2009-07

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惠論考の点検5(米3600噸と15万人分の月経帯)

 惠論考・「日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか」には、次の記述もある。

「一方北部地区の人ロが急増するため食料の補給が懸案になった。そこで昭和十九年十月八日、本島北部本部港に台湾より貨物船二隻をもって外米約三六〇〇噸を揚陸し、一部は南部地域に搬送された(同貨物船は一〇日に空爆を受けて沈没)。」

避難民で急増した北部の人口の為、外米3600トンを北部へ陸揚げしたと言うのである。当時の北部の人口が軍民合わせて、どのくらい居たのだろうか?
10万人とすれば、一人当たり36キログラムである。一日500グラムずつ消費したとしても72日分ある。20万人いたとしても、約一月半分の米が北部に居た軍民のために無ければいけない。
しかし、私はそんなにたっぷりの米があったという話を聞いた事もなければ、読んだ事もない。

太田良博・「豊見城海軍壕 」では、

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惠論考の点検4(疎開と補給の嘘)

 ニセ沖縄人・惠隆之介の論考「日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか」(『正論』20083月号)には、多くの嘘・デタラメが書き込まれているが、一々全部に点検を入れていたら、文章が長大になってしまうので、抽出して取り上げたい。

「十万人疎開計画と決死の補給作戦」という小見出しがある。
米軍上陸前、沖縄県と第三十二軍は沖縄の非戦闘員を県外(九州と台湾)に十万人(九州八万・台湾二万)へ当該疎開させ、残りは沖縄本島北部へ非難させる予定であった。

惠が言うには、「県外疎開は八月十四日より開始され、翌昭和二十年三月十五日までに延べ一八七隻の船舶で県民八万人が予定通り県外疎開に成功した。」という。
しかし、太田良博が書いた『豊見城海軍壕』という論考には、「結果は、九州に六万人、台湾に約二万人が送り出された。」と書かれており、予定よりは九州には二万人少なかったのである。それでも目標からそれほど遠くない数字である。
 問題は島内に残った住民についてであるが、惠はこう書いている。
「沖縄県およぴ第三十二軍は本島中南部の住民八万人を軍車両や徴用した民間のトラックで北部の山岳地帯に避難させている。以上の結果、疎開達成人員は当初計画をを六万人上回る十六万人に達した。」

しかし、太田良博の記述は次の通りである

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惠隆之介論考の点検3

 ニセ沖縄人・惠隆之介が書いた「日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか」という「正論」の論考は末梢的な事柄にまで及ぶ、沖縄への反感、侮蔑に満ちた言辞のオンパレードである。
たとえば、「沖縄県は亜熱帯の風土にありながら絶えず食料問題に悩まされてきた」という言い方である。気候が亜熱帯ならば農作物が容易く獲れるという訳なのか?気候が温暖であっても地形や土質が耕作に不向きで、水利が良くなければ農業には有利な条件といえるものではない。

 薩摩の植民地として長年収奪を受けたことが、沖縄の農村疲弊の遠因であり、明治に入ってからも、祖税徴収に比べて日本政府の沖縄県の農業基盤整備への歳出が少なかったのが、沖縄農業立ち遅れの根本原因であったのではないか。
それを惠はすべて沖縄人の怠惰や愚鈍さのせいだとしている。

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惠隆之介論考の点検2

 惠隆之介の論考「日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか」に、次のような下りがある。

 我々沖縄の戦後世代は米軍による沖縄占領から四十七年五月十五日までの二十七年間、米軍とこれに同調した『沖縄タイムス』など地元ジャーナリズムによって徹底した反日、侮日教育を受けて来た」。

 これもデタラメである。私は高校時代までを日本復帰前の沖縄で過ごしたのだが、日本復帰の7年前の1965年(s40)、佐藤栄作首相が沖縄を訪問した時の事をよく憶えている。学校の先生は、戦後わが祖国の元首が沖縄を訪問する事は初めての事だから、皆、日の丸の小旗を作って、沿道で振って歓迎の意を表すようにと、担任の先生から言われたのである。実際多くの生徒が日の丸を持って1号線(現58号線)で佐藤首相の乗る車を、長い間待って、小旗を振って歓迎したのだった。

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惠隆之介論考の点検1

前回、「惠隆之介」なるニセ沖縄人の解体を次回行いたいと書いたが、特に彼が奄美血筋であること以外に詳しい情報がある訳でなない。彼が過去に書いた文章を点検して、内容が如何にデタラメであるか、或いはかなりの事実歪曲を施したものであるかを明らかにしたいのである。

