繋がり=人脈を絡ませて更に面白いストーリーに仕立てているのである。だが、そこには時代背景や歴史は書かれてないのだ。

「しかし、ここには何がないかも明らかだ。あくまでも個人に光を当てているので、組織や運動、歴史や社会構造を理解することはできない。また、人間は地縁、血縁関係から描かれ、その思想は無視、軽視されている。正直に言って、本書は私には退屈だった。私の「アドレナリン分泌」は促進されなかった。」
 中井氏の興味のポイントからすれば、この本は「面白さ」さえ無かったという事だろう。個々の人物の個性を描く事が、その人物が実在の人物だけに、読むものは好奇心を煽られることになる。次から次へとそんな人物が登場するから、読者は「アドレナリン分泌」は促進されっ放しにされる。だが、中井氏のように、沖縄の歴史・社会状況に関心がある人にとっては、それを書いてない佐野の本は全体に退屈で、「アドレナリン分泌」は促進されなかったという事である。

「佐野は、自分の「小文字の沖縄」を持ち上げるが、私にはそれほど本質に迫れているように見えない。それは佐野の認識能力が低いからだと思う。」
という文章が続くのは中井氏にとって、自然な事のように思える。大江・筑紫の「大文字言葉」に対置して、自分の「小文字言葉」を自賛するが、中井氏から見れば、それこそ「それでどうしたの?」というモノでしかない。

 佐野眞一は「小文字言葉」で沖縄の本質を明らかにして、大江・筑紫らの「大文字言葉」の価値を下げてやったかのような言い方をしている。が、小生が読んでも、彼が「小文字言葉」で書いたという種々の沖縄の人間達の生き様は、面白くはあっても特別な衝撃を感じさせるものではない。「沖縄の奄美差別」を含めて、沖縄人にとって、書かれたくなかった事柄は全く無いと言ってよい。
個々の人間の興味深い逸話などはあるが、それが沖縄の本質を暴いたモノだなどとはおこがましい限りである。
 中井氏が言うように、「大文字言葉」(概念的な事柄)と「小文字言葉」(現象的な事)は対立するものでなく、相互補完的なものであるとするのは妥当な事である。「大文字言葉」が無ければ幾らふんだんに「小文字言葉」を並べても、面白いけれど軽い読後感しか残らない事になるのではないか。

 中井氏の「書評」が価値あると思えるのは、多分良く知らない「奄美差別」については全く言及せずに、「だれにも書かれたくなかっ――」に否定的論評をしている所にある。この本に限らず佐野の作品全般に低い評価をしているのである。また、売れること優先にして作品を書く、佐野の作家としての資質を批判している痛烈な書評でもある。

 この本を攻撃している者は自分だけかと、心細い思いを持っていたが、中井氏の淡々としながらも重厚な佐野本批判を読んで、心中で喝采したい気分である。
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コメント

和田さん、こんばんは。
>5月18日に渡嘉敷に通信機があったという意味でしょうか。

そうです。ni0615さんのサイトに「5月5日稲垣少尉以下十一名(含糸満漁師6名)が通信機器を携えて刳舟二隻で来島。」とありましたので5月18日には通信機があったのでしょう。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2263.html#id_ffaa458f

>安里巡査が「自決前に遺書を書け」と促したという意味でしょうか。

はい、僕はそう考えています。
崎間義郷さんはいつもポケットにノート、鉛筆を持っていたそうです。3月23日から8月15日までの日記を天気も含めて書いています。

3月28日曇り
村民全部西山に非難、食料無く持ち合わせのカンパンをかじる。午後敵上陸(4~500人)。近くに敵の声を聞く。これが四面楚歌か!銃声すさまじ、いよいよ最後の手段となる。村民一ヶ所に集まる。玉砕の時が迫った。自分は安里巡査より紙をもらい、最後の言葉をつづり、村民各有志、生徒に今日までのお礼の握手をなす。

最後の言葉
神国日本断じて勝つ 散って悔いなき大和男子
お父さん、祖母さん、母さん、叔母さん、春子、清市、清子、きよしさんお元気で一足先にさようなら

宿の人と円陣をつくって散らんとする。陛下万歳!遠近で手榴弾爆発、運よきか悪しきか我らの手榴弾不発だ。もうこうなっては無手勝流だ。生き残り皆切り込みを敢行した。しかし考えてみると未だ玉砕は早かった。本部へ避難する。・・・・・・

安里巡査からもらった紙はみんなで寄せ書きをしたのかどうかはわかりません。また、その紙は集団自決後に誰が所持していたかもわかりません。崎間義郷さんのノートには上記の最後の言葉が書かれていますが、この程度の短い文なら記憶していて後でノートに書けると思います。自決するのにわざわざ紙に書いて崎間義郷さんが所持するとは思えません。紙がばらばらになるでしょうから無意味です。それにノートを持っているのだから、紙を自分で所持する気でいたのならノートに書けばすむことです。最後の言葉は親族に宛てて書いていますから、恐らく、安里巡査が寄せ書きのような形で複数の住民(官公署等の有力者)に書かせていたのではないかと私は思いました。

安里巡査の本音

阪神さん
「18日時点で通信機があったのではないかと思うのですが・・・」これは、5月18日に渡嘉敷に通信機があったという意味でしょうか。

時間がないので資料名を引用出来ませんが、阿嘉島では斬り込み前に無線機を破壊したとの記述を記憶しております。   渡嘉敷では一部無線機を破壊したが残っていたとの記載が赤松隊の日誌などにあったと記憶しています。元保有数と破壊数の差も算出可能だった記憶があります。また、沖縄司令部が稲垣隊を派遣する意志決定は「阿嘉島は全滅したと思われるが、渡嘉敷は全滅していないとみている」との見方からとの記述があったはずです。 私はこのは術を、周波数がわからないので聞き取れないが、渡嘉敷の日本軍から何らかの電波が配信されているのでそこの日本軍は全滅していないと判断したと解釈しました。

  また、5月18日までに稲垣等が別の無線機を持ち込んだとの記載があったはずで特攻攻撃に関連して米国艦船の停泊地通知に使用されたとの記載もあったと思います。 よって、渡嘉敷にはずっと無線機は存在したはずです。


それよりも、「崎間さんは自決決行前に安里巡査から紙をもらって最後の言葉をつづっています。」との記述は安里巡査が「自決前に遺書を書け」と促したという意味でしょうか。

戦後、曽野綾子等の口利きもあってか、安里巡査はあたかも自分は自決を止めさせようと尽力したかのように主張しています。   しかし、安里巡査が住民に手榴弾を配った、住民を追い立てた、手榴弾の使用法を住民に教えたなど複数の住民の証言があります。 当時教諭だった崎間義郷さんの証言であれば、年少者の不確かな証言とはいえず、安里巡査の本音は住民を自決させることだったと思われます。  

 長くなければ、もう少し崎間義郷さんの証言を引用してもらえませんか。

渡嘉敷島教員手記

こんにちは。「戦禍と飢え(宜野湾がじゅまる会)」に渡嘉敷村国民学校教諭だった崎間義郷さんが戦時中に綴った手記が出ています。集団自決の場にいたけれども不発に終わり助かりました。手記なので詳細な記述でないのが残念です。崎間さんは自決決行前に安里巡査から紙をもらって最後の言葉をつづっています。5月18日に阿嘉島国民学校児童の玉砕を聞いたと書いています。5月12日に阿嘉島から那覇へサバニで渡った伝令によって判明したと書いてあるので、18日時点で通信機があったのではないかと思うのですが・・・
ちなみに赤松については、笑いを知らない冷たい人だった、挨拶をしても返事をしなかったと回想しています。

和田さん勇み足です

>渡嘉敷では神楽桟http://www.monotsukuri.net/wbt/wbt_soseki/s0414/s0414.htm
を使用した。

「神楽を製作した」という記録があるのは、阿嘉島の基地第2大隊第三中隊の記録であって、渡嘉敷島等ではありませんので、それを援用して可能性をいうことは出来ますが、既成事実のようにいうことは出来ないと思います。

>もっとも問題なのは3/20米軍の侵攻予定地が台湾ではなく、沖縄方面であることが決定的になった以上、日本軍としては速やかにマルレの出撃準備をすべきであった。

『宮崎周一日記』によれば、大本営陸軍部第一部(作戦)では、3月20日の段階で<沖縄上陸が決定的>と部内では観測したものの、その後の「米空母機動部隊はウルシー帰投」という誤報に依り、<沖縄上陸>の緊張も緩めてしまったと思われます。

なお、<すわ沖縄上陸作戦か>という緊張は、3月20日がはじめてのことではありません。米軍の硫黄島攻撃の際にも、沖縄にくるかもしれないと、大本営は最後まで予測を一つにできなかったのです。

「空襲警報のサイレンが鳴ったときには既にB29が上空にいた」、というのは当時東京にいた親の世代の体験ですが、沖縄でもまた、10・10空襲でも3・23空襲でも、警報によって事前に退避や邀撃準備をしたということはききません。 情報探索・探知能力はゼロに等しかったのです。 

泛水時の運搬時間試算

阪神さん、有難うございます。

グーグル航空写真からの予想が200メートルでした。
http://blog.livedoor.jp/sho923utg/archives/51309101.html

http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2009/07/post-b67e.html

さて、2分で1個の石を運んだとするピラミッド内部トンネル説を前提として、橇の長さ+8人が引っ張る縄の長さ+橇間距離がどのくらいあるかだが、約20メートルと予想する。  そうすると20/2で分速10メートルということになる。 この場合、人間は進行方向に向かいゆっくりゆっくり歩を進めることになる。

