2017-06

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特攻不出撃に関する虚偽

 「(大佐を含めて)赤松隊幹部が命を惜しんでの故に、ワザと不手際を重ねたのではないか」という私の疑惑は最極端のもの、つまり憶測でありネットでも主張したりすべきモノでないかも知れない。
当時の当事者の心中まで検証の仕様がないという点では、曽野綾子と赤松が言うとおり、大町大佐の依怙地な態度、二転三転の指令、最後の自沈命令が事実である可能性も無きにしもあらずである。

しかし、曽野や赤松はそれの弁明材料として、何故以下のように、虚偽事実を三つも出さなければならなかったのか?
1、マルレ舟艇は、直前に反転する生還型のものだったに拘らず、敵艦体当たりの「必死」の特攻兵器だとしきりに強調した事。
2、軍隊の命令系統を無視して、基地隊が泛水作業で、ゼネストを行ったという虚の可能性濃厚の記述をした。もしそれが事実なら由々しき事で、曽野と赤松は詳しく説明する義務があるが、それは無い。
3、泛水作業に手間がかかり、夜が明けて出撃不可能になってしまった。舟艇を再び陸揚げしようとしたが、干潮になって海底が露出してしまってそれも不可能になったので、自沈せざるを得なかった、という明白な嘘。

何ゆえにこれだけの嘘を、不出撃正当化の為に曽野と赤松は付いたのか?という疑惑が憶測を呼ぶのは自然な事だと思う。しかし、その嘘は何ゆえか、という事には検証の仕様が無いので、憶測として追及者の胸中に留めざるを得ないだろう。
特攻できる状態にあったというのに、特攻しなかったのは何故かという当事者の心中を窺う事は、後世の我々の判断できる事柄ではないと思える。それは各自の想像に留めるしかない。

小生のこのブログの本意は、曽野綾子「ある神話の背景」の欺瞞追求だから、上の三つの欺瞞を検証できた事で、十分に満足すべきではないかと思っている
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コメント

泛水時に必要な神楽桟とは?

参考サイト有難うございます。
和田さんのあげたWEB事例では、確かに神楽桟は「引揚げ」機ですね。

しかし、海上挺進基地第二大隊第三中隊陣中日誌には、
「泛水時に用いる神楽桟の製作」と書いてあるのです。

私たちの検討目的は、その陣中日誌の記述の意味を読み取ることなのです。
なぜ泛水時に『神楽桟』が必要なのか、あるいは、泛水時に必要な『神楽桟』とはどんなものか、を。

もし和田さんが仰るように阿嘉島ニシ浜の海岸が急勾配で、しかも「神楽桟」が巻き上げ機だとすれば、それは泛水時に舟艇が暴走落下しない為の安全装置だとかんがえられます。阿嘉島ニシ浜の地上写真ではそんなに急勾配のようには見受けられないのですが。
http://www.ritou.com/spot/view-aka-A2.html
秘匿壕は緑のある砂丘のさらに奥にあったのでしょうか?
(ちなみに、岬の鼻の形が渡嘉敷島渡嘉志久の岬にソックリなので吃驚しました)


神楽桟の用法

神楽桟については、あまり追記することもないかと思っていましたが
http://www.geocities.jp/gunmakaze/kodomonokoro/16kagurasan.html

上記より引用「別項で鉄索のことを述べたが、それは高い所から低い所へ運搬する方法であった。それに大して(ママ)本項のカグラサンは、逆に低い所から高い所に運搬する方法である。」

阿嘉島の神楽桟は、陸側にあったのか、海側にあったのか考えた。海側では地盤が悪く、陸側と推測したが、引用URLの図からいってもそうなのだろう。

  泛水目的もあるが、毎日のように訓練をするためにマルレを引き上げるという目的がなければ、神楽桟を採用しないと思います。 赤松は、泛水路の完成が1945年3月20日頃だと曽野綾子に言わせていますが、どう考えても、壕堀より枕木敷設のほうが短い工期で完成するのではないでしょうか。

また神楽桟などを使用したという、阿嘉島の浜をgoogle航空写真で見ると留利加波の浜の奥行き距離に似通っている。明らかに渡嘉敷ビーチは遠浅で壕から海までの距離が長いように見える。木馬を使うにせよ、何故浜の距離が短く勾配がきつい-泛水時間が短いはずの-しかも、先行して工事に着手したはずの留利加波を放棄したのか答えが見つからない。

