2017-08

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沖縄知識人の体たらく

佐野眞一著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』についての評価をネットで見てみると、押しなべて高いものになっている。市井のブロガーたちの書評は大体、自分達が今まで知らなかった沖縄の面白いルポを読んだという評価である。
奄美に対する「激しい」差別を書いた部分についても、奄美の若いブログ人が、この本を読んで「(沖縄による酷い差別という)新発見をして驚いた」というような感想を述べている。
本土紙の書評でも、西日本新聞の書評「著者の大見得に偽りなし」というべた褒めの書評がある。

では、沖縄におけるこの本の評判はというと、これまた高く評価する記事だけが目に付く。
「沖縄から戦後日本を照射する……佐野眞一出版記念講演会」という、鹿児島出身で沖縄在住のルポライター浦島悦子氏のネット記事によれば、ナンと、この本が出版された直後に、「琉球新報」の主催で「佐野眞一出版記念講演会」を開いてやっている。記事は、… 

 「講演会は前泊博盛・琉球新報論説副委員長の司会で始まり、記念講演会実行委員会代表世話人の宮里昭也・琉球新報社元会長が「400人近い人々へのインタビューと約250件の参考文献にもとづいて書かれたこの本は、沖縄がこれからどのように進めばいいのかを示唆している」

と、沖縄新聞界の重鎮が、激賞に近い賛辞を、佐野眞一のこの本に送っている事を書いている。
 浦島自身はこの記事の締めくくりで、「取材の中でのさまざまなエピソードも非常に興味深かった。『人間はいつも歴史の目撃者であり、当事者である』という彼の言葉に、筆者だけでなく聴衆の多くが納得し、勇気づけられたことだろう。」と、やはり佐野眞一に高い評価を与えている。

 琉球新報のお偉方は、「沖縄人による酷い奄美人差別」を報告した「空白の琉球弧――奄美群島」及び「奥茂治へのインタビュー」を読まなかったのだろうか?そんな筈はないから、この部分が惠 忠久・奥 茂治という二人の特殊奄美人から取材した事は判っているのである。
惠 忠久という若い頃から沖縄に在住している奄美人は、平成の6年ごろ無許可で尖閣魚釣島に渡って日の丸を立てた現在85歳の老人である。奥 茂治は尖閣に渡ったかどうか知らないが、本籍地を尖閣諸島の何処かに移している退役自衛官である。両者は沖縄に米軍基地、及び自衛隊基地を押し付ける事を任務としている軍国主義復活論者ではなかろうか。
惠はこの本が出版される半年前の2008年3月に、米兵による女子中学生暴行事件に抗議する県民集会を非難する為、被害少女の実名と誤解させる氏名を記載したチラシを「産経新聞」と「世界日報」に折り込んで配布するというエゲツない事もしている。その事を琉球新報も報道していたのである。

ところで、最近、星雅彦批判をブログに書く為に「うらそえ文藝14号」を読み返していたら、佐野本の「出版記念講演会」世話人の宮里昭也氏の「佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』をよんで」と、福地曠昭氏の「佐野眞一『沖縄~戦後史』から」という題の書評が掲載されている事に気が付いた。沖縄は狭いから、星氏と宮里・福地氏は付き合いがあるわけである。

 まず、福地曠昭の文章であるが、佐野本への評価らしきものは述べていない。佐野からインタビューを受けた経緯やその時の様子を述べているだけであり、「私のことと「教公二法」闘争の経緯が書かれている。その箇所を見ると、佐野氏の取材能力に驚いた。」とか、「さすがドキュメント作家。歴史を通じ、沖縄に対する深い関心、好意もうかがわせる。」と、ナンとも冴えない感想を言って、その後は「さて、本題となる「教公二法」と右翼テロについて触れてみたい。」と、自分の昔話しか述べていない。
 おそらく、80歳近い高齢ゆえ、分厚い本の中で自分に関係ある箇所しか読まなかったと思われる。佐野も「奄美差別」について、福地には訊かなかったに違いない。奄美の事を福地に訊けば、惠や奥から訊いた事とはかなり違った話が返ってくるだろう。それでは本が面白くならないから、惠忠久・奥茂治以外には聞かなかったと、私は推測している。

