2017-03

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2013年の座間味行 その2

 近くの民宿に入宿してから、再び米子の家に行ったら、テレビの大きい音がしていて、今度は在宅だった。5年前の時には玄関払いの風だったが、今回は心安い感じで居間に招いてくれた。子供たちはみな本島に移住して、彼女は一人住まいであり、村内のケア施設に毎日行っているらしかった。

 約70~80分間話したが、直ぐには本部壕の件については質問せずに、戦時中の事を、話好きの老女の話すままに聞いていた。大体は彼女が村史やその他に証言したままの話である。
 自決を覚悟して忠魂碑に向かう途中で、引き返してきた知念老人から「もう解散だから、ナーメーメー(各々)でやりなさい」と言われた事。自決当日の25日の夜、忠魂碑から引き返し、艦砲を逃れて、一時産業組合の壕に入ったが、そこは役場職員の為の壕だからと、追い出された事。同級生の収入役の娘が「米子さん、さようなら。元気でね。」と言って、産業組合の壕に入って行ったとかを聞かされた。

 ところで、座間味村史(1989)の米子証言には、知念老人の言葉に「解散」という語はないので、その件を聞いてみると、「戦後の話でも、軍が住民は解散せよと言った事になっていたように思う…」と、やや曖昧な言い方に思えた。しかし、「野村村長が忠魂碑前で、軍の命令による自決禁止・解散を宣言したという話は聞いたことない」とハッキリ言った。これはやはり、宮平秀幸の虚言に過ぎないという事であろう。(ところで、秀幸はその2年前に死去していたのだが、私はそれを知らなかった。もう過去の人物だと思ったので、訪ねる気に成らなかった。)
 米子が最も感情的な反応を示した事は、宮城晴美『母の遺したもの』(旧版2000年)120pにある米子証言、宮里助役が妻の家族を撃ち殺そうとした場面である。声を荒げて「あれは絶対嘘!」と、話の中でその事に触れるたびに強く言った。その米子の映像が、朴映画の予告編でも流されていた。

 後で晴美に電話でその件について聞いたところ、「私は米子さんから聞いた通りに村史などにも書いた。彼女は宮村家の人達から怒られたので、あれを否定するようになった」と、話した。だが、その真否がどうあれ、隊長命令を否定したという初枝証言の真否を判定する材料にはならない。

 米子は3月25日夜「本部壕でのでき事」に関しては当事者ではないのだが、その件について聞いてみた。以下1~2分間のやり取りである。

 キー坊 あのー、宮城初枝さんと収入役と助役と…、5名一緒に…、
 米子  高又(たかまた)に。

 キ いえ、本部壕に…、
 米 あそこは高又と言うんだよ。

 キ ええ、そうだ。「爆弾を下さいと…、」と言ったけど、断られたというその話はね、嘘だというんですよ。
 米 いや!私聞きましたよ。その話ホントだと思うよ。

 キ 初枝さんから聞いたことある?
 米 ハイ、ちゃんと聞いて、誰々と一緒に行って、…… 隊長さんからこうこう言われたと、帰れ!と怒られたと、聞いたよ。

 キ すると、これが世の中に知られる前に、そういう話も、既に米子さんたちにはしていた訳ですね?
 米 ネェさんはもう、近所で毎日会ってたから、「よねこ―、ねぇ」と、戦争の事をね、先輩だからあっちはね、聞かしてくれたよ。だから、その話はホントだと思いますよ。

 キ 今度朴監督が、「初枝さんが梅澤元隊長と結託して、集団自決の責任を宮里栄秀助役に擦りつけた」とする映画を作る予定らしいですよ。
 米 まさかヒャ-、人間がヒャ―。初枝さんは非常にまじめな人だったから、そんな嘘言うはずがない。そんな映画作らんほうがいい。


 初枝を讃える一方で、その娘には怒りの感情を露わにする旧世代のウチナーンチュのファジーさを、米子に感じた。

 3月25日の夜の件について、米子は初枝から戦後早い時期に聞いていたという処が肝心な部分である。これが明確に何時ごろなのかが、更に肝心な事だったのだが、これを確認せずじまいだったのが悔やまれる。
 だが、状況証拠的な検証をしても、初枝が嘘を語ったという材料には強いものはなく、証言は事実だったとの材料のほうが強いと私は思う。
 と言っても、初枝の証言は、梅澤隊長が爆薬の提供を断ったというだけのものである。集団自決に隊長の責任はないとする証拠にはならない。(後に助役の妹・春子は、隊長命令が在ったとの兄の発言を聞いたと証言している)