秘匿壕

どなたか指摘済みかもしれませんが、第三戦隊の秘匿壕は未だ完成せず、だったのですね。

「敵機動近迫時ニハ全舟艇洞窟或ハ軽掩蓋ニヨリ秘匿掩護シ得タリ」
『昭和二十一年一月九日調整 戦史資料』>http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1406.html#id_78bfac79

「軽掩蓋」=草木で覆ったに過ぎない舟艇も残されていた。

戦時中に座間味の集団自決の噂が本島に伝わる

こんにちは。「忘れられぬ体験 市民の戦時・戦後記録 第二集(那覇市民の戦時・戦後体験記録委員会)」に漢那のメアー(村長)に任命された池宮秀厚さんの証言があります。「その頃、北部大宜味村での日本兵による住民虐殺事件、座間味村での集団自決などいろいろの風説が流れていた。」と書かれています。その頃とは何月ごろかは書いてありませんが、文章の流れからいって敗戦前と思われます。誰が座間味の集団自決を教えたのかはわかりませんが、怪我をした座間味住民或いは兵士が本島の米軍病院に運ばれて、その人から伝わったのかもしれませんね。

和田さんへ

私の資料庫の左欄は新たな更新が上になっていきます。
以後見つけにくいときは、 「再び「殉国日記」について」 でサイト内検索してください。URLは、
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2270.html
です。

>、「海上挺進第2戦隊史実資料」は大分以前にお願いし、
和田さんからのお願いを承りましたか?

親御さまをお大事にしてください。

まさかの坂

キー坊さん
丁寧なレス有難うございます。

桜ビデオまさかYoutubeから削除するとは思っていませんでした。迂闊をお詫びします。もし阪神さんが、金城武徳さんとお会いになる機会があれば、「金城さんの家に赤松隊長は泊まっていたんですか?」と聞いていただきたいとお願いしたいと思います。私はビデオのなか、村の博物館に赤松元隊長から寄贈された恩賜の時計を、嬉しそうに紹介する金城さんの顔が忘れられません。

>「赤松手記」としたのは、p74で「石川収容所において、… フィリピン製のノートにしたためたものから再構成し…」

なるほど捕虜生活中に鉛筆をなめなめ思い出しながら書いた「手記」ですね。(ただし。ここでは曽野綾子にミスあり。昭和21年3月は、もうとっくに赤松は復員しています。.追記、鉛筆をなめなめ思い出しながら書くのは兵庫県加古川の自宅に帰ってからかも。)

>「予の宿舎の一人息子にして、中支に出征しある与那嶺曹長」p95の文言、

ここは、「蓉子さん」との関係を聞かれなければ答えないでしょう。6ヶ月の捕虜生活の中で追想して書き起こした「日記風手記」に書くでしょうか? 「曽野のコンテックスに、いつもいつも即応しています。」と申上げたのはそういうことです。 このことを実証的に記すのは、曽野全面批判になる仕事ですから、まだ当分はご猶予ください。


>以前の沖縄人が書いた「赤松悪鬼」的戦記は、曽野綾子や赤松嘉次に巻き返す材料を与えたという点で、その責任を問いたい気分になります。

琉球大学の文学教授も、星雅彦さんも、嶋津(大城)さんも、宮城晴子さんも、しばらくはそう思っていたんでしょうね。曽野綾子に優しかったのも、まさか30年後に「反日狩り」のプロトコールに変身するとは思わずに。私は、沖縄の人は、曽野綾子さんをイイ人だと思ってしまうぐらいイイ人なのでしょう.、と思わずにはいられません。

心優しきフツーの人間がフツーの感覚で組織の常識に従ったフツーの所作をした結果が、「残虐非道」なものだったということについて、私たちはどう迷いつつそれを批判できるか、という問題ではないかと私は昔から考えています。大江「沖縄ノート」はそれをヤマトンチュウーの内心に問うという設定で書いた書だと思います。

フツーの人間がフツーの感覚でフツーの所作をした結果なんだから許してやろうよ、で済む問題だったのかどうか? 家族がそう当人を庇護するのは当然です。しかし、世間は許してやろうよで済むのでしょうか? 「反戦平和」ということはそういうことではないでしょうか?