 琉球新報元会長の宮里昭也氏の書評は、最初に「四百人にインタビューし、あたった文献は二百余件、月刊誌連載は約三年。まさに足と目、耳で書いた手堀の六五四ぺージである。」と書いて、この本の内容よりも、佐野眞一の取材力の凄さを誉めている。70歳近い人だと想像するが、この年代の沖縄文化人には、佐野が調べて書いた事柄にたまらないノスタルジーを感じるのではないかと思われる。この本には、自分が知らない事も数多く乗っているだろうし、それらを関連付けて展開する佐野の物語に、おそらく宮里も「アドレナリン」を誘出させられたのではないか。
 前にも書いた事だが、これはこれで、通俗性を帯びたノンフィクションとして価値の無いことではないと思う。これを切っ掛けにして、沖縄の若い世代が戦後史に関心を呼び起こさせられる事も在りえる。だが、面白く読めるルポだからといって、内容的に優れた作品とは限らないだろう。ましてや、そこに誇張や歪曲が含まれているとすれば、かえって悪書と呼ばなければならない。
 宮里は、
「六十年以上居座り続ける米軍を優先させる政府、教科書の検定問題、経済格差の是正に見るように県民の望みは断ち切られていく。閉塞感が広がるばかり。――いっそのこと歴史をリセットする方法はないものか…」とか、「復帰後、経済、社会のシステム全てが系列化され、活カとダイナミックさが消えた。……一九七二年の復帰が間違いだったと言っているのではない。残すべきは残し、捨てるものはすてるといった手間を省いたのではないか。佐野さんの人々とのインタビューの裏にその様な囁(ささや)く声が聞こえるように思う。歴史に学べと言うが、まさに至言ではないか。」と、
 現在の「閉塞状況」に溜息を付きつつ昔を懐古しながら、それを呼び覚まさせた佐野の書に、実質以上の評価を与えているのどはないかと私は感じる。「あの頃は良かった…」の感情が、佐野の本に過剰な高評価を与えているのではないか?

 宮里は、福地と違って「空白の琉球弧」を読んでいるはずである。そこには、同僚の市村彦二中村蕎次の二人の奄美出身記者の、沖縄の奄美差別告発論文も引用されているのである。佐野本のこの部分は、重大な沖縄の名誉毀損記述だと私思う。「沖縄は奄美に酷い差別をしたくせに、大和に対しては自分らへの差別を叫ぶのか」、という沖縄誹謗の意味を持つ。
 琉球新報という沖縄の言論をリードする新聞社のトップにあった人物が、この沖縄誹謗のルポ部分からは目をそらし、通俗な沖縄の裏話を連載したような佐野眞一の「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」を激賞した上に、出版記念講演界まで開催してやるとは、情けなさを通り越して怒りさえわいてしまう。 (続く)
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三者三様のハッタリ

安里巡査関連を続ける前に赤松・皆本・曽野綾子トリオの共通点について検証する。   彼らには、ハッタリを使う習性という共通点がある。 
情報操作の手法は大きく分けて事実に反する情報を流すことと、各種手段で事実を隠すこと。

 ハッタリにも嘘だけでなく、隠蔽の目的で使用されることがあるが、ハッタリの特徴は公然と語られていることに特徴がある。またハッタリは自分の利益のため、過大な尾びれをつけるというニュアンスであるが、人によっては見栄でハッタリを言う場合もある。 つまりハッタリは戦術・手段である場合が多いが、自ら自尊心をくすぐる自己目的である場合もある。

赤松の場合
米軍に投降した時「あと十年は持ち堪えられる」と豪語したという。 米軍は戦略的に効率を重視してブーゲンビル・ヤップ・ラバウルの日本軍に対して無力化させればそれで充分と考え攻撃を手控えた。渡嘉敷も同様の理由で攻撃を手控えただけであり、全滅させる気になれば出来る戦力はあった。その上、第三戦隊隊員にさえ餓死者が頻発する気配があった。 赤松のハッタリには自分自身にも正直でない邪悪な性格を感じる。 