 その辺の事は、2013年6月ごろ一連の拙記事に書いたとおりである。
 この時の訪問で、実際に面会したのは宮里米子だけである。だが、米子を通じて晴美その他の連絡先を知る事になって、座間味の関係者5~6人と電話やメールで会話する事が出来た。

 娘が世に明らかにした母初枝の告白手記に関する真否の問題は、もはや過去の事だと思える。初枝証言を「軍命」否定の証拠とする右翼勢力の主張は的外れでしかない。朴氏が『ぬちがふう』第2部の上映予告した時期から3年が過ぎている。もう公開を断念したと受け取ってよいと思う。(続)
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コメント

情報源は謝花直美の本

和田さん、情報源は単純に、謝花直美『証言 沖縄「集団自決」』32頁にある5行目くらいの記述です。

勇助の齢を15歳と記述してますが、これは誤りだと思います。
嘉勝の映像で、兄・勇助の生年を昭和3年と言っています。誕生日前の満年齢でも16歳という事になります。
そのくらいの齢なら、自発的に防衛隊に志願する軍国少年は、少なくなかったのではないかと思います。

防衛隊情報は ?

キー坊さん
情報ありがとう。吉川氏は渡嘉敷出身。どこで阿波連出身と勘違いしたのか、伊禮蓉子がらみのような気がするがはっきりしない。改めて阿波連出身者が渡嘉敷出身者に混じることは少ないと認識しました。
さて、吉川兄は防衛隊員だったと云うことですが、情報源はどこですか。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061016/jiketu
上記に「自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満の少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか、と富山さんは回想する。」とある、年齢範囲は沖縄空襲の頃決められた若年層防衛隊の年齢と一致しているわけですが、徴兵年齢が18歳に引き下げられたこと、沖縄戦が迫ったことから実際には沖縄で軍がこれ以下の幼少者も一部防衛隊に編成された事例が多く知られている。

防衛隊員であれば、当然手榴弾は支給される。よってこの招集対象者からは年齢に関係なく防衛隊員は除かれたと考えられる。兵事主任が古い記憶から防衛隊の正規に定められた年齢を語るのも理解できる。
要するに吉川兄が、防衛隊員であれば20日頃の手榴弾習合配布に招集されていない確率が高い。
防衛隊員でないのに収集されていなければ、そのことについては疑問符がつきます。

ただし、渡嘉敷部落の手榴弾配布数に比して手榴弾爆破確率は阿波連の数分の一との判断は動かないので渡嘉敷住民の多くの手榴弾が自決日以前に配布され濡れていて多くが不発だったことは間違いない。

吉川家の所在

和田さん、情報を有難う。

https://epf.hosei.ac.jp/mahara/view/view.php?id=9297

上のサイトに、以下の嘉勝証言があります。

「それからすぐ隣に、うちの隣に従軍慰安婦の宿があります。これは僕のね、母の兄さん、そのおじさんのお家です。当時としてはね、家がきれいだったので、なんか、そこの住まっている、いとこ家族、おじさん家族はまた弟のところの二階建てに引っ越しさして、……」

 川田文子の『赤瓦の家』などによと、慰安所は渡嘉敷集落の村はずれに在ったとされてます。だとすれば、吉川家の所在は渡嘉敷部落という事ですね。

 嘉勝の兄の勇助(満16歳)は役場吏員であり、防衛隊員でもあったのですが、富山真順証言にある兵器軍曹の手榴弾手渡しの証言をしてません。だが、これで富山真順証言が作り話であったという証拠にはなりません。当日、勇助は防衛隊員として別の作業に従事してかもしれないです。幼児の嘉勝がそんな集合命令を聞くはずはないです。

富山真順の手榴弾配布の証言を否定できる材料はないと思います。何よりも、曽野が法廷で富山真順を知らないと偽証した事が、その真実性を証明したと思いますね。

谷本版阿波連

前説を一部修正します。谷本版陣中日誌には虚実がある。本部壕とフィジガーは台地を挟んだ別の谷であるから、視覚、聴覚とも死角となり動静はわからないはずだ。知念のフィジガーに死体が多数横たわっていたとは思えないとの証言は、フィジガーの阿波連部落民は玉砕の翌朝米軍に死体ともども収用されているから整合性がある。

とすると、谷本版の阿鼻叫喚が赤松隊に聞き取れたとするなら、ヒータティヤーの渡嘉敷住民の迫撃砲その他一部自決の声に違いない。
続く谷本版に後から阿波連の自決がわかったとの記述とも符合する。上原正嶺は渡嘉敷の南ウフガーで阿波連住民の自決があったとするが、生き残りの証人も何の痕跡もない。