私は、「鉄の暴風」にしても「村の戦記」にしても、結果としてのあるいは組織の帰結としての残虐非道、を後世に伝えた功績は大だと思います。「鉄の暴風」は、内なるA隊長、内なるCh少尉をひとりひとりに問う、叙事詩なのだと定義しなおせば、とても優れたものだと思います。

えらそうになどしません

[C566]への返信です。
資料庫で「W氏叉はw氏」で捜しましたが見つかりませんでした。   迷路のようになっているように思えたので(私はえらそうにするつもりも、世間体もないので)再度教えて下さい。

なお、「海上挺進第2戦隊史実資料」は大分以前にお願いし、黙諾と思い込んでいました。  「563」記入前に入手しております。

なお、ちょうど親の体がおかしくなり、不定期叉は長期、間が空いてしまう論議になるかもしれないですが、我慢してください。

宿は三つ

ni0615さん。 私の書き方に問題あったようで、それについては謝りたいと思います。

金城武徳が赤松大尉のうちの坊やだったかどうかは、それほど重要な事柄ではないと私は思うので、この件については、何か何でもと、持論を押し出す気持はないのです。武徳が巡査の宿の息子だというのも資料が確認できない状況ですから。
ただ、わずかばかりでも研究をしている者には、瑣末な事であっても、一応は自分の考え方を述べておきたいのが心情なので、そうした訳です。

整理してみますと、
(今捜せないのですが)武徳の同級生の家が渡嘉敷部落における赤松隊長の寄宿先であったと、武徳が言っているのを見た記憶がある事。(映像だか文章だか記憶あいまいですが)

「予の宿舎の一人息子にして、中支に出征しある与那嶺曹長」p95の文言、これを「赤松手記」としたのは、p74で「石川収容所において、… フィリピン製のノートにしたためたものから再構成し…」とあり、その流れで上の文言も赤松手記の一部と解釈できるので、そう書いたまでです。曽野が色々アレンジした可能性は十二分にありますが。
上の2件が、私がこれまで見た、渡嘉敷部落における赤松の宿特定(可能性の)資料です。

>キー坊さんの仰る『赤松手記』は、不思議なことに曽野の問いかけ、曽野のコンテックスに、いつもいつも即応しています。

ここのところを、もう少しご説明いただければ、と思います。

p239の金城幸二郎の家は(第一中隊の居る)阿波連部落における、赤松隊長の宿泊先だったの記述は間違いない事でしょうね。あと、本部のある渡嘉志久部落にも民家は数件在ったらしいから、与那嶺の家はそこでの寄宿先だった可能性もあります。
もっとも、金城武徳が「赤松大尉は自分の家を宿泊先にしていた」という文章や映像が見つかれば、あっさり結論が出る事柄だと思います。

皆本の寄宿先の家の者は皆本を称賛し、巡査の寄宿先の家の者は巡査を通じて赤松を称賛する。戦時中における兵・民交流の密度が、住民の元兵士への好悪の度合いを決める要素になっているという事が見て取れます。「慶良間の虐殺【一】」
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/keramagyakusatu/gyakusatu1.html

という事は、当たり前といえば当たり前ですが、個々の兵士は決して鬼のような人間でなく、人間味も十分ある存在だったという事です。それでも、軍隊の論理(エゴ)を通す時は、軍人は冷酷にそれを実行する。
以前の沖縄人が書いた「赤松悪鬼」的戦記は、曽野綾子や赤松嘉次に巻き返す材料を与えたという点で、その責任を問いたい気分になります。

>キー坊さん

私がメモしたのはそれほど間違っていないと私は思いますので、「それは間違いです」といきなり言われますと面食らいます。しかし、他人さまを説得する証拠が消えてしまったことも事実です。あとは金城さん本人にお尋ねするしかないかもしれません、自分が信じた1点をもって他のことに敷衍し、「一事は万事なのだ、これを否定してできないだろ!だから俺の説以外に正しいものはないのだ」と、他説を強引になぎ倒していくやり方余りよくはありません。キー坊さんが仰るように、いまはお互いに「宿替え」を留保しておきましょう。

赤松は、曽野との間のなかで、座間味の収容所から戻ったとして処刑した少年達のうち一人も、自分の宿の息子だったといってます。

wac版P239
「そのうちの一人は私が泊まっていた家の息子、私は次郎というのだと思っていましたが、こないだOさんから幸二郎と言われたんですが、・・・・私がよく演習に行った時に泊まったとこの息子ですから。」