 もう一つ、重量が重いと綱引きや地引き網のように進行方向と反対に人間が向き、息継ぎ毎に休んで運搬する方法があるだろう。 この方法だと5秒に一回程度引っ張り一回当たり60センチほど進むと予想する。分速7.2メートル。 橇(コロ)を使うなら実際的ではないとは思うが。  ピラミッドの傾斜角4度、重量2.5トンは泛水時の下り、マルレ重量1.6トンの条件より過酷だ。 従って、その他の条件が同様なら泛水のためのマルレ運搬時間は長くて20分ということになる。


だが、しかしマルレの運搬はそれほど単純ではない。 ピラミッドでは大量の橇を使用するからこそ連続して運べる。 渡嘉敷では神楽桟http://www.monotsukuri.net/wbt/wbt_soseki/s0414/s0414.htm
を使用した。

橇の数が少なく、神楽桟で橇を巻き上げた可能性があると連続運搬に黄信号がかかる。もっと問題なのは壕の長さと数。 数が多く、長いほど運搬準備に要する付随時間が短くて済む。 壕に並行してマルレを並べることが出来、しかも複数の人間が作業出来るだけの空間的余裕があると橇までの運搬時間が短縮出来るし、爆雷装着も比較的簡単だ。

留利加波から渡嘉敷に出撃基地を変更したとなると、そこらへんがおざなりになった可能性が強い。 留利加波の泛水距離は百メートル程度にみえる。 それなのに泛水距離の長い渡嘉敷に出撃地を変更した。 このことからすれば、赤松も、また船舶隊首脳も泛水にはたいした時間がかからないと踏んでいた可能性がある。 皆本がどこかで普段1.5時間で出来た泛水が5時間掛かったと記録していたと思う。 「ある神話の背景」でマルレを一隻について30人だったか ?で運ぶ訓練をしたというのは嘘か、泛水路が出来るまでの話。  8人より少なくて可能だ。  1中隊について壕が8あり、爆雷を装着済み後の泛水はそのくらいでも可能だろう。  しかし、壕の空間的欠陥などがあると泛水路までの運搬・爆雷装着に時間を浪費することになる。   

しかし、もっとも問題なのは3/20米軍の侵攻予定地が台湾ではなく、沖縄方面であることが決定的になった以上、日本軍としては速やかにマルレの出撃準備をすべきであった。  震洋隊の豊廣に対して現地軍は「敵の来寇近し」との情報を伝え21日にも爆雷装着を命ずるべきだった。   赤松は遅くとも23日夜にはマルレの爆雷装着作業を開始すべきだった。

数不明

和田さんこんにちは。
>船艇壕の数はわかりましたか。
わかりませんでした。というのは草がぼうぼうに生えているのと、壕があると思われる場所の前は畑になっているので、確認できなかったからです。
>壕から海岸線までの距離はどのくらいでしょうか。
200m位だったと記憶しています。

ディープ・コンプレックス

大町大佐が阿嘉島出航に関してマルレ一隻をクリ船二隻に変更したのは何故か。 
今のところ考えられるのは、マルレ三隻ではエンジン音もあり目立つ、さりとて足の遅いクリ船では本島での一斉出撃指揮に間に合わない可能性があるとして位の低い者をクリ船に変更したか、渡嘉敷の情勢を無線で判断して(25日渡嘉敷のマルレは損傷が少ない、出撃ないし本島転進の要ありとの)クリ船乗船者は沖縄本島を目指さず、渡嘉敷出撃の一翼を担う任務に変更されたか、どちらかだと思う。


http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305331
上記「殉国日記」47頁によれば大町大佐が渡嘉敷から沖縄本島に帰還しようとしたとき、マルレと「漁船」が検討対象になったという。しかし、慶良間で漁船といえば鰹船であり、大型で海面に係留されて目立つ慶良間の鰹船は1944/10/10空襲で全滅状態になったという多くの情報がある。 またその後刊行された「戦史叢書」の記載も漁船が検討対象になっている。

それに対して、「クリ船」が検討対象になったとの文献は、潮1971年11月号の大城良平証言が最初である。今のところそれ以前に渡嘉敷から沖縄の大町大佐の移動にクリ船が検討対象になったとの証言は存在しない。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/ryouhei/ryouhei.usio.html

そして、その後何ヶ月か後の諸君連載、曽野綾子「ある神話の背景」にクリ船が検討対象になった話が掲載されている。
このことは何を意味するのか。
「青い海」1971年6月号の赤松・曽野の写真に写っている年輩の人物は大城良平以外にないということだ。この会合に出席し謀議に参加していなければ、潮での大城発言はない。 赤松は元防招兵が会合に参加しているという。生き残った防招兵で年輩の者は限られ、その中でも赤松への旗幟を鮮明にしている者はただ一人、大城良平のみ。 そして、「青い海」の年輩の人物と「潮」大城の写真との酷似。

 
橇船をマルレと認めたい。確実な証拠はないのだが、早い時期「赤松版 戦闘概要」http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130
にて、赤松は大町大佐(一行との表現ではないから本人と考えざるをえない)が阿嘉島から丸木船で渡海したという。
 赤松隊の大町大佐が阿嘉島から橇舟でやってきたとの文献も複数存在するので、橇船がクリ船ではなくて、マルレなら早い段階から赤松は二枚舌を使っていたことになる。ただし、赤松等がマルレを橇船と認識していたことが確実でないと断言はできない。


http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm
上記より引用「わたしたちの鈴木小隊は4月中旬ごろ玉城村糸数のアブチラ壕から大里村大城を経て、豊見城村高安に移動しました。特攻艇は冨名腰の前のキビ畑で焼かれてしまったので、これに代って沖縄の刳舟を使うようになり、一夜に二十隻ぐらいの刳舟が島尻各地の海岸から豊見城村高安の西谷口(タングムイ)に集められていた。 4月28日夜、いよいよ戦隊長以下数集の刳舟で出撃するようになり、」

沖縄本島ではマルレ壊滅叉は消耗後にクリ船特攻を命じられていた。
座間味島・阿嘉島の戦隊は全滅必至とみたか、無線を壊した。渡嘉敷では無線が残り、渡嘉敷戦隊は全滅していないとして、本島司令部は稲垣等を派遣した。
赤松は、無線及び稲垣等の口から、本島司令部の「爆雷があるならたとえ、クリ船でも出撃せよ」との意向は知ったはずである。赤松は既に、壕の規模が小さいためか、爆雷装着の手順を誤ったためか自分の身に覚えのある原因により、マルレの出撃が不可能になったことで司令部を恐れている可能性が高い。 

そのことが陣中日誌等に爆雷やクリ船のことを頻繁に載せることとなった遠因だろう。  赤松には、クリ船に対してディープ・コンプレックスがあった。  そのために赤松の大町大佐の渡嘉敷から沖縄本島へのクリ船帰還という妄想も生まれたのではないか。

侵攻予想地の急変

阪神さん 
渡嘉敷へ行かれたそうで教えて下さい。
 船艇壕の数はわかりましたか。 また壕から海岸線までの距離はどのくらいでしょうか。干満で違うでしょうが。  昨年NHKで古代エジプトのピラミッド建造の石運搬を内部トンネルによるものとする放映がありました。8人が傾斜4度で橇に乗せた2.5トンの石を二分間で1個運んだということです。 1.6トンのマルレを下りで海岸線まで降ろす時間の試算をしてみたいのです。

 地図上では平均的に壕から海岸線まで2~3百メートルまでに見えます。傾斜と重量を比較すると、どう考えても同距離、同人数なら2/3以下の時間で可能と考えています。 しかし、阿嘉島のように船艇壕の数が多くないと、船艇を整然と壕内に置くことが出来ず、爆雷装着、船艇を橇に載せるまでに手間取り、時間がかかります。壕内の船艇が混み合って隙間がないと泛水の後爆雷装着せざるを得ないという事態も考えられます。 航空母艦から多数の飛行機が飛び立ち終えるのに、時間がかかるようなものです。 内部トンネルで踊り場を作り、スムースな流れを実現した古代エジプト人は賢い。 

スキャナの故障のため、送れませんが手元に戦史叢書のコピーと沖縄県史別巻の米軍資料「アイスバーグ航空支援計画1945/2/21改訂版」コピーがあります。 それによると上陸予定日4/1前14~13日前(3/18~19)に第20,21航空軍及び高速空母作戦が台湾に集中されることになっている。

もちろん日本軍航空施設破壊と沖縄上陸の陽動を兼ねた攻撃です。米軍のことだからおそらく航空作戦はタイムテーブルどうりに行われた可能性が強い。 戦史叢書で、3月19日大本営の意見が一旦米軍侵攻は台湾に傾いたという。 ところが翌20日一転して沖縄方面上陸の公算大という見解に急変。 
 米軍の上陸前の上陸する島に対する爆撃は、数日連続する、その間、間を置かず、次第に爆撃機数と爆撃頻度が増加する、次第に爆撃密度が上陸地点に集約されるという特徴を持つ。膨大な戦力を持つ軍隊なら当然のことだろう。 

もともと、大本営は第九師団を沖縄から引き抜き台湾に転出させたように米軍の戦力を侮り沖縄上陸に先立ち、台湾上陸の可能性の可能性が強いと考えていた。 第32軍は第九師団転出に抵抗したように沖縄上陸の可能性が大で台湾侵攻の可能性は少ないと見ていた。 ところが、台湾への爆撃が途切れるか弱まった。 その上おそらく20日になり、沖縄東方の米軍高速機動部隊も西へ向かわず、ガダルカナル、サイパン、レイテ島を出航した艦船部隊も台湾方面へ向かう航路ではないなど米軍の台湾上陸指向を否定する情報が集中したのであろう。  米軍の攻撃が上に述べたものであるならば、米軍上陸への準備が遅すぎると常々天皇から叱られていた大本営とて沖縄侵攻が近いと認識せざるを得なかった。

