2009-04

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満潮とともに出撃命令

 タイトルは、沖縄のドキュメンタリー作家・上原正稔(うえはらまさとし)氏が1996.6月1日から、琉球新報朝刊に13回に亘って掲載したコラム「沖縄戦ショウダウン」第1回目の見出しである。副見出しは「2等兵、慶留間に上陸」である。出撃と言っても、海上挺進隊マルレの出撃ではない。米軍が慶留間島に上陸・攻撃した事をいっている。
「沖縄戦ショウダウン」原文は、元米陸軍2等兵、グレン・シアレス氏が晩年、言述した従軍物語である。これを読んだ上原氏は、シアレス氏のハードボイルドな戦闘ぶりに感動し、また実際にシアレス氏が目撃した慶留間・渡嘉敷の住民「集団自決」の有様を読んで、その真相を知る重要な鍵を見つけたそうである。そして、翻訳し注釈を付けた論考を「沖縄ショウダウン」という題で、琉球新報に連載する事になったという。


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「うらそえ文藝」4月30日刊行

 年一回発行されているらしい沖縄県浦添市の文芸雑誌・「うらそえ文藝」14号が4月30日に発行されると聞いた。星雅彦氏が主幹となって編集されている市民参加型の文芸誌だが、文化人寄稿による特別企画、沖縄の歴史・文化をテーマとした特集も組まれる。

今年の特別企画は、「薩摩琉球侵攻400年記念の座談会」と「集団自決」についての論文・対談になるそうである。去年の13号で星雅彦氏は編集後記で、「集団自決(強制的集団死)について」と題する論考を載せている。星氏といえば、かつて「ある神話の背景」が刊行された前後の時期に、「25年前は昨日の出来事」と題する論考や、「月刊潮」(71年)への「集団自決を追って」(ni0615氏より)、および、「ある神話の背景」刊行直後に「歴史の解釈と真実」という題の批判文を沖縄タイムスに載せている。

この内、「25年前は昨日の出来事」は、曽野綾子に都合の良い材料を提供してしまったと感じたらしく、忸怩たる思いを持ったのか、タイムスの論考以後は、「集団自決」については書くことを止めたようであった。でも、単に曽野に利を与えたということ以外にも、書くことを止めた理由が有りそうな気がする。去年の号では、後記で「鉄の暴風」批判・「大江裁判」第一審批判の考えも示している。
今度の号では、上原正稔氏の論考・星氏と上原氏の対談が組まれているとの事である。上原氏は1フィート運動の創始者であるが、今はその会から離れ、沖縄の反戦運動のあり方、2新聞の姿勢に批判的な姿勢を取っているようである。(狼魔人ブログ)

ともあれ、30数年ぶりに星雅彦氏が「集団自決」について、モノを申す訳であるから興味深いところである。

連絡先・浦添市文化協会事務局 098-878-4453
去年の価格・千円(+送料)

曽野と赤松はなぜ隠したか? 

 1992年に、TBSテレビが制作したニュース番組・「陸軍水上攻撃隊」の録画DVDを、関西の「京の京太郎」さんから、送っていただいた。この中でも、マルレ特攻艇は「必死」の体当たりの攻撃艇ではなく、寸前で反転しながら爆雷を投下して、敵艦の横腹に穴を開けて遠ざかる生還型の攻撃法だったと、アニメーション入りで解説している。
だが、所詮安作りのベニヤ艇で実際の場面では、敵の攻撃から逃れる事は不可能だったのではないかと、取材記者は言っている。

しかし、戦史叢書の「阿嘉島・慶留間島の戦闘」では、次のような趣旨の記述がある。
http://www.okinawa-senshi.com/aka-geruma.htm
28日払暁4艇(大下少尉以下16名か?)を指揮して出撃した。4艇は米艦艇を攻撃し2艇は消息を絶ったが、2艇は敵中を突破して大下少尉以下8名が沖縄本島に到着した。戦果は撃沈1、炎上2と報ぜられ本行動に対し、牛島司令官は感状を授与した。

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「生贄の島」について③

 「生贄の島」は、従軍女子学徒とそれに関わる戦場の、多くの人間たちの生き死にの情況を精緻に描いている。学校の教師、日本兵、住民、米兵等々。だが、この作品には、あの修羅場となった南部の戦場の全体像、及び日本軍の姿というものが現れてこない。個々の人間たちの悲惨な情況は詳しく書かれているが、それは写真の一枚一枚をズラリと並べたようなものである。あの狭い南部の戦場で数十万の住民と兵士と従軍学徒たちが、地獄の底でのたうち回っていたていた様相が伝わってこない。

太田良博の「戦争への反省」によると、5月下旬、首里の司令本部を放棄した時点で、沖縄戦の決着は付いており、南部へ退却して戦闘を長引かせる事は、住民の犠牲を徒に増大させる事になるのは目に見えていたそうである。牛島中将が自決するならその時点でするべきだったとする。戦闘を1日長引かせれば、1日数千の住民戦死者が出る事は必然だった。南部戦線におけるあの数万の住民の死、女学徒の死は「無駄死」にであったと断定している。沖縄戦は、なるべく本土決戦を遅らせ、講和を有利に持ち込むための「捨石」作戦であったとする。
 島田叡県知事は、首里撤退後の作戦会議の席で、「知念半島を無防備地帯とし、米軍に通告し、住民をそこに避難させる事」を進言したが、軍に拒否されたという。組織的統制を失って、敗残兵と化した日本軍は非戦闘員である住民のひしめく南部一帯にまぎれこみ、兵士の何倍もの沖縄住民、及び女学徒を巻き添えにし、命を無駄に棄てさせたのである。