※ なおキー坊さんは、wac版での赤松からの引用符「 」の箇所を、『赤松手記』となさっているのでしょうか? 「そんな手記いつ書いたものだろう?」と、いきなりで面食らってしまいました。 

曽野の赤松取材は、おっしゃるような未公開手記もあれば、長時間面談もあれば、長時間の電話もあったと思います。 曽野は赤松とは密着していないという素振りをしてますが、それは事実とは反対で、創作作者には許される、読者をひきつけるレトリックの一つでしょう。曽野が面談の中で問うたことを、次の面談までの間に赤松が「手記」として書いてきたことも考えられます。電話で問われたことを手紙で返したこともあります(証拠あり)。キー坊さんの仰る『赤松手記』は、不思議なことに曽野の問いかけ、曽野のコンテックスに、いつもいつも即応しています。

予の宿舎

>ni0615さん。

「集団自決の真実」の95頁に、「一月中旬ごろ、蓉子さん、かねての婚約者にして予の宿舎の一人息子にして、中支に出征しある与那嶺曹長と写真結婚をなす。なかなか盛大なりしも、…」(赤松手記)とあります。
赤松の寄宿先は、「与那嶺」という家だったようですが、「一人息子」とあるので、その家には武徳と同級生の息子は居ない事になります。ともかく、この文言からは、金城武徳は赤松大尉の「うちのぼうや」ではないし、その同級生もそうでない事になります。
それでも、トカシクの宿が与那嶺という家だったかもしれないし、宿替えの可能性もあるので断定は出来ないですね。

re:マルレ番組

阪神さんの紹介されたマルレの報道特集映像は、まさしく私が京太郎さんより頂いたDVDと同じものです。(1992放映)
震洋のレール映像が出ていたので、慶良間も同じようなものだと、ずっと思い込んでいました。

関係ない話ですが、昨日高円寺の「球陽書房」という古書店に行ったら、店主と言葉交わす機会ありました。
店主は二代目で苗字は「西平」といい、亡父は、あの大田昌秀、外間守善と、s20年代、この近辺で共同自炊生活しながら、大学行ってたとの事。「愛と鮮血の記録」など3冊購入。

キー坊さん

私のメモに「隊長のうちの坊や」とある
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/783.html

そのビデオは削除されていました。
「島民が語る・沖縄集団自決の真実!・6-4」金城武徳(2)
http://www.youtube.com/v/uT5aMVbvyAw
私のメモ→渡嘉敷島歴史民族資料館・会館員・「隊長のうちの坊や」

私の記憶では、井上和彦氏が「隊長のうちの坊やだったそうですね」ときくと、「赤松隊長にはとても可愛がられました」と答えるといった会話だったと思います。

キー坊さん 阪神さん

私のうろ覚えは、金城さんが「資料館」で特幹隊の歌を歌った桜ビデオだったかも、近く確かめてみます。

阪神さん、
良く出来たレポートですね。そのビデオの上下、儀同保さんの「ルソンの碑」と併読するとわかりやすいような気がしました。レールの写真はカラーですから米軍記録を探したのでしょうか? 場所がわかれば面白いですね。

※1 ほんの一部アップしました。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2283.html
※2 ビデオの中の小指の主「横山小一」さんは陸軍伍長で第三戦隊第一中隊(阿波連)第2群で、3月23日の空襲で戦死した方のようです。

和田さんへ

C563和田さん
殉国日記についての貴方の間違いを指摘したエントリーでしたら、そのままのURLでエントリーしたままですよ。ずうっと貴方をお待ちしたままですよ。

あなたからもう一度教えてほしいとご依頼があればお教えしますが、偉そうにしていたいのなら、私のコメントのなかのURL記述をご自分でお探しください。それとて簡単なことです。

>「海上挺進第2戦隊史実資料」が掲載されないので

なにをいってるんですか、ダラブツ!!
いくら喝を入れても自立できないようですから、防衛庁資料のURL教えます。あとは自分でお読みなさい。
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305200_01

わたしは和田さんのサーバントではありません。サーバントになってもいいですが、あなたのバヤイでしたら、最低1日5万円は前払いでくださいネ。

マルレ番組

TBSで日曜の18時から放送していた懐かしい番組です。90年頃の放送ではないかと思われます。震洋のレールの映像もみれます。
ちなみに、最後のほうにRCCの松永英美さんが解説していますが、彼女は姫百合学徒隊長だった女子師範の西平英夫先生の娘さんです。http://www.youtube.com/watch?v=eod40AuRR3g&NR=1

赤松大尉の寄宿先

ni0615さん。
金城武徳の証言集を整理してないので、どこで証言していたか今は思い出せないですが、渡嘉敷部落における赤松大尉の寄宿先の息子と、武徳は同級生であり、よく遊びに行ったので赤松とは面識があったと言ってました。それだけ好意はあったのでしょう。(youtubeかな?)