 現地軍にとっては生死にかかる問題であり、大本営などよりもっと事態を深刻に考えていたはずである。 大町大佐とて戦闘まじか、という切迫感がないはずがなかろう。「殉国日記」の記述はその一端に過ぎない。 戦史叢書の大町大佐の(視察)記述及び「ある神話の背景」の牧歌的休日等の記述はそのような現実と軍兵士の危機感を覆い隠し、突然前触れもなく奇襲されたと思わせる煙幕なのだ。 要するに騙しだ。

設営隊・船舶隊などの予備軍としての再編成及び大町大佐の「視察」について、予定通り・緊急付け焼き刃的対処・予定の繰り上げのどの可能性が強いかとなると、どうしても戦闘開始までに実行すべきことがらであり状況の切迫により予定を切り上げて実行されたと考えたい。  即ち、22日の大町大佐「視察」とは、配置を含めた戦闘(出撃)準備と最後の点検をして沖縄本島に帰還-一斉出撃を目指すものではあるが早ければ、3月下旬にも米軍の侵攻があり得るという大町大佐の頭の片隅では場合によっては戦闘陣頭指揮もありうると考えていたと思う。 一斉出撃は理想だが米軍に傍聴されないための無線上、狭い周波数と暗号が必要でもちろん指示済みであろうがそれらを徹底させることが必要だったので暗号表を携えた通信兵を派遣したと思う。 無論推定ですが。

あの口上の多い赤松のことですから、第32軍上層には、「3月上旬には泛水路が完成します」くらいの報告はしているのではないか。 22日の大町大佐の出航が第三戦隊の泛水路工事の督促であれば、あまりにも遅すぎる督促であるし、何よりも戦闘(出撃)間近という大状況・大局を無視した小事にこだわる行動に思えます。

通説では

阪神さん
ことしもよろしくお願いします。

>「大町大佐は阿嘉島において3月23日午前10時に整列した兵隊の前で訓辞をしていた時にグラマンの襲撃を受けて散会した。・・・」

これは、文中の「阿嘉島」を「座間味島」に替えればその他をそのままで通説となりますね。(たとえば『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 p228 典拠87「船舶部隊史実資料」とある)

もちろん、通説や『戦史叢書』に間違いがないわけではありません。なにしろ、大本営・参謀本部の戦争指導者(宮崎周一や服部卓四郎など陸大優等生参謀)が戦後書いたものが、今日に至ってもなお、それらの『柱』となっているものですから。

・・・司馬遼太郎さんが嘆いていましたね。なんで日本ではアホな戦争指導をした連中、すなわち日本国民に対する戦争犯罪の被告たちに、戦史記述をまかせるのだろうか? つくづくアホな国だねえ、と。

大町大佐の件

こんにちは。「沖縄戦に生き残る(宮本正男)」によると著者は阿嘉島の生き残りである小林中尉(仮名)から屋嘉収容所で阿嘉島の惨状を聞いたそうです。聞いた内容は「大町大佐は阿嘉島において3月23日午前10時に整列した兵隊の前で訓辞をしていた時にグラマンの襲撃を受けて散会した。軍司令部からは敵艦隊来航の無電が入ってきた。その日の夜、大町大佐、三宅少佐らは特攻艇三隻に分乗して渡嘉敷めがけて逃亡した。」となっていますが、著者は自分には聞き間違いがあると巻末で書いてあるので、聞いた内容を正確に書いてはいない可能性が大です。大町大佐の件は調べれば調べるほどわからなくなりますね。

通信部隊

(和田さん)
>私が大町大佐一行15人程度が同時に大名行列をしたと考えない一つの理由はそこにある。 通信部隊を各戦隊に先行配備したと考えている。

<通信部隊の配備>としては、座間味島に船舶工兵26聯隊の第2中隊乳井小隊50名の配備が為されています。それに加えて5名の配備も妙です。乳井小隊配備は大発3隻を使った『海岸砲』の運搬とも同期しており、大町大佐一行の座間味到着とも、ほぼ期を一にしていたと思われます。

<5名の通信班>というのは<船舶司令部>の移動には必要だったと思われます。送信機+受信機+発電機+ガソリン+変圧器+アンテナ+配線ケーブル、これらのための人員が当時どれだけ必要だったは検討の余地があります。通信兵なんか1名いればいい、というのは今日のケータイ時代の感覚でしょう。

※新年早々記名を忘れました。申しわけありません。 ni0615

今年も宜しくお願い致します。
「沖縄戦痛恨の日々(第三文明社)」に座間味で防衛隊員だった大村真一さんの証言があります。大村さんは昭和32年に慶留間小中学校の初代校長になられた方と同一人物ではないかと思われます。大村さんは3月下旬に座間味島から慶留間島へサバニで渡り、慶留間島からボート、天馬船、サバニに分乗して久米島にたどり着いたそうです。途中で時化にあい、ボートだけがたどり着いたそうです。船の種類を3つに分けていますが、どれも小型で4人位しか乗れそうもありませんね。

阿嘉から渡嘉敷へ

【723】 への返答は少し後にさせてください。

大町大佐のマルレによる阿嘉島から渡嘉敷への渡航にかかる記述について、戦史叢書と石田手記では異同がある。
http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf
上記石田手記(注2)によると、中川好延少尉が第三中隊長のように書かれる一方、大町大佐をマルレに乗せた指揮者は第2中隊宮下力少尉としている。
 ところが、「戦史叢書」によれば、大町大佐は25日夜第三中隊の特攻艇二隻によって渡嘉敷島に移動した。25日の空襲で・・・・第三中隊は残艇全部が被害を受けたと記述されている。 第三中隊の船艇は全滅しているのに第三中隊は人だけを出したのかということになる。

一方、http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305200_01
上記「海上挺進第二戦隊史実資料」によれば、「二二〇〇 船舶隊長以下を第二中隊マルレ及クリ船にて渡嘉敷へ送る」とある。  他の資料から中川は第2中隊長であることが判明した。  最後に儀同保氏の「ある沖縄戦」に次のような趣旨の記載がある。(儀同氏は元第二戦隊第三中隊所属) 「24日(筆者注:25日でないことに注意)第三中隊に対して、大町大佐を送るためにマルレ3隻を泛水せよとの命令があった。壕に着くと米軍の魚雷艇が近くに遊戈していて泛水は出来なかった」というのである。 
 そして、一日遅れの25日に、大町大佐はマルレ2,クリ船2で阿嘉島を出航した。

 私の推測では一連の動きは次のようなものであったと思う。 24日早朝クリ船で阿嘉島に到着した大町大佐は、米軍の爆撃が激しくなったことから早く沖縄に戻らないと全戦隊の一斉出撃指導をすることは不可能になると考えた。
よって24日マルレ3隻で帰還しようとしたが果たせず翌日に持ち越した。 阿嘉島から沖縄を目指したマルレ二隻に乗船した大町大佐一行は6人。渡嘉敷から沖縄を目指したマルレ2隻に乗船した大町大佐一行も6人。従って、マルレ3隻なら乗船可能な大町大佐一行は9人となる。


諸資料から、沖縄本島から渡嘉敷へ渡航した稲垣の例と渡嘉敷から沖縄本島へ渡航した三池少佐のクリ船は大体において1隻の乗船が4人。そのうち2人は漕ぎ手である。
http://blog.livedoor.jp/kaisou_blog/archives/51630366.html
上記によると「8.5メートルのサバニ『指南広義』号は、現存するサバニの中で沖縄一大きなサバニ=日本一番大きい=世界一番大きなサバニ!10人は乗れる!」 観光用のサバニ(沖縄のクリ船のこと)で現在、世界一大きいものが十人乗り。過去も現在も4人乗りが標準らしい。 

 「ある沖縄戦」の記述からマルレ1隻分の大町大佐一行をクリ船2隻に差し替えたと考えられ、漕ぎ手を除く大町大佐一行の乗船は3人か4人と考えられる。 私が大町大佐一行15人程度が同時に大名行列をしたと考えない一つの理由はそこにある。 通信部隊を各戦隊に先行配備したと考えている。 

そう考えたきっかけは石田手記の大町大佐一行の構成を見て、鈴木少佐は大町大佐一行の中型船から途中下船したのではない、別行動だと確信したからである。 
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301108
「第三中隊陣中日誌」にクリ船の記事が盛んに出てくる。多くは、米軍と収容された伊江島等の住民がクリ船で漁をしている場面。 渡嘉敷外部からクリ船が持ち込まれた可能性もあるが、鰹工場の近くにもクリ船があった。

 クリ船も爆撃されて残っていないだろうという私の予想は間違っていた。 クリ船は男4人で長距離を担いで運べる重量らしく音などによる爆撃の前兆で隠す時間があること、浜に打ちあげたクリの色が砂の色に似て保護色となることなどから米軍により破壊されないクリ船は結構あったのだと思う。  

