2009-03

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「マサダ」と比べる虚妄

 曽野は、2000年前のイスラエル・マサダの要塞における、人民のほとんど、960人が集団自決して果てた出来事を慶良間の「集団自決」と対比し、「マサダ」は全世界から称賛されているのに、何ゆえ慶良間のそれは強制されたものとして、自らを貶めるのだと沖縄側の姿勢を批判している。

 誤解を恐れず言わせて貰えば、私も「マサダ」のそれは称賛に値するものだと思う。ローマ軍に降伏してしまえば、「男も女も辱められた後に、奴隷とされる外に生きる道はない」時代だったからである。そういう潔さには畏怖感を覚える。
が、しかし、2000年後の20世紀の第2次世界大戦で、兵士も住民も降伏を拒否して全員が死を選んだ「集団自決」が世界のどこかで在ったのだろうか?
渡嘉敷島では、住民を集団的自殺に追い込んだ日本軍は一人の自決者も無く、大方生きながらえたのではないか。
 2000年という時代の推移を、思考の埒外に置き、住民だけが実行した渡嘉敷の「集団自決」を、「マサダ」を見習って誇りに思えと、曽野綾子はヌケヌケとのたまう。耄碌したのだろうか?

いや、曽野の頭はまだまだ冴えていると思う。そのような心にも無い妄言も、沖縄人の100倍居るヤマト人のB層の人々に繰り返し聞かせれば、効果があるからである。嘘も100辺繰り返せば、ホントらしく思えるようになるし、数の力で圧倒できるからである。
 曽野綾子以下、権力べったりの言論人はヤクザと言っていいのではないか?
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プシュケーとゾーエー 聖書解釈のハッタリ

 愛蔵太というブロガーの記事で、曽野が家永法廷で、金城牧師の「命」解釈を貶した事について、検証する記述があった。その半ばくらい所に、他者からの引用として、「「プシュケーのいのち」論争」という記述がある。ここで記述者は曽野の「プシュケー」解釈のほうが間違っていると指摘している。

 http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060802/bible


新約聖書では、「命」を表す言葉として「プシュケー」「ゾーエー」(ギリシャ語)があり、この二つの用語は意味の明確な使い分けがある。「プシュケー」とは肉体的・生物学的な生命であり、「ゾーエー」は、そのような肉体的・生物学的な生命が失われても、永遠に生き続け、輝き続ける生命をいう。
今回の秦との対談で、曽野は次のように言っている。

曽野 家永裁判の記録にあると思うんですが、法廷で金城牧師が「一人の人間の命は地球よりも重いとイエスが言われているとおり」と述べたんですよ。それで私は、イエスはそんなことはおっしやってません、と反論しました。あの人は聖書をしっかり読んでないんですよ。私は「なんて変な人なんだろう」と思いました。牧師さんなのにね。」

これはどういう経緯かというと、1988年2月「第3次家永裁判」、那覇地裁での出張法廷において、家永側証人として金城重明氏は以下の陳述をしている。自分が救われた聖書の言葉として、

プシュケーとゾーエー 聖書解釈のハッタリ »

さもしい言動

曽野は、対談でこんな事も言っている。

曽野 私は調査の時に、金城牧師に会って聞いています。そのとき私は、この方は後で証言を変えられる方じやないかと思いました。「そんなことは言ってなかった」とあとで言われそうだと思ったので、金城さんの証言の分だけは文藝春秋に頼んで買い取り原稿にしてもらったんです。

曽野が、後で証言を変えられるといけないと思って、金を払ってやったという手記(「集団自決の真実」p179~183、186)は、金城氏は自分が家族だけでなく他人も殺してしまったことを告白し、集団自決における当事者の心理分析を行っている文章だ。その後、手記に書いたことと、違うことを言い始めたような彼の発言を私は聞いたことない。


「新沖縄文学」42号(1979では、曽野は次のように語っている。

さもしい言動 »

なんて変な人なんだろう・金城牧師への陵辱

この「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」対談は、曽野綾子及び秦郁彦などの日本軍を美化したい「大江・岩波裁判」原告を支援する低劣言論人達の「嘘」、「欺瞞」、「醜悪さ」そして「蒙昧さ」のエッセンスを満載した文書だと思う。