武徳の「赤松名将説」は、主に安里巡査を通じてのものでしょう。

ここで一人でやってくれという意味 ?

nio615さんのここでは長くなるから「15年戦争資料」で論じようというコメントが見あたらなくなり、15年戦争サイトからもそのような欄が消えているような気がするのですが。

ひょっとすると、論争はばからしいから「勝手に妄説を語れ、そのうち纏めて批判するから」という趣旨で消されたのでしょうか。  なかなか「海上挺進第2戦隊史実資料」が掲載されないので自分で検索し見つけたばかりですが、予想された範囲の記事でしたので、私なりの一応の見解はあります。  
ここで結論だけ言えば、マルレの他に刳り舟2隻で阿嘉島から渡嘉敷に渡航し、刳り舟そのものは阿嘉島に帰還したということですので、人数でいえば足して2で割ったような結論が妥当かと思います。

クリ船は4人乗りが普通であることは「サバニ」で検索すればわかります。10人乗りが世界最大だとか。  操縦者は帰還したのですから、谷本版陣中日誌で名前が確認出来る大町大佐一行のほとんどは大町大佐と行動を共にしていたが、通信兵のほとんどは座間味島・阿嘉島に残留している兵士と、渡嘉敷に大町大佐と沖縄出航時はを共にしていたが先行して渡嘉敷に渡航した通信兵がいるものと考えられます。

クリ船2隻の定数から考えると9人+搭乗員数名はむつかしいと思われる。 

キー坊さん

初出は、1967年雑誌「展望」11月号の石田郁夫・「沖縄の断層」だったのですね。あとの「慶良間の虐殺」1968も同じ内容。   ご指摘有難うございました。

※ 金城武徳氏は赤松大尉の寄宿先の「坊や」だと聞いていましたが、安里巡査も同宿だったのでしょうか? 軍幹部の分宿にはローテーションがあったかもしれませんが。
※※ 確かに「無駄に軍人は死ななかった」とは卓見かもしれません。海上挺進戦隊の中でも、戦隊長と中隊長3人全員のトップ4が皆生き残ったのは稀有な例です。

名将説

最初に、「赤松名将説」が世に出たのは、1967年雑誌「展望」11月号の石田郁夫・「沖縄の断層」に於いてだと思います。巡査の下宿先の息子だった男が、赤松を弁護し称える言葉を、石田と酒席に同席した村民に力説している事を、初めて紹介したのです。その息子とは金城武徳だと思います。
http://keybow49okinawan.web.fc2.com/dansou/dansou4.html

おそらく、慶良間に足を踏み入れて住民の生の声を公に紹介したのは、石田郁夫のこれが最初であり、それを読んだ赤松は大いに元気付けられたものと思えます。

大町大佐

私は、大町大佐のその言葉の存在自体に「?」をつけています。曽野綾子の創作です。石田手記(H2)もそれを引用していますが、石田四郎氏も「曽野神話」に抵触することは禁忌と考えたのでしょう。しかし、大町大佐と赤松大尉の間にはギクシャクはあったのでしょう。

直前に那覇で行われた兵棋演習では、攻撃対象が「本島上陸作戦実行中の敵船団」であることは確認していたはずです。

赤松の独断泛水は目の前の敵に向かうものですから、そうした基本確認に反するわけです。しかし大町にとっても適切な判断ができない状況のなかで、イライラを赤松にぶつけたかもしれません。

まさしく芥川『藪の中』で、黒澤明なら大町本人の証言をどう撮るかという興味があります。赤松と大町の二人の顔がベリクロで出てくると思うとキモイですが。

赤松はこのデ・ジャブかもしれないこの諍いのことを封印していましたが、「戦史叢書」編集のため防衛研修所戦史室に呼ばれて、大町悪者説を吹聴し、それがかなりの部分採用されて、いよいよ巻き返しに出たたわけです。