ハッタリではないが、1970年3月渡嘉敷を訪れようとしたとき、一度は記者団に「住民を守れなかった責任はある」という趣旨の謝罪をしたと報じられたが、その後「あれは単なる社交辞令」という趣旨に訂正したと伝えられる。 極めて自己本位の性格と考える。 しかし、一面米軍上陸後かえって肥満になったと伝えられることから、ストレスで新陳代謝が悪くなる臆病な性格なのかもしれない。

皆本の場合
この人は知れば知るほど、ハッタリを乱発する性格に思える。 戦史叢書及びある神話の背景で渡嘉敷の戦記を改竄した指揮者と思われる人物である。
 「特攻 最後の証言」などで本部への撤退戦でまるで自分の中隊の1/3が戦死したような表現で誇っているが、実際には(第三中隊でこの前後に戦死しているのは大町大佐の船艇操縦者「中島」のみが海上で戦死したのみである。)3/27,28の撤退戦で第三戦隊第三中隊つまり皆本の戦死者はただの1名もなく、従って戦死者は全員が勤務隊・防衛隊等に所属する傘下の兵士等が戦死していることになる。 一将校成りて、万骨涸れるとはこのこと。 勤務隊等を盾にして自隊に名誉の戦死者を多数出したように見せかけるハッタリは自己顕示欲のためである。 当然のことながらこのような薄情で傲慢な赤松隊の体質を見てきた勤務隊の隊員は、赤松隊の歴史改竄の企てに対して、共鳴応援することはなかった。

次に1945/3/10近辺での沖縄本島での演習で震洋隊の豊廣隊長が牛島大将から「敵に島の正面から奇襲されたらどうするか」と問われ「煙幕を張って出撃します」と答えた際に皆本も同席していた。何十年も経過し豊廣・皆本等の座談会が開催された時、豊廣がその故事を改めて語った。 驚くべきことに、皆本はその後、豊廣の返答を剽窃した。「沖縄とアイヌの真実」で「大町大佐が全マルレを沈めるよう命令したが、私は命令違反を承知で煙幕を張り2隻を引き上げた。褒められた」とこれまでの証言(複数)と異なる後出しジャンケンで自慢している。 これも自己顕示欲のなせる伎。

 さらにろくに調査もせず、「自決検定反対集会に渡嘉敷島からは一人も出席していない」とのハッタリ発言もある。 これは当事者は反対活動をしていないという宣伝を浸透させる目的の戦略的発言といえる。  

 このように皆本は自己顕示目的でも、戦略・戦術目的でもハッタリの常習者といえる。

曽野綾子の場合
嘘の巨塊である曽野綾子は、嘘を多用する。 ハッタリといえるのは太田論争で「赤松の肩を持つように言われるが、私は赤松の恋人でも何でもなく、会ったことも一度しかない」という趣旨の発言が典型的である。  曽野綾子が、私は、個別具体的に、これこれ、しかじかの(複数)論点で、このように中立的な視点から論陣を張っていて赤松の肩を持つなどという事実はないと、論理的に反論しているなら納得出来る。 そうではない。 たとえ、赤松と一回しか会っていないとしても赤松の肩を持つことはありえる。しかもそのこと自体大嘘だったのだ。

 抽象的・包括的な表現で壁を作り個別的検討を拒ませる手法、関連性の薄い事項や論点に関心をスライドさせる「捜査撹乱」手法-これらは曽野綾子お得意の手法で時にハッタリを使い、ヒントや伏線、氷山の一角などを見せながら真相を見抜けない相手を見下し混乱を予想しながらほくそえんで楽しんでいたことであろう。  
未必の故意を未必の恋と間違えるほど知性に劣る曽野綾子であるから、もともと深みのある立体的描写・表現は苦手であろう。 しかし、わざと状況の推移と変化を隠した平面的な描写、空間と時間の継続性と他方での変化をバラバラにして、戦術的に再構成する虚偽の表現が曽野の情報操作の特徴である。 

立体的に表現出来ない技量は天性のものである。 しかし、もともと平面的な描写をさらに曖昧にさせ、人を騙す手法は天性のものではない。 時間をかけ、かなり苦労して練り上げたものに違いない。 だからこそ、曽野は「ある神話の背景」に過度とも思える思い入れがあり、どうしても歴史改竄派の聖典にしたがっているのだ。