彼が、沖縄人でなく奄美血筋のニセ沖縄人であることが分ってさえいれば、それ以上のプライベ-トな情報は必要ないと思う。如何に「軍国主義」に毒されていても、沖縄社会を苦々しく思っていても、本当の沖縄人なら、惠隆乃介のような沖縄社会・沖縄人に対する徹底した罵りの言葉は吐けないのではないか。
HPに転載した『正論』2008年3月号に載せた論考をテクストクリークして、この、「惠隆之介」なるニセ沖縄人が、いかに荒唐無稽のドンデモジャーナリストであるかを検証したい。

「日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか」という題の論考であるが、この題名からして大袈裟である。

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もう一人の似非沖縄人

 狼魔人=江崎孝は沖縄で生まれ、育ってもいるらしいが沖縄人で無いことは、その書く文章を見れば明らかである。ただ書いているものの中に、自分を「ウチナーンチュ」と言っているのを私は見たこと無い。だから、「沖縄人」だと言った覚えはないと言われれば、逃げられてしまう余地は残している。だから、さしづめ彼は「成りすまし沖縄人」というところか。

狼魔人=江崎孝以上に、「保守論壇」で名と顔を売っているのが、元自衛官の惠隆之介である。彼は、たしか95年頃の「少女暴行事件」の時分から、内地の「正論」「諸君」などの保守系雑誌に登場するようになったと思う。
「惠」あるいは「恵」というのは奄美の姓であり、戦後生まれの彼は沖縄で生まれであるようだ。「奄美」という土地は、近親憎悪と言って良いかどうか分らないが、沖縄に対する対抗心がとても強いところである。象徴的にその現象が現れたのが、1953の奄美日本復帰後における、沖縄での奄美出身者への権利制限に対する猛反発である。奄美出身者が怒りを覚えることは自然の感情であるとは思える。今まで、分け隔てなく、暮らしていたかに思えたものが突然、差別的な扱いに成ったのであるから、生活感情としては怒るのは無理も無いと思える。

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狼魔人について3

「琉球舞踊」が国の重要無形文化財として指定されたが、保持者として認定された玉城節子氏(68)は自分の高校の同級生であると、狼魔人が昨日のブログ記事で書いている。玉城節子氏は上山中学校を出ているらしいから、高校はおそらく那覇高校だろう。彼らが高校生だったS30年代前半は、那覇市内には、普通高校は首里と那覇の二校しかなかった。だから狼魔人も那覇高校を出ている。

私が前回の記事で、狼魔人は経歴を詳しく表さないと書いたから、それを読んだのだろう。玉城節子氏の保持者認定の記事にまつわる高校時代の逸話を題材にして、自分の経歴の一部を披瀝しているわけである。それとなく、自分は沖縄人だよ、と暗示しているつもりだろう。だが、どうだろうか。
私は狼魔人=江崎孝の書く文章から沖縄人の匂いを感じないのである。しつこく沖縄のマスコミや沖縄社会を攻撃、誹謗、侮蔑する記事を流し続けているから、彼は沖縄人ではないと言ってるのではない。沖縄人が自分の故郷沖縄を貶す場合は、もう少し屈折した雰囲気が文面に現れると思う。狼魔人の書く沖縄誹謗の文章は心置きの無い、冷淡な雰囲気が現れていると思う。つまり、やりたい放題の雰囲気である。これはニセ沖縄人・惠隆乃介と共通するものだ。

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狼魔人について2

沖縄在住を売り物にするブロガー・狼魔人こと「江崎 孝」は沖縄在住として、沖縄からの発信として、地元沖縄を貶し、日本軍の気高さを讃えたりする記事を流し続けている。今回も「金城重明氏『殺人鬼』説」を展開しながら、小林よしのりが「SAPIO」に書いた金城氏兄弟「殺人鬼」描写を非難した目取真俊氏を貶している。

今回の記事・「雉も鳴かずば撃たれまいに 金城兄弟への『攻撃』」で、例によって軽快な調子で、「金城兄弟殺人鬼説」と、目取真氏への貶しの文を書いている。こんなタイトルの記事を沖縄の人間が書くことはない。
目取真氏は通常、こんな連中を相手にしないのだが、今回のよしのりがらみで、江崎孝を「漢奸」と規定して、珍しく名指し非難している。目取真氏が自分を相手にしてくれたので、張り切っていて、小林よしのりを応援し金城氏兄弟を冒涜する文章も益々調子よさを発揮している。