やはり、谷本版の阿波連自決記述は米軍従軍記者が手榴弾爆破音を聞いた午後6時からのフィジガーのことになろう。

地図

戦時中の渡嘉敷の航空写真があればいいのですが、これには無いですね。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
米軍は撮影しているのでもしかしたら日本地図センターにあるかもしれませんね。

阿波連住民の動向

吉川氏は阿波連出身の兄弟で、狼魔人等から3/20頃手榴弾をもらっていないのがおかしいと言われています。しかし、富山証言では当日離れた阿波連住民を呼び出していないことになっている。弟は元校長だとか。

https://epf.hosei.ac.jp/mahara/view/view.php?id=9297
上記は出所不明(法政大学 ?)ですが、大筋で他の箇所での証言と一致。テープ起こしのよう。
米田光子証言
https://epf.hosei.ac.jp/mahara/view/view.php?id=9464
以下に吉川氏の映像
http://chalgai.com/watch/GYD3ot8aQk4/.html
兄は、古波蔵村長の近くに居て、伝令風の者が村長の耳元にささやいたとされています。
注目したいのは、次の星雅彦の
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/766.html
「一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。」との記事及び金城牧師が伝える村長と伝令の話は本人が直接見聞きしたことではなく、伝聞であること(金城氏と村長とは視認できないくらい離れていた)等の情報から確認できる事実と推測されることを整理する。

 まず吉川氏は阿波連出身だが、村長の近くに居たという。吉川氏は村長と親族関係の可能性がある。
星の取材から村長が音頭を取った12-14時の自決には、阿波連の住民のほとんどは参加していないと読める。ただし、後半の渡嘉敷部落民が、本部壕に立ち去った直後に阿波連の自決が始まっていたという時間の記述は不正確。その時間帯は、米軍と米軍従軍記者それに戦後新たに作られた谷本版陣中日誌では午後6時とか夕刻と一致している。その時従軍記者は、6-8発の手榴弾爆破音を聞いたという。聞こえた場所に翌朝米軍が移動し生き残った住民を収容していること、ある程度の経験のある従軍記者は迫撃砲と手榴弾の音を間違えるはずがないこと、元々阿波連人口は渡嘉敷部落の半分であり、未明に本部壕付近に止まった阿波連住民がいたとの証言を合わせると盆地からフィジガーにかけて陣取った阿波連住民は渡嘉敷部落の1/3以下となろう。阿波連住民の手榴弾爆破割合は渡嘉敷部落を相当上回る。自決1週間程前渡嘉敷住民にのみ前もって手榴弾が配布されたとの富山証言の信憑性は高い。 渡嘉敷住民の手榴弾はほとんど不発との事である。(当日配られた3発程度が爆破か ?)理由は単純で西山に向かう時間帯が大雨であったため。当日阿波連住民に渡された手榴弾は湿っていないから不発が少ないことになる。     原告等の主張する富山証言虚偽説は理由がなく、富山証言の信憑性は高い。

さて5,6時間阿波連住民は手榴弾を爆発させず保有していたことになる。これはどういうことか。文献での自決場は恩納河原・西山盆地・フィジガー・ヒータティヤなどさまざま。このうち、恩納河原は南へ流れる水系で玉砕への起点にすぎず、玉砕場とはいえない。現在碑のある西(北)山盆地北の端が玉砕の発端。渡嘉敷部落が引き回され迫撃砲の死者が多数出たのがヒータティヤー、阿波連住民が午後6時から始めたものが東川(北へ流れる)の谷即ちフィジガーである。 推測するに渡嘉敷住民は阿波連住民より到着時間が早いため西山盆地近くに居た可能性がある。

つまり赤松から富山兵事主任へ壕入り拒否命令が伝達され真夜中に西山盆地にいち早く誘導された渡嘉敷住民は平らに近い盆地で睡眠を取り、到着が遅れた住民は順次睡眠を取りにくい谷川に降りることになったと考える。写真で見るとフィジガーは狭い。800人とか、千人が横に拡がるのではなく長蛇の登山者と同じような配置となった、そのため第一自決場即ち台地での阿波連死者はあまりいなかった。谷の下部もしくは、ジーシップに陣取った阿波連住民には渡嘉敷部落住民の本部壕への押しかけの動きもわからなかった。金城牧師等の軍民全滅の誤認(思い込み)も彼が午後6時頃阿波連先発隊と本部壕の軍、ヒータティヤーの渡嘉敷住民の動静を正確に見聞きできなかったことを示す。
わからないのは阿波連後発隊だがこれも一団ではなく家族ごと三々五々の西山行きであろう。確かに石田記者の取材から第三戦隊隊員を宿泊させた阿波連住民の生き残りがいることが確認されるが安里巡査が赤松の指示で彼らに手加減したとまではいえない。しかし軍民分離のはずが最後まで伊禮蓉子が軍に止まったという情報などから、偶然か軍の意向が働いたのか阿波連後発部隊が第一自決場に移動せずそのまま本部壕付近に止まった可能性がある。