上記の中にクリ船2隻で漁をし、うち一隻には12人が従事したとの記述がある。  さては、12人乗りのクリ船もあったとかと一時思案した。  沖縄で6月の漁であれば水温から漁師による追い込み漁は可能。1隻に網を固定し10人ほどが扇形に網を張って追い込み漁をしたということなのだろう。
マルレ護送について、戦史叢書と石田四郎が意図的に間違えたのかどうかはまだ判断しかねます。これは単純ミスかもしれない。 もっと隠したらどんな目的が達せられるのか、何もないのかを検証する必要があると考えています。

今のところ意図的というより、石田手記の注2を石田が渡嘉敷島滞在のおり、聞き及んだ赤松・皆本が一中隊での大町護送を剽窃創作をした疑いがあり、そのことが(皆本は第三中隊長)石田が中川を第二中隊長ではなく第三中隊長と誤認する遠因になったと推定している。
豊廣隊長の煙幕出撃を剽窃したのも皆本だったもので。

1周年

 新年おめでとうございます。
去年一月にこのブログ立ち上げてから、ちょうど1年経ちました。その間、慶良間集団自決、曽野綾子追及の研究を続けておられる方々からたくさんのコメントをいただき、大いに教えを受けています。

 高裁の判決が下されて以後、曽野綾子は去年1年は「大江裁判」や「集団自決」については、沈黙したままでした。お得意の勘の良さで、機会を狙ってじっとしているのかも知れません。
 それにしても、最高裁の裁定が出るのは遅いような気がします。このくらいが通常なのかどうか分りませんが、高裁判決から1年2ヶ月も経っています。
 最高裁事務局も高級官僚の支配する所らしいから、外からは見えないせめぎ合いが在るのでしょうか。普天間移転との関連で沖縄に圧力を掛ける意味で、国策的逆転判決も視野に入れて置かなければ成らない気がしてます。

では

和田さんは、元基地第三大隊隊長で既に船舶団隷下でもなくなった鈴木常良獨立第三大隊隊長大尉が、3月22日わざわざ大町大佐と渡嘉敷島で落ち合うように來島したという、その目的は一体何だったと思いますか?

もちろんそれに関する情報は、戦後関係者が秘匿しているせいか、いずれの文献にも情報は記載されていませんから、不確実な推量しか私たちには許されません。

赤松が島民と慰労会をやったのは、鈴木大尉來島視察までに突貫工事でようやく日限ギリギリ、目標がなんとか達せられたからでしょう。(阿嘉島の第三中隊陣中日誌の記述から較べれば2ヶ月は送れています)。

昭和19年の終わりごろ、基地大隊が工事を進めた留利加波を放棄せしめた赤松は、そのために工事が完了できなかった、ということになれば責任を問われたのではないでしょうか。結果は。。。せめて巡察までに、それが回避できたということで、赤松は鈴木と杯を交わすことができた、と私は読みました。

(ただし、どかかの文書に、総ての舟艇が舟艇壕に収容されたわけではなく、沢陰に秘匿したマルレも出撃、といった記事もあったと記憶しています)。

なお、作戦想定として、
「船舶特攻がその基地を出撃して、敵米上陸本隊を襲った後、基地隊整備隊(2ケ中隊規模)をその基地から船で沖縄本島に輸送する」、などということは到底考えられません。

個々の島ごとに、渡嘉敷島なら渡嘉敷島での、出撃後の留守部隊による『戦略持久』、というのが考えられる作戦としては順当だと思いますが、いかがでしょうか。


さらに私の想像上の選択肢にはいくつかありますが、その1つを言えば、赤松は26日早朝の出撃ギリギリで大町の指示もあって、『戦略持久』に切り替えたのだと思います。

反面、住民と下層兵士ははおそらく、『戦略持久』などという32軍の戦略は知らされてなかったでしょう。『特攻』と『玉砕』、あるいは『軍官民共生共死』という言葉、「決戦あるのみ」で煽られていただけです。

集団自決の悲劇は、そのような逆理も原因していたのではないでしょうか。

本丸から離れた奇襲砦

沖縄戦にかかる「戦史叢書」204,205頁に、大本営等が機動部隊の動きをめぐる判断が二転三転し一時は台湾侵攻の可能性を考えたこと、しかし最終的(3月20日)には陸海軍両統帥部共に次期来攻は南西諸島方面に四月初頭行われ云々。・・・・宮崎大本営陸軍部第一部長宮崎周一の日記には「四月1日(4日)(8日)に南西諸島方面に上陸の企図あり 右の判断は陸海一般に同様ナリ 但し連合艦隊は一応左の如く決定的に判断しあり  イ 二十日夜敵機動隊は一旦洋上補給 ロ 二十四、五、六日沖縄来襲」

このことから軍最上層部の一部が、1945/3/20には、3月下旬の来寇を予想したことが明らかである。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2222&file=%E5%9B%B3%E7%89%8845.jpg
上記が中島少尉の父親が皆本から聞き取った伝聞であっても、話の流れは中島が戦死の遠因となった大町大佐の渡嘉敷渡航を回想する場面での皆本発言であり、「三月二十二日・・・・大町大佐は・・・・作戦の状況視察に来島セラレタ。一般の観測は「敵の侵攻は早くて三月下旬恐らく四月上旬ニナルダロウ」ト云フモノデアッタ。」という発言自体は大町大佐の来島を告げた後に発言内容があるので、大町大佐の発言と解釈して不自然ではない。それが普通の読み方と考える。この発言が皆本等の発言であってもかまわないと思う。 

「一般に」の意味するところだが、時期の限定を一般的抽象的に遠い先だとか、極めて近い時期だとか示しているものではない。 時期はたかだか20日のレンジという極めて具体的な期間に限定されているか。
私は、そうではなくて、この場合の「一般に」という意味は大町大佐自身を含めた32軍上層部がそう考えているという意味にとった。

【c712】「現時点での私の直感ですが、大町大佐の慶良間巡察の目的は、海上挺進隊出撃準備の点検と出撃後の慶良間各島守備作戦策定のためであったと思います。」

後半部分の見解は驚かされます。 
 さらに、「大胆に仮説すれば、他島には無い渡嘉敷島の舟艇基地建設の遅れを状況判定し、必要ならば独立歩兵第三大隊からどれだけの規模で兵力(建設隊)を戻すかを、巡察現場で即決し32軍司令部に上申するためではなかったかと思います。」にはさまざまな疑問が浮かびます。

http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305192 「海上挺身基地第三大隊戦闘概要」

引用すると「秘匿壕を担任し・・・・昭和二十年二月中旬之を概成す」
つまり2月中旬に秘匿壕はほぼ完成した。そもそも日本軍は慶良間が米軍の泊地になるとは考えなかった。 所詮は奇襲専一目的で、奇襲の成否が明らかになれば、島は用無しと考えていたと思う。 2月中旬に壕を完成させることはおそらく計画どうりで、計画進捗確認後、本丸である沖縄本島に基地隊のほとんどを召還する予定だったはずである。 

それどころか、大町大佐の船舶隊を含め【713】指摘のとおり、「航空、船舶、兵站部隊などを地上戦闘に使用できるように特設部隊として編成することを命じ」た。兵力が不足しているのだから、航空基地設営隊・船舶隊・兵站部隊などを遊兵にしておくわけにはいかない。

それらの諸隊は主任務終了後、予備軍叉は遊撃隊として(慶良間諸島ではなく)沖縄本島の戦闘に参加させるということだ。 

 戦史叢書176頁最後に「第二十四、第六十二師団長及独立混成第四十四旅団長は各防衛担任地域内に於ける戦闘準備の細項に関し特設第1及第二旅団長を区処することを得」とは、元船舶隊その他を纏めた特設第1及第二旅団は状況次第で予備軍として独立行動を取らせても良いという意味に思える。 
 
さて、慶良間諸島は戦国時代にたとえると劣勢な勢力が本来守るべき本丸から遠く離れ孤立した山の砦で、敵の輜重隊を奇襲する目的のみ課されていたという場面に相当しよう。 奇襲成否後は圧倒的な敵にやられるか、牽制されるかとにかく役目は終えている。 
 特攻船艇の基地島など守るくらいなら本島に一兵卒でもほしいところだ。

  ただ一つ沖縄軍は希望的観測で船舶攻撃が成功すれば慶良間からの出撃は米軍に悟られていない、ならば射程の長いカノン砲で座間味などから商船を砲撃させれば数隻は撃沈出来るかもしれないと希望的観測をしてカノン砲を輸送したのだろう。それ以外第32軍慶良間の日本軍は奇襲成否後捨て石と考えていたはずである。 それが戦理というものだろう。


ただ、少ない確率だが「渡嘉敷島の舟艇基地建設の遅れを状況判定し、必要ならば独立歩兵第三大隊からどれだけの規模で兵力(建設隊)を戻すか」という話はあったのかもしりない。  その場合、何点かクリヤーせねばならない問題がある。

工事が遅れていたのに、何故工事が先行していた留利加波を放棄したのか。それとも放棄したようにみえるだけで放棄していなく特殊な状況でもあったか。  また「ある神話の背景」では3/20,21を休日にして、第三戦隊と村民が酒を飲み交わしたような記述があるが工事が遅れているのであればそのようなことはありえない。 もし、その記述が嘘なら曽野綾子が村民の反論を恐れず嘘を書けたのは何故か。  22日に赤松と鈴木が酒を飲み交わしたような記述があるがこれも工事が遅れていたのならありえない。  そして、何よりも第32軍が20日に4月初頭にも米軍来寇がありうると考えていたのであれば、元の第三基地隊を渡嘉敷に再召還するなどほとんど不可能である。 2月17日の召還はいったい何だったのかということになるなど。

県民大会は藤岡が発信源?