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「伝聞」というでっち上げ(曽野の虚偽)

 7月3日の記事で、曽野綾子の「その神話の背景」やその他「集団自決」に関わる言説には無数の嘘・欺瞞が散りばめられていると、その一覧を列挙した。今回は「鉄の暴風」が直接体験者らの証言でなく、非体験者からの「伝聞」によるとした「嘘」を検討してみる。

 『鉄の暴風』が執筆された1950年頃は、沖縄の交通事情はままならず、著者・太田良博は渡嘉敷島へ渡れず現地調査は行わなかった。
曽野綾子は「ある神話の背景」取材の為、1970年に沖縄で太田良博に面会取材した。曽野は太田から、渡嘉敷島で戦時中を過ごしたのではない宮平栄治・山城安次郎という、二人の人物から「伝聞」という形で取材は行われたと聞いたとし、「集団自決」に関する『鉄の暴風』取材は非体験者からの「伝聞」でもって行われ、それが定着したのだと断定している。(「集団自決の真実」p64~65)

 だが、取材から15年経った1985年4月の「沖縄タイムス」においての太田・曽野の紙上論争(ni0615氏のサイト)で、太田は、宮平・山城の二人は単なる情報提供者として名前を挙げたのであって、彼らから取材したとは曽野に言ってないと反論したのである。これは、太田の言うことに本当らしさが窺える。なぜなら曽野は、「集団自決の真実」の中で、括弧つきで<もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないと言う>(p64)と自ら付記しており、宮平氏は太田に「集団自決」について、証言した事を否定しているらしいからである。取材相手が否定しているのにお構いなく決め付けるとは、ノンフィクションの書き手としての曽野のやり方は、とんでもなく大胆というか、あくどいものではないか?

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狼魔人等について

狼魔人ブログの「週刊新潮」最新号についての記事で、狼魔人はそれを読んでないのに、星雅彦が櫻井よしこに語ったという、1973年の曽野綾子「ある神話の背景」への星雅彦・批判文書きかえの裏話を披露している。
しかし、「週刊新潮」最新号にその裏話は掲載されてない。記載が無く、「週刊新潮」最新号を読んでもない内に、こんな裏話を狼魔人はブログで書いた。という事は、沖縄に居る狼魔人は、櫻井よしこの「週刊新潮」最新号取材に深く関与したという事は明らかなのではないか。こうなってくると、「うらそえ文藝」に星や上原があの特集を組んだ事にも、深く関与していたのではないかという疑惑を持たざるを得ない。狼魔人は去年の「うらそえ文藝」13号の後書きに星雅彦が書いてあった「集団自決特集」への予告をいち早く見つけて、ブログで紹介していた。今年14号の特集は彼が仕掛けた可能性が強くなったと思う。

狼魔人=江崎孝は、苗字からして沖縄人ではないと思う。また、彼の書く文章から沖縄人でない事を、沖縄人の私は直感的できる。

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新潮記事と沖縄棲息ブロガー

 昨日(7/9)発売された「週刊新潮」(7/16日号)での櫻井よし子のレポートを、狼魔人が同日のブログで紹介している。
 「週刊新潮」は、7月2日に那覇で櫻井よし子が星雅彦、上原正稔の二人にインタビューしたものを載せているわけだが、「うらそえ文藝」に二人が書いた以上の事は書かれていない。

だが、狼魔人ブログの紹介記述には、次のような下りがある。

週刊誌には星氏が沖縄タイムスに曽野綾子氏の『ある神話の背景』の書評(注1973年)を依頼された際に被った、衝撃の言論封殺が告発されていると聞く。
詳細は同誌記事に譲るが、沖縄タイムスは原稿依頼の際「強く批判してくれ」と星氏に強い圧力をかけたが、星氏がタイムスの圧力に多少は応じながらも、自身の調査も参考に公平な視点で原稿を書いたら、タイムス側に大幅に書き変えられた。
星氏は書き変えられた原稿に不本意ながら納得し、掲載を受諾したが結局原稿はボツにされ、以後その原稿が日の目を見る事はなかったという。

