曽野綾子著
「ある神話の背景」は、1973(s48)年に出版されて、沖縄の言論界に大きな打撃を与えた。
渡嘉敷島の島民の「集団自決」は、守備隊長・赤松嘉次大尉の「自決命令」によって強制されたものと、戦後、遍く思われていたが、曽野氏は厳密な現地調査を行った結果、赤松隊長が「自決命令」を出したという何の証拠も、一人の証人も居なかったという。
住民の集団自決は、お国の為にと自発的になされたものであって、「隊長命令」は、遺族が「援護金」を受給するための捏造であった。悪鬼のごとき日本軍守備隊長が「自決命令」を出したという言い伝えは、「神話」つまり作り話に過ぎなかったという結論を出したのであった。
「集団自決」のみならず、赤松隊による10数名にのぼる住民の処刑もまた、戦時中のやむ得ざることであり、赤松隊長および隊員の犯罪とする事は出来ない、としている。また、特攻不出撃の弁解・正当化、兵隊よりもはるかに多い住民を死に追い込んでおいて、自分らは生き長らえた事などなど、特攻隊・赤松軍の全ての所業の全面的弁護に終始しているのが、曽野綾子の「「ある神話の背景」というノンフィクションである。
このような一方的に、戦時中に沖縄で日本軍がなした行為を弁護した本が、「歴史の実証」をなし得た作品と言えるかどうかの検証をしたいのが、小生がこのブログを立てた本意である。
もとより、私ごとき浅学非才な市井の者が、一人で追求するには荷が重いテーマである。先達の研究家の方々の論文、および同じテーマに関心をお持ちの、このブログを閲覧してくれる方々の意見を伺いながら、検討を進めて行きたい。尚
、「ある神話の背景」はタイトルを変えて
、「沖縄戦・渡嘉敷島・『集団自決の真実』・日本軍の住民自決命令はなかった!」という文庫本で、WAC出版から06'5月に再刊されている。
ブログという形式のサイトで、特定の作家の論文を初っ端から、大分のモノを載せる事は適当でないかもしれないが、ご容赦いただきたい。
左欄の記事名は新しい順に並んますが、石田郁夫氏のルポを発表年次順に、読んでいただきたいと思うので、本文は当分は掲載順に並べます。
石田郁夫・各論考最初のページのリンク(初出、年・月)
沖繩の断層(67年11月)
慶良間の虐殺(68年4月)
集団自決の「記録」と「真実」の間(69年2月)
サンデー毎日記事(72年4月)
赤松隊公式陣中日誌(上)
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失礼いたしました。
さて、カンボジア内戦から相当年数が経過しています。ポルポト政権幹部の虐殺行為を犯罪として告発しようとする試みがなかなか進展しません。
このことと、渡嘉敷島の事例に似たものを感じました。
日本の敗戦は曖昧に終戦とされ、政権幹部には復活した者もいたし、下級幹部はそのまま行政に関与し続けました。 一方、カンボジア内戦はフン・センというベトナムに担がれた系譜を持つ政権が冷戦後なし崩し的に脱ベトナム化し、他の諸勢力と曖昧に和解統合されたという印象です。 その過程でポルポトは生け贄にされたようですが、ポルポト派の幹部は虐殺などの責任を問われないという密約があったのかどうか。
TV報道などによれば、ポルポト派の虐殺を告発しようとする人達に、躊躇・逡巡がみられるようです。 被害者と加害者が交錯し本意ではなくとも虐殺の共犯者になっていることなどが一番の原因でしょう。
石田記者の記事を見て半ば驚き半ば納得したのですが、赤松の大城訓導処刑に賛成する島民が結構いて、大城氏がよそものであることが最大の理由のようです。
また、安里巡査を宿泊させた島民は安里巡査から情報を得ていること、安里巡査に同調していることなど宿泊させた軍人を善人と認識している傾向もみてとれました。
赤松は自分に最後までついてきた島民と他の島民との間に対立が生じたと語っていましたね。
それと初めて大宅壮一の「動物的忠誠心」という表現を知ったのですが大いに参考になりました。私のイメージは犬ではなく、サーカスで芸をするために鞭で調教される猛獣です。
NIO615さんのサイト
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp?cmd=upload&act=open&pageid=1873&file=w%E6%9C%9D%E6%97%A519700821k08.jpg
によると1970年3月を皮切りに200人以上の自決者が叙勲されることになっていた。
「ある神話の背景」でも赤松隊の一人が富山氏に多数の叙勲者が出るとの話を聞きたくなかったとなじる場面がある。 実際はそんな柔な感じではなかったのではないか。
渡嘉敷島公式サイトには叙勲祝賀会の記事がない。
私には、年金と並んでいや、それ以上に叙勲それに続く祭りに水を差されないために島民は赤松命令説を放棄し融和の道を歩んだように思える。
赤松の遺品(生前かも)の時計などを展示したのも融和の一環だろう。
しかし、曽野綾子は赤松をも上回った。周知の通り、家永氏の教科書裁判で曽野綾子は国側証人として活躍する。 その後も新しい歴史教科書を作る会に裁判を働きかけている気配が濃厚である。
渡嘉敷島の島民も問題があった。靖国カルトの呪縛が抜けていない島民も多く年金受給・叙勲で癒され満足する風潮があった。 その中でその一派は、隊長命令はもちろんのこと、軍の関与まで抹殺し、あくまでも島民の自発的美しい行為として顕彰することに突き進んだ。
富山氏はある時点まで曽野に従ったが、ある一線で我慢できなくなり手榴弾配布の件を明かす。 以上確証はありませんが、キー坊さんの赤松命令承諾説に対する別の観点からの反対意見です。