こんにちは。
CS日本文化チャンネル桜で2005年6月8日に放送した内容が聴けます。県民大会の言いだしっぺは藤岡の可能性が大です。どこで調べたか藤岡に突きつけよう!
普天間のガマから出てきた日に説教垂れた事になる泉知事の演説内容をもっと知りたいと。
http://www.voiceblog.jp/okinawa_shinjitu/32568.html#trackbacks
あと、泉守紀は群馬県の特高課長だったので、野里洋著『汚名』だけ読んでいるとひ弱なイメージかつ悪人ではないかのような印象を受けてしまうかもしれませんが、実は弾圧の先頭に立つ人間だったのですね。http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/study20081101_fujita.html

阪神さん。情報を有難うございます。。

奥野修司の「沖縄幻想」は読みましたが、言ってる事は、大久保潤「幻想の島 沖縄」とほぼ重なっていると思います。祖国復帰後三十数年の間に、沖縄には湯水のごとく補助金がつぎ込まれたのに、沖縄経済の自立には繋がっていない事を軸に、沖縄社会の惨状を縷々述べています。

新聞社の支局長として、仕事で三年間滞在した大久保と違って、若いうちから沖縄に思い入れを持って足しげく通った奥野がこの本を書いた動機は、大久保のような冷淡なものではないと思います。
それでも、何が今の沖縄の惨状を生み出したかの分析は行ってないと思います。奥野も本質に踏み込んでないという点で、大久保と五十歩百歩だと思います。佐野眞一と同じで、沖縄を自分の著作の題材に利用したのではないでしょうか。
元「噂の眞相」編集長の岡留安則氏が沖縄へ移住していたという事を最近知りました。何の理由ででしょうね。
行って見たい集会ですが、当日都合がどうなるか分らないので、行けないかもしれません。

12月22日に阿佐ヶ谷ロフトにて

こんにちは。
12月22日に阿佐ヶ谷ロフトにて下記の討論会のようなものが行われます。奥野氏が沖縄に対してどのような立場に立っているかは、本を読んでいないので不明です。

ポスト噂の眞相プレゼンツ(阿佐ヶ谷編)
「癒しの島・沖縄は今、どうなっているのか?」

【出演】
岡留安則(沖縄在住ジャーナリスト/元「噂の眞相」編集長)
【Guset】
保坂展人(前衆議院議員/社民党副幹事長)
奥野修司(ノンフィクション作家/「沖縄幻想」他)
石山永一郎(共同通信・編集委員/米軍基地問題担当)

Open 18:30 / Start 19:30
前売¥1500/当日¥2000(共に飲食代別)
※前売券はローソンチケットで発売中
[Lコード:32596]
※WEBでの予約も可
http://www.loft-prj.co.jp/lofta/reservation/
入場順は、前売り、予約、当日の順となります。

和田さんへ

>3月中の米軍侵攻は絶対にないと楽観していた

などとは私は言ってないので念のため。米空母機動部隊が九州沖から沖縄に回航するとは思わなかったため、と解して下さい。

決戦が間近、という感じを32軍司令部が抱いていたことは知っています。本土への最後の航空便だから手紙を書くようにという指示が首里司令部で20日頃あったという記述が、たしか「沖縄決戦」にあったとおもいます。20日頃には「米軍接近」ではなくても、「決戦近し」の緊張感は漲っていたとおもいます。渡嘉敷島で防衛隊に手榴弾を配ったことも充分考えられるのです。

大町大佐の「チャンス」は、楽観してのチャンスではなくて、今の間を逃してはならない、というチャンスです。

ただし帝国軍人の特徴として、上手くいかなかった現実の結果を弁解する際に、いくつかあった事前仮説のうち、一番の楽観仮説を引き合いに出して、「予想に反したことが起こったので上手くいかなかった」と釈明する傾向があるようです。「米軍来襲は4月下旬だと思っていたのに・・・」というのもその手なのかもしれません。

大本営陸軍部の予想(宮崎周一日記より抽出)
3月14日 米機動部隊ウルシー出撃
3月16日 次期企図の方面は判定せざるも南西諸島に厚し 
3月18日 九州方面に敵機動部隊現出 予想より1週間はやい
3月19日 台湾に対するB24来襲激化 次の上陸は台湾の算大なり
3月20日 4月1日(4日)(8日)に南西諸島上陸の企図あり
連合艦隊判断 24、25日沖縄来襲 27、28、29沖縄に艦砲射撃 空母再度九州に遮断攻撃 3月31日または4月1日上陸決行 長官は「天号は思ったより早いぞ」琉球なり
3月23日 (敵機動部隊)24日午前にウルシー到着(見込み)
午後 戦果発表 正空母5撃沈 2撃破 撃沈戦2 巡3 艦種不詳1
3月24日 今朝の南西諸島の状況 沖縄大艦隊来襲
3月25日 0735渡嘉敷島及び阿嘉島に上陸、一部基地推進のためならん

20日までは大緊迫。そのご23日までは緩み、24日朝「やられた!」っていう感じか。
判定ができず、毎日予想がくるくる変わっています。20日の連合艦隊判断は適確だったのですが、我が軍大戦果で「敵はウルシー帰投中」という誤報のため、それがすっかり緩んでしまったのでしょうか。(台湾沖航空戦の戦果が誤報であった事はまだ知られていないから、眉に唾はつけなかったでしょう)
21日、22日の記載なし。

※ なお、「ウルシー帰投中」という誤報については、「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」や「宮崎周一日記」では言及されていません。山岡荘八「小説太平洋戦争」の記述です。

「  例の台湾沖航空戦のおりのような大誤報ではなかったが、十八、十九、二十日の三日間、すなわち二十一日の神雷部隊の発進前に、敵は空母五、戦艦二、巡洋艦三、駆逐艦多数を失ったものと誤信させられてしまっていた。
 これだけの損害を受ければ、敵は攻撃を続行できるはずはない。したがって、敵の南下を、ウルシー基地に引きあげて修理再建のための南下と判断した。むろんこの判断は報告戦果を何割か内輪に見積もって割り出した戦果であったが、これもまた見事に狂っていた。空母五隻に戦艦二隻を失った部隊が引き揚げないはずはない。  
  ところが、敵はそのような打撃を受けていなかったのだ。威力空母のエセックスもサラトガも被弾はうけたが戦列を離れるには至らず、わずかにフランクリン一隻が、沈没寸前まで痛撃されて、ウルシーに引き揚げたに過ぎなかった。
 日本側では全部沈んだつもりの敵空母が、悠々と九州一円を叩きまわって、沖縄上陸に協力するため南下中……
 それを知らずに発進したわが必勝兵器の神雷部隊は、上空で隊伍を整えてみると、五十五機出るはずの掩護戦闘機が、半数よりも少し増しの三十機だけ……というのだから、何ともかとも云いようのない不運のきわみであった。  」

大本営・第32軍の米軍侵攻予想

大本営が1945/03/20近辺に見通しとして「米軍の沖縄方面侵攻の時期は、おおむね4月上旬以降」・・・・A、あるいは「米軍の沖縄方面侵攻は4月上旬以降と認む」・・・・Bのどちらかを発表しているのかいろいろ捜してみたたが、見つけることが出来なかった。 
 現実に何か発表されているのだろうか。 

侵攻と上陸とは意味が異なり、数日の砲爆撃の後上陸するのが米軍。 だから「4月以降上陸の予想」ならぎりぎりで当たっているが侵攻予想と上陸予想は区別しなければならない。沖縄方面に爆撃が開始されたのは3/23、上陸地点ではない東海岸での艦砲射撃開始が3/24。 大本営の天号作戦発動は3/20、天一号作戦発動は3/26。 天号作戦には台湾方面も含まれ、大本営は3/25米軍の慶良間諸島上陸の誤報を受けているので天一号発動は時期を失しているといえる。

九州沖航空戦で5隻の米空母撃沈の事実誤認により、大本営が、米機動部隊が一旦ウルシー環礁に引き上げたと判断したことは事実である。 しかしながら、そのことのみで大本営が、米軍の沖縄方面侵攻を4月以降と判断していたと即断は出来ない。

 なぜなら、大本営は米軍機動部隊が上陸部隊を伴う場合も伴わない場合もあると判断していた。 このことについては、機密でも何でもなく「丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ13」の75頁、「歴史群像No65」43頁など、証言や記述はありふれて存在している。 
 そして実際米軍機動部隊は上陸部隊を伴わず、上陸部隊は別方面から進出した。

つまり、単純に「大本営が米機動部隊の一時待避のお墨付きを与えたのだ。沖縄方面軍は、大本営の声明を信じて上から下まで米軍の侵攻は4月以降と確信したに違いない。従ってどこの馬の骨の戯言かわからない「殉国日誌」に3月下旬に経米軍の侵攻があるかもしれないと誰かが考えたことなど大嘘である」とは限らない。

状況が似ている米軍のレイテ上陸と比較する。 米機動部隊はフィリピン侵攻に先立って、日本軍基地航空隊戦力削減のためにフィリピンに近い台湾を攻撃する。いわゆる台湾沖航空戦である。
http://www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/d191019.html 
1944/10/12~14にかけて米空母11隻撃沈、8隻を大破というものであった。 これが事実なら米空母(軽空母及び護衛空母を除く)は全滅状態だったことになるが、偵察により誤報を確認した海軍は大本営にさえ、誤報を報告しなかった。 そこで日本軍のルソン島などからレイテ島への人員・機材島の転出、いわゆるレイテ決戦が始まるが米軍は航空戦後わずか3日の17日レイテ東60キロのスルアン島に上陸。20日にはレイテ島上陸。 