たとえば、小生がHPにアップした[曽野・秦対談](2)の「なんて変な人なんだろう」という項では、曽野と秦は、「集団自決」生き残りの金城重明牧師を貶める言葉を連ねている。

集団自決の現場で、金城氏と、氏の兄と、同じ部落の山城少年と3人で、多数の住民の命を奪った事について、秦は、山城少年が「渡嘉敷村史」(1987)に書いた生々しい殺害の情況をしつこく引いて、「金城氏は家族以外の多数の住民を殺した事実があるのに、それを今まで隠していた。」「彼は一種の殺し屋だ」「これは、全裁判を通じての決め手かなと思った」。などと言っている。
これが東大法学部を出て、米の複数の一流大学に留学し、法学博士の称号を持つ日本人の言う言葉なのか、と思う。

あの時点では、力ある者が弱い者を先に殺してやるのが、思いやりであり、「愛」であったと、金城氏は言っているではないか。家族以外の者に手を掛けた者は他にも多いし、家族や他人を殺して自分は生き残ったものも居るが、自分も死んだものも居る。また、他人に手に掛かけられたが死ななかった者も居る。
金城氏は他人を手に掛けたことを隠していたのではない。自らすすんで語らなかっただけである。「潮」(71.11月)で、安座間豊子が、金城氏の証言のすぐ後の証言で、彼に手を掛けられた事を言っている。山城氏の証言は20年以上前のものである。島の誰もが、当初から金城氏の事情は知っている事であったのだ。だが、彼を「殺し屋」と恨むのは居るはずない。

秦は、「そうなんですよ。そのあたりを島民に知られているので、二人とも島にいられなくなって沖縄本島へ移ったんですね。そんな人たちがトップまでいけるというのは沖縄の特殊性ですね。」と言っている。

「集団自決」で家族や他人を命を奪ってしまって、キリストの道に入った人物を「殺し屋」呼ばわりしながら、沖縄社会を侮辱する秦の神経が解らない。島に居て神学の勉強ができると言うのか。金城氏は「キリスト」に生きる道を見出し、本島へ出て、その後東京で苦学して、キリスト教の教授と成り、那覇での大学の設立にも立ち会ったのである。

「これは、全裁判を通じての決め手かなと思った」とも言う。徳永弁護士が他人殺害について、執拗に金城氏を責めたらしいが、これこそ逆に、裁判官に原告側への「心証の悪さ」をもたらした決め手ではないのか。

秦本の「曽野・秦対談」

 秦郁彦編著・「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」の中の「曽野・秦対談」、「沖縄の悲劇を直視する」ー歴史と文学のはざまでーの抄録をHPに転載した。

なぜ、わざわざこれをHPに載せたかと言えば、対談だけに原稿を書き直すことを十分にしないのか、自分らの内情や本音を、曽野も秦郁彦もポロポロ露呈しているからである。対談は、08年6.25の控訴審第1回目の公判の直後(7.11)に行われているが、その公判のとき、原告側は秦氏の証人申請を裁判所から却下されている。
という事は、裁判官は事実審理をやり直す気が無いのだと、専門家から言われて、もはや勝ちはないと諦めの境地になっていたのである。
半ヤケの気分からだろうか、負けた原因はT弁護士のずぼらなやり方にあったと、憤懣をぶちまけている。「準備書面の提出が遅くて、裁判長が怒って叱責した」。「さらに法廷へ遅刻してきて裁判官を待たせたとか・・・」。
それで裁判官の心証を悪くして勝てる裁判を負けにしてしまったと、身内であるT(徳永)弁護士を非難しつつ、そんな理由で裁定した裁判官は次元が低いと非難している。

秦本の表紙

テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済

秦郁彦編著・「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」

 曽野綾子・又も嘘を

秦郁彦が編著した「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」いう本を、近所の本屋に一冊だけあるのを見つけた。立ち読みするには分厚いし、近辺の図書館にリクエストしても導入してくれるかどうか知れないので、高い金を出して買ってしまった。

秦郁彦以下、原剛・宮平秀幸・藤岡信勝・江崎孝(狼魔人)・笹幸恵という面々が書いているが、秦と曽野綾子の対談もある。
対談だから、著書では見せない本音部分を露にしている発言もあって面白いところがある。

秦本の表紙

秦郁彦編著・「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」 »