つまり、曽野綾子が「ある神話の背景」を書いた目的の一つは自己顕示欲のためでもある。クライン孝子を利用した中学生なりすまし復刊要請もその一環である。

兵事主任と防衛隊

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html

上記から引用する。「渡嘉敷島を訪問し、その"生存者"たちに直接問いただした人々は、確かに赤松隊長から"自決命令"が出されたという島民の証言をレポートしている。たとえば、ルポ作家の石田郁夫氏は『沖縄の断層』(雑誌『展望』67年11月号)で、「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」と明確にしるしている。」

http://keybow49okinawan.web.fc2.com/dansou/dansou4.html

上記がそのルポで当該部分を引用すると「村役場の、公式の「慶良間戦記」と、当時島民で組織されれた防衛隊の物資調達班員だった助役さんの話をもとにして、慶良問の戦いの模様をつづってみる。・・・・この時赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が下された。」とある。「慶良間戦記」とはいわゆる「戦闘概要」のことだろうか。

 ここだけを取り出すと自決命令は単に「慶良間戦記」の引用にすぎないようにもみえる。 しかし、その前の週刊新潮引用からすれば、週刊新潮の記者は石田記者に問い合わせた結果を書いているように思える。

そこでhttp://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/modules/tinyd0/index.php?id=16
の歴代助役から「展望」執筆当時の助役は小嶺信秀であることがわかる。

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/m/200908

上記富山眞順手記「元鰹節加工場敷地の顛末記」に「部隊に戻ったときはすでに夜明になっていた。(30日朝)
 赤松部隊長の壕の正前に私の壕は古波蔵(吉川)勇助君とともに掘らされていた。・・・・暫くすると赤松隊長に又呼ばれたので、何かまたあるのかと思った。

隊長の基(下)に現役当時のようにきちんと申告して部隊編入になったのに何事かと思って伺いましたら、「昨夜は御苦労様、君が見てのとおり部隊は食うものはなんにもないので、家族と共に生活しながら部隊と村民との連絡要員をしてくれ」と云われたので故小嶺良吉兄、故小嶺信秀兄、故座間味忠一兄にも連絡して共に家族の元に帰りましたが、私は現役満期の除隊申告より感激は大きかった。」とある。  

この解釈はかなりむつかしい。富山氏が兵事主任であることは確かだが、座間味の宮里盛秀と違って防衛隊にも所属していたとする資料はまだ見ていない。 普通に読めば、富山氏が自決前後に防衛隊に組み入れられたが、短期間に取り消され、住民と軍の連絡役である本来の兵事主任に専念するよう除隊されたと読める。

展望に引用された助役と思える小嶺信秀の名前も出てくる。 恩納河原へ移動した渡嘉敷の住民と違い本部壕を掘らされていた富山氏に赤松が家族の元へ行けと命令したという記述も除隊をうらずけるものである。

もし、それが事実なら安里巡査ではなく富山兵事主任が軍と住民の連絡役を任じられ、行動していたということになる。このことからも曽野綾子の「ある神話の背景」の(安里巡査だけに軍の命令や指示が伝わるとの)記述はでたらめであるといえよう。 
 安里巡査は軍と住民の連絡先として副次的役割しか演じていず、副次的役割も安里巡査のおせっかいから生じた結果ではないか。 

  戦史叢書に安里巡査の名前の代わりに兵事主任が住民の移動命令を受けた記載となっていることも名実共に兵事主任が部隊と村民との連絡要員であると認識されていたからであると思う。

曽野綾子の操作

和田さん。お久しぶりコメントをどうも。
曽野は随所で、文章に作為を加えて、読者に自分が意図した印象を与えようとする企みを見せていますね。
古波蔵元村長の話の部分部分を適当に切り取りして並べ、あたかも赤松隊長からの命令は、全て安里巡査を通じて、村民へ伝えられると読者に思わせる細工をしてます。それは仰るように、3.28以降に軍が北山陣地に立てこもる様になってからでした。