 つまり普通の知識がある日本軍兵士からみても米軍機動部隊はレイテ上陸部隊と同一行動をとっていないことは一目瞭然のはず。   レイテ上陸部隊に随伴したのは小さな護衛空母部隊であり、レイテで神風アタックにより撃沈された空母三隻とは、実は護衛空母で栗田艦隊と闘った空母も護衛空母であった。  機動部隊同士が闘ったマリアナ沖海戦で米軍は圧勝。 日本軍の機動部隊は壊滅した。 以後の米軍上陸作戦で、上陸人員が大きくかつ、基地航空隊による大きな抵抗が予想されたのはレイテ島と沖縄のみ。 硫黄島は上陸人数が少なく、ルソン島上陸時に日本軍には米軍攻撃可能な稼働航空機はほとんどいなかった。

こういうことだ。 米軍は、レイテ島と沖縄上陸ではそれぞれ台湾と九州からの日本軍基地航空隊攻撃に先制する必要があった。 それを担ったのが正式空母を擁する機動部隊であり、数的にはそれを上回るほどの護衛空母は上陸軍と輸送船団擁護を担った。  足が速く、機動力のある正式空母を擁する機動部隊は上陸部隊とは別に「機動的」速やかに日本軍基地航空隊を叩く必要があったのである。   そして、フィリピン方面の責任者である山下大将が生き残ったために戦後、山下すら、米軍機動部隊の壊滅を疑っていたことが広く知られるようになった。

沖縄でも護衛空母隊は機動部隊とは別に上陸部隊と進軍した。 大本営発表の九州沖航空戦の空母撃沈誤報は台湾沖を大幅に下回る5隻。 3月21日には戦局打開の秘密兵器とみられていた桜花隊が全滅し、海軍首脳部の落胆ぶりは大きかったという。 戦後も証言はあまり聞こえてこないが、空母撃沈は誤報かもしれないと頭をかすめたのではないか。 

 第32軍は米軍の沖縄上陸に先立って台湾上陸を予想する大本営の第九師団抽出に猛反発し、大本営不信を深めたことは一般に良く知られている。
そのような背景を抜きにして、沖縄の将兵が米機動部隊のウルシー後退(実際は給油と沖縄方面への転進だったが)の発表を鵜呑みにして3月中の米軍侵攻は絶対にないと楽観していたかは検討の余地がある。

巡察の目的(資料)

(オフトピの連続お許しを)
大町大佐一行の巡察目的に触れた以上、見逃してはいけない状況資料も呈示させてください。

これは『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』の「慶良間列島の戦闘」とは離れたところに書かれていて、見過ごすところでした。

p176
特設旅団(聯隊)の編成

軍司令官は二十年三月二十日(筆者推定)航空、船舶、兵站部隊などを地上戦闘に使用できるように特設部隊として編成することを命じ(球作命甲第一一二号)、三月二十一日これら部隊の運用計画を示して地上戦闘を準備させた。(45)

(略)
特設第二旅団 長 第十一船舶団長 大町茂大佐
  特設第五聯隊
    海上挺進戦隊出撃後の残留員で編成の予定 総員約三、五〇〇名
(略)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2309.html

発令日3月20日。まさに「出撃後」あるいは「出撃不能後」を予期した編制命令ですから,これを踏まえた大町大佐は、慶良間における住民をも巻き込んだ「持久作戦計画」を携えていたと思うのが至当でしょう。

巡察の目的(推定)

大町大佐一行の慶良間巡察の目的ですが、

『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』においてそれが曖昧なのは、主たる情報元である赤松元大尉が防衛研修所戦史部に対する証言では曖昧にしたかったためでしょう。半世紀後に書かれた大町大佐配下の石田元少尉の手記でも「巡視の目的」はアイマイです。私は、「出撃しなかった」理由問題に関連して意図的にぼかされた、という可能性を捨てきれません。

随行人員の点で、『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』では鈴木大尉一行を含めて15名、後年の石田元少尉の手記ではそれを含めないで15名となっている矛盾点も、赤松がぼかし防衛研修所戦史部が追究を避けたためでしょう。

大町大佐一行と鈴木大尉一行とは、渡嘉敷島での合流を予定した、別の旅程べつの船です。どなたかが鈴木大尉一行は途中下船という説があるように言っていますが、私はそのように書かれている文献を知りませんので教えていただきたいと思っています。

現時点での私の直感ですが、大町大佐の慶良間巡察の目的は、海上挺進隊出撃準備の点検と出撃後の慶良間各島守備作戦策定のためであったと思います。それらの総責任者は第11船舶団長である大町大佐ですが、慶良間列島をエリア統括する専任が、第5基地隊本部部隊長の三池明少佐だったのです。三池明少佐は単なる大町大佐付きの幕僚ではなく、赤松大尉直上の上司だったのです。

「第5基地隊本部」とは何か、どこの本にもきちんと説明されていません。しかし、戦史叢書と海上挺進基地第2大隊第3中隊陣中日誌を読みますと、昭和19年10月時点の第32軍作命によって(戦闘序列もしくは軍隊区分)、次の6隊が第5海上基地隊本部(長 三池明少佐)の隷下に所属変更になったことがわかりました。「基地隊本部」という名称から「基地大隊」を所管するものだと類推してはいけないのです。
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301103_03
「海上挺進基地第2大隊第3中隊・連絡基地第2大隊第3中隊 陣中日誌(昭和19.10)(※) 」のP34の10月28日の項

10月28日
二港作命甲第12号
一、球作命甲第63号ニ基キ海上挺進第一乃至第三戦隊並ニ海上挺進基地第一乃至第三大隊ハ現在地ニ於テ第五海上基地部隊長ノ指揮下ニ入ラシメラル
二、大隊ハ現在地ニ於テ第五海上基地部隊長ノ指揮ニ入リ依然任務ヲ続行セントス
三、本部各中隊ハ依然任務ヲ続行シ速ニ之カ完成ニ勉メ戦備ノ完璧ヲ期スベシ
(以下略)

つまり以後3月まで変更がなければ指揮系統はこうです。(『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』では変更の記述は見つかりませんでした)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第11船舶団(団長 大町大佐)

 ―-第5海上基地隊本部(基地大隊だけの統括ではありません)(長 三池明少佐)
    |
     ―海上挺進第一戦隊
    |
     ―海上挺進基地第一大隊
    |
     ―海上挺進第ニ戦隊
    |
     ―海上挺進基地第ニ大隊
    |
     ―海上挺進第三戦隊
    |
     ―海上挺進基地第三大隊

 ―他の海上挺進戦隊

 ―他の海上挺進基地大隊
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということですから、海上挺進戦隊=「挺隊」出撃とその後、その作戦策定の為には、大町大佐は三池少佐を帯同して、各戦隊長と協議しなくてはならなかったのです。

なお、
独立歩兵第三大隊に再編された元基地第三大隊長鈴木少佐の一行が渡嘉敷島に来たのは、「視察」でも「指導
」でもないでしょう。指揮系統では既に船舶団から離れていましたから。

大胆に仮説すれば、他島には無い渡嘉敷島の舟艇基地建設の遅れを状況判定し、必要ならば独立歩兵第三大隊からどれだけの規模で兵力(建設隊)を戻すかを、巡察現場で即決し32軍司令部に上申するためではなかったかと思います。そのために、2つの一行は渡嘉敷島で落ち合うことにしてあったのでしょう。

もしそうだとすれば、これは赤松隊長に取ってはとても不名誉なことですから、後年の供述では隠したかったのではないでしょうか。

なお、大町大佐が昭和20年3月22日の那覇出発を決めた時期ですが、九州や本州への空襲を終えた米国空母機動部隊に日本の特攻機が宮崎沖で攻撃を加え大戦果をあげ、「敵機動部隊はほうほうのていでウルシーに帰還中である」「よって沖縄には当分機動部隊はこない」といった誤報(台湾沖航空戦にも似た)が支配した数日間だったのではないでしょうか。実際には、米国空母機動部隊もウルシーには向わず3月23日からの沖縄空襲に参加したのですが。

数日前の兵棋演習で決まった攻撃計画を踏まえて、作戦策定のための巡視日程を見計らっていたところ、ちょうど米機動部隊がウルシーに戻りつつあるときいて、いまこそチャンスと判断してそれを実行したと思われます。座間味島へのカノン砲陸揚げ(3月23日の空襲で大発とともに海没)も、同様の判断で時期をあわせたのでしょう。

お手数をおかけしました

キー坊さん
字句訂正の際に誤って「削除」キーを押してしまったようですね、訂正すべきは私の脳みそだったようです。お忙しい中ほんとうにお手数をおかけしました。改めてお詫びを申上げます。

わざわざお送りいただいた前投稿は、投稿タイミングに合わせて訂正して投稿しなおします。ありがとうございました。

編集での手違いか?

ni0615さん。
(706)投稿の最初のタイトルは「こんばんは」でしたが、それが編集されて、タイトル「端折らずに」に変えられて、コメント内容もまったく別のものに書き換えられています。多分、新規投稿したつもりが、前の投稿を編集して、別文に置き換えてしまったのかな?としか、私に思いつきませんね。

幸い、私の受信フォルダーに、その当初投稿は残っているので、貴兄のメ・アドに送り返します。良ければ、再投稿されたらと思いますが。

投稿の管理はしてません。

皆さん、コメント有難うございます。
今、普天間の事もあって、別の事柄に気が向いて「ある神話の背景」への追及が疎かになっています。
しばらくご容赦願いたいと思います。

ni0615さん。
最近全くコメントの管理は行ってないです。
ご自分の編集過程で誤削除された可能性はないですか?