山崎行太郎氏の話題

おなじみ山崎行太郎氏は、集団自決裁判の追及を休んでいるが、今、「簡保疑惑」で小泉・竹中売国勢力を糾弾し、西松献金・秘書逮捕で、小沢一郎氏を擁護する言論を続けている。やはり、ブログランキングも急上昇している。
私も、山崎さんの論調に全面賛成である。

ところで、以下の情報を得ましたので、お知らせします。

>四月から、「部落開放」という雑誌に、 山崎氏が
「マンガ右翼・小林よしのりへの引退勧告。一、二、三」
を三回ほど書きます。 沖縄の「目取真」さんも書くそうです。

>4月8日、午後7時より、
中野zeroホールで、
山崎氏、佐藤優さん、佐高信さん、雨宮処凛さんらが、
共同講演会を開きます。
「貧困とテロ、クーデター」

拙HPに、山崎氏が琉球新報に掲載した2つの論考を転載したいと思います。

曽野と赤松は共同歩調

例の会合写真が載った「青い海」は1971年6月の発行で、「諸君!」への連載開始は71年10月号からである。だから、取材の段階から、曽野は、赤松隊と個人・複数にかかわらず、密接に連絡を取り合っていたと、容易に想像できる。連載中も、72年1月、東京での赤松隊士官の同窓会に曽野が列席していたと、石田郁夫がルポ(サンデー毎日記事)に書いている。

ni0615さんが、次のように仰るように、
>曽野綾子は、仲宗根氏とあったことが、彼女の取材人脈の大きな基礎だったと思われます。それが、沖縄文化人の信任を得て、のちのちの君子豹変を有効たらしめたのでしょう。<

67年暮れに、曽野は仲宗根氏とその教え子3人に会い、仲宗根氏のお墨付きをもらったことによって、沖縄文化人の信任も得られたので、現地での「生贄の島」取材が上手くいったのだと思う。これも「ある神話--」に向けての予定行動だったと思える。故に、「のちのちの君子豹変」は成功すべき予定行動だったと言える。

同じ67年の後半に、石田郁夫は「展望」に『沖縄の断層』を書いていて、この中に、赤松名将説を唱える渡嘉敷住民のことが書かれている。後に、赤松嘉次はそれを読んだと石田に話している。
「沖縄断層」発表されて、まもなく、68年3~4月、赤松は「週刊新潮」と「琉球新報」でデビュー、自分の罪科を否定し復権に乗り出した。そのちょっと前には、「戦史叢書」の編纂に資料を提供して、大いに防衛庁に協力している。

一方曽野綾子は、68年夏から大手出版社の援助を得て「生贄の島」取材の準備に乗り出し、11月後半から12月はじめに掛けて、沖縄集中取材を行った。この時、女学生関係の聞き取りだけでなく、渡嘉敷島のこともある程度は取材したのではないかと推測できる。(曽野は「ある神話の背景」の冒頭で、既に沖縄を初訪した60年代初めに「渡嘉敷島集団自決」を強く意識したという意味の記述をしている。)

69年4月3日号からは、18回にわたる「生贄の島」の連載を行っている。単行本は1970年3月刊行。
69年には、曽野は単独、沖縄&渡嘉敷に渡って、富山真順等に取材したのは間違いない事だろう。

70年3月には、赤松嘉次は25周年慰霊祭に沖縄へ出向いたが、抗議団に渡嘉敷渡島を阻止されるという騒動になり、マスコミを大いに賑わせた。

大江健三郎は、70年初めの「沖縄ノート」の中で、この赤松の渡嘉敷島訪問について「罪の巨塊・・・」の文章を書いた。曽野は、その大江の文章を読んだ事と、「悪鬼のごとく」報道される赤松像に、野次馬的な興味を持ったの事が、この事件に取り組む動機だったとしている。が、これは曽野綾子一流のオトボケである事は明白だ。「ある神話ー」の冒頭で、かなり思いつめたような書き方で、最初の沖縄訪問のとき「集団自決」に触れたと書いているではないか。

憶測に過ぎないと言われればそれまでだが、このように、曽野と赤松の言動の流れを突き合わせて、考えを巡らせてみれば、曽野が「生贄の島」を取材する以前から、最後に「ある神話の背景」を書く事は、双方密な連携をもっての、「赤松復権」・「沖縄誹謗」の共同作業であったとの確信を、私は強くするばかりである。