2少年の処刑

阪神さん、情報をありがとう。

「集団自決」72頁の小見出しは、「少年殺害を告白した日本兵」ですね。15歳の防衛隊員だった勇助氏は顔見知りだった兵士から投降後、16歳の小嶺武則、金城幸次郎の2少年の殺害を打ち明けられた、との証言を記述してます。
これは既に、『概要』でも記載されて、石田郁夫氏のルポ(1967『展望』)でも記載されている事です。http://keybow.co/dansou/dansou4.html
だが、『ある神話―』では赤松隊長が二人を放免してやったのに、自分で首をつって死んだ事にしてます。曽野・赤松、申し合わせての嘘記述です。

貴兄からの情報で行った2010年6月の明大での『アリランの唄』上映会で、鑑賞後、私はその場でDVDを購入しているのですが、今観直したところ、カン・インチャン氏と同席したホ・ゴン氏の証言場面があります。
阿嘉島の野田隊も、マルレを自ら爆破したとの証言をしてます。おそらく、三戦隊とも特攻の意志は失せてたと推測できます。

兄弟

こんにちは。
謝花直美の証言沖縄「集団自決」72頁によると、渡嘉敷の吉川さんは兄弟です。

おまけ
朝鮮半島から強制連行されてきた朝鮮人軍夫だったカンさんの証言が「証言記録市民たちの戦争3 NHK戦争証言プロジェクト 大月書店 2015」にあります。
阿嘉島では丸太でマルレを引き出していたようです。
http://imgb1.ziyu.net/view/kimuke/1445316738.jpg.html

2名の吉川さん

サウスポーさん、情報をどうも。

謝花直美氏の『証言 沖縄「集団自決」』には、 吉川勇助・嘉勝の2名の体験者の証言が挙げらてます。二人の関係は明確でないですが、おそらく親戚でしょうね。
私が関心を持つのは勇助氏の証言です。当時15歳の防衛隊員だった勇助は、「不意に軍の方から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。…… 村長は何度もうなずいた。その後に自決が始まった。」との記述があります。この勇助証言は「赤松隊長の自決命令」の状況証拠としての材料になってますが…。

私は渡嘉敷の体験者には接触ありません。だが、勇助さん、嘉勝さんが御健在なら会ってみたいですね。

戦場カメラマン

かつて本多勝一が、最も勇敢な日本人戦場カメラマンとして石川文洋氏を讃えていました。今、文洋氏は高齢と言ってよい年齢でしょう。
先の国立の催事には行けませんでしたが、この講演会には行ってみたいです。

吉川嘉勝さん

お久しぶりです。

テレビの録画用ハードディスクに、渡嘉敷島の集団自決を扱った番組が残っていました。
NHK総合テレビ『おきなわHOTeye』(2014年 3月19日放送)の中で、当時六歳だったいう吉川嘉勝さんが出演されていました。どなたか彼をご存知ですか?

吉川さんは聞き取りした証言をパソコンに打ち込む日々だそうです。まだどこにも発表したことはないそうです。出版する予定があるのかわかりませんが、後世に語り継ぐためにも、その証言がぜひ世に出て欲しいと思います。

石川文洋

10月27日(火)18時30分~さいたま市下落合コミュニティセンターにて石川氏の講演会があるそうです。
石川氏は座間味で初枝さんや米子さんに取材しています。
昔の事なので詳細は忘れているかもしれませんし、集団自決を深く追及してはいませんが、未公開の写真が展示されるかもしれませんね。
http://www.labornetjp.org/EventItem/1443889545108JohnnyH

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キー坊@ウチナー

Author:キー坊@ウチナー
沖縄本島中部、巨大な米軍基地を抱える町の生まれ。
齢を重ねるごとに、沖縄戦へのこだわりが強くなります。
曽野綾子・『ある神話の背景』は沖縄を究極的な軍事基地にする目的を持っています。「集団自決」は沖縄戦の集約された出来事だと思います。『ある神話の背景』は沖縄への抑圧・差別の集約文書です。

HP・「その『神話』の背景」(文献・資料集)
http://keybow.co

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