端折らずに

和田さん
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2222&file=%E5%9B%B3%E7%89%8845.jpg

これは私のサイト「15年戦争資料庫」の
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/
「沖縄作戦 殉国日記(3)」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2222.html
に貼った図版45 です。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2222&file=%E5%9B%B3%E7%89%8845.jpg

(和田さんの引用)
上記冒頭近くに「三月二十二日・・・・大町大佐は・・・・作戦の状況視察に来島セラレタ。一般の観測は「敵の侵攻は早くて三月下旬恐らく四月上旬ニナルダロウ」ト云フモノデアッタ。」とある。

最期の『とある』は、まるで天の声であるかのように、誰の発言かが誤魔化されています。

「沖縄作戦 殉国日記」は、船舶団長大町大佐をマルレに乗せて戦死(行方不明)になった中島少尉の父親が息子の追悼のためにまとめたもので、当該部分は昭和21年3月に、皆本元中尉(第三中隊長)から父親が聞き書きした文章です。

私が資料庫を設置した理由は、資料を明記しない曖昧なWEB上の議論が、デマ流布の温床になって居ると知ったからです。和田さんのようなムチャクチャな引用の仕方をされますと、アイマイ議論の枕にされるだけで折角の資料が泣きます。・・・ムチャクチャデゴザリマスルガナ(花菱アチャコ)

独断専行と曽野綾子による赤松隊の文官化

軍隊がすべて命令どおりに動くのは必ずしも適切でない。限られた時間で危機や好機に遭遇して、通信に時間のかかる上層部の命令を待ち、ぐずぐずしていたら、敵に打撃を与えられず、味方は全滅するかもしれない。
  兵法では昔からそのように云われている。 あまりにも当然のことである。 日本軍では、好機叉は危機にあたって命令を待たず臨機応変な行動・戦術を取ることを独断専行と称し認めていた。

http://www.pluto.dti.ne.jp/~yggdrasi/heihou/h06tousu.html

引用すると 作戦要務令 「独断専行に当たっては、常に上官の意図を明察し、大局を判断して、状況の変化に応じ、自らその目的を達しうる最良の方法を選んで、機先を制しなければならない。」 
  歴史を翻ると1930年以降、日本陸軍は満州事変・第一次上海事変・張鼓峰・ノモンハンなどで自作自演を含む独断専行を行う体質があった。 成功すれば、咎められることはなかった。

 曽野綾子は「ある神話の背景」においてリンガエンでの1945/19の海上特攻出撃を隠蔽した。 第32軍上層は、既に米軍が海上特攻の存在を知っていることはわかっていた。 もちろん、できれば(各個撃破されることなく)沖縄本島及び慶良間三島の海上特攻が同時に出撃できることが望ましい。 しかし3/10近辺での海上特攻演習で牛島大将は豊廣震洋隊長の「敵艦に奇襲された場合、煙幕を張ってでも出撃する」回答に笑みを浮かべたように本土決戦を控えてマルレの存在自体を隠すのではなく、少数であっても出撃の実績が残ることを望んでいた。 

マルレの存在を知られるより、出撃を控えるのは一斉出撃の可能性が残る時点までと考えられる。 だから、一斉出撃が不可能とわかっていた時点では出撃がむつかしい慶留間島にまで出撃させた。 
 
 曽野綾子は赤松隊に出された「状況有利ならざる時は本島に転進すべし」という趣旨の転進命令が曖昧で、まるでガダルカナルの敗残撤退の意味に近いことまで臭わせている。

 しかし、たとえば第九師団が沖縄から台湾に転進したように、要点なり戦場と考えていた場所が敵軍にはぐらかされた、状況が変わったと予想ないし確信した場合には、別の戦場予定地に転進することはあり、南方方面においても必ずしも転進という語が敗退を隠蔽する目的ばかりで使用されたわけではない。 

 おそらく渡嘉敷に対する転進命令は(三島一斉出撃はむつかしくなった。状況推移をみて判断し、単独出撃で戦果を得られないと判断した場合は)沖縄本島に転進し、本島での一斉出撃を期せという趣旨としてもっとも整合的に理解出来る。
沖縄司令部は海上特攻出撃を渋っていない。少数の出撃しか出来ない戦隊にまで出撃を強要している。 一斉出撃が不可能となっては、司令部は諸戦隊が独断専行、無理にでも出撃してほしかったはずである。  

曽野は赤松に独断専行の権限がない文官のように描いた。 昔、文官の石田三成は、秀頼はおろか西軍総大将の毛利輝元の戦場出馬にさえ失敗した。 輝元が出馬すれば関ヶ原で分家の吉川が闘わず、小早川が裏切ることはありえない。 家康が西軍の大垣城を無視して西進した際、最強とみられた島津が奇襲を提案した。そもそも島津は東軍に就こうとしていたが成り行き上西軍となってしまい、奇襲が容れられない遺恨から関ヶ原の決着がつき、撤退するまで戦闘しなかった。島津を一番隊、小早川を二番隊として奇襲させれば小早川の裏切りもかなわず、関ヶ原の勝敗はみえていた。

  「ある神話の背景」で曽野綾子は、赤松をまるで文官のように意志決定の自由がなく司令部に一挙手まで規制される存在として描いている。留利加波もそうだ。 

事実は、赤松に豊廣のような戦意が欠けていたということだ。赤松には石田三成のように危機・好機に即断出来ず、あるいは準備に抜かる文官体質があったのだろう。 曽野はそのことを司令部のせいにして赤松を組織上の文官のように描いた。

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-wagatekihaminatogawaniari-toyohiro1.html
豊廣のような戦意があれば、赤松は早くから爆雷をマルレに装着するはずであり、そのことに司令部が反対するはずもない。相談せずとも独断専行すべき典型的な事態であった。

通信隊の件

和田さんこんにちは。余り参考にならない情報ですが、「鎮魂を刻む(龍潭同窓会)」によると「12月下旬になって座間味の守備隊から4,5名の兵士の乗ったくり舟が(渡名喜)島に上陸して何やら調べていたが、村人をなだめるように、来年早々に通信隊を一個分隊配置するという。軍隊を信頼しきっていた村人は通信隊の来るのを待ちわびたが遂に実現しなかった。」と書いてありました。
次に、44年の明治節に県民大会があったかどうかですが、まだ証拠は見つかっておりません。「鎮魂を刻む(龍潭同窓会)」によると44年の明治節に阿波国民学校校長が「出張か何かで不在」だったとありました。県民大会に出かけたのかな、と思いましたが、不在の理由がわからないのが残念ですね。
また、これは余談ですが、「沖縄戦痛恨の日々(第三文明社)」に司令部一六一六所属の新垣隆生さんの証言として、「(八原高級参謀)大佐と私は両方(牛島、長)の遺体だけ中に運んで壕の中の寝ていた所に首もないままに、白いカバーをかぶせておいた」とありました。八原氏の著書には遺体を運んだ記述はないので、八原大佐自身が両者のうちのどちらか一方の遺体を運んだという貴重な?証言がみつかりました。

開戦前夜の認識

もう一度
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2222&file=%E5%9B%B3%E7%89%8845.jpg

上記冒頭近くに「三月二十二日・・・・大町大佐は・・・・作戦の状況視察に来島セラレタ。一般の観測は「敵の侵攻は早くて三月下旬恐らく四月上旬ニナルダロウ」ト云フモノデアッタ。」とある。
大町大佐や、慶良間の軍属も米軍の侵攻が早ければ3月下旬、恐らく4月上旬だろうと考えていた。そして、大町大佐一行は3月22日沖縄本島を出発したというのである。 

そもそも米軍艦船がウルシー環礁を出発したのは3月14日。その近くのヤップ島は日本軍が確保しており無線機もあった。  恐らく大本営は、3月18日頃までは米軍の進路状況もはっきりせず、九州方面が爆撃されていても、米軍が台湾方面に上陸する可能性もあるとみていた。 その理由は、いつもの米軍過小評価でまだ米軍は兵站の長い沖縄まで侵攻する能力がないと考えたこと、アメリカが1944年4月17日から12月10日にかけて日本陸軍により中国大陸で行われた大陸打通作戦で蒋介石が疲弊し日本と単独講和をしかねない、それを阻止するためには台湾か中国本土に米軍が侵攻するだろうと楽観的に考えたことの2つ。

 しかし、さすがの大本営も米艦戦の進路や九州航空基地爆撃状況をみて、遅くとも19日には沖縄上陸の可能性に傾いたはずである。
3月22日は泥縄式に沖縄本島から座間味島にカノン砲が運ばれた日でもある。  そのような状況では大町大佐の観測もやや楽観に過ぎている。 しかし、大町大佐の観測(開戦前夜という認識)によっても大町大佐の視察なるものが一般的な視察に止まるはずはない。  当然、大町大佐は慶良間への状況視察の内容が単なる視察に止まると思っていたはずもない。

視察はもちろんのこと、人員配備・指導、場合によっては視察が実戦指揮に転化しかねない緊迫した状況だと認識していたはずである。
さて、石田四郎は戦史叢書の曖昧な記述に反しない範囲で大町大佐一行をちょうど15人とし、すべてに名前か兵種を記述した。石田四郎も世話になった赤松隊や大町大佐の作戦ミス等を隠すことに依存はないからである。 しかし、軽率にもそのことから別の情報が垣間見えることには思いが及ばなかった。