曽野の証明は、安里巡査は「自決命令」を村民に伝えなかったという事に留まります。別の誰かが伝えたかもしれません。
だが、やはりそれを証明する証人もまた居ないという事ではありますが。

安里巡査が伝えたという嘘

本題とは関係ありませんが、とりあえず空いているところへ書きます。http://kyoto.cool.ne.jp/sono001/archives/jiketsu.htm「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」(以下(虚妄)と略記)

曽野綾子は上記にて「当時、村の有力者といえば、校長、村長、駐在巡査の三役だったが、私の幸運は当時の村長も、駐在巡査も健在だったことだった。村長が「自分は自決命令を聞いていないが、駐在がそれを伝えて来た」言明したので、私とすれば駐在巡査に会えばよかったのである。」と語っている。 

   同じような内容がWILL2008年01月号「強制された死か、個人の尊厳か」にも次のように掲載されている。
「戦争中の古波藏惟好点渡嘉敷島村長は、自決命令を持って来たのは当時の駐在巡査・安里喜順氏で、自分が直接聞いたのではない、とはっきり言ったのです。」というものである。「ある神話の背景」でそのような趣旨の記述になっているだろうか。  曽野が古波藏氏が語ったとされる第1の記述は「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね。玉砕という言葉はなかったんですけれど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て・・・・安里巡査も現場にきていますよ」 

この記述は原告サイドから明確な軍命令がない曖昧な記述で軍命がない証拠と攻撃されている。 しかし、複数の防衛隊が手榴弾を配布した際、何も言わず配布することは考えられず、防衛隊が条件付きの(米軍に捕虜になるか殺されそうになった場合)自決を促したということで充分ありそうなことである。 村長はじめ住民は衝撃は受けたものの、日頃から洗脳されていることもあり、直ちに拒否反応を示すことも出来ず、心理的に自決、自決と追い立てられることになったはずである。そのような自決した方がいいという条件付き指令を古波藏氏以外の住民も聞いていたというのは事実だと思われる。安里巡査も聞いたと受け取れる記述であるし、何より村長自身も聞いたと主張しているから、この記述は(虚妄)の記述に該当する部分ではない。

ある神話の背景で、古波藏氏は自決の日後陣地に一週間おらされたですよ。妻子も私がどこへ行ったかわからないですよと語っている。古波藏氏は一般住民から一週間離れていたと語っているのだ。 「古波藏村長は一週間後に、家族の所へ戻ってからは殆ど軍と接触していない。食料挑発もすべて軍から文書で命令が来た。」との記述に続いて古波藏氏の「軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」曽野「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」「ありません」「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」「そうです」「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」「私へ来るんです」「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」「はい、ずっとです」

以上の記述から安里巡査は自決の日以後軍の陣地に入り、留まったこと、一般住民は陣地外に居たことがわかる。 一体1月に赴任した(一時的に沖縄本島に出張した)安里巡査が初めて赤松と会ったのが3月27日。翌28日少なくとも午後3時頃まで安里巡査はフィジガー付近にいた。 安里巡査が軍陣地に入ったのは28日夕刻近辺であろう。  そのような実際の状況と古波藏氏の主張を比較するならば、軍の命令が安里巡査を通じて一元的に伝えられたのは(ただし、富山兵事主任から命令が伝えられたとの手紙あり)それ以後であり、古波藏氏はそのことを一週間後に帰った恩納河原で知ることとなった。また、それ以後は安里巡査から古波藏氏に軍の指令が伝えられることになったということだ。

一方、「ある神話の背景」において安里巡査は「部隊がもう最後という時に、一人は部隊の連絡に出た筈ですよ。・・・・連絡員を部隊に出しました。」語っている。 自分自身が赤松の伝令役になっているわけではない。連絡員を出した主体も村幹部を臭わす記述である。 

以上のように3月28日安里巡査が軍陣地に入る前は、安里巡査ではなく、防衛隊が赤松隊と村民の連絡を担っていることが明らかである。
要するに「ある神話の背景」ら「村長が「自分は自決命令を聞いていないが、駐在がそれを伝えて来た」言明したので、」などという記載はない。 後出しジャンケンでさえもなく創作・神話という他ない。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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