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「生贄の島」について②

 曽野綾子は1961年初頭に文春講演会で、今東光、中村光夫と供に沖縄を初めて訪れた。その時既に、慶良間「集団自決」の話を聞いて、強い関心を抱いたことは間違いない。

 その後、1967年の暮れ、仲宗根政善・元師範学校教諭の自宅で、仲宗根氏及び往年の従軍女子学徒(ひめゆり部隊)の生き残りである三名の女性に逢ったそうだ。偶然にも、隣家は、娘さん二人を従軍学徒として失うという悲運に見舞われた金城和彦氏(当時・殉国沖縄学徒顕彰会)の家だった。「新沖縄文学42号」 
 その時、仲宗根氏と教え子の女性三名の話を聞いて、まだまだ知られていない従軍女子学徒のあり様があると感じた。それを掘り起こし記録するのは、自分のような書く事を専門とする者がやるべき事ではないかと、曽野は思い立ったという。

 それからいろいろ経緯があって、曽野の沖縄に関する初めての著作となったのは、週刊現代に1969年4月3日号(発売3月24日)から18回連載された「生贄の島」であった。
 現地取材において、彼女に帯同した週刊現代記者(後編集局長)・鈴木富夫氏による文春文庫への解説文によると、68年9月、東京において仲宗根政善氏、大田昌秀氏、金城和彦氏などと事前の会見・打ち合わせを行って、68年11月、鈴木氏を含む週刊現代の敏腕記者四名を引き連れて、曽野綾子は沖縄に乗り込んだと言う。(曽野・秦【対談】) 約2週間の滞在で、200人近い人たちの、膨大な証言、資料・文献を収集したという。

 この曽野綾子の精力的で、綿密な調査振りを称讃する向きもあるが、これは曽野単独の作業とは言えまい。沖縄の指導的立場にある人たちの協力を取り付け、週刊現代(講談社)という体制側の大手出版社から、資金と人材を提供して貰った事を考えれば、特別に困難な事業ではなかったのではないかと思う。 
 内容は、日本軍に従軍した女子学徒の大部分、及び彼女らに戦場で関わった多くの人々の生き死にの有り様を描いた記録であるが・・・。

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新しい証言によって判った赤松証言の嘘

 07.9.29「検定撤回県民集会」の後に出された、謝花直美著「証言・沖縄『集団自決』」を買って流し読みして、しばらく置いていたのだが、最近じっくり読んでみた。

その中、渡嘉敷島在住・吉川勇助氏(78)は当時15歳、役場職員で防衛隊員でもあった。ニシ山での「集団自決」から生き残った人である。集団自決の現場で、古波蔵村長が現れた防衛隊員に何かを耳打ちされて、村長は大きく頷いて、それから万歳の声を上げて手榴弾による自決がはじまったという証言をした人である。吉川氏は耳打ちした防衛隊員の言葉を聞いてないから、「隊長命令」の決定的証人とはいえないが、状況証拠にはなりうる。
私が他に注目する事は、晩年に至って初めて証言をした吉川氏の話によって、赤松隊長の住民処刑に関する弁明が嘘である可能性が強くなった事である。

その一つは、ニシ山での「集団自決」に失敗し、米軍の手当てを受けて保護されていた阿波連の少年、金城幸二郎と小嶺武則の二人は、阿波連からまだ住民が居るニシヤマへ戻ろうとしたところ、軍の歩哨線で捕まって、赤松隊長から「死ぬか、阿波連へ帰ってくれ」と言われ、「阿波連へ帰ります」と言って解放された後、自分らで首をつって死んだのだと「ある神話の背景」には書かれている事である。
 石田郁夫「慶良間の虐殺」(1967)には、次の記述があった。「二人の少年は切腹で処刑された」。私は、少年が切腹できるはずないから証言者からの誤報だろうと思っていたが、どうも本当だったようである。

吉川氏の証言では、後に日本軍が一斉投稿した後、収容所で知りあいの日本兵から次のように打ち明けられたという。「二人の少年を殺害現場に連行した。穴を掘らせて、年長の少年は自分で腹を切って、兵隊が介錯した。もう一人は『自分では死ねません』と言ったので、目隠しをして後ろから切った」。
この話が本当なら、赤松嘉次はとんでもない嘘を曽野綾子と共同で付いた事になる。

もう一つは、8月16日の朝、米軍から投稿勧告文書を届けに来た大城牛・与那嶺徳の二人は、歩哨から誰何されたところ、返答しないで逃げたので射殺した、と言っている。しかし、大城牛・与那嶺徳の遺体は戦後3年経ってから、家族らの手によって発見され掘り起こされたが、身に付けているもので判ったらしい。遺体は縄で縛られていたという。逃げたから射殺したというのも赤松・曽野共同の嘘で、赤松隊兵士が捕縛して斬殺したのである。
赤松隊長らは前日の「玉音放送」を聴いて、終戦らしいと分ったというから、これはれっきとした殺人罪である。このことは陣中日誌にも書くわけにいかなかったのだろう。

次々嘘・瞞着が露呈してくる「ある神話の背景」である

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プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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