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宮城晴美の論考

 マイHPに宮城晴美の「検証『集団自決』――ジェンダーの視点から」を転載した。
 宮城晴美のいう「ジェンダー」とは、単に男女の性差のみに関していうのではなく、沖縄戦、殊「集団自決」においては、力有る者と力無き者との間の、支配・被支配関係を言っているのである。戦争の現場において最も力無きものは女と子供である。座間味の「集団自決の犠牲者の83%は女性・子どもであるいう。
一方、最も強い存在は何かといえば、当然軍隊とそれを構成する軍人である。住民にとっては、絶対的な「兵隊さん」であった。座間味では住民の家に、兵士たちは分宿しており、座間味部落の住民は常に兵隊たちから有形無形の「圧力」を受けていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」「捕虜になったら強姦されて、八つ裂きにされる」等など、自分の意思によらず死ななければならないのは、住民の中でも最も弱い女・子どもと年寄りだった。

 実際、自決の現場では、力ある男によって、真っ先に力弱い立場にある者、すなわち女子ども年寄りが殺されている。真っ先に殺されたものほど、自分の意思で死んだのではなかったと宮城晴美は言っている。住民の側では、強い立場にある村の幹部、「軍隊アガヤー(軍隊経験者)」の男たちが、軍の意を先取りして、住民を自決に先導したのである。また、女の中で軍に積極的に奉仕し、自ら進んで自決を決行したのは、婦人会長などの指導的立場に在るものだった。

 数多くある避難壕のうち、座間味部落だけの8つの壕で「集団自決」が起きているのであるが、これは座間味だけに軍隊が駐留し、民家に寄宿していたからであるという。自決の犠牲者は、お役所などの行政組織が集中していて、軍隊のほとんどの人員が駐留していた座間味部落の人間のみが「集団自決」の犠牲となったのである。

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曽野が慶良間に眼を向けた時期

 曽野綾子は「新沖縄文学」42号(1979)で、沖縄初めて訪れたのは1961年の初めであったと言っている。その後1967年の暮れに、「姫百合学徒隊」の教師・仲宗根政善氏の自宅で、沖縄女学生徒の生き残り三名の話を聞いて、沖縄戦中の女学生の悲劇の記録を行う事を決意したという、。1968年11月に、「週刊現代」の記者数人と一緒に沖縄に乗り込んで膨大な聞き取り調査を実行し、翌69年に週刊誌に「生贄の島」というドキュメンタリーを連載して、単行本も刊行している。その「生贄の島」取材の間に、慶良間の「集団自決」についての話を聞くようになったと言っている。
 だが、「ある神話の背景」(新版「集団自決の真実」)の本文冒頭の文章はこう書かれている。
 
「その小さな島のことを、私は初め、何も知らなかったし、また、知る必要もなかった。・・・その島のことを聞いたのは、今から、もう十数年前になる。・・・」

 
雑誌・「諸君!」に、「ある神話の背景」が連載開始されたのは1971年年の10月である。それから十数年前といえば1961年より後ではありえない。

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曽野綾子虚偽の一覧

 「ある神話の背景」(新版「集団自決の真実」)は、嘘、まやはかし、隠し事の満載されたノンフィクションである事は、今まで小生やコメントをくれた方々の調べで判っている。ざっと、思いついただけで、下の11の嘘・まやかしが思い浮かんだ。

● 曽野が慶良間の「集団自決」に関心を持った時期

● タイムス社・『鉄の暴風』は体験者でない者からの伝聞で書かれた、とのでっち上げ

● 渡嘉敷の公式戦記二つは、伝聞で書かれた『鉄の暴風』を引き写したもの、とのでっち上げ

● 戦後谷本元隊員が編集した「陣中日誌」は一字一句も加筆修正してないという『嘘』

● 45.3.26の早朝、「干潮」の為に、艇の上げ下げに時間が掛かったという嘘

● 赤松隊の元隊員にはグループでなく、個別に会ったという嘘

● 元兵事主任・富山真順という人物を知らないと法廷で偽証したこと

● 特攻艇マルレを「体当たり」の特攻兵器だと強調した欺瞞

● 逃亡した曽根一等兵を探せば容易く探せるのに、探さなかった

● 多数の住民処刑を全て正当化する、赤松隊の嘘の理由付けをそのまま肯定

● 「玉砕場」と「恩納河原」の違いを知りながら、読者にわざと混同させるような書き方をした。

これらは全部、「ある神話の背景」という本の根幹に関わる事柄であり、曽野綾子という作家の人間性に関わる重要事項である。次回にそれぞれに検討を加えたい。

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プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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