2013-06

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本田記述も否定

 前回の記事で、
『初枝は死去する3年前(87年)、本田靖春に「25日の午後4時くらいに盛秀に呼び止められた」と証言している』と書き、それを元にして、『「午後4時頃、前翁長の家で」、訪問はあったのではないか』との、自分なりの推測を述べた。だが、この事について宮城晴美氏本人に問い合わせをしてみたところ、「その本田氏の記述は彼の推測に過ぎず、初枝の明言した事ではない」との返信が来た。その記事出版当時、晴美は生前の母に事実でない事を確認したという。

 私もそのように否定されれば、本田記述を拠り所にすることは出来なくなる。宮城晴美は、母初枝の証言はあくまで本部壕訪問は「3月25日の夜」だったというものであり、自分もその主張を崩す事はしないと言う。そこまで言われたら、私もそれは「3月25日の夜」の出来事だった、という視点に立たたざるを得ない。それにしても、今回川田文子といい本田靖春といい、名の通ったルポ作家の記述でも、そのまま受け入れる事は軽率だという事を勉強させられた。

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宮城初枝に「捏造」の動機があるか

 宮城初枝はs20年3月25日の夜、宮里盛秀ら5人で戦隊本部の壕を訪ねて梅澤戦隊長に会った、と手記に書いた。だが、これは複数の証言により、「あり得ないこと」として否定されている。梅澤が手記「戦闘記録」で言ってるように、3月25日の夜(22時頃)、本部壕で盛秀一行が梅澤隊長に会ったという事実は無かったと言わざるを得ない。
 朴壽南監督はこの事を最大の根拠として、「本部壕訪問話」は5人のうちの唯一の生き残りとされる宮城初枝のでっち上げ=「捏造」であると断定し「偽詫び状事件」も含めて、宮里盛秀に自決の責任を被せる為の、梅澤との共謀であるとする。しかし、時間帯・場所は否定されても、訪問そのものまでが「捏造」であると断定できるものだろうか?

梅澤@座間味・1982
梅澤裕・1982年座間味慰霊祭

 初枝は死去する3年前(87年)、本田靖春「25日の午後4時くらいに盛秀に呼び止められた」と証言している。
 梅澤の手記では、本部壕で夜10時頃と書いてるが、「国の支え」(2007年10月)では、「敵が上陸する前の晩に僕たちはもうボロボロに壊れた海岸近くの家におって、…そこへ村の助役ら…五人が来て、…」と、インタビューに答えている。
 伝令だった宮平敏勝は、25日夜、本部壕には自分以外に誰も居らず誰も来なかったと、盛秀・初枝らの訪問を否定したが、それ以前梅澤隊長が定宿としていた海岸近くの前翁長の家に昼間、助役らが行ったかもしれないと、電話で私に話した。

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敏勝氏、証言を否定

 前回の記事で、阪神さんが紹介した「季刊女子教育もんだい1992年1月号」掲載の川田文子の、座間味での宮城初枝へのインタビュー記事中に、本部付きの伝令として徴用されていた宮平敏勝(当時17)からの聞き取りとして、1945年3月25日、宮里盛秀以下5名が梅澤隊長の下を訪ね、玉砕のための爆薬や弾薬の授与を申し入れに来たが、隊長はこれを断ったという現場に、ちょうど居合わせていた自分は見た、という記述があり、私はこれは初枝の証言が嘘ではない事を証明する人物が居たことになるので、重要な証言だと書いた。

zamamihonbugou.jpg
発掘された本部壕 パパイヤ太郎のブログより

 近所の図書館に行って座間味村の電話帳を見てみたところ、あっさりその名前をみつけた。座間味村の電話帳にはずっと以前に故人となった人もまだ載っているので、恐る恐る掛けてみると、またあっさりと本人が出た。軽快で堂々としたしゃべり口で85才の老人とは思えない。川田文子のインタビュー記事の件を話すと、「川田文子?その人知っているが、そんな証言をした覚えはない、その記事は嘘だよ。」
と、これまたあっさりとした答えが帰ってきた。

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3.25本部壕訪問の真偽

 ドキュメンタリー映画・『アリランのうた・沖縄からの証言』や、『ぬちがふう第一部・玉砕場からの証言』を発表して、それなりの評価を得ている朴壽南監督は、現在第二部を編集中であるという。
 第二部の主たるテーマであるが、2000年に刊行され2007年に改訂版が出された宮城晴美・『母の遺したもの』に収められた母・宮城初枝の手記は、座間味島「集団自決」を主導したのは当時の助役・宮里盛秀であると記述して隊長命令を否定し、梅澤元隊長を免責して宮里盛秀に責任を被せる為のものである。宮城母子と梅澤元隊長が意を通じて、宮里盛秀の弟に偽の詫び状を書かせるなど、「軍命」を否定する謀略活動を行ってきた。第二部はこの事を告発するという内容になるという。

 朴壽南監督はそのホームページに貼られたユーチューブ映像で、初枝・晴美への批判を強く言っている。この中で、核心になる事は1945年3月25日夜10頃、宮里盛秀以下5名が本部壕を訪れ「住民を玉砕させるからその為の弾薬をください」と申し入れたことにある、という。

                  hondayasuharu@zmami.jpg
                     『小説新潮』1988年1月号

3.25本部壕訪問の真偽 »

里帰りの雑感

 1週間ほどの里帰りを終えて帰ってきた。梅雨入りしたはずの沖縄は、那覇に着いたその日の夜に土砂降りにあったのだが、その翌日はカラリと晴れ上がり、座間味に渡ったその日からずっと晴天で暑かった。おかげで顔は真っ赤に日焼けしたしまった。沖縄を発つ2日前に関東も梅雨入りと聞かされたが、帰ってみたら首都圏も晴れ上がり真夏の様相である。どうやら私は晴れ男のようだ。
 5年ぶりに降り立った那覇の市街は道路の拡張、市街地の拡散、建築物の高層化が進み、首都圏内と見間違うような様相であった。

 かと思えば、小生が1泊した泊港南側の前島3丁目は、35年くらい前は沖縄一の歓楽街であったのだが、今は寂れて淫靡な看板のスナックやサロンがチラホラ残るだけだった。昔の飲み屋だったところの多くが、1泊1.200~2.000円安宿街に変わっていた。お昼頃、コンビニに行くために外に出て街角を曲がった時、ビールケース1に座ってた70才にも見える老女に突如として微笑みかけられた。こんな場所にこんな時間で商売している女がいるのかと狼狽した。その種の商売をしているのはこの女一人ではなく、翌日の午前中にも、数名たむろしている女の一人に声をかけらて慌てて退散した。宿の主に聞けば、彼女らは昔からずっとこの地で商売している女達とのことである。この界隈には、安宿に逗留する大和人の若い群れもそちこちにいたのだが、彼らが客になる事はないだろうから、沖縄人の中高年男がこの商売女らの客になっているのだろう。

 1月に70才の従兄がガンで亡くなったのだが、急な知らせで葬式に出席出来なかった。焼香の為に従兄の遺宅を訪ねる事も今回里帰りの目的の一つであった。以下は数十分の滞在で、奥方から聞いた大まかな話である。

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プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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