『ある神話の背景』を追及するブログ


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サンデー毎日1972
2011/02/11 22:42

古書店で又、沖縄の祖国復帰=「沖縄返還」(1972[[昭和47]年5月15日)前後発行の「サンデー毎日」を見つけて買った。今から39年前の週刊誌である。
 1972.6.4発行だから、記事は5月15日の「沖縄返還」前後辺りのものである。
 表紙は「ホステス65人 プレイタウン で死んだ女の年輪」と記載があり、5.13発生の大阪・「千日前デパート火災」の犠牲者女性数十人の顔写真が並んでいる。「本火災は沖縄返還の約25時間前であり、犠牲者には沖縄県出身者も含まれていた」(Wikipedia)。だが、小生がこの古い週刊誌を買う気になったわけは、一段小さい表紙見出しの「沖縄ソンミ事件・鹿山兵曹長 現地妻の告白」を見たからである。

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 以前に、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長のインタビューを載せた、石田郁夫のルポ・「渡嘉敷島住民・集団自決の真相」の記事(『サンデー毎日』1972年4月30日号)を調べていた時、
 同じ「サンデー毎日」4月の号に、「27年間ヤミに葬られていた・沖縄のソンミ事件」4月2日号)、及び
 「鹿山兵曹長の独占手記・私の信念はお国の為であった」4月23日号)という二つの「久米島虐殺事件」関連の記事を見つけて、そのページのコピーを取って置いていた。
 4月2日号では記者のインタビューに対し、K(鹿山正)・元隊長は「良心の呵責(かしゃく)もない。ワシには軍人の誇りがある」、と答えて沖縄の人間の怒りをかきたてた。だが、その後4月4日に出演したテレビ対決では、沖縄の遺族の糾弾の言葉に対してはうなだれた態度を見せて、終始無言で反論する事はなかった。

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        モノクログラビアには、当時米軍・牧港住宅地区だった現在
       那覇新都心の「おもろ町」の上空写真もある


 私は今度入手した6月4日号で、鹿山事件に関しては更なる続報があった事を知った。「沖縄ソンミ事件・鹿山兵曹長 現地妻の告白」 
 鹿山隊長は、米軍上陸の直前に現地の16歳の少女を"現地妻"として"徴発"していたのである。その少女は妊娠し、終戦の翌年に女児を出産している。現地住民20名を虐殺して、終戦後内地に引き上げた鹿山元隊長は、当然消息不明となっていたが、「サンデー毎日」4月2日号の記事で、久米島住民は戦後初めて、鹿山元隊長の行方を知ったのである。その記事が切っ掛けで本土・沖縄のマスコミも大きく取り上げるようになり、鹿山正元隊長は進んでTBSのテレビ番組に出演し、二元中継で沖縄のRBCテレビに出演した久米島遺族との対面を決行している。

 このマスコミ騒動で、43歳になった元"現地妻"の女性も、自分の長女の"父親"鹿山正の消息を知ることになったという。実質は「隊長専用慰安婦」として、鹿山に奉仕させられていた少女は終戦になるまで、戦時中の鹿山隊住民虐殺を知らなかったという。戦後になってその事実を知らされ、自分を責めるようになった。虐殺の張本人の現地妻にされ、その子供まで生んだ女としては身の置き所がなかっただろう。戦後27年、自分も娘も、幸福とはとても言えない人生を辿ったと語っている。

 元現地妻は記者への証言の最後で次のように言っている。
「沖縄で勝手なことしといて、いまになって、あれは、戦争中のことだといわれたって、私たちには通じないさ。沖縄人と日本人は、やっぱり人間が違うんじゃないかね。日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ」 
 復帰当時に、このよう言葉を吐くのを私が聞いたとしたら、なんて無知蒙昧な人間だと蔑視したことだろう。当時は「沖縄人も日本人だ、そのほうが沖縄人は幸せになれる。アメリカの支配下に居るのはもう嫌だ」、と考えていたのだ。だが、今、この運命の波に翻弄された一人のウチナーンチュ女が、復帰当時に告白した言葉を今読んでみると、全面的に共感したい気分になって、無知蒙昧なのはオレのほうだったと忸怩たる思いになる。

 テレビ対決では何の反論もすることなかった鹿山元隊長だが、初記事の4月2日号では、
「良心の呵責(かしゃく)もない…」と開き直り、次の4月23日号では独占手記を載せ、「負けずぎらいでありよこしまなことがきらいで一本気で短気で 単純であります……このような私の個性や性質習慣は私の態度や言葉やその他のあらゆる面にあらわれていると思います……此のように長い間個性の上につみかさねられた教育と軍隊の中での想想風調にしみついたものは……(直すのは)壮年になってからではなかなかむつかしいのではないでせうか…」
と戦時中の残虐行為を自分の生来の気質と、教育と、軍隊思想のせいにして、自分を免罪している。これ以上の居直りはないだろう。

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           職場における鹿山正 1977年 大島幸夫氏(毎日記者)撮影 

 徳島の地方の農協で、堅実役人として奉職していた元日本軍下士官の男が、何故にこんなに大胆な居直りができたのだろうか?自分で言うように、「よこしまなことがきらいで一本気で…単純であった」こともあるだろう。しかし、それだけだろうか?本当に、「良心に呵責を感じる事がない」という信念があって、週刊誌に弁明の手記を寄せ、マスコミに顔をさらしたのだろうか?しかし、テレビ対面で、久米島の遺族に何らの反論・弁明をしなかた事からも、それは嘘であると判る。週刊誌報道から時を置かずカミングアウトしたのは、田舎の有力者である自分の地位を守る為の保身活動ではなかろうか?
 なぜ、自分をカミングアウトする事が自己防衛として有効なのか?それは相手が沖縄人だからだと私は思う。鹿山正元兵曹長は、本能的にそれを計算して自分の素性をさらしたのだと思う。住民虐殺の相手が沖縄人でなく、本土人の住民だったとしたら、鹿山は大変なバッシングを受けたと思う。地元での名誉は地に落ちただろう。鹿山元隊長は殺した相手が沖縄人だから、ヤマト社会から大した迫害は受けないと直感して自分をマスコミさらしたのだと私は思う。

 実際、テレビ対面の放送中・後も、TBS局にも沖縄のRBC局にも、電話がたくさん掛かってきたそうであるが、TBSへの大和人の電話は7割「戦争の犠牲は沖縄だけではない、沖縄を甘やかすな」「鹿山元隊長の家族の迷惑も考えろ。本人だってかわいそうじゃないか」とか、鹿山擁護の内容だったという。
 これに比べて、RBCへは「責任追及の姿勢が弱い」「もっと突込んだ企画であってほしかった」と、"物足りなさ"を語るケースが圧倒的だったらしい。
 戦時中とはいえ、乳幼児を含む20人もの民間人を処刑した元日本軍人を、7割の大和人が庇うということは異常という以外になんと言うのか。同様に、渡嘉敷の赤松隊における10数名の民間人処刑についても、赤松本人が居直り、曽野綾子が「ある神話の背景」で擁護に乗り出したことも、大和人の沖縄人に対する「エゴイスティックなナショナリズム」の存在を計算に入れての事だったのではなかろうか。

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