(週刊新潮1968/4/6号)
>今年1月14日、戦後、23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会"で、これまたはじめて「戦闘報告」をおこなったのである。なぜ、そういう"心境"になったのか。一つには、防衛庁が出した戦史『沖縄方面陸軍作戦』が「彼の名誉を回復した」からといわれ、また最近、渡嘉敷島住民の間で、「赤松名将説」が現れたことに「ご本人、すっかり気をよくし」たからともいわれている。

※「赤松名将説」は、他の2戦隊に比べて「無駄な死者がなく終戦まで持ちこたえた」ということのようだ(石田郁夫「慶良間の虐殺」1968)
> その彼らが聞いたら、落胆するであろうことを生き残った一人は語った。 噛みつくような語気で、赤松名将説をとなえるのだ。通説にしんぼうしてきたが、この機会にぶちまけるといった、息せききった調子で、私は面喰らってしまった。「戦争のゆくすえを正確に判断して、無謀な特攻作戦を行なわず、兵をなるべく損わないで引揚げた、降伏の調印式までやったのは、陸士出身のパリパリにしてできることだ」あっぱれな武著ぶりだったというわけだ。島民はどうなるのだと私が言うと、赤松の弁護論をはじめた。「集団自決をしろと、誰が言ったと、赤松は怒鳴ったそうだ。」

阪神さん、失礼!

阪神さんを、和田さんと間違えてしまいました。まことに失礼しました。訂正します。
小笠原はともかく、今も高知の港にレールが残っているとは意外ですね。

ni0615さん。
金城 亀二などの証言を読めば、本島の戦隊は反転型の攻撃を繰り返していたのですね。それは全船舶隊の合意事項だったと思います。

それだけに、赤松隊が出撃準備をしていた時に、大町司令官が「貴様、逃げる気か!」と怒鳴ったというのが腑に落ちないですね。


オフトピですが

黒木瞳主演『白旗の少女』、今日放送されます
http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2009092902000066.html

RE:震洋の鉄レール

>>阪神さん
========
http://keybowokinawan.blog54.fc2.com/blog-entry-95.html#comment552
[C552] 震洋の鉄レール
「震洋 レール」の画像検索をしていたら見つけました。
ただし、鉄レールですから参考にすぎません。
2009-09-30 00:43 阪神
========
(投稿規程に依り画像URL省略;上記URLを参照してください。また「橇」に関連したコメントの流れも参照してください)

前者の本文には「トロッコに乗せて」とありますが、これは筆者の想像に過ぎないでしょう。
http://community.travel.rakuten.co.jp/community/spot.do?spotCode=13345

後者の本文には、「スリップ・レール」とありますね。
>御畳瀬第127震洋隊基地遺跡
>~搭載爆弾クレーンと海面滑りレールが現存~
車輪を載せるものではないようです。艇を直に滑らせたわけでもなさそうです。
http://www.digi-mori.com/morilog/ume05201/019-19.html

レールといっても木のレールもあれば鉄のレールもあったかもしれない。条件に合わせた泛水方法を構築することは、「船舶工兵」(海軍ではなんというか?)の「築港職人部隊」としての知恵と工夫の出しどころだったのですね。

http://hc6.seikyou.ne.jp/home/okisennokioku-bunkan/okinawasendetakan/kaijotokkoutei.htm
証言1 金城 亀二 では、
「兼城村の照屋部落の船舶特攻隊の大隊」(戦隊名は?)では、第一中隊が「線路」搬送方式でで第二中隊が「タイヤ」付き台車方式だったと書いていますね。

舟艇壕から波打ち際までの距離など地形によっても泛水方法は変るのかも知れません。こういうことまで「一億総一律」とは行かなかったようです。

母島と高知

キー坊さんこんにちは。
レールが曲がって宙に浮いているのが小笠原母島椰子浜、海中に沈んでいくレールは高知市御畳瀬です。

阪神さん。

ここへレスします。あそこのコメント欄は長く延びていますし、本記事とは内容がずれてきているので、なるべくここへお願いします。

>[C552] 震洋の鉄レール
この写真の場所はどこでしょうか?
私が持っている慶良間のマルレを報道したニュース特集のDVDでも、震洋の泛水路の写真として、同じ鉄レール(+枕木)のモノが紹介されてました。(慶良間も同じものだったと解説されてましたが、渡嘉敷は橇式だったというから、それは間違いだった訳ですが。)
海軍は大体同じだったかもしれないですね。

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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