うそ・ハッタリの動力源

コメント欄に書いたように、「ある神話の背景」をはじめ、曽野綾子の言説には多くの嘘、まやかしが含まれている。最大のものが「家永裁判」における、富山真順を知らぬ存ぜぬの偽証であるが、「正論」平成15年9月号掲載の「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」という論考では、

> 私はその当時39歳であった。体力だけは充分であった。私は軍と村民側双方から話を聞くことにしたのである。その時から私は一つの原則を守った。会える人にはできるだけ会う。軍側の人たちは、飢えと危険の中で生きていたのだから、必ずや赤松元隊長に対して批判的な人もいたであろう。そのような恨みを持つ人が「真相」を話しやすいようにするには、大勢の中ではなく、一人ずつ会うようにする。この二点である。

という記述がある。「会える人にはできるだけ会う」と言ってるが、元兵事主任・富山真順に会うのは容易かっただろうし、実際会ってるのに、大胆至極、「そんな人知らなかった、会ってない」と法廷で言った。朝鮮人軍夫を連れて脱走した曽根一等兵にも、調べればすぐに会えたのに会わなかった。「大勢の中ではなく、一人ずつ会うようにする」の原則も、「青い海」や「石田郁夫」の記事によって、嘘である事が暴露された。
「ある神話の背景」でも、「鉄の暴風」・渡嘉敷島の戦況取材は、体験者でない二人の人物からの「伝聞」で書かれて、それを引き写して村の公式記録が書かれたと、とんでもない歪曲をしている。その他、沖縄の「集団自決」を巡っては、曽野は、女だてらにとんでもないとしか言いようがない、無数の「嘘」「まやかし」を並べている。

なにが、曽野をそこまで大胆に沖縄への攻撃を展開させたかと言えば、当時、低迷状況に在った自分が日本の論壇で「飛躍」するためには、これが千載一遇のチャンスだと直感したからだろう。1961年に初訪沖していらい、沖縄の戦時中の報道状況・言論の状況・沖縄の知識人たちの程度、等々を窺っていたに違いない。国家権力に取り入り、権力筋(防衛庁・厚生省)から情報をふんだんに入手し、「生贄の島」に取り掛かる前に、既に「渡嘉敷島・集団自決」について、有効な情報得ていたと推測できる。所詮、沖縄は人口も、領土も、経済力も、日本本土の百分の一しかない。圧倒的多数の本土人は沖縄のことを知らない。少々の嘘まやかしを言論しても、民衆は感覚でしか判断しないから、自分らの気持ちが痛まなくなる言説は歓迎するだろう。権力の支配下にある出版社が金と人材を提供してくれる事にもなった。
曽野が引き連れて行った『週刊現代』の記者のチーフの鈴木富夫は、「上品でお嬢さま育ちで、大丈夫かな、と思い込ん でいた私なぞ、日がたつにつれ、『粗食に耐え、強靱な神経と体力をもつ』曽野さんを識ることになる 。」と、「生贄の島」共同取材時の曽野の意気込みを観察している。

あらゆる勝算の下に、闘志満々、沖縄に乗り込んだのだろう、そして、一時的天才性を発揮したのではなかろうか。憶測でしかないが、私はそう思っている。

「生贄の島」について ①

>一九六七年の十二月、私は偶然、琉球大学教授仲宗根政善先生のお宅で、往年の三人の師範生にお会いした。佐久川ツル、真玉橋藤子、喜舎場敏子さんのお三人であった。

、「生贄の島」の後書きで、曽野綾子が書いたように、自分の沖縄への関わりは、三人の「姫百合部隊」の生き残り元女学生との出会いが契機となったと述べている。曽野が沖縄へ最初に行ったのは1961年初めのことである。この時が2回目の訪沖であったかどうかはよく分からないが、その間、沖縄戦のことについて調べ続けていた事は想像できることである。

仲宗根政善とその教え子三人の話を聞き、まだ、女学生の犠牲の状況の全体が十分に分っていない事を知って、物書きである自分が解明したい気持ちが湧き起こり、重なる幸運にもめぐまれ、その役割を担うことになったと書いている。

「生贄の島」について ① »

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プロフィール

キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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