石田四郎によれば、大町大佐定数15人のうち、7人が通信兵。 単なる視察にしては多すぎる。 やはり、とるものもとりあえず、慶良間の3島に通信兵を配備することが大町大佐にとって、統合的戦闘指導及び3島一斉出撃指導(場合によっては実戦指揮に転化がありうる)に不可欠であることはいうまでもないだろう。  軍事知識が少ない者であっても、一斉出撃のためには米軍の傍聴にきずかれないよう、通信周波数を狭い帯域で統一調整させるよう訓練された通信兵を座間味島・阿嘉島・渡嘉敷島に急ぎ(順次ではなく)配備しなければならないことはわかるだろう。 

 渡嘉敷に派遣された元の基地隊長鈴木他数人も大町大佐の中型船から、途中下船したのではなく、別行動を取ったのであろう。元基地隊長として最後の点検・指導をするために。 
 通信兵も座間味島から順次送り込むような悠長な情勢では無かろう。 冒頭の戦況感にもかかわらず、大町大佐が大名行列で順次通信兵を送り込んでいたとするならば、見識を疑うほかない。  
渡嘉敷島に7名の通信兵が一度に阿嘉島から送られ島に止まったという資料(名前や兵種)はまだ見つかっていないようなので、まだ見識を疑う段階ではない。

戦史叢書及び曽野綾子が隠したことは、戦況が緊迫していたことであり、鈴木元基地隊長が悠長に泛水路完成を祝いに来島したかのように描き、大本営・沖縄司令官及び大町大佐が事態を深刻に考えていたことを消去してしまった。 
 繰り返すが、視察といっても、戦闘に巻き込まれる可能性もある戦闘指導を兼ねた視察であったことは間違いない。

戦史叢書は大町大佐一行の定数を曖昧にした

本題と無関係ですが戦史叢書の作為を追求します

http://www.tokkotai.or.jp/kikanshi/tokko_pdf/tokko_11.pdf
上記22頁には、石田四郎が大町大佐一行15人の内訳を氏名叉は兵種にて記載している。
戦史叢書の大町大佐一行の記述と比較すると面白い。

戦史叢書の記述を引用する。「一行は約十五名で、第十一船舶団副官山口栄中尉及び第五海上挺身隊基地隊本部の隊長三池明少佐、同隊木村安蔵少尉、同隊南芳明技術少尉、海上挺身隊基地第三大隊長(当時独立第三大隊長)鈴木常良大尉、同隊新海清四郎中尉などが随行した。」

まず、のっけから、「約」などと曖昧な表現を(大きな数ではないのにもかかわらず)していることが注目される。次に、戦史叢書は石田手記のように全員の氏名叉は兵種を記載することなく、一部の氏名しか記載していない。  最後に石田手記には、鈴木常良、新海清四郎の名前が挙がっていないのに反し、戦史叢書には両名の記載がある。

 さらに奇妙なことは
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2263.html
によれば、渡嘉敷島には既に海上挺進基地第三大隊(独立第三大隊に改組)から鈴木・新海の他にも竹内軍曹他1名が来島していたという。 大町大佐の船舶からの途中下船ではないというのだろう。 それより、竹内軍曹他1名は大町大佐一行に算入されるべきかどうか。これらはどう考えたら良いのであろうか。

ヒントは殉国日誌の一節にあろう。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=2222&file=%E5%9B%B3%E7%89%8845.jpg
これは後述したい。

好意的に解釈すれば、第十一船舶団に直属する兵士が狭義の大町大佐一行であり、船舶団を支援する元の基地隊、後の勤務隊等を含めた支援部隊全員が広義の大町大佐一行ということも可能ではある。 

しかしながら、戦史叢書はそのような解釈を堂々としてはいない。広義であれば座間味・阿嘉島にも元の基地隊関係者が別途渡航した可能性があり、(渡嘉敷だけで15人の他に4人)それらを含めると大町大佐一行は30人規模に膨れあがる可能性がある。 一方、第五海上挺身隊基地隊本部関係者が(石田手記の当番兵含め)4名存在する。  第五海上挺身隊基地隊本部は沖縄本島北谷に設置されていた。基地大隊を統括する部隊とみられる。
http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennositsumontokaitou/tyoheitonihongun.htm

そうすると狭義の大町大佐一行は15-4で11人となる。どちらにしても戦史叢書の書き方で広義・狭義どちらであろうが大町大佐一行の定数が15人で確定するということはないのだ。

 従って狭義・広義という概念を導入したところで、戦史叢書が大町大佐一行の構成を隠そうとしたように見えるがそれは誤りであるとはいえないことになる。 問題は、戦史叢書の「約15人」の表現、兵種の記載がないこと、船舶団の一部の代わりに元基地第三大隊名を記載した意図である。

自己レス2:狼魔人の偽モノぶり

狼魔人がまた「ニセ沖縄人」の本性を露呈している。
昨日(26日)の記事で、21日に奄美市で行われた「沖縄・鹿児島連携交流拡大宣言」の記事を引用した後、「「差別を声高に叫ぶ人に限って差別主義者である場合が多い」と書き、「被差別を売りものにするような沖縄には実は差別主義者が多い」と続いている。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/bf0877ede46a562e23acd2678defdb97

「本土に対しては些細なことでも「差別」だと騒ぐ沖縄は、己が行った奄美への「差別」を語ることはない。」とも書いている。
つまり狼魔人は、沖縄は奄美を差別したくせに、本土に向かっては被差別を声高に言うのは得手勝手ではないかと言いたいらしい。
御多分に漏れず、狼魔人も佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』を引き合いに出し、
「この沖縄現代史の恥部とも言うべき「奄美差別」について記した部分を同書から抜書きしておく。」とし、お仲間の奥茂治から取材した佐野の文章を引用して後に、
「『奄美差別』を知る沖縄人も今は少ない。過去の沖縄人による差別を糾弾する奄美人の声を聞かない。沖縄左翼もそろそろ被害者意識を商売道具に使うことを止めませんか。『本土の沖縄差別』を声高に叫んだら、奄美出身者に笑われますよ。『お前達だけには言われたくない』って。」
と結んでいる。

これは狼魔人・江崎孝が沖縄人でない状況証拠と言うべきものである。
「沖縄の奄美差別」が沖縄現代史の恥部だと決め付ける程に言うなら、沖縄人を自称する自分も当事者として、これに対しては大いに反省の弁を述べなくてはならない筈である。だが、「『お前達だけには言われたくない』って。」と言ってるように、全くの部外者の物言いをしている。奄美差別を「沖縄の恥部」と言う位なら、自分も差別した側の沖縄の人間である筈で、そんな突き放すような言い方ができるものなのか。
江崎の年齢だったら、その時代状況をリアルタイムで見てきただろう。もし自分が沖縄人だったら、もっと鬱屈した感情が文面に表れるはずである。そんな屈折感はその文章からは微塵も読み取れない。それは江崎が沖縄生まれのナイチャーだからである。狼魔人は今回も、自分の「ニセ沖縄人」ぶりを晒したと言える。

自己レス・交流の初期段階

「syomu」という、この欄にも来たことあるラリパッパの奄美男と、相手のコメント欄で低程度なやり合いをしてしまった。
http://d.hatena.ne.jp/syomu/20091123/p1

この徳之島二世を自称する者(本当は奄美一世)は、狼魔人が沖縄を貶す文章を読んで気に入ったらしく、このコメント欄に来た後、狼魔人のコメント欄に行って丁寧にご挨拶を書いていた。
syomuは、奄美人の多くに見られるごとく、沖縄への理屈抜きの反感・侮蔑感を潜在意識に刷り込まれて成長したタイプの人間と思われる。そのブログに書いているものの随所に、沖縄侮蔑の表現が露見している。何気なく発したものだろうが、自分の心底に溜まっている情念的なものが時々、表面に現れるのだろう。
syomuは、11.14の「奄美と沖縄をつなぐ」イベントに積極的に関わったようであるが、イベントの主旨よりも、「奄美の集会」としてこのイベントを捉えていたのではないか。そうでなければ、ブログの文中に沖縄侮蔑の言葉を度々書けるものでないだろう。

私は、コーディネイターの喜山荘一氏の主旨に共感して、当日券を買って入った。沖縄と奄美の交流は是非、深めて行かなければならないと思っているからだ。
だが、交流を深めるといっても、和気藹々となるように、愛想良くして行くということばかりとは思わない。お互いが無関心な現在、相手に興味を持ち、とにかく接触を試みよう、という事であって、今の沖縄と奄美の関係はその段階にしかないという事である。

その時、奄美を良く知らない沖縄の人間が留意すべき点は、「奄美人は沖縄人に、概して好感情は持っていない」事を、気構えとして持って置かなければ成らない事だと思う。圧迫感を帯びた奄美人の告発姿勢に対して、腰が引けてはならないという事である。何度もブログで書いたように、沖縄の奄美差別というものは無かったのではないが、それは誇張して言われたものであり、彼らが言荒げるような「酷い」差別は無かったという事を自覚すべきである。

沖縄を米軍支配の中に取り残し、「単独復帰」を達成して、19年も早く鹿児島県に帰ったのは奄美の方だという事を、沖縄の人間は見据えるべきである。自分らの「沖縄差別」は無視して、米軍が施行した残留奄美人への制度的権利制限を、「沖縄人の酷い奄美差別」として告発する奄美人の態度こそ、告発に値するものとして、沖縄人は声高に言わなければならない。
そういう段階を経なければ、本当の交流は進展しないと思う。だから、お先は長いというのが現状であろう。現在のように、多数派の沖縄人が奄美に無関心のままではお